今日の「天職人」は、名古屋市中村区の「甘味茶寮女将」。(平成十九年一月二十三日毎日新聞掲載)
小豆の香り袖を引く 観音様の帰り道 ちょっと一杯善哉(ぜんざい)を お腹の虫が大騒ぎ 椀に浮かべた焼き餅を 先に食べよか啜(すす)ろうか 身も溶けそうな甘さゆえ 小梅一つで口直し
名古屋市中村区名駅で、大正十一(1922)年創業の御菓子司養老軒。三代目女将の西脇千穂さんを訪ねた。

「周りが高層ビルばっかりでしょう。だから最初ここに来た時、下から見上げるとビルが傾いて見えて、今にも倒れて来そうな気がして、両手を頬に当てたままボーッとしてたもんよ」。千穂さんは、通りを眺め懐かしそうに笑った。

千穂さんは昭和二十八(1953)年に、岐阜県郡上八幡町で金物工場を営む清水家の三女として誕生。
「毎日野山を駆け巡って筋肉モリモリ、おまけに日焼けで真っ黒。冬はスキー、夏は川で魚を突いて」。豊富な自然を相手に少女時代を送った。
やがて千穂さんも中学生になった夏休み。隣の家に名古屋から高校生の男子五人が避暑に訪れ、泊り込みで受験勉強に励んでいた。
「都会に憧れてたから、興味を持ってたのかしら」。いつしか男子高校生とも打ち解け川遊びに高じた。
「専門学校に通ってインテリアデザイナーになりたかったの。でも卒業間近に今の主人がやって来て、両親を説得して名古屋に連れて来られちゃったの」。ご主人の隆夫さんは、名古屋から避暑に訪れていた男子高校生の一人だった。
「本屋に住み込まされて。夕方五時になると主人が迎えに来て、毎日デートなの。それも今思えば、洋裁やらお茶のお稽古、それに料理教室。毎日門限の八時半までビッシリ」。そんな軟禁状態のような花嫁修業は、二十一歳で結婚するまで続いた。
プロポーズの言葉は、「バスや地下鉄の乗り方すらわからんのだから、もう嫁に来るしかないだろう」だったとか。やがて一男一女に恵まれた。
子育ても一段落した昭和六十一(1986)年、老舗の隣に茶寮を開店。
「甘味処の商売とか、何にも知らないから、京都に出かけて勉強して。私は餡蜜(あんみつ)の寒天がどうにも苦手で。だから家の餡蜜は寒天じゃなくって、蕨(わらび)粉と葛(くず)粉で作った京都風なの」。

いかに菓子作りは専門と言えども、茶寮の営業とは異なる。
「開店から一~二年は、皆でトランプしたり五目並べの毎日」。
しかしテレビのグルメ番組に取り上げられると、それが追い風となり雑誌にも紹介されるほどに。
「OLや女子高生で一杯。ちょうどバブル時代の幕開けだったから、女子高生がタクシー横付けでやって来るんだから」。夏場はかき氷目当ての客が、ズラリと表通りに並ぶ状態が続いた。
「すべて私の口に合わないと駄目。私は餡子の豆がだめだから、お饅頭も嫌いなの。だから家の商品はどれも甘さ控えめ」。品書きを指差しあっけらかんと笑った。
「ずっと世間知らずの箱入り女将だったでしょう。だから今、青春を取り戻したって感じ。昔はディスコもバイトの子たちに連れてってもらったほどなんだから。だから今でも世間のことは、み~んなバイトの子に教えてもらうの」。
善哉は、仏典によれば仏が弟子の言葉に賛意して褒める言葉とか。
「善哉善哉!何はともあれ、箱入り女将は今が青旬(せいしゅん)」。
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おはようございます。
甘味茶寮女将のお話ですね。
・私は、甘味茶寮にあまり行った事有りません。行って見たくなります。
・私は、甘い物好きです。写真のスイーツ美味しそうですね。食べたくなりますね。
またまた甘〜いお話。
困っちゃうなぁ〜(笑) 誘惑に負けそう。
このお店の京都風あんみつ 良い!
私も女将さんと同じく あんみつに入ってる寒天が苦手なので このあんみつは最高です。
食べに行きたいなぁ。
私も青旬したいですからね ( ◠‿◠ )
ぼくも実は、餡蜜の中の寒天と黒豆が大の苦手です!
子どもの頃、お母ちゃんが好きで、よくはごろもの寒天の缶詰だったかを、ぼくもおやつで食べさせられた影響かも知れません(汗)
こう言った、昔ながらの甘味処
今じゃ!お店を探せばあるんでしょうが
ひっそりと知る人ぞ知る!って感じなんでしょうねぇ!
ハナ垂れモもっち時代に
「ひらく」と言うお店があり
甘味処ではありませんが、夏だけ限定で開いているお店
アイスクリーム(もなかに挟んだアイス)、キャンディー、かき氷
5~6人入ればいっぱいの店内で行列こそ出来ませんでしたが
夏休みになると毎日のように行って・・
悪ガキ共の憩いの場所でした⤴
あっ、甘党の悪ガキですかぁ!