「天職一芸~あの日のPoem 190」

今日の「天職人」は、愛知県西尾市の「映写技師」。(平成十八年五月十六日毎日新聞掲載)

お煎キャラメル買(こ)うたるで 父は幕間に売り子呼び ぼくの機嫌を取り成して 仁侠映画もう一本       肩で風切る帰り道 父は銀幕役者まね         「今帰(けえ)った」と粋がるも 仁王を前に頭垂(こうべた)れ

愛知県西尾市の西尾劇場。三代目館主であり映写技師の青山弘樹(こうき)さんを訪ねた。

駅前に聳える真っ黒な甍。裏通りには、浮世を隔てる昭和の残像。

「映画見た老夫婦が帰り際、『初めて婆さんと、ここでデートした日を思い出したわ。ありがとう』って」。

思い出は、風景や建物に人の表情や言葉が重なり、記憶の片隅へと刻み込まれる。

「『お母さんもお爺ちゃんに連れられて、ここでよく映画見せてもらったわ』って、息子連れのお母さんがあっちこちキョロキョロ眺め回して。まるで面影でも探すように」。 弘樹さんは、所狭しと駄菓子の広がる、タイル張りのロビーの小さな椅子に腰掛けた。

西尾劇場は昭和十五(1940)年九月二日、関西歌舞伎の女形(おやま)、片岡仁左衛門の柿落(こけらお)としで幕を開けた。「廻り舞台はもう動きませんけど」。

翌年真珠湾攻撃が始まると、娯楽の殿堂は一気に軍による戦意高揚の場として利用された。

戦後はGHQの監視下に置かれ、戦意喪失を目的にアメリカ映画の上映が奨励された。

ハンバーガーとジーンズ、ポニーテールにツイスト。

豊で自由奔放なアメリカ文化が、銀幕を通して日本中を席捲した。

昭和二十六(1951)年、サンフランシスコ講和条約が調印され、日本の独立が回復。

邦画制作が活況を帯び始めた。

「当時は映画もやれば歌謡ショーも。立会演説会から旅芝居まで。美空ひばりが来演した時には、特別列車が出る騒ぎだったほど」。

弘樹さんは昭和三十七(1962)年、三人姉弟の長男として誕生。

「裏が自宅なんで、小さい時からモギリやビラ貼り手伝ったり。でも毎日毎日、友達の誰よりも早く新作が見られましたし。サーカスが来たり、カンガルーのキックボクシングや、ストリップに女子プロレスまで、映写室からこっそり盗み見たもんですわ」。

まるでシチリア島を舞台にした名画「ニューシネマパラダイス」の日本版のような少年時代だった。

地元高校を出ると、東京の大学へ。

「学者を志し、大学院を十年掛けて二つも梯子してまして」。研究に明け暮れる中、「父倒れる」の知らせが。

すぐさま帰郷。脳梗塞で半身不随となった父に代わり、そのまま映写機を回した。

「二台の映写機で、交互にフィルムをかけかえて。画面の右上に出る黒いポッチの一回目が予告で、二回目が終わりの合図。それにピタッと合わすのが、技師の腕でね」。

時代劇に怪獣物、仁侠物から恋愛物へと、時代と共に名作が生まれては、人々の記憶の彼方へと消えて逝った。

昭和三十三(1958)年当時、全国に映画館は八千館。

映画人口は、年間十二億人だったとか。

「昔は仁侠映画の主役が、悪者をバッタバッタと切り倒すクライマックスに、『いよーっ!鶴田!』って、歌舞伎の大向こうのような粋な掛け声が上がって」。

年季の入った真空管のアンプを、弘樹さんがそっと労わる。

「何とも心地いい音なんです」。

ふと「結婚は?」と問うて見た。

「研究と映画に明け暮れ、まだ一人身のままです。誰かいい人いたらいいんですけど」。誰よりも映画館で上映する、映画を愛した男は照れ臭そうに笑った。

たった三十五㍉の小さな小さなフィルムは、映写機を通し、視界の全てを覆う迫力で、途方もない大きな夢や愛を描き出す。

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投稿者: okadaminoru

1957年名古屋市生まれ。名古屋在住。 岐阜県飛騨市観光プロモーション大使、しがない物書き、時代遅れのシンガーソングライター。趣味は、冷蔵庫の残り物で編み出す、究極のエコ「残り物クッキング」。 <著書> 「カカポのてがみ(毎日新聞社刊)」「百人の天職一芸(風媒社刊)」「東海の天職一芸(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸2(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸3(ゆいぽおと刊)」「長良川鉄道ゆるり旅(ゆいぽおと刊)」

「「天職一芸~あの日のPoem 190」」への15件のフィードバック

  1. 子どもの頃、父のお供で「丹下左膳」を観に行きました。血がピャーッ!と出てきて、怖くて怖くて、やっと外へ出たら、入った時は昼間だったのに、すっかり夜になっていて、それもまた怖かったのを覚えています。

    母は、若い時に岡晴夫の実演と映画を観て、岡ちゃんに300円のシャツをプレゼントしたそうです。
    今は私がオカちゃん(オカダさん)のファンです。(^.^)

    1. 家のお母ちゃんも、岡晴夫ファンでした!
      お母様もシャツをプレゼントされるとは、なかなかやりますねぇ。

  2. このような感じの映画は視たことないですね。映画と言えば関や岐阜まで出ていかな視れんかったな。郡上に映画館なんてあったかな❓️八幡になかったら郡上には無いな。

    1. 聞くところによると、白鳥に2館、八幡にも2館あったそうですよ!
      TVが一般家庭に普及するまでは、最高の娯楽でしたからねぇ。

  3. おはようございます。
    映写技師のお話ですね。
    ・映写技師さん,昔の映画フィルム貴重ですね。映画館貴重な場所ですね。
    ・青山さん 突然だったのですね。お父さんが病気で倒れてから映写技師の後を継いだのですね。
    ・私は、映画(任侠映画,時代劇)を、映写技師さんが、回したの見て見たいです。(鶴田浩二さんが、出た映画見て見たいです。)

  4. 十年以上前、西尾市を訪ねた時に駅前にあったこの映画館を訪れました。こんな物語があったのですね。
    ボクにとっての映画の学校は京都にあった名画座「京一会館」でした。校門を出た所で館長が割引券を配っていたので自転車でよく出かけていました。スーパーの二階にある映画館で、三本立てで300円!

  5. 映画館に行くのにも波があって、行きだすと時間を作っては行ってましたが、行かなくなると全く足を運ばなくなっちゃうんですよ。今は、コロナの影響もありさっぱりです(-_-;)

  6. 昭和45/6年頃
    旧作映画だと3本立て4本立てとか・・でした。
    学校サボって朝一番でよく見に行ったもんでした。
    流石に、3本も観ると目は充血、頭と耳はボ~ン⤴
    昔は駅弁みたいに、館内で食物を売り歩いてましたねぇ!
    昼食は牛乳とあんぱん食べてました。
    当時、館内は禁煙ではなかったので、おじさんがタバコ吸うと
    銀幕が白い煙で観にくくなったもんです。
    昭和の緩い時代でした。

  7. 昔はよく映画館に行ってましたが、今は自宅でのんびりって感じですね。
    お気に入りの映画って、ストーリーが分かってても、同じ場面で笑えるし、泣けるし、感動しちゃうし…。
    何度観ても飽きないんですよね~。

    1. そうなんですよねぇ。
      でも同じ映画でも小説でも、二度三度と見たり読んだりすると、その度に新たな発見があるのも楽しみの一つです。

  8. 小学生の頃は刈谷市に住んでいて 夏休みの時だけ 刈谷映画劇場に連れて行ってもらいアニメを見た記憶があります。
    その当時も古い建物で なんだか薄暗かったような覚えが…。
    だから アニメをかたどった紙製の帽子が物凄くカラフルに見えたような気がします(笑)
    当時は 刈谷市には3、4軒の映画館があったんですよ。

    1. 子どもの頃って映画館に入ると、何だか大人びた気がしたものでした!

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