「天職一芸~あの日のPoem 99」

今日の「天職人」は、三重県松阪市の「旅籠女将」。

叩き打ち水涼を呼ぶ 疲れし旅の癒し水          女将の声につい釣られ 不意に口付く「ただいま」と    おかげ詣りの賑わいを 偲ぶ日野町宮街道         草鞋の替えを振舞て お蔭様でと掌を合わす

三重県松阪市で文化年間(1804~1818)創業の旅籠、鯛屋旅館に十代目女将の前川廣子さんを訪ねた。

「わたし結婚式の前日まで、夫を『お兄ちゃん』って呼んでたんやさ」。廣子さんは帳場で上品に笑った。

東京生まれの廣子さんは、強制疎開で母の在所の松阪に。遠縁に当たる鯛屋の、後に夫となるお兄ちゃんに可愛がられた。そして小学一年の年に東京へ。母が教える文化服装学院に学んだ。

「先代の大女将にえろう気に入られ『廣ちゃんを誰かに取られんように』ゆうて、ジャズに目がないお兄ちゃんを上京さして来たんやて。それで二人して、ようベニー・グッドマンとか聴きに行ったもんやさ。その内知らんとる間に『わたしこの人とやって行くんやろなぁ』って思っとったんやさ」。

ついに大女将は、廣子さんの母に「娘として嫁に貰えんやろか」と懇願した。

廣子さんはわずか十九歳で、鯛屋の嫁となった。「着物も自分でよう着やれんと。案山子みたいに、両手を広げて突っ立っとんやさ。後はみんな仲居さんに着せてもうて」。

それからは名立たる歴代の女将に負けじと、一男一女の母として、また若女将として「毎日が宴会」とばかりに、高度経済成長期を駆け抜けた。

やがて大女将は「廣ちゃん。あんたの息子の嫁は、あんたとこの身内からもうといでや。それが何より、安気に商売続けられるコツやで」と言い残し、十三年前に他界。(平成十六年六月十九日時点)

その半年後。廣子さんの長男が、画家である叔父の個展にお祝いを持って上京した。その受付を手伝っていた遠縁の裕子さんと、二十数年ぶりの再会へ。女将の思惑通り、運命の歯車が、ゆっくりと動き始めた。

それからしばらく後。裕子さんが初めて松阪の地を踏んだ。三泊に及び廣子さんの長男と伊勢志摩巡り。和田金で贅を尽くした最後の晩餐。廣子さんは紬の着物で正装し、おもむろに切り出した。

「裕子ちゃん。考えてくれたんでしょうね」と。「さすがに『しまったぁ!』って思いましたよ。だってもう和田金のお肉、ペロツと食べた後だったんですもの」と、若女将の裕子さん。

運命の赤い糸は、女将の廣子さん、長男である若旦那、そして若女将の裕子さん、それぞれの思惑で描かれたシナリオを、見事一つの見せ場に紙縒り上げた。

「大女将に半分、そして旦那に半分惚れて」と、廣子さん。「わたしも!」と、傍らから若女将の裕子さん。

まあ、何はともあれ「メデ鯛屋!」。

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投稿者: okadaminoru

1957年名古屋市生まれ。名古屋在住。 岐阜県飛騨市観光プロモーション大使、しがない物書き、時代遅れのシンガーソングライター。趣味は、冷蔵庫の残り物で編み出す、究極のエコ「残り物クッキング」。 <著書> 「カカポのてがみ(毎日新聞社刊)」「百人の天職一芸(風媒社刊)」「東海の天職一芸(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸2(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸3(ゆいぽおと刊)」「長良川鉄道ゆるり旅(ゆいぽおと刊)」

「「天職一芸~あの日のPoem 99」」への7件のフィードバック

  1. 老舗旅館の女将さんが「コロナウィルスにより、宿泊客のキャンセルが相次ぎ、‘旅館’を残す為に閉館する道を選んだ」と言ってました。
    誰か悪い訳でも無いのですが、切ない話です。

    1. 本当に時として、三日コロリとか、今回のコロナやらが、ある周期でやって来るわけですから、感染症ってぇのは侮れませんよねぇ!

  2. 今晩は。
    旅籠女将さんのお話ですね。
    コロナウィルスの影響で旅館は、大変ですね。
    (コロナウィルスの影響 みんな大変ですね。)
    予約がキャンセルになったり色々影響が、有りますね。私は、補助金が出るのか分かりませんが、補助金が、出ると良いですね。 旅館も定休日ですね。
    私は、家族と一緒或いは一人で旅籠に行った事有りません。

  3. なんだか不思議ですね!
    大女将*廣子さん*裕子さん…
    昔から? いや 生まれる前から決まっていたかのようなご縁であり 運命的な出会い。
    きっと来世にも繋がっていき 守り抜かれていくんでしょうね( ◠‿◠ )
    もしかしたら 私も気付かないだけであって こんな経験をしてるのかも。

    1. あるんですよねぇ、そんな妙な因縁めいた「縁」とやらって。
      ぼくも実は、16歳の時、師匠の山平和彦とマイペースのキャラバンコンサートってぇのが、伊勢市観光会館だったか松阪市民会館だったかであって、ぼくも不出来な弟子の端くれとして、そのコンサートの手伝いに学校をサボって行ったことがありました。
      その夜の宿泊先がなんと「鯛屋旅館」だったのです。
      二階の広間で大宴会となり、酔っぱらった師匠たちが鯛屋旅館の二階の窓を開け、通りを挟んだ向かい側の化粧品屋さんの店先に向かって「シーチャーン、シーチャーン!」と大人げなく、何度も何度も大声で叫んでおりました。
      もちろん化粧品屋さんからは、「シーチャーン」なる方はちっとも出てなぞ来られませんでしたが!
      その「シーチャーン」こそが、あのあべ静江さんで、化粧品屋さんがそのご実家だったのです。
      取材を終えて、大女将にその話をしましたが、大女将は記憶になさそうでした(汗)

  4. え〜! 宿泊先がこの旅館!
    縁です。縁です。ご縁ですよ( ◠‿◠ )
    一生のうちに何度もあることじゃないですからね。だからこそ 出逢いは大切にしたいと思います。
    ところで「あべ静江さん」って 『水色は〜涙色〜♪ 』の あべ静江さん?

    1. そうなんです!
      あの三重県松阪市がご出身の、あべ静江様です!
      若い頃のシーチャンには、ぼくも憧れたものでした!
      今は・・・・・

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