今日の「天職人」は、三重県津市の「竹細工職人」。(平成十六年十月三十日毎日新聞掲載)
鎮守の杜の境内は いつも子供の声がした 竹馬乗りに通りゃんせ 花一匁(いちもんめ)竹とんぼ 大きなはずの境内も 今は小さくビルの底 子供のはしゃぐ声も無く 花一匁竹とんぼ
三重県津市の竹細工職人・清水幸一さんを訪ねた。

「ここらは元々、孟宗竹(もうそうだけ)の産地やでなあ。家(うっ)とこも、筍作る藪があってな、毎年四~五月に土から顔出す寸前に掘ったるんやさ。放(ほう)とても筍は、毎年毎年よう忘れやんと生えて来んやで」。幸一さんは、土間の上り框(がまち)に座した。
幸一さんは大正十一(1922)年、津市の西外れにあたる片田町で生まれ、尋常高等小学校を出るとすぐ、父の営む酒屋を手伝った。しかし戦争と言う名の暗雲が、やがてドップリとこの国を覆い、主力商品であった清酒までも、配給を打ち切られる始末に。
その後、幸一さんは大阪へ出て、海軍工廠(こうしょう)の徴用へ。
戦後郷里に戻り、三重県工芸指導所竹工芸科の第一期生として基本を学んだ。
もともと江戸時代、藤堂藩では孟宗竹の産地であったことから、片田町近郊の竹細工を庇護し、代々竹細工師を藩が抱えたほどだ。
幸一さんはその後、藩お抱えの竹細工師の末裔、加藤藤昇斎に付いて伝統的な竹細工を学んだ。

昭和三十(1955)年に三十三歳で独立。「竹の玩具で、羽根を回すと鉄砲のような音がする『バリバリ機関銃』や、竹とんぼ。それに花籠から果物籠、さらに輸出向けの竹製ハンドバッグ作りで、大忙しやったさ」。 昭和三十五~三十六(1960~1961)年の最盛期には、十五~十六人の従業員と共に、三尺(約九十.九㎝)の竹材を型に合わせてハンドバッグに編み上げた。一日かけても五十~六十個がやっと。経済にも明るさが兆した。しかし、やがてこの国を襲う高度経済成長の波は、思いも寄らぬ速度で伝統的な産業を追い越していった。
「昭和四十(1965)年代に入ってからは、東南アジア産の籐に代わって、竹製品はさっぱりやわ。従業員も五人ほどに減らしたんやさ」。その後も衰退化に歯止めが掛からず、今から十三年前に閉鎖の憂き目に。
今は近隣の公民館に出かけ、籐籠作りを教えるのが愉しみとか。

筍の旬の収穫が愉しみですねと、水を向けてみた。「それがさ、家(うっ)とこにあると思うと、誰も食べやんのさ」。
失われ逝く技。もう何人(なんぴと)たりとも、手出しは出来ぬ。近い故、筍の旬の有り難味も失せる。されど遠くにあれば如何に?
まさに今、失い逝く技も然りかな。
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竹細工はよくお土産の民芸品等で買ってましたね。郡上の田舎ではザル、籠など生活の中にはかかせない物としてありましたね。ホコリがかぶってるけど未だ置いてあるかな❓️探してみます。
竹はプラスチックとは一味も二味も違いますよねぇ。
そもそも使っていると飴焼けして、まるでいまだに生きているようじゃないですか!
とは言えわが家には、ざるそばなんぞを盛る竹の簾しか見当たりませんが・・・トホホ。
おはようございます。
竹細工職人のお話ですね。
・竹細工は、ひとつひとつ手作りだから手間がかかりますね。機械化が出来ない仕事ですね。
・私は、竹細工の商品を、買った事が有りません。 竹細工の籠等は、プラスチックの商品と違って良い所が、有るのですね。
急に『竹ひご』の事を思い出しました。文房具屋さんで売っていて、小学生の頃は図工などの授業で使いました。
今もあるのかなぁ?
ありましたねぇ!
結構な長さで、1本売りしてましたねぇ。
でも今の子供たちの登下校風景で、見かけたことはないような???
孟宗竹?
妄想・?
まぁ~いいや!どっちでも⤴
新型コロナウイルスが終息したら
オカミノファミリーの皆さんで、
あぁ~~んな事やぁ!こぉ~~んな事を!
オカダさんと一緒にやりたい!
スタッフの実行委員会の方
何か?考えてくれているのかなぁ~?
皆さんも妄想して考えましょう(笑/ニン⤴)
これからは、コロナがあるものとして、暮らさねばなりませんね。
近過ぎても遠過ぎても…
良さに気付かないし 本質が見えないし 分かり合えないし 伝えられない。
だから自分で調整するようにしてます。
って、人間関係の事になっちゃいました(笑)
竹細工 我が家にありました!
夏の来客用におしぼりを乗せるトレーと茶托。
でも お店ではあまり見掛けなくなりましたね。籐で作られた作品が多いです。
この夏は 涼しげに竹細工の茶托を使ってみようかな。( ◠‿◠ )
麦茶の竹で編んだ茶托。
見るからに涼しげですものね。