「天職一芸~あの日のPoem 52」

今日の「天職人」は、岐阜市柳ケ瀬の「眼鏡士」。

何度眼鏡を新調しても 老いた父はその都度失くし    古びた昔のロイドメガネ 箪笥の隅から取り出した    父の形見を片付けながら ロイドのケースに目を止めた  古びた紙片に「ご苦労様」と 在りし日 母の面影筆運び

岐阜市柳ケ瀬の賞月堂、三代目木方(きかた)清一郎さんを訪ねた。

「昔は印判屋(いんばんや)が片手間に、舶来品の眼鏡を扱っとったんやて」。清一郎さんは背筋をピーンと伸ばし、柔らかな物腰で語り出した。

明治7(1874)年生まれの初代、千代五郎は十一歳で印判屋に奉公に上がり、明治26(1893)年に賞月堂を創業。

清一郎さんは大正14(1925)年に誕生。名古屋工業専門学校(現、名古屋工業大学)電気工学部へと進学。しかし日増しに戦況が悪化する中、昭和20(1945)年1月に出征。

敗戦後無事復員し学校に戻ると、無残な学び舎の残骸を目にした。「いつから授業が再開出来るかわからん。もう校舎もあれへんで、あんたもう卒業だわ」。そう言われ藁半紙の卒業証書を受け取った。授業を受けたのは、たったの一年足らず。物も人も何もかもが不足していた。とは言え、例え藁半紙とは言えども、曲がりなりにも工業専門学校の、電気工学部の卒業証書には違いない。さっそく技術者不足に喘ぐ企業が、全く技術の無い清一郎さんに、一月二百二十円の高給を提示した。「ちょうど家も空襲で焼かれ、そんなに貰えるんやったら勤めに行けといわれてなぁ」。

昭和23(1948)年、焼け跡から復興した賞月堂に戻り、妻を迎え家業を継いだ。「昭和30年代は一番忙しかったもんやて。特に花火と盆暮れは。番号札配るほどやったわ」。高度経済成長と歩調を合わせ、店も拡大していった。「戦前はもっぱらロイドメガネ。戦後はマッカーサーのレイバンばっかやった」。しかしやがて時代は、大型専門店化へ。三世代続く老舗といえども、もはや安堵などしていられない。

写真は参考

清一郎さんはそんな危機感から、長男の大学卒業を待ち、英国留学へと送り出した。当時の日本では、まだ誰も取得していなかった、英国の国家資格であるオプトメトリスト(眼鏡士)の資格を取らせようと。「眼鏡をモノとして扱った時代は終わりました。眼鏡を必要とする人が網膜に感じる<自覚>と、検眼師が測定する客観的な数値による<他覚>とを組み合わせ、最適なレンズでどう視力を補うか。それが今求められています」。まるで学者のように、穏やかな口調で語る四代目の言葉に、清一郎さんは黙って頷いた。

印判屋の眼鏡屋に始まった賞月堂は、日本に一握りのオプトメトリストを擁し、鮮明な視力回復に貢献すべく、百年以上を経た今も頑なに挑み続ける。

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投稿者: okadaminoru

1957年名古屋市生まれ。名古屋在住。 岐阜県飛騨市観光プロモーション大使、しがない物書き、時代遅れのシンガーソングライター。趣味は、冷蔵庫の残り物で編み出す、究極のエコ「残り物クッキング」。 <著書> 「カカポのてがみ(毎日新聞社刊)」「百人の天職一芸(風媒社刊)」「東海の天職一芸(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸2(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸3(ゆいぽおと刊)」「長良川鉄道ゆるり旅(ゆいぽおと刊)」

「「天職一芸~あの日のPoem 52」」への11件のフィードバック

  1. おはようございます。
    ・眼鏡師さんのお話ですね。
    ・賞月堂さん 明治26年創業 老舗の眼鏡屋さんですね。街の眼鏡屋さんですね。
    ・藁半紙の卒業証書 卒業証書にかわりませんね。工業専門学校卒業した証ですね。
    ・木方さん ピークの時(昭和30年代)忙しかったのですね。大変でしたね。
    ・写真の眼鏡(鼈甲の眼鏡) お洒落なデザインですね。
    ・私は、眼鏡と言えば福井県鯖江市が、思い浮かびました。
    ・私は、柳ケ瀬の賞月堂さん 通ったかも知れませんね。
    ・眼鏡は、私の必需品です。レンズとフレームがセットの価格なのが有難いです。
    眼鏡の度が悪くても値段が一律になっている眼鏡屋さんが有難いです。

  2. 若い頃、賞月堂さんで眼鏡を作ってもらいましたよ。
    今は、コンタクトですが、老眼が…。
    そろそろ、遠近両用の眼鏡にしようかなと考えている今日この頃です。

    1. ぼくはチキンハートなので、コンタクトが怖くて一度も着けたことがありません。

  3. お風呂に入る時と、寝る時以外はずっとメガネのお世話になっています。
    今や身体の一部。なのに、ラーメンを食べてるとメガネが曇る。くぅ〰〰(泣)

  4. 子供の頃は「メガネ」に憧れて
    暗がりで本を読んだりしていましたが、
    全く目が悪くならずに
    今となっちゃ~ぁ、老眼!
    あ~ぁ⤴イヤだイヤだ!
    これも、年齢を重ねる事によって、付いて回るもんで・・
    今後、緑内障、白内障に気を付けて
    少しづつ、シルバーマンから、ゴールドマンになって行くんでしょうねぇ!

    1. ゴールドマンまで昇格されると、その後は???
      もしかしてプラチナマンとか言うんでしょ!
      嗚呼!ぼくも落ち武者殿を笑っていられません!
      やっぱり緑内障やら白内障に気を付けねば!

  5. 凄いですよね!
    危機感を持った段階で先を読み 息子さんに資格を取ってもらうなんて。
    そして それが現在において 資格以上の能力が発揮され しっかり引き継がれているわけですから。
    あっぱれですよ( ◠‿◠ )

  6. 参考写真のメガネ 懐かしいです~ ★
    私が幼少の頃 同じようなメガネ 父親がかけていたんです (#^.^#)
    今なら 「 おっしゃれ~ ‼️‼️ 」 って 思うんですが、あの頃は??
    母は 67歳で他界しましたが、眼鏡は不要でしたから 凄いなー ‼️‼️ って思いました。

    私も 10年くらい前から 老眼鏡のお世話に ・・・(;´Д`)

    仕事中やお出かけには 遠近両用を 家では 老眼鏡をずっと頭に 付けています
    (泣)

    休みの日は ノーメイク 、眼鏡とマスクで 近くならお出かけできるので ありがたや〰️ ですよ (*^_^*)

    1. Off Timeは、スッピンが一番ナチュラルでいいんじゃないでしょうか?
      ぼくにしたって、あの落ち武者殿にせよ、フルタイム・スッピンですもの!
      あれっ、そうかぼくらは、単なるオッサンでしたぁ!

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