「天職一芸~あの日のPoem 158」

今日の「天職人」は、岐阜市加納天神町の「枕木商人」。(平成十七年九月二十日毎日新聞掲載)

ガタンゴト~ン ガタンゴト~ン 枕木鳴らし汽車は行く  茜色付く山裾を 母の好物おはぎ手に 秋のふるさと墓参り 枕木鳴らし橋渡る 堤に揺れる彼岸花           記憶の窓を開けてみりゃ 「よう来たなあ」と母の声

岐阜市加納天神町の枕木商人、小林三之助商店の三代目小林三之助さんを訪ねた。

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「栗の木は、狂いが少なくて強い。それと栗の渋に、防虫効果があるんです」。三之助さんは、穏かな笑みを浮かべた。

三之助さんの本名は、真男(まなお)。三之助は、初代の父が他界して改名したのだ。

真男さんは、兵庫県で明治四十一(1908)年に創業された鉄道用枕木商を営む、初代の二男として大正十(1921)年に誕生。

「父は元々、木炭や薪炭の卸をやっておったんです。ところが、日露戦争従軍の折、上官から『お前は山林に詳しい。帰ったら枕木を商え。これからは鉄道の時代がやって来る』と勧められ、枕木に最適な栗の木を追い求め、各地を飛び回ったんです」。

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大正五(1916)年、兵庫に家族を残し、初代は単身で岐阜を足場に、福井から長野へと栗の木を求め歩いた。近代化を急速に進める当時の日本にとって、大動脈とも言える鉄道建設は急務であり、鉄道省の御用商人としてその発展を支え続けた。

昭和九(1934)年、兵庫に母と姉二人を残し、真男さんは岐阜へ。

鉄道省福知山線の保全主任を辞し、父の跡を継いでいた兄が迎えた。

真男さんは岐阜二中に編入し、卒業と同時に神戸工廠の徴用へ。盧溝橋事件に端を発した日中戦争は、拡大の一途をたどっていた。

昭和十五(1940)年、二代目を継いだばかりの兄が他界。真男さんは神戸工廠から父の元へ。亡き兄に代わり家業に就いた。

しかしその途端、今度は召集令状が。

十九歳で岡山工兵隊に入隊。中国本土を転戦し、ラバウルで終戦を迎えた。「まさに死の淵を彷徨い歩いとった感じだわ」。

多くの戦友たちを失い、昭和二十一(1946)年にやっとの思いで復員。「父が岐阜駅で、抱いて迎えてくれました。跡取りを帰して貰えたって」。

翌年、兄嫁が連れ子していた、二つ年下の娘を嫁に向かえ、男女四人の子を授かった。「父は他界した兄の家族の行く末と、家業の将来を考え、一番の円満策を捻り出した結果が、私たちの結婚だったんです」。

敗戦と引換に平和を手に入れた日本は、急速な復興が続いた。真男さんも先代と共に、栗の木を求め山に分け入った。

「栗の原木を切り出し、手斧(ちょうな)で削(はつ)り、山に積み置いて冬まで自然に乾燥」。

雪が降り始めると川狩りが始まる。長良川の上流から本流までは、一本流し。本流で筏に汲んで再び川を下る。 枕木一本の、長さは七尺(約二百十二㎝)、幅六寸六分(約十八.四㎝)厚さ四寸(約十二㎝)。昭和の鉄道建設の代表となった、東海道新幹線建設工事は、昭和三十四(1959)年四月二十日に、新丹那トンネルでの起工式を皮切りに、東京オリンピック開幕までの五年間で完成させようと、急ピッチで槌音を響かせた。

「東海道新幹線の枕木百三十万本の内、百万本がPCコンクリート製。残りの三十万本は栗の枕木。主に橋梁やレールの継ぎ目、それと東京の大井町―八重洲間も」。

東京五輪開幕まで、あと九日と迫った昭和三十九(1964)年十月一日。国鉄が三千八百億円の巨費を投じた、夢の超特急「ひかり一号」は、全国民の期待を乗せ午前六時、東京駅を新大阪駅へと向け発車した。

だがレールを支える枕木に、一生を捧げた初代三之助は、わずか三ヶ月前に身罷り、夢に見た新幹線の勇姿を拝むことさえ叶わなかった。

それから真男さんは、三之助に改名し、父の志を引き継ぎ、今日も鉄道事業を支え続ける。

「もう今は、栗の木の原料も少ないし、広葉樹に防腐剤を注入する方法が主流です」。

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世界に冠たる新幹線。影で支え続けた枕木商。

昭和と共に六〇年近くを、全力で駆け抜けた。

ガターンゴトーン、ガターンゴトーン。

まるで寄せては帰す波の音のように、一定のリズムを伴い安定感のあるレール音が、脳裏を駆け抜けて行った。

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投稿者: okadaminoru

1957年名古屋市生まれ。名古屋在住。 岐阜県飛騨市観光プロモーション大使、しがない物書き、時代遅れのシンガーソングライター。趣味は、冷蔵庫の残り物で編み出す、究極のエコ「残り物クッキング」。 <著書> 「カカポのてがみ(毎日新聞社刊)」「百人の天職一芸(風媒社刊)」「東海の天職一芸(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸2(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸3(ゆいぽおと刊)」「長良川鉄道ゆるり旅(ゆいぽおと刊)」

「「天職一芸~あの日のPoem 158」」への13件のフィードバック

  1. おはようございます。
    ・枕木職人のお話ですね。枕木職人さんが見える事知りませんでした。
    ・新幹線の影を支えてる枕木職人ですね。 材料調達も大変ですね。専門職ですね。
    ・枕木の修理の依頼が有るのかな?

  2. ベランダに出ると、電車の線路と枕木が見えます。
    そう言えば子供の頃、家の近くを市電、瀬戸電、中央線が走っていて、「電車を止めたら身上(しんしょう)が潰れる」と良く親に言われてたなぁ。

    1. ぼくもよく母に、線路で悪戯しちゃあダメだって、なごやンさんのご両親のように脅されたものです。

  3. 枕木商とは、初めて伺い驚きました。
    また、その人生が、ドラマのようです。
    時世もありますが、高度成長期に育った私は知らないうちに、こうした職人さん方に、随分とお世話になってきたのだなぁと、つくづく思いました。
    加納は城下町だからでしょうか、下駄や傘等々、職人さん方の町なのですね。

    雨降る駅の、どこまでも続く枕木の果てを見ていると、叙情的な気持ちになりますね。

    1. 色んな職業があって、この世の中が回っているんですよねぇ。
      ガタンゴトン ガタンゴトン ついつい眠りを誘われてしまう、心地良い線路の子守歌ですねぇ。

  4. ガタンコト〜ン… ガタンコト〜ン…
    昔から変わらない この揺れ
    吊り輪が一斉に揺れるのを楽しげに見ていた遠い昔。
    市内に使われてない線路があり 見ると少し切なく感じます。
    学生の頃 初めて豊田市の環状鉄道に乗った時 全く揺れずにス〜っと動き始めたのにびっくりして 揺れなさ過ぎて酔ってしまった記憶が!(笑)
    やっぱり あの揺れが心地良いんですよね( ◠‿◠ )

  5. 枕木の思い出では、ありませんが!
    電車繋がりと言う事で・・
    4~5歳くらいの超ハナ垂れ小僧の頃
    兄貴とその友達で、少し離れた川(荒田川)へ釣りに行きました。
    勿論!釣り道具なんて持っていませんから、兄貴について行っただけ
    近くに犬山線が走っていて、ハナ垂れモもっちは
    電車を見てました、そうしてら、特急電車だと思います。
    その特急電車の風圧で、コロコロと転がって川へドボン⤴
    何処かの大人の人が助けてくれて・・
    子供ながら、人生何が?起こるか分からないもんだと
    びしょびしょになって、泣きながら帰って行った覚えがあります!

    1. 特急電車の風圧に、さすがの落ち武者少年も、太刀打ちできませんでしたかぁ!

  6. このお話はまるで一遍の映画を観るような感じがしました。昭和ですね。

    1. 愛しい、もはや薄れ逝く記憶に残る、断末魔のような断片の昭和!
      嗚呼!あの日に帰れない!

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