「天職一芸~あの日のPoem 56」

今日の「天職人」は、三重県美杉村の「萬屋」。

おっちゃんおっちゃん これなんぼ           道草喰うて 菓子買うて                甘納豆の 籤引こか                  どうか当りが 出ますよに               「ハンニャラモンニャラ ペッペッペッ」        変な親爺の 呪(まじな)いが             いつも通りに 始まると                何や知らんが よう当たる

三重県美杉村で萬屋を営む(平成十五年七月八日時点)、三代目眞柄武士さんを訪ねた。

美杉村

実に何ともまどろこしい「床屋」という店名の、魚屋兼萬屋があった。一昔前のコンビニである。異なる点は、刺身や焼き魚、蚊取り線香から虫取りタモや釣り竿まで、暮らしに密着した食料品から生活雑貨が、所狭しと店内に居並ぶ。

写真は参考

「それはなぁ、昔婆さんが、床屋やってんさ」。武士さんが赤道色の顔を綻ばせた。

武士さんが六歳になった昭和21(1946)年、隣の材木屋から出火。祖母が営む「床屋」ともども焼け出され、父は国鉄を辞し山師となり一家を支えた。すると今度は昭和28(1953)年9月、台風13号が直撃。至る所で山抜けが発生。武士さんも中学を上がると直ぐ、工事現場で鶴嘴を振るった。そして昭和33(1958)年9月、焼け出された床屋は十二年の歳月を経て、萬屋へと生まれ変わった。

「魚市場へ仕入れに行くとなぁ、皆『妙な店の名前やなぁ』ゆうて。直ぐに覚えてもうて。結構、役んたったんさ」。

萬屋の開店から三年後。武士さんは軽三輪自動車を購入。それまでの名松線での仕入れに別れを告げ、颯爽と片道一時間半をかけ、松阪に向け軽三輪を走らせた。「当時なんて、仕入れして店へ戻って来ると、客が行列作って待っとったんやで。今とはえらい違いやさ」。棚を飾る商品は、問屋が勝手に置いて行くのだとか。求められれば大工用品まで販売した。「まぁオイルショックまでは、おもろいほど売れよったわ」。

しかしバブル期以降、過疎化が進み高齢化へ。「今し皆歳喰うてもうて。店まで来るのもしんどいで、魚持って行商して廻っとんやさ」。武士さんは毎日欠かさず、近隣に住む独居老人宅を巡る。「『きんのうは刺身喰うたやろ。そやったら今日は、焼き魚にしとき』ってなもんさ。せやけどほんま世話やで」。独居老人問題は切実と言う。ガスの火を点けっ放しで、畑仕事に出掛けていた老婆宅を訪問し、寸でのところで台所の火事を消し止めたり、自室で発作を起こした病人も救った。

「如何に萬屋ゆうても、年寄りの健康管理までせんならんとは・・・」。傍らで愛妻の春子さんが笑った。「もういつ店仕舞いしても可笑しないんやさ。でもなぁ・・・」。

「床屋」と言う名の萬屋の裏山に、ゆっくり陽が落ちる。店先には買い物を終えた老婆の笑い声。軒の裸電球が灯り、暖かな光を放つ。美杉の里の萬屋には、誰もがやさしかった昭和のあの頃があった。

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投稿者: okadaminoru

1957年名古屋市生まれ。名古屋在住。 岐阜県飛騨市観光プロモーション大使、しがない物書き、時代遅れのシンガーソングライター。趣味は、冷蔵庫の残り物で編み出す、究極のエコ「残り物クッキング」。 <著書> 「カカポのてがみ(毎日新聞社刊)」「百人の天職一芸(風媒社刊)」「東海の天職一芸(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸2(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸3(ゆいぽおと刊)」「長良川鉄道ゆるり旅(ゆいぽおと刊)」

「「天職一芸~あの日のPoem 56」」への10件のフィードバック

  1. おはようございます。
    萬屋さんのお話ですね。
    ・萬屋は、今で言うコンビニなのですね。
    勉強なりました。
    ・考えて見ました。私は、萬屋に行った覚えが有りません。記憶に有りません。
    ・床屋と言う萬屋印象に残りますね。
    ・眞柄さん お年寄りの健康管理を、しないと行けないので大変ですね。
    ・萬屋は、村のスーパーマーケットですね。
    ・村の住人さんは、助かりますね。
    食料品等のお買い物が、出来るからです。
    ・人によっては車で、街のスーパーマーケットに買い出し行く方も見えますね。
    ・私の所も出前スーパーが、有ります。(出前スーパーを、やっているスーパーマーケットが、有ります。) コープ見たいなかんじですね。
    ・今 買い物難民が、見えますね。
    買い物に行くのが大変ですね。
    出前スーパーは、有難いですね。

  2. あった、あった、所狭しと何でも置いてある『何でも屋さん』。
    それでも、店主は何処に何が置いてあるかを把握していた。
    今ほど物が溢れている訳でも無いけれど、それはそれで良き時代ʕ•̀ω•́ʔ✧

    1. そうそう、バーコードもポイントカードも無かったですけどねぇ。
      家の側にあった萬屋は、天井からパンツのゴム紐で笊が吊り下げられていて、そこにお札や小銭が入っていたものです。
      だからお釣も当然そこから貰ったものでした。

  3. 昭和30年代
    有りましたねぇ!
    町内にあったのは看板は「金物屋」と書いてあるのに
    たいがいの物がありました。
    食料品は売ってなかったような?
    今でも忘れられないのが
    ガキもモ「おじさん、水中メガネあるぅ?」
    おじさん「あるよぉ~」
    あくる日
    ガキもモ「おじさん、自転車用の電球あるぅ?」
    おじさん「あるよぉ~」
    ガキもモ「おじさんの店何でもあるねぇ~!」
    おじさん「おぉ⤴ないのはお金とおじさんの頭の髪の毛だけやてぇ~」
        「わっはぁはぁ」
    そんな具合で町内の名物おじさんでした。

    1. おじさんの残り少ない髪の毛を笑った罰が当たったってことですか???

  4. 山抜け、という言葉がでてきましたが、以前、南木曽町で土砂崩れに遭遇して一晩お世話になった時、地元の方が土砂崩れのことをそう仰っていたのを思い出しマシタ。

    1. そんな体験をなさったと、以前メッセージをお寄せいただきましたものね。

  5. お店そのものが この職人さんのお人柄って感じ( ◠‿◠ )
    物を売るだけではない 素敵なあったかい商売だなぁ〜と思いました。

    1. これからますます、過疎で高齢化が進む土地では、とても頼りになるお店屋さんですよねぇ。
      さすがのUber Eatsでも、ちょっと配達してはくれそうにありませんしねぇ。

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