「天職一芸~あの日のPoem 129」

今日の「天職人」は、三重県津市の「骨董屋」。(平成十七年二月十九日毎日新聞掲載)

観音様の境内に 骨董市が店開き             古びた茶碗手にして君に 知ったかぶりで薀蓄語る     君が驚くその度に 「お眼が高い」と店主から       丸め込まれて茶碗引き取る 君との食事お預けのまま

三重県津市の古美術商「五六」の主人、奥野秀和さんを訪ねた。

写真は参考

「一から十の数の内で、五と六は丁度真ん中でバランスもええやろう。片っ方が奇数やし、もう一方が偶数やで」。 秀和さんは、親しげに屋号の由来を語った。

秀和さんは、昭和十三(1938)年に四男坊として誕生。「上三人の兄が流行り病で亡くなり、よう皆(みな)から『お前は、死(四)なん坊や』ってからかわれたもんやさ」。

五歳になった昭和十八(1943)年、父の仕事で北朝鮮の平壌へと渡った。しかし戦局は日増しに悪化。やがて終戦と同時に、ソ連兵が北朝鮮へと侵攻。一家は命からがら三十八度線を越え、米軍に保護され引き揚げ船で祖国へと舞い戻った。

しかし無残にも小さな妹二人は、栄養失調で還らぬ人に。

昭和三十二(1957)年、秀和さんは地元の商業高校を上がると、名古屋のテーラーで外交見習として勤務。かつて津市の百貨店で総支配人を務めた父が、息子を商売人にしたいと願ったからだ。

二年後、秀和さんは帰郷し、父と共に洋服店を開業。父の得意先が多い、尾鷲市を中心に外交を重ねた。「この頃から骨董の素人市に出入りして、のめり込んでもうた」。それを知った父は猛反対。「家はもともと、松阪で代々続いた紙問屋やってん。それを十一代目の祖父が晩年、骨董に手を出して身上(しんしょう)仕舞(しも)たったんさ」。しかし隔世遺伝の因果か、骨董への熱が冷めることはなかった。

昭和三十八(1963)年に妻を得、一男一女が誕生。

昭和四十八(1973)年には、洋服店も兼業ながら、念願の古美術商「五六」の創業に漕ぎ着けた。「親父の形見が鼠の伊勢根付けやって」。以来、伊勢根付けの研究では、秀和さんの右に出る者は無い。

「そんでも十年経っても真贋(しんがん)はわからん。それを見極めようと、また研究の為に買(こ)うてまう」。

写真は参考

店内に堂々と居座る「大日本伊勢国、棚村造」と銘打たれた、幕末の作品、津銅器の虎だ。上体を伸び上がらせた虎は、遥か虚空を見つめる。 「絵に描いた餅を売らんでもええように、損しても勉強せんと」。悪戯っ子のように照れ笑い。

宝の山も、がらくたの山も紙一重。しかし、現(うつつ)に受け継がれた古美術品には、古(いにしえ)の職人たちが注ぎ込んだ、命が宿り続ける。

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投稿者: okadaminoru

1957年名古屋市生まれ。名古屋在住。 岐阜県飛騨市観光プロモーション大使、しがない物書き、時代遅れのシンガーソングライター。趣味は、冷蔵庫の残り物で編み出す、究極のエコ「残り物クッキング」。 <著書> 「カカポのてがみ(毎日新聞社刊)」「百人の天職一芸(風媒社刊)」「東海の天職一芸(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸2(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸3(ゆいぽおと刊)」「長良川鉄道ゆるり旅(ゆいぽおと刊)」

「「天職一芸~あの日のPoem 129」」への15件のフィードバック

  1. おはようございます。
    ・骨董屋のお話ですね。
    ・私は、骨董品の値段の高い商品,安い商品見たりしても分かりません。鑑定が、出来ません。
    ・私は、骨董屋さんに、入った事が有りません。多治見だったか骨董市で、買い物した事や行った事が、有りません。(地元で、骨董市が有ってもそこで買い物をした事が有りません。)

  2. 私も骨董市に並べられたら、誰か見い出してくれるかしら⤴️って、ただ古いだけで美熟女になり切れてないから無理かぁ。クゥ〰。

  3. 「天職一芸〜あの日のPoem」
    古美術商さん 古のロマンが蘇ります。

    父が旅行先の骨董市で購入した鳥の置物を 冗談ぽく「どのくらいやと思う?」と聞かれて 「 ・・・」はにかんだ笑顔が答えの様でした。もうすぐ父の日ですね。大切な一コマを思い出させて頂いてありがとうございました。

    1. そう言って、いにしえのお父様のご記憶が蘇る機会となったならば、何より何よりです!

  4. 骨董品
    これは、値段が張るよぉ~⤴
    と言われれば、そうなんかぁ~!と思う!
    でも、なごやンさんが言われている事は間違い!
    オカミノファミリーの美熟女の皆さんは「ピカイチ」
    押しも押されもしない「右に出る者はいない」左に出る者はいるかも?知れない(笑)
    だから安心して下さい。
    不肖ながら、あたしが保証します。
    えっ?頼りない?
    まぁ~⤴人生65年生きて来たから美熟女を見る目は確か!大丈夫!

    1. まぁ、こんな心優しき、やっかいなオッサンも世の中にはおいでですから、それはそれで・・・!

  5. 私は「さすが、お目が高い」などと言われると、ほぼ言い値(高価なものはありませんよ)で買ってしまう、お調子者です。飾り棚には、よく分からない茶碗がゴロゴロ並んでおります。陶製の小さなマリア像まであります。
    でも買った時の思い出は、忘れていません。店主との、やり取りが楽しいのかもしれません。
    京都の骨董店で買った髪飾りが、実は仏壇の留金だったこともありまーす。
    (^∇^)
    「五六」さんなら半日は、居られそうでーす!

    1. でも日本人も、そうやって昔の物を労わって使う気持ちを、もう少し西洋の方々のように養わなくては、文化度を疑われますよねぇ。

  6. 骨董市、以前のヒマな時はよく覗いていましたが、最近はとんとご無沙汰です。文中に出てくる「身上」つぶす話、例の民謡で「小原小助さん、なんで身上つーぶしたー?」を思い出しマシタ~。しかし、身上をつぶして、おまけに歌にもなり、日本国中に名前が知れ渡っているこの小原小助さんはある意味スゴイと思ってしまうのはボクだけでしょうか?一体どんな人物?

    1. 昔の噺家さんや芸人さんには、そんな向こう見ずな方がいらっしゃったようですし、だからかなおのこと、光を放ち続けていたのかもしれませんねぇ。

      1. 調べてみました。庄助、という字のようです。三人くらいモデルになった人物がいらっしゃるようですが、地元では愛されているキャラクターの様子でした。

  7. 以前 大須に行った時 ちょうど骨董市の日だったので キョロキョロウロウロしながら楽しみました。買わなかったけど 見てるだけで面白かったですよ。
    宝の山もがらくたの山も紙一重!
    なるほどです。
    骨董品も手から手へ渡りながら時を越えて大切にされるといいですよね( ◠‿◠ )

    1. 骨董には、人の手から手へと渡った、何人の方々の人生も刻まれているんでしょうね。

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