今日の「天職人」は、三重県桑名市長島町の「流木細工師」。(平成十七年八月九日毎日新聞掲載)
寄せては帰す波の音(ね)に 耳を澄ませば聞こえ来る 海の彼方の異国から ザバーンシュワワ泣き笑い 波が運んだ流木を 君は拾って耳寄せる 何処から流れ着いたやら 遠き彼方のまほろばか
三重県桑名市長島町、流木細工師の市川茂さんを訪ねた。

「この辺の人らに『木磨いとる人おらへんか?』って尋(たん)ねたってみ。すぐに家(うっ)とこ教えてくれるで」。茂さんが笑った。
自慢の流木は、直径約一.二m、高さ約一.五m程。欅(けやき)の根を前に、昔語りを始めた。
茂さんは昭和十一(1936)年、六人兄弟の末子(ばっし)として半農半漁の家に誕生。
終戦後、中学を上がるとすぐ、親兄弟と共に船に乗り込み、木曽三川の河口を魚場に漁で生計を担った。
「立干網(たてぼしあみ)漁ゆうてな、満潮時に立干網をフェンスのように立てて張り巡らしたるんさ。後は、潮が引くのを待つだけ。網にゴロゴロ魚がひっかかっとんやで」。
海水と淡水が入り混じる河口の水際で、大型のマダカにセイゴ、フナや鯉が、引き潮と共に姿を現す。
昭和三十四(1959)年五月、妻を娶(めと)り母屋の脇に新居を構えた。
「あの頃から、河口に流れ着く流木に、ちょいちょい気があったんさ」。
漁の合間に流木を拾い集め、我流で磨き上げては、新居に飾り付けた。

新婚から四ヶ月が過ぎた九月二十六日。午後六時過ぎに紀伊半島潮岬(しおのみさき)に上陸した台風十五号は、伊勢湾を北上。東海地方に未曾有(みぞう)の被害をもたらした、伊勢湾台風であった。
午後七時、満潮と重なった伊勢湾の潮位は、通常を三.四五mも上回る高潮となって、茂さんの母屋と新居を襲った。
「『港の船見てくるわ』って堤防に向かったら、高潮が酷ていのけやんで、はんどった(へばりついた)んやさ」。猛(たけ)り狂った高潮が、母屋と母親を一瞬のうちに飲み込んだ。
翌朝浜には母の亡骸が。茂さんは妻と高潮に流され、生死の淵を彷徨いながらも、どうにか九死に一生を得た。
台風の傷跡も満足に癒えぬ中、折からの地盤沈下による影響からか、漁獲量にも陰りが差し始めた。
「チャーター船を出しては、釣船の営業で凌(しの)いどったんさ」。その後、昭和四十二(1967)年には内航不定期航路事業に乗り出し、二十人乗りの客船を手に入れた。
「ちょうど子供が大病患って、手術はせんならんし弱っとったら、造船会社の親方が『金なんか、ある時持ってくりゃいい』って」。
いつまでも栄えるようにと願いを込め「新栄丸」と名付け、新たな船出に。
船に関わる仕事で家族の生計を支えながらも、河口に流れ着く流木を拾い集めては、家へと持ち帰る毎日。
「この辺のもんらに『ガラクタばっか拾い集めて、あいつは流木キチガイや』って。ある時は、駐在が怪しんで『あいつ、焚物(たきもん)ばっか積んで毎日走っとるけど』って、後付け回しよった」。それでも流木拾いを止めようとはしなかった。

「あれ見てみい。船喰い虫の芸術作品を」。
丸太の幹に、びっしりと無数の穴。「川の船食虫は、真っ直ぐに穴を彫るけど、伊勢の方の海の船食虫は、横へ横へと彫ってくんさ。わしには、何でか解らんけどな」。
拾い集めた流木は、簓(ささら)で表面のゴミを取り除き、一年も二年もかけて、炒った粉糠を布袋に入れ、天然な光沢が浮かび上がるまで根気良く磨き続ける。

「底になる部分だけ、据わりがええように切るだけで、後は流れ着いた時のまんま」。昭和三十七(1962)年に員弁川の河口に流れ着いた欅の根は、三ヶ月かけて付着したゴミをこそぎ落としただけで、三十年以上雨曝(あまざら)しのまま眠かせた力作。
「こんな大きな流木、船のスクリュウに巻き込んでみい、一巻の終わりやて。ほんだでわしがせっせと拾ろとったんさ。それが、海と共に生きるもんの務めやで」。
海と川の狭間で、半世紀を生き抜いた男。
山での何百年という樹齢を終え、川から海へと流離(さすら)う流木。
男は今日も陸(おか)へと引き上げ、まるで長旅を労うかのように磨き上げ、新たな命を宿らせる。
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おはようございます。
・流木細工職人のお話ですね。
・私は、流木細工職人さんが、見えた事知りませんでした。ブログで勉強になりました。
写真の流木細工の作品リアルですね。
芸術ですね。
私は、流木細工の作品を、見た事有りません。
世の中色んな方がみえますね。この記事を読んで、昔、老人ホームへ転職したばかりの頃に出会ったおじいさんを思い出しました。その方は山に入って木の切り株を根っこごと取ってきてこの方みたいにコツコツと磨いてアートにされていました。ボクも手伝って紙やすりで磨いたものです。
だからこそ、人間って面白い生きものなんでしょうねぇ!
海と共存する生き方。
流木の魅力は あまりわからないけど これはまた直感で 何か惹きつけるものが流木にはあったんですね。
海と共に生きる者の使命みたいな…
職人さんの手によって命を宿す
いとおしさが溢れてる作品になるんでしょうね( ◠‿◠ )
やっぱり流木は、長い長い旅を経て、一つとして同じものがありませんものねぇ。
だから我が子のように愛おしいのかも!
他人からはガラクタに見える物に魅せられてしまったんでしょうねぇ⤴️
人それぞれに価値観がありますもの!
だから実に奥深い!
二十歳位の頃
友人の実家が、まだ本巣郡「根尾村」だった頃
そいつんちに遊びに行った時
おじいさんが「流木」ではありませんが
趣味で切株を拾ってきては、手入れをし見事な切株が玄関先に置いてありました。
何故か?
おじいさんに気に入られて、手土産に「龍の形をした切株」を持たせてくれました。
でも、引っ越しを何回か?繰り返してる間に、何処へ?行ったやら!
おじいさんの昔話の武勇伝を聞いていると面白かった。
わたしも80歳位になったら、私自身の武勇伝をブログに書き込みたいと思います。
それまで、生きてやる~~ぅ⤴
けど、ボケたら・・・
あああああっ、そりゃ確かに切実なボケ問題ですなぁ!