今日の「天職人」は、愛知県飛島村の「筏師(いかだし)」。
沖行く船に背を向けて 丸太操る軽業師 広い海原自在に翔(か)けて 丸太の文字を海に浮かべた スキと二文字の片仮名を 海に描いて手を振れば 岸辺に揺れる影一つ 筏乗りから海の恋文
愛知県飛島村の名古屋港木材倉庫に勤務する、親子二代の筏師、加藤勝三さんを訪ねた。

「わしら筏師の道具は、この身体一丁と竹竿だけだて」。潮焼けした赤ら顔の勝三さんは、人懐っこそうな笑顔を見せた。

「わし、勉強が嫌いだったんだわ」。昭和三十九(1964)年、中学を出ると直ぐ、父が筏師の親方を務める会社に入社。筏の一本乗りを始めた。「そんなもん、直ぐには乗れぇせんて。一日に二~三べんはぶち落ちてまって、助けてまうんだて」。
落ちても落ちても這い上がり、七年の月日を経て一人前の筏師に。 「冬場に落っこちると、銭いらんで帰ったろかと思うほど、冷たて痺れよるんだて」。
入社一年目、筏の一本乗り大会新人戦で、見事優勝。
晒しに紺の半纏、白足袋に鉢巻きの出で立ち。約二間(三.六m)の竹竿。根元には、丸太を引寄せるトビと、押し出すトッコ、ロープを切る鉈(なた)の三種の金具が取り付けられている。

特殊作業の筏師は、一般の給与の二倍を得たという。 昭和四十六~四十七(1971~1972)年の全盛期には、名古屋だけで筏師も千人を越えた。
翌、昭和四十八(1973)年に、港区出身のしな子さんを嫁に迎えた。「姉(あね)さが洋裁の先生で、おっかあが生徒だったもんで。それが逢ったら、ええ女だでかんわ」。
しかしオイルショックの影響からか、一次加工済の外材が、筏師たちから丸太を奪い始めていった。
今では筏師もわずか三十人足らずとか。 筏師たちの仕事は、本船から丸太を下ろし、全方位型のロータリーボートで集める。カンと呼ぶ金具を打ち込み、ロープをかけ、長さ十二mの丸太を五十~百本ほどにまとめて筏を組む。そして引船で一時間かけて貯木場へと曳(ひ)く。
検査を経た丸太に等級別の標が付けられ、筏師が材木商の注文に応じ、貯木場に浮かぶ丸太を一本乗りで寄せ集める。
「自然の風や潮の加減に逆らったらかん。毎日の下げ潮と込(こ)み潮の時間を、身体が覚えとるんだて」。

海は穏かな優しい日ばかりではない。時には時化(しけ)に荒れ狂い、稲妻が海原を駆け抜ける。エンジンも櫓(ろ)も持たぬ竹竿一本の筏師は、海と対話し、竹竿一本で海と陸(おか)との間を自在に翔(か)ける。
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おはようございます。
・筏師のお話ですね。筏師さんが見えたのですね。 愛知県飛鳥村に筏師さんが見えた事知りませんでした。
ブログを、見て勉強なりました。
・昔は、筏師さんが沢山見えたのですが減って来たのですね。
・筏師さんの道具は体と竹竿なのですね。
・私は、実際に筏師さんが筏を、乗っている所は、見た事有りません。
今も尚 筏師さん達によるそのようなお仕事がある事にびっくりしています。
なんでもそうですが 原材料と出来上がった商品は知っていても 肝心な途中の工程を知らなさ過ぎかも知れません。
でも こうやってブログに載せてくれるので確実にインプットされてますよ(笑)
写真を見て思いました。
きっと めちゃくちゃ体幹が鍛えられてる…と。( ◠‿◠ )
ですよねぇ。
海に浮かんんだ丸太に乗って、転がせるんですもの!
プランクを何時間でも出来ちゃいそうですよねぇ!