今日の「天職人」は、三重県木曽崎町の「山車宮大工」。(平成十八年一月二十四日毎日新聞掲載)
田植えの前の春祭り 山車蔵開き飾り付け 幾百年の昔から 村を見守る破風(はふ)の反り 修繕終えた宮大工 山車の甍(いらか)を仰ぎ見た 咥え煙草で腕を組み したり顔して満足気
三重県木曽岬町の山車を手掛ける宮大工、竹内建設二代目の竹内源一さんを訪ねた。

「こんなん設計図も組立図もありませんさ。みんなここん中に仕舞(しも)たるで」。 源一さんは、毬栗頭を指先で小突いた。
源一さんは昭和六(1931)年、宮大工の父の元で四人兄弟の長男として誕生。やがて尋常高等小学校へと進んだ。
軍事色が日毎深まる昭和十八(1943)年、父は海軍軍属として徴兵され、幼い妹達を遺し南方方面へと出征。
しかし終戦を目の前にしながら、昭和二十(1945)年一月四十一歳の若さで南方沖に散った。
終戦の翌年十五歳になった源一さんは、父方の本家でやはり宮大工であった叔父の元で修業に就いた。
「普通の大工で五年、宮大工やとさらに三年は修業せんと」。
先輩職人の使い走りから、道具を研いだり鋸の目立てや手入れに明け暮れた。
一角(ひとかど)の修業を積み、二十二歳の若さで棟梁へ。
「最初っからは、そんな大仕事なんてあらせんわさ。みんな空襲で家焼かれてもうて、まずは住む所(とこ)が先やったでな」。
誰もが食うが先の時代を経て、次に住みかを確保し、衣を求めた。
「せやでみんなが落ち着いてからやさ。神社仏閣の再建は」。
昭和三十(1955)年、四日市出身の敏子さんを仕事先で見初めて求婚。
「四日市で立派な御殿の解体しとったんさ。そこへ日曜毎に花嫁修業兼ねて手伝(てった)いに来とったもんで」。しばらく後、長女が誕生。
だが昭和三十四(1959)年九月、未曾有の被害をもたらした伊勢湾台風が直撃。
「娘引っ担いで、そりゃあもう必死で逃げましたんさ。家はどうにか建ってましたが、畳から箪笥までみな流されてもうて」。
翌年には長男も誕生し、水害復興の特需に追われた。
その後は、驚異的な成長を続けた時代の波に乗り、百棟以上もの神社仏閣を手掛け、宮大工の本領を発揮。
「十年ほど前からやろか。山車の修理が持ち込まれるようになったんわ」。

氏神様のお社の修復を終え、やっと奉納する祭礼へと豊かさが巡った。
「先ずは土台から順に全部一旦ばらして、折れたり割れたりして、朽ちとる部材を取り替えるんさ」。
桑名地方の石取祭に見られる三輪の土台から、登り高蘭(こうらん)、台座、台輪、柱、唐破風、欄間へと。

塗師(ぬし)、彫金師、箔押(はくおし)、木彫師など、十種類以上の熟練職人が、宮大工の采配に技を揮う。
「まあざっと五十種類は、細工の仕事(しぐち)があるでな」。
約半年の修繕作業を経て、頭の中の組立図を基に細工組が完了する。
山車に平成の世の職人技が注ぎ込まれ、新たな息吹を宿す。

「屋根裏の見えやん所に、建立時の年月と、棟梁の名が墨書されとるんだわ。天保何年とかって」。
屋根裏にひっそり認(したた)められる修復の足跡。
棟梁源一の銘が次に明かされるのは、何時の世だろう。
「まともな指は、もうありませんわ」。昭和の宮大工は、両手を広げた。
皺に紛れた無数の傷跡が、棟上(むねあげ)の数を刻む。
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おはようございます。
・山車宮大工職人のお話ですね。
・山車の修理出来る職人さんは、貴重ですね。
・写真の山車綺麗ですね。 夜祭りの山車綺麗ですね。
・お祭りの山車綺麗ですね。
地域によって、山車のデザインが違いますね。
知立市では 知立まつりが行われる際 山車で人形浄瑠璃やからくり人形が上映され 山車を引き市内を練り歩き 知立神社に奉納されるんですが まるで時代がタイムスリップしたみたいな感覚になりますよ。
神様が 天から地上に降りる際に必要な山の頂に似せて造られた山車。
その屋根裏に修復の跡がひっそりと認められてるなんて…
まるで神様にお仕えしてるみたい。
選ばれし方しか携われないですよ。
なんだかドキドキしちゃいます( ◠‿◠ )
いいものですよねぇ。そうやって誰の目にも触れないところに、宮大工が自分の仕事だぜいってなもんで、銘をこっそり刻むなんて!