今日の「天職人」は、三重県桑名市の「一文菓子屋女主人」。(平成十七年五月十七日毎日新聞掲載)
一つ違いのまあ君と 十円持って駄菓子屋へ 五円で籤を一つ引き 十円アイス半分こ 学校帰り田んぼ道 五円の籤で何引こう 大物狙う算段は いつも狸の皮算用
三重県桑名市の駄菓子屋、佐藤房商店の二代目女主人、佐藤節子さんを訪ねた。

「おばちゃん!これなんぼ?」「おおきになあ」駄菓子の封を切りながら、少年が駆け出した。
四十年近く前の、我が身が少年の後姿と重なる。
「家(うち)とこはレジがあらしませんのさ。せやでこれが家のレジなんさ」。節子さんは、割烹着のポケットを揺らし、小銭の音を響かせながら親しげに笑った。

節子さんは昭和四(1929)年、隣町で七人兄妹の六番目として誕生。
「主人の家が隣やってん。せやで毎日、魚釣やトンボ捕りに連れってもうた。夏休みは、絵や工作の宿題やってもうたし」。節子さんは目を輝かせながら、遠き日を見つめた。何とも牧歌的で安穏とした、昭和初期の光景である。
しかしそれも束の間、高鳴る軍靴の響は、いつしか長閑な営みを封じ込めた。昭和二十(1945)年三月、女学校の卒業は軍の徴用で延期。七月の桑名大空襲で焼け出され、幼馴染の夫とも散り散りバラバラに。
同年十二月、日本貯蓄銀行に入行し、銀行事務の職に就いた。
それから数年後、左官職人となっていた夫・故房一さんとの縁談話が持ち上がった。「あんまり近くやったし、小さい頃から何もかも知り過ぎてて嫌やってん。せやでそん時は、一回振ったったんさ」。
しかしそれからしばらく後、今度は親の薦めで再び嫁入り話が持ち上がり、昭和二十八(1953)年に幼馴染の元へと嫁いだ。
夫は腕の良い左官職人。義母が営む日用雑貨品店を手伝い、一男二女の子育てに追われた。
「せやけど、段々スーパーが出来てきて、日用品がさっぱり売れやんようになってもうて」。五十歳を目前に控えた1970年代終盤。子育てにも目途がつき、「子供時分、よう一文菓子屋へ通とったの思い出して」、駄菓子屋への鞍替えを決意した。
「名古屋駅から明道町まで、一日おきに歩いて。両手一杯に、籤や駄菓子を抱えて、電車で通とった」。ウエハースの籤や、ラーメン当てに黒棒籤が人気を呼んだ。

「おばちゃん、おばちゃんゆうて、毎日子供らが並んで買いに来るんやで」。しかし中には、狡賢い子もいた。「籤の当りが出るまで、何枚もめくっては、箱の下にこっそり隠したんのやさ」。そのため外れ籤が不足し、その都度めくられた籤に紙を貼って元に戻すという、鼬(いたち)ごっこが繰り返された。
「それでも男の子は、その程度やで可愛らし。女の子はえげつないで。すました顔して、箱ごと持ってくんやで」。
間も無く三十年を迎えようとする駄菓子屋の店先には、三十年分の子供たちの小さな歴史が刻まれているようだ。「中には、自分の子供や彼女を連れて、訪(たん)ねて来る子もおんやさ。『おばちゃん、ぼくのこと覚えとるか?』ってゆうて。しばらく話しもって顔を眺めとると、そのうち『ああっ、いっつも泣かされとったあの子や』ってな調子で」。

特に遠足前は大忙し。店のあちこちから「おばちゃん、これなんぼ」の声に振り回される始末。「忙しいて小骨が折れるわりに、なんぼも儲かれへんのやさ」。
町内の子供の成長を、我子のようなやさしい眼差しで見守り続け、家族も皆も平等に齢を重ねた。
幼馴染の夫は、七十七歳まで左官を勤め上げ、よく年他界。「店番は苦手やったけど、母を大事にする父やったんさ。職人の癖に、酒も煙草も博打もしやんと、洗濯したり米砥ぎ手伝(てっと)うたり。ほんま仲がようて。せやで父が死んだ途端、母はしばらく呆(ほう)けたようになってもうたんさ」。近所に住む長女が、店番を手伝いながらそう言って笑った。

「あらっ、いらっしゃい」。小学生の男女があれこれ品定めを始めた。
「あの子らほんま仲ええなあ。いっつも二人で手えつないで」。節子さんは店先の子供たちを見つめた。
幼馴染の夫に手を引かれ、一文菓子屋に出かけたあの遠い日。まるで在りし日の二人の面影を、重ね合わせるかのように。
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半分こにするアイス ありましたね。
懐かしいです。
遠足の前はいつも行く文房具屋さんの駄菓子屋さんではなくて釣具屋さんの駄菓子屋さんに行って もみくちゃになっていたことまで 思い出しています。
ありがとうござます。
ちょびっとしかもらえなかったお小遣い。
子どもながらに、どうすればなけなしの10円玉一個で、楽しめたものかと授業中からそればかり考えていたものでした。
こんにちは。
一文屋駄菓子屋女主人のお話ですね。
・今 駄菓子屋さんは、あまり見ませんね。スーパーやコンビニに駄菓子が、置いて有りますね。
・子供の頃駄菓子屋さんで、駄菓子を、買った事有ります。
(写真)甘納豆は、見た事有りません。
駄菓子かぁ~
懐かしい~~ぃ⤴
「糸ひきあめ」
三角すいで底の平らな所から糸が出ていて
口から糸を垂らしながら舐めていたのをかすかに覚えています。
黒くイロ付けして甘い「麩菓子」今もスーパーへ行くとありますねぇ!
「粉末ジュースの元」よく袋毎、指先に付けて舐めていました。
オレンジ味だと、指先がオレンジ色になってました。
どれもこれも、昭和の緩い時代!
わんぱくだったなぁ~~!
今じゃ!すっかり、押しも押されもしない
エロ男!
同じ時代に生きた者同士、懐かしさを分かち合うのも、いいものですって!
ねっ、落ち武者先輩!
一文菓子屋の節子さんご夫妻の物語…
すぐドラマになりそうですよね( ◠‿◠ )
幼き頃 隣に住んでた御主人と魚釣りやトンボ捕りしてる光景が 目に浮かんでくるようです。
一文菓子屋さんって 子供にとって いろんな事を学べる場所であり 初めての社会体験の場所でもあると思います。悪い事を考えてしまう悪知恵も…(泣)
数十年経ってからも 節子さんに会いに来るのは 節子さんのお人柄でしょうし当時 その子にとって節子さんは 味方になってくれた大人だったんじゃないかなぁ〜って勝手に想像してしまいました。
そうした駄菓子屋のオバチャンやオジチャンとの交流が長続きする話は、よく耳にしますものねぇ。
郡上白鳥にあるゴンパチは、何十年も前から子どもたちと一緒に撮った白黒写真なんかが貼ってあって、子どもを連れてやって来て、これがお父ちゃんやぞって子供に見せている昔の子供たちの親が、楽しみにやって来るそうですよ。