今日の「天職人」は、愛知県岡崎市の「あぶら屋主人」。(平成十八年二月二十一日毎日新聞掲載)
今日のおかずは何だろう そっと炊事場覗き込む 蓮根牛蒡海老に烏賊 菜種赤水黒い鍋 宿題さえも手に付かず 聞き耳立てる炊事場に ついにジュワッと油の音(ね) 今日は天麩羅給料日
愛知県岡崎市の太田油脂、四代目主人の太田進造さんを訪ねた。

「昔から『油は冬売るな』って。何でって?同じ目方でも、夏は油が膨張するでしょう。だから今ではグラム標示」。 進造さんは、眼鏡の奥で優しそうな瞳を瞬かせた。
創業は明治初年。
曽祖父が愛知県二川に水車式油工場を建てた事に始まる。
祖父の代へと移り、菜種や桑苗などを扱う、現業の前身となる農作物問屋を明治三十五(1902)年に開業。
進造さんは昭和十一(1936)年、七人兄弟の二男として誕生。
翌年、二代目となる祖父が、菜種の本格的な搾油(さくゆ)業に乗り出した。

「油に関する記念館の、この『あぶら館』が生家です。こんな狭い所で当時は十三人が寝起きしてたんだから、高校まで勉強部屋も貰えんかったはずですわ」。
そして進造さんは、名古屋の大学に進学し、まるで運命にでも導かれたかのように山岳部へ入部。
そこで一つ年上の美しい女性と巡り逢い、彼女への想いを募らせながら剣岳や穂高を制覇した。
昭和三十三(1958)年、東京の商事会社に就職。五年に及び、油の流通分野に身を晒して帰郷。
「今の時代と違いますから、長距離電話も高いし、Eメールもありませんでしたから、もっぱら妻とは文通でしたかねぇ」。ちょっと照れ臭そうに、若き日を振り返った。
昭和三十九(1964)年、進造さんは遠距離恋愛を成就し、陽子さんを妻に迎えた。
東海道新幹線が開通し、東京五輪に日本中が沸いた。「新婚旅行は東京へ。開通したての新幹線に乗って。でもお金がもったいなくて、自由席で。せめて指定にしとけばよかったのにねぇ」。
その後一男一女が誕生。家業に就いた進造さんは、製造から全ての作業に従事した。
「子供の頃から見て育ったからね。当時は、家も工場も一緒でしたし」。
搾油作業は、菜種を篩(ふる)いにかけ、異物や鞘、それに小石や土を払い落とすことから始まる。

次いで大きな炒り釜で十分ほど乾煎り。圧搾機(あっさくき)にかけて油を搾り出す。
「昭和三十(1955)年頃まで使用していた油圧式の圧搾機で、一日に一台で二百㌕搾ってその二割が菜種の赤水(菜種油)に。今は機械も進歩したから、四割程の油が搾れるんかなあ」。
代々地元産の菜種にこだわり続けた。「愛知の菜種は、鹿児島・青森と、三大産地の一つでしたから」。昭和三十一(1956)年の全国菜種作付番付によれば、愛知は堂々の大関。 搾油業が隆盛を極めた昭和二十五(1950)年から三十(1955)年頃にかけては、愛知県内だけでも二百社を下らなかった。
しかしそれが現在は、たったの三~四社とか。
戦後の急激な産業の発展は、その代償として農地を工場が蝕んでいった。「その結果、原料も輸入に頼るように。でも家は、出来る限り国内物にこだわって、創業時の精神を守って行きたいんです」。
赤水と呼ばれる菜種油。

その名の通り橙色(だいだいいろ)に近い。
瓶の底には気温が低いため、レシチンの白い蝋(ろう)分が漂う。
まるで菜の花畑の向うに揺れる、春の陽炎のように。
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こんにちは。
・あぶら屋主人のお話ですね。
・油専門店なのですね。
・なたね油を、作っているのですね。
・機械(圧搾機)を、使って絞っているのですね。
・色々な油(オリーブ油,胡麻油,えごま油,アマニ油等)が、有りますね。
・私は、写真のなたね油を、見た事有りません。
・キャノーラ油,オリーブ油,えごま油,米油,胡麻油は、見た事有ります。
油と言えば!
私の髪に欠かせないのが「椿油」
少ない髪に馴染んで、中々イイですよぉ⤴
匂いも気にならないし、しっとり!潤います!
少ない髪の落武者ヘアーだから大切にしないとねぇ!
えっ、椿油にそんな発毛効果があったの???
こだわり大事ですよね!
「赤水」お店で見かけたら きっと手にしてしまうほどの独特な風貌( ◠‿◠ )
香りに特徴があるのかなぁ?
我が家では 胡麻油やオリーブオイルに加え やっぱり息子達の体重増加や体内脂肪増加を常に気にして 脂肪が付きにくい油やアマニ油やエゴマ油を利用してます。
まぁ 私の自己満足ですけどね(笑)
揚げ物好きなぼくとしても、やっぱり気になりますもの。
でもやっぱり、揚げ物好きは止められませんが!