「天職一芸~あの日のPoem 152」

今日の「天職人」は、岐阜県関市の「蕎麦打ち職人」。(平成十七年八月二日毎日新聞掲載)

ゴトゴト回る石臼を 眺め過ごした夏休み         捻じり鉢巻き汗まみれ 父の在りし日偲ぶ宵        裸電球煌々(こうこう)と 夜毎蕎麦打つ父眺め      粘土団子で真似てみる 母は溜め息苦笑い

岐阜県関市で創業五十年を迎える、萬屋町(よろずやちょう)助六の蕎麦打ち職人、二代目の小林明さんを訪ねた。

「中華そばのおかげやて。大学まで出してもらえたんは」。明さんは呟いた。

刃物産業で栄えた関市は、古来より高山へと続く飛騨街道や、郡上とを結ぶ街道の要所。馬車牽(ひ)き目当てに食堂が軒を連ねて賑い、銭湯も五軒を数えた。

「家は中華そばがとんでもなく美味い繁盛店で、みんな風呂上りや映画見た帰りに『助六でそば食べてこ』って。でも『そば』は、蕎麦じゃなくって『中華そば』のことなんやて」。昔ながらの支那(しな)そば風。和風出汁の効いた素朴な味わいで、町の人から旅人にまで愛され続けた一品とか。

そんな繁盛店となる助六開店の昭和三十(1955)に、明さんは長男として誕生。やがて京都の大学へと進学。

「家業が嫌で嫌で。役人や銀行員のような、普通の生活に憧れとったんやて」。

商売屋故に、家族揃っての食事もままならぬ。ましてや家族旅行などもってのほか。そんな子供の頃の歯痒さが、明さんをそんな思いに駆り立てた。

大学在学中は、各地のユースホステルを巡った。

「貧乏学生やで、旅先で美味いもの食べようと思うと、蕎麦が一番最適なんやて」。ある日、出雲大社近くの蕎麦屋で蕎麦湯を供された。

「何なんやろう?頼みもしとらんのに。周りの人らの様子見ながら、真似て飲んでみたんやて。そしたら滋味があって美味い」。蕎麦の魅力に惹かれ始めていった。

卒業も近付き、同期の仲間たちは長髪を切り揃え、就職活動に専念。

「そんな姿が虚しくて。『俺は、蕎麦屋やろう』って」。

京都烏丸の蕎麦屋に、履歴書持参で飛び込んだ。

「あんた大学出たはんのに・・・何か悪いことでもしやはったんか?」と訝(いぶか)られながらも修業を開始。

毎朝五時から夜九時まで、無休の日々が二年続いた。

「技術の習得は早かった。両親の後姿見とった分だけ、体内時計が覚えとるんやて」。しかし蕎麦への執着心は、止まるどころか、更に深みへ。

石臼挽き自家製粉の、高山の蕎麦屋に頼み込んで住み込みを開始。朝八時から深夜0時まで、石臼挽きから蕎麦打ちを続けた。

昭和五十五(1980)年、中華そばで助六を切り盛りし続けた父が心臓病に。

明さんは取るものも取らず、夜行列車で帰郷。年老いた母一人に、助六を委(ゆだ)ねることは忍びなく、高山の蕎麦屋を辞して家業に転じた。

助六で「そば一杯ちょうだい」と言われれば、それは兎にも角にも中華そば。

助六で蕎麦を出そうと舞い戻った明さんは、愕然(がくぜん)とする毎日が続いた。

昭和六十(1985)年、店舗の改装と合せ、周りの反対を押し切り、中華そばを品書きから消した。

「お客さんが『そば、ちょう』って注文するもんやで、『蕎麦』を出すと『嘘やろう?』って、目が点になって。今でも『助六のたあけ坊が』って言われるほどやて」。

改装から二年。板取村の農家に協力を得て、蕎麦作りを開始。

「『毎週関から変わり者が来る』って言われながら通い詰めて。じきに気心が通じ、『昼飯どうや、風呂入れ、泊まってけ』って」。

一途な蕎麦職人は、何時しか「助(すけ)さ」と親しみを込めて呼ばれるほどに。

それから七年。

板取村の農夫から一本の電話が入った。「『助さ、家の下の娘どう思う?ええのか、悪いかどっちや』って」。

明さんは店で天麩羅を上げながら「ええと思うわ」と。

それが妻みちるさんとの馴れ初め。

蕎麦作りへの情熱は、そのままみちるさんへの熱き想いでもあったのだろう。

明さんは前日に石臼で蕎麦粉を挽き、翌朝六時半から一時間半かけ、混じり気の無い蕎麦粉を生子(きこ)打ちで仕上げる。

板取産生山葵のピンッとした刺激が、凛とした辛口の笊汁(ざるつゆ)を際立たせ、冷水にもまれた蕎麦本来の味を引き立てる。

未だ日に三人程が、幻の中華そばを所望するほどの助六で、「そば」が『蕎麦』として認知されるまで、ゆうに十五年の年月を要したとか。

「高級蕎麦とかじゃなく、フラッと入れる庶民的な町場(まちば)の蕎麦屋が目標なんやて」。

誇張した宣伝文句も、薀蓄(うんちく)も一切無用。

黙って座して一啜(ひとすす)り。

さすれば唸る間も無くもう一枚。

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投稿者: okadaminoru

1957年名古屋市生まれ。名古屋在住。 岐阜県飛騨市観光プロモーション大使、しがない物書き、時代遅れのシンガーソングライター。趣味は、冷蔵庫の残り物で編み出す、究極のエコ「残り物クッキング」。 <著書> 「カカポのてがみ(毎日新聞社刊)」「百人の天職一芸(風媒社刊)」「東海の天職一芸(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸2(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸3(ゆいぽおと刊)」「長良川鉄道ゆるり旅(ゆいぽおと刊)」

「「天職一芸~あの日のPoem 152」」への19件のフィードバック

  1. ドラマを感じました。京都で学生時代を過ごしたのはボクも共通。そういえば関西にはあってこちらにはない「にしんそば」。時々食べたくなります。「助六」覚えときます!

    1. そうそう、京都のお蕎麦屋さんでは必ずにしん蕎麦ってぇのがありますものねぇ。

  2. おはようございます 今日は本町の助六さんですね~ 実は「行こう 行こう」と思ってまだ一回も行った事がないんですよ・・昔は中華そばが人気のお店だとは知りませんでした。私の記憶が確かならばお店でよく落語を開催されてるんですよね~今年はこんな時期なのかあまり見ませんが、朝刊の中濃版によくでてた記憶があります あと、おしながきの「ぬくとい」っていうのがまたいいですね うちの近くでは普通に使う方言ですよ なんか急に美味しい御蕎麦が食べたくなりましたわ(笑)

    1. そうそう、落語の会をお寺の本堂とかでやられてますよねぇ。
      ぬくとい!
      ぼくらも「今日はぬくたいなぁ」とか、「今年の冬はことのほかぬくといわ」なぁ~んて使ってますねぇ。

  3. おはようございます。
    蕎麦打ち職人のお話ですね。
    ・(写真)蕎麦美味しそうですね。
    十割蕎麦と二八蕎麦が、有りますね。
    ・私は、にしん蕎麦は、食べた事有りません。
    最近外食で、蕎麦を、食べていません。
    蕎麦湯が、出たら飲みますね。
    ・麺類(蕎麦,うどん,素麺,ひやむぎ等)は、好きです。

  4. なぜか、イタリア料理店のマスターに勧められて、行った事があります。
    蕎麦も山菜の天ぷらも、とっても美味しかったです。本当に気取りがなくて居心地も良かったです。

    ご主人に、そんなご苦労があったとは。
    人にも、お店にも歴史ありですね。

    お品書の「円空なた切り」って、なんかスゴイ。どんなんかな。(^^)

    1. 円空なた切りそぱってぇのは、きしめんを3倍ほど太くして、幅も2cm以上あるお蕎麦で、まるで円空様がなたで切ったような荒っぽさからだったと思います。
      でも蕎麦すきにゃあ堪らない逸品ですよ。

      1. ヘェ〜ッ!初めて知りました。
        今度、ゼッタイ注文しますダ。
        教えていただいて、ありがとうございますぅ。 (^-^)

  5. 《そば》の看板を見て、暖簾をくぐったら中華そば屋さんだったら2〜3歩後退りしちゃうかも。
    しかし、美味しい蕎麦に出会って、看板通りのお蕎麦屋さんにしちゃうなんてすご〜い!面(麺)食らっちゃいますね(^o^)

  6. そうですか!
    面喰っちゃいましたか!
    座布団三枚で・・宜しく!
    それじゃあ~⤴
    わたしはこんな感じで・・
    「そば」だけに・・
    あたしゃ~⤴
    あんたの「そば」がイイ⤴

  7. 人生どこでどうなるか わかりませんね。
    蕎麦の魅力に惹かれて修行の道へ…
    意外と直感って大事なんです。
    だから それを信じて行動に出る。
    この方のお人柄や熱意が伝わり 周りに人垣が出来てくる。
    15年の年月は長いようで短いのかも。
    うん! すっごくカッコイイ‼︎
    きっとお蕎麦もキリッと旨いはず!( ◠‿◠ )

    1. ぼくは助さんの所へ行くと、田舎蕎麦の笊を一枚と、かけ蕎麦をいただいちゃいますよ。

  8. 旅先で、帰りの電車の時間まであと少し、ご飯を食べる時間はなく、近くにコンビニもなかったので、乙女二人で駅の立ち食いそば屋さんに入った事がありました。
    思ってた以上に美味しかったですよ。

    1. 惹かれるんですよねぇ。
      立ち食い蕎麦の出汁の香とお醤油の匂い!
      今では乙女一人の立ち食い姿も、普通に見かけられるようになりましたねぇ。

  9. 「長良川鉄道ゆるり旅」を拝読して以来、頭に残っているお店です。辛味そばをいただきに近いうちにまいります。ご著作で絶賛されていた中華そばが食べたかったのが本音ですが。

    1. そうなんですって!
      でも助さんは、頑として昔の中華復活を試みようとはしてくれないってぇのも、それまたいいものでもあります。
      そんな頑固親父が、どんどん失せてしまった気がいたします。

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