今日の「天職人」は、岐阜市日の出町の「履物屋主人」。(平成十八年四月十一日毎日新聞掲載)
数奇屋草履をつっかけりゃ 飛び石の庭春朧(おぼろ) 淡き桜の可憐さに 時の経つのもつい忘れ 茶の湯一服野点(のだて)傘 早咲き桜風に舞う 前髪に降る一片(ひとひら)を 茶椀に浮かべ春爛漫
岐阜市日の出町、履物屋の末広屋。二代目主人の増田寿さんを訪ねた。

「もう縄文時代には、農作業用に履く田下駄(たげた)があったそうやて」。 寿さんは、店の一番奥で鼻緒を挿げる小さな作業場に腰掛けた。

創業は昭和二(1927)年。
「当時は柳ヶ瀬にも、芸子衆がようけおった色町で始めたんやて」。
再開発に伴い、現在の日の出町へと移転した。
寿さんは昭和十一(1936)年、五人兄弟の長男として誕生。
高校を上がった昭和二十九(1954)年、東京浅草の下駄屋へ修業に。
「穂積で柳行李買って、荷物を岐阜駅からチッキ(託送手荷物)で送ったんやて」。
下駄屋の倅ばかりの弟子四人と、住込み生活が始まった。
「それが大変やったんやて。柱の割れ目とかに、小豆より一回り小さい南京虫がおって、そいつに刺されて腫れてまって。だで寝る時は、布団の回りにクリークっていう、U字型の枠を巡らすんやて」。
U字に落ちた南京虫は、二度と這い上がることが出来ない仕掛け。
「親方が、落語を聞きに行け、歌舞伎を見に行けって、切符をくれるんやて」。
客の面前で鼻緒を挿げ替える間の、客あしらいの話題にでもと、親方の粋な計らいだった。
「たまの休みには、映画と日劇のダンスを見て、夕方からは寄席とストリップやて」。
何事にも大らかだった昭和の半ば。貧しくも輝いていた若き日。寿さんは表通りを見つめた。
三年の修業で鼻緒の挿げ方を学んだ。
まず、鼻緒の端の綿を抜いてしごき、後緒の先を縛り止め金槌で打つ。
鑢(やすり)のついた「やすりくじり」で鼻緒の穴を広げ、後緒と前緒を通し結ぶ。
「つぼ引き」で前つぼ(二本指の部分)を伸ばし、前緒の具合を確かめ、後緒のゆるみを決める。
草履の天に使用される材料は、鶏の足を剥いだものから、鮫の皮、蓑(みの)虫の巣、藁、白竹(しろうちく)、烏表(からすおもて/黒く染めた竹皮)、筍の皮、布、ビロード、コルクと様々。
「このお茶席の庭履きに使われる数奇屋草履は、筍の皮で編み込まれとるんやて。もう職人は、秋田にしかおらんのやと」。
一方下駄には、駒下駄、右近下駄、千両下駄、高下駄、日和下駄、庭下駄と、様々な意匠と用途に別れる。
昭和三十二(1957)年、新岐阜百貨店への出店にあわせ、寿さんは修業を切り上げ帰省。
「最初に採用した従業員が、女房なんやて」。
四年後、淑江(すみえ)さんと熱愛を実らせ結婚。

一男一女を授かり、今尚、和服姿の愛妻と二人、仲睦まじく店に立つ。
「こんな柾目で一本もんの、桐の下駄は少ななった。昔は柾目一本千円って言われたもんやて。一本の角材から、左右の下駄を切り出すのを『合い目取(あいめど)り』って呼んで、昔は『これ合いですか?』なんてよう聞かれたもんやて。でも、もう今ではそんな粋な人もおらんわ」。




縁は異なもの。
最初の従業員と、終生添い遂げることになろうとは。
桐の柾目にも勝る、合い目取りの似たもの夫婦。
このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。
高島屋の近くだったと思いますが足のでかい私にも「こうすると履けれるよ」と教えてくれました。来年は郡上踊りの下駄を頼むつもり、「郡上踊りの下駄と普通の下駄は少し違うだ」とも教わりました。
郡上踊りの踊り下駄と、白鳥踊りの踊り下駄でも違いがあるそうですものねぇ。
白鳥踊りの踊り下駄は、下駄の歯が踊る度に削れるよう、わざと柔らかな材質を使用されるようで、徹夜踊りの後はそこら中に下駄の歯の削られた屑が散乱するほどだとか。
踊り下駄って、その踊り踊りで材質も違っているようですよ!
じゃあ来年は、アノ人とお揃いは???
そんな夢、観れるかしらフフ(*^-^)
おはようございます。
・履き物屋主人のお話ですね。
・下駄も販売しているのですね。
・合い目取り(あいめどり)の意味ブログで、勉強になりました。
・昔 柳ヶ瀬に芸子さんが、みえていたのですね。
・増田寿と淑恵さん仲が良い夫婦ですね。
父の高下駄は末広屋さんと決まっていました! 真冬でも素足に高下駄 毎日10時間位履いているんですから 足にぴったりしていないと ! そして高さも 15センチくらいありましたからね ‼️‼️
母もお出かけ用は末広屋さん、私も着物や浴衣に合わせて草履や下駄 足袋を揃えて貰いました (#^.^#)
が あまり出番が無くて (。>д<)
今でも 父が履いていた高下駄が玄関の下駄箱に入っていますが、 なかなか処分出来ないんです (*_*;
高下駄って板場さんですよねぇ。
でも大切なお父様の思い出が染み込んだ宝物じゃないですか!
お父様との宝物の思い出ですねぇ。
『相目取り』オカダさんの曲「八幡様のお百度」にも出て来ますよね。
子供の頃、父は仕事の時以外は下駄を履いていたっけ。幼い私がその下駄を履こうとすると、「危ない!」と母に良く叱られました。そりゃあそうだ、大きな下駄は引きずって歩くしかなかったですからね。
下駄のカランコロンという音は、なんとも鯔背なもんですよねぇ。
「天職一芸〜あの日のpoem 185」
「履物屋主人」
「あいめどり」オカダさんの詩の中に出てきますね。参考写真ありがとうございます。見事ですね。
今はゆくっりとしたお買い物はかなり
控えているので 良いですわ〜。
そうなんです!
ぼくの「八幡様のお百度」で、下駄屋さんから教わった「あいめどり」を使わせていただいたものなんです。
下駄と言えば!
「勝負は下駄を履くまでわからない」なんてことわざがありますねぇ!
何が?起きるか分からないので人生諦めてはいけませんねぇ!
ひょっとして、私の前頭部の髪も・・・
うんなぁ~~⤴
訳ないかぁ!
あぁ~ぁ⤴淋しいなぁ~~
モノの例え話には、それなりの説得力がありますねぇ。
まあ、抜け落ちてしまった髪の復活は・・・。
ご苦労様でしたぁ!
ご夫婦の写真 とっても素敵ですね。
背景に映る草履や鞄もステキ!
昔 ステテコ姿の父親が縁台に座ってた時に下駄を履いていた姿を思い出しました。
夏休みには その前で私がしゃがんで花火をしたりして…。
今年の夏は 一度も下駄の音を聞くことがなかったですね。
やっぱり日本の夏の音色や匂いってありますから、下駄の音は風流ですよねぇ。