「天職一芸~あの日のPoem 211」

今日の「天職人」は、名古屋市中村区椿町の「自転車修理工」。(平成十八年十一月十四日毎日新聞掲載)

西に傾く夕陽追い 自転車漕いで家路へと        父の小さな楽しみは 一本きりの瓶ビール        何処へ行くにも自転車で 父の背中にしがみ付く     ガタゴト揺れる砂利道と モクモク昇る土埃

名古屋市中村区椿町の青井自転車店、三代目自転車修理工の青井幸與(ゆきよ)さんを訪ねた。

「もう五十年以上自転車屋やっとるけど、未だに新車なんてのったことないもんなぁ」。男は油の染み込んだ指先で、煙草の火を揉み消した。通称駅裏。名古屋駅西口のさらに一本西。

青井自転車店は、大正時代の後期に祖父が中区大須で創業。

「昔は鶴舞公園で草競輪があって、祖父は自転車修理の仕事かたがた競輪にも出場しとったらしいわ」。

そして昭和初期に現在地へと移転。

幸與さんは昭和十一(1936)年、熱田区の加藤家で七人兄弟の下から二番目として誕生。

中学を出た昭和二十六(1951)年、青井自転車店へ住み込みの見習修業に入った。

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「青井のお爺ちゃんと、家の親父が大須で知り合って、それが縁でな」。

統制経済が徐々に解除され始めたと言っても、駅裏にはまだまだ闇市の名残が色濃く影を落としていた。

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「『バカヤロー!』とか物騒な言葉がしょっちゅう飛び交って、最初はビビッタって。とても入ってけんような、怪しい路地はあるし」。怖さと面白さが混在していた。

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「修理終わって届けにくと、オヤッサンが一斗缶の上から。『おい坊!なんぼや?』って。おもむろに立ち上がると、一斗缶から金掴み出すんだで」。

ちょうど幸與さんが修業に入った年、青井家の一人娘が小学校に上がった。

「二代目を継いだ父が、私の生まれる三ヶ月前に戦死して。だから父親の顔も見たことないの」。傍らで妻の澄子さんがつぶやいた。

見よう見真似の修業が三年続き、修理工としての技を一通り学び取った。

パンク修理にブレーキ調整。チェーンの張りや、シャフトの締め調整。すべて勘だけが頼り。

十年勤め上げ、一年間のお礼奉公。

昭和三十八(1963)、独立を視野に同業者の元でバイク修理を学んだ。

「オートバイなぶりたかったんだわ。そしたら半年後に、青井のお爺ちゃんが呼び戻しに来たんだって」。

近所の誰もが、幸與さんに跡を継がせるものと信じきっていたからだ。

「これが小学校へ上がった年に、修業に来たんだで。妹みたいだわさ。それがいきなりお爺ちゃんから『一緒になれ』と言われたって、ピンと来るわけないって」。

やがて兄妹から夫婦へ。

二男一女を授かった。

「他で直らんって聞くと『そんならいっぺんやったろか』って、ついつい腕が鳴ってまうでかんわ」。

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幸與さんは祖父の代から伝わる、スパナを取り出した。

「家は修理中心。他所より高いかも知れんけど、汚れ落として磨いたるんだわ。『おーっ、綺麗になったなあ』って言われると嬉しいで」。

しかし二人の息子は会社勤めを選び、三代続いた店も幸與さん限り。

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「こんなもん下(げ)の仕事だし、汚いわりに利益が少ないで、もう終いだわさ。でも贅沢しな、ちゃあんとやってけるんだて。よう子供らに言ったもんだわ。『家は財産なんてない。お前ら三人が財産だ』って」。

兄妹のように連れ添った夫婦が、倹(つま)しい生活を旨とし築き上げた子宝という名の至宝。

天晴れ、下町夫婦の心意気。

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投稿者: okadaminoru

1957年名古屋市生まれ。名古屋在住。 岐阜県飛騨市観光プロモーション大使、しがない物書き、時代遅れのシンガーソングライター。趣味は、冷蔵庫の残り物で編み出す、究極のエコ「残り物クッキング」。 <著書> 「カカポのてがみ(毎日新聞社刊)」「百人の天職一芸(風媒社刊)」「東海の天職一芸(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸2(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸3(ゆいぽおと刊)」「長良川鉄道ゆるり旅(ゆいぽおと刊)」

「「天職一芸~あの日のPoem 211」」への7件のフィードバック

  1. おはようございます。
    ・自転車修理工のお話ですね。
    ・自転車修理色々な作業(パンク,タイヤ交換,チェーン張り等)が有りますね。
    ・自転車修理工さん助かります。私の足が自転車だからです。

  2. こういうお店が少なくなってきましたよね。やたら大型のお店になったり 中には「うちでお買い上げの自転車じゃないと修理致しかねます」とか言ってくるお店も…。
    うちの近所にも古くから続く小さな自転車屋さんがあります。お店の前でしゃがみ込んで修理してるおじさんとお客さんが喋ってる姿をよく見かけます。
    私の父は 娘の自転車がパンクする度に玄関前でしゃがみ込んで バケツに入った水にチューブをつけ パンクした箇所を探して 何かを貼り付けて紙やすりみたいな物で擦ってました。よ〜く覚えてます。さすが我が父親です(笑)
    ところで私って 今でも自転車に乗れるんだろうか?

    1. 家のお父ちゃんも、同じようにパンクを直してくれたことを思い出しました。

  3. お父ちゃんの自転車を三角乗りして怒られた。擦り傷、切り傷をよく作ってたからね(笑)

  4. あたしが初めて補助輪なしで自転車に乗れるようになったのは
    多分?小学1~2年の頃だと思います。
    毎日学校の校庭で練習して、
    知らぬ間に乗れるように・・
    4~5年生になった時に
    「ドロップハンドル」の自転車を買って貰いました。
    宿題もしないで毎日乗ってました。
    まぁ~⤴宿題なんて、はなっからやる気ないけどねぇ!
    中学時代に自転車で岐阜から名古屋へ・・
    昔の中村百貨店に行った事があります!
    若いって凄いねぇ!

    1. そうなんだぁ!
      しかし小学4年でドロップハンドルなんて!
      まぁ、どうせモテようとしてたんでしょうね!

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