今日の「天職人」は、愛知県岡崎市の「琴調弦師」。(平成十七年十一月一日毎日新聞掲載)
木々も色付くお社に 大輪の華野点傘 琴の調べも艶(あで)やかに 酒盃に揺れる紅葉(くれないば) 重を開ければたけなわの 秋を寿ぐ幸尽(さちづ)くし 木洩れ日の中膝枕 眠りを誘う十三(とみ)の弦
愛知県岡崎市の吉田屋琴三味線店、店主の中木邦雄さんを訪ねた。

「『とにかくバス通りに店を出さなかん』って、寝ても覚めてもそればっか」。邦雄さんは、立てかけられた琴の前に座し、昔話を懐かしむように目を細めた。
邦雄さんは昭和十一(1936)年、名古屋で三人兄弟の長男として誕生。
父の転勤に伴い、小学一年の年に岡山県へ。そして終戦。
昭和二十四(1949)年、父は鶏舎を建て配合飼料の製造に着手。しかし僅か半年足らずで統制は解除。忽ち売れ行きが悪化した。
二年後、邦雄さんの中学卒業を待ち、親類を頼り一家で静岡県浜松市へ。
両親は小さな食堂を開業し、邦雄さんは叔父が営む三味線店に、見習い小僧として奉公に上がった。
「それが難しすぎて、三ヶ月で逃げ出して」。
今度は車の修理工場へ。「ここもやっぱり三ヶ月しか勤まらんかった」。
家に戻って食堂を手伝っていると、再び三味線屋の叔父から「もう一度、戻って来い」と情けがかけられた。
「何処へ行っても使い物にならんで、我慢せんとかん」と、邦雄さんは自分を戒め、和楽器の道へ。叔父である親方に付き、三味線の革張りや修理、琴の糸締めから調弦を学んだ。

それから九年半が過ぎた昭和三十五(1960)年も暮れ。「それまで六千円の給料やって、『一万円に上げてくれんと喰うてけん』って直談判したら『気に入らな出て行け』と」。
捨てる神あらば、拾う神り。
親方の弟であるもう一人の叔父から、「道具も揃えたるで、独立してみろ」と促され、昭和三十六(1961)年にJR岡崎駅前に間借りして独立開業。
翌年には浜松市から妻を得、三人の子供に恵まれた。
しかし「何としても売れんだぁ。何度辞めようと思ったか」。
近隣の温泉街や花柳界を訪ね、必死に売り歩いた。そんな邦雄さんに時代は、高度経済成長という追い風を与えた。
家庭のラジオやテレビからは、連日民謡の歌声や三味の音が響く。

邦雄さんの努力が報われ、昭和四十六(1971)年には、バス通りに移転し悲願を達成した。
邦雄さんは遠い昔の出来事を、正確な年月日で澱みなくスラスラと答える。何故かと問うて見た。
「何処の地で生きるのもみんな苦しかった。苦しんだ分だけ、想い出となって鮮明に記憶されとるだぁ」。
苦労を誉れに挿げ替えて、激動の昭和を生き抜いた老調弦師。
まるで裏連奏法の「サ~ア~ラリン」と、穏やかな風のように。
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おはようございます。
・琴調弦師のお話ですね。
・琴調弦師さんが見えた事 知りませんでした。ブログで勉強になりました。
調弦がしっかりしていれば良いですね。 調弦が、緩すぎてもきつ過ぎても駄目ですね。
お琴や三味線の音色 いいですよね〜
小学生の頃『さくら さくら』を教えてもらいながら お琴でちょっとだけ弾いた事が…。
身体全体で弾くことを知りました。
しっかり習っておけばよかったなぁ。
あんなに大きな楽器は、持ち運びも大変ですものねぇ。
お琴 習っておけば良かった❗って 時折思います。
小学校の同級生の お母さん お祖母さんが自宅でお琴教室をされていました。
4年生の頃だったと思いますが 「 ◯◯ちゃんと一緒に教えて貰ったら?」と 母が勧めてくれましたが、じっとしているのが苦手だったので その後も 遊びにだけ お邪魔してました
(*⌒3⌒*)
こちらにも 御座敷前の綺麗なお姉様達がいらしてました (●^o^●)
琴を奏でるなんて、いいですよねぇ。
なんだかしっぽりして!
琴、三味線の音色・・イイよねぇ~~⤴
でも、弾くのが難しそう!
ギターはフレット(仕切り)があるから、音を出す位置が解かりやすいけど
琴も三味線も無いので大変だと思う!
アコースティックギターも難しいけど!!
全く、上手くならないので・・
上手くなる薬があれば欲しいもんです⤴
だってフレットレスってぇのは、難しいですよねぇ。
やっぱり絶対音階がなくっちゃ!