「天職一芸~あの日のPoem 40」

今日の「天職人」は、三重県伊勢市の、「風呂屋女将」。

洗面器の中石鹸が鳴る 泥んこ顔で妹と二人       一番風呂の先を競った                 背伸びで小銭差し出すと 番台越しにお婆の笑顔     湯気立ち込める向こうから 壁の赤富士背負った隠居   手拭い頭に浪花節                   意味も分からぬ二人でも 湯屋の風情が好きだった    一番風呂は小さな褒美 世を下り行く隠居と       荒波に向かう子供らへ 神が与えた湯殿の楽園

三重県伊勢市の喜楽湯二代目女将、中村久子さんを訪ねた。

「おおきになぁ。ええ湯やったわ。あんたに話したらなぁ、何や心まで洗濯したみたいんなって、心が軽うなったわ」。湯浴み客は、思い思いの言葉を残し、番台を後にする。「もう今し、お客も一日十人もおらんでなぁ。履物見ただけで、誰やすぐにわかるんやさ。なんせ家族の風呂みたいなもんやでな」。久子さんが笑った。

久子さんは昭和11(1936)年、七人兄妹の末っ子として福島県で誕生。戦後、中学を上がると集団就職で秩父の織工に。二年後理容師を志し、東京北千住で住み込み見習いを始めた。

唯一の愉しみは銭湯通い。風呂屋の親爺から、「あんたそんなに風呂好きだったら、いっそのこと風呂屋へ嫁いだらどうだ」とからかわれる始末。しかしその一言は、その後の久子さんの運命を暗示していた。

理容師見習いも板に付き始めた頃。電力会社勤務の青年が、久子さん目当てに床屋へ通い詰めていた。いつしか二人は恋仲となり、将来を誓い合う仲へ。

久子さん二十二歳の夏。半年前に伊勢の実家に戻った恋人を訪ね、夜行列車で伊勢を目指した。「遊びに行くつもりやってん。そしたらここのお婆ちゃんに口説き落とされてなぁ・・・。とうとう気が付いたら、一生分のお伊勢詣りしとったんやさ」。着の身着のまま、伊勢での暮らしが始まった。「最初の頃は、『阿呆やなあ』って言葉に腹がたってなぁ。人のこと犬畜生のようにって思てな。でも四十五年も経つと、ええ言葉やわ」。久子さんの言葉に、もう東北訛は見当たらない。

銭湯の原型と言われる蒸し風呂の湯屋は、天正19(1591)年、江戸の銭甕橋(ぜにがめばし)で伊勢与一(いせのよいち)が始めたものとか。しかし昭和も45(1970)年を過ぎると、銭湯は急激に姿を消し始めた。今も(平成十五年三月十八日時点)昼間にパート務めを終え、それからボイラーに製材所から出る木屑をくべ、わずかばかりの客を待つ。

「馴染み客ばっかやで、髪の裾揃えたったりするんやさ。昔取った杵柄で。もういつやめてもおかしない。でも町の人らの団欒の場やで、気張れる限りはなぁ」。久子さんの一生分のお伊勢詣りは、今日も続く。

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投稿者: okadaminoru

1957年名古屋市生まれ。名古屋在住。 岐阜県飛騨市観光プロモーション大使、しがない物書き、時代遅れのシンガーソングライター。趣味は、冷蔵庫の残り物で編み出す、究極のエコ「残り物クッキング」。 <著書> 「カカポのてがみ(毎日新聞社刊)」「百人の天職一芸(風媒社刊)」「東海の天職一芸(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸2(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸3(ゆいぽおと刊)」「長良川鉄道ゆるり旅(ゆいぽおと刊)」

「「天職一芸~あの日のPoem 40」」への17件のフィードバック

  1. おはようございます。
    お風呂屋の女将さんのお話ですね。

    ブログを、読んでいたらお風呂屋さんに行きたくなりますね。昔ながらのお風呂屋さん(銭湯)良いなって思いました。

    久子さんの人生は、ドラマ見たいですね。(理容師さんを、目指していたのですがお風呂屋さんに嫁いだのですね。)

    ・私は、数年間お風呂屋さん(銭湯)に行っていません。理由は、自宅に風呂があるから行っていません。

    ・私は、大分前に、家族とお風呂屋さんに、行った事が有った事を、思い出しました。

    ・私は、お風呂屋(銭湯)と言えばTVでやっていた時間ですよを、連想しました。

    ・銭湯の原型は、蒸し風呂だったのですね。知りませんでした。勉強になりました。

    ・銭湯は、町の人の団欒の場だったのですね。 (交流の場所だったのですね。)

    ・昔は、自宅にお風呂が無かったので(家風呂が少ないので)銭湯で、お風呂に入ったのですね。 朝ドラのひよっこの時代背景ですね。

    ・例えば 家風呂が故障中とか家族が少ないのでお風呂屋さんでお風呂に入るのですね。

  2. 今や、我が家の周りを見渡してもお風呂屋さんはありませんねぇ。唯一、近くにあるのが、『湯〜とぴあ宝』。って、スーパー銭湯やないんかい⤴️
     (名古屋では、多分 有名)

    1. そうそう。ぼくも丸太町のアパート住まいだった、二十歳前とかは、千代田の銭湯に通ったものでした。
      東京暮らしの頃は、鎌田の醤油風呂で有名だった鎌田温泉が5.5畳のアパートの側で、よく遅掛けの仕舞い湯の頃に通ったものでした。
      懐かしい!

  3. 子供の頃は家にお風呂がある家は「ダイジン」って決まっていたもんです。
    我が家も勿論⤴銭湯!
    今は銭湯探す方が難しい時代
    なごやンさんが言われるように「スーパー銭湯」があちらこちらに・・
    銭湯はいいよねぇ、心底暖まって寒い冬の夜なんて家まで帰るのに湯冷めなんてしなかったもんなぁ~
    シャンプー、石鹸は1つしかないもんだから
    女湯に向かって「オカちゃん、シャンプーと石鹸、回して」って
    大声で叫んだもんでした。
    (もう忘れたけど、どうやって受け取ったんやろう)
    男の夢はズバリ!
    目のやり場に困る!
    そう・・・・だぁ!

    1. シャンプーや石鹸のやり取りは、男湯と女湯の仕切りの、見えそうで見えない高さの洗い場のタイルの壁の上で受け渡していたような記憶がありますが・・・。
      果たして・・・。
      遠い記憶はやっぱり不鮮明ですねぇ。

    2. 僕は学生時代に銭湯で住み込みで働いていたことがあります。働いていたといっても夜の11時半から掃除をするだけでしたが。部屋代・光熱費がタダで、一万円給料も貰っていました。僕達が出たあとは外国人しか入らなかったそうです。場所は京都でしたが一つフシギに思ったのは、女湯には腰掛が無かったコト。

      1. えええっ!
        女性の湯浴み客の方は、タイルの床にべったりお座りになられたのでしょうかねぇ?
        あら、不思議!

  4. 一生分のお伊勢詣りとは…
    お婆ちゃんの作戦大成功だったんですね
    ( ◠‿◠ )
    昔ながらの銭湯の体験は一度も無いけど五右衛門風呂の体験なら何度もありますよ。父親の実家(熊本) のお風呂が 五右衛門風呂だったので。底板の中心からずれないように 内側の鉄に触れないように 常に緊張しながら入ってました(笑)
    でも 身体の芯からあったまるんですよね〜。懐かしいなぁ〜 ( ◠‿◠ )

    1. ぼくも三重の田舎の、従兄妹のお姉ちゃんの家が五右衛門風呂で、お姉ちゃんが先に入って、底板を押さえてからぼくも入らせてもらったものです。
      意外と、釜の周りは熱くなかった記憶がありますけどねぇ。

  5. 私も嫁ぐ前日まで銭湯でしたよ ∵
    ※ ダイジン ※ じゃなかったから (笑)

    歓楽街が近い場所に2件あり、どちらも 夕方 早い時間に行くと 出勤前の夜の蝶 のお姉様方 お座敷に向かう前の 芸者さん 芸子さん達が 仲良くおしゃべりしてみえました。 素っぴんでも 華がありとても綺麗な方々が多かったような
    (#^.^#)
    私の家から近い銭湯は 2代目と3代目が 番台に上がってみえました
    早い時間帯は 2代目 おばあちゃま そして 夕飯時は3代目 息子さん (その当時 50代 かな? ) その後の時間帯はお嫁さん と ご家族 皆さんで 代わる代わる 番台に小さなテレビを置いて見てみえましたよ ❗
    ボイラー室は 2代目のおじいちゃまが頭にタオルを巻いて しっかり守って下さってました (*^.^*)

    番台マンさんみたいに お母さんと石鹸やシャンプーを共有していた男の子は 走って取りに来てました ❗
    キョロキョロしていたのかな 〰️ ?

    1. あっそおか!
      小学校の高学年の前だったら、まだユニセックスだから、平気で男湯と女湯を小さな扉を潜って行き来していましたねぇ。
      思い出しましたぁ!

  6. ぼくの行き付けの銭湯は昨年11月に閉湯なりました
    あのくそ暑い風呂に入りたい…
    しかし、発見しました!
    スーパー銭湯みたいですが
    キャナルリゾート
    名古屋なのにナトリウム泉源泉
    なんと、土日800円
    金山から無料バス

  7. ※ 本物さん が 仰る通り❗ ※

    子供の頃 女湯には 腰かける椅子は無かったから 正座か片膝を立てて座っていましたよ でも いつ頃だったか忘れましたが、プラスチックの小さな椅子を持って行ってましたよ
    大きく名前を書いて ( ^∀^)

    1. ぼくも小さな頃は、お母ちゃんと一緒に女湯に入ったことがありましたが、腰掛のことまではまったく記憶になかったですねぇ。
      そうか!男は女性と違って、あそこにフランクフルトやポークビッツと言った、「ふぐり」(陰嚢)がぶら下がっているからかぁ!
      それで腰掛に座って、直接床に「ふぐり」が当たらぬようになってたんでしょうかねぇ?

  8. 子どもの頃、岐阜市の町中に住んでいた時は、ずっと銭湯に行ってました。
    石鹸箱のふたで水を呑んだり、どこかの赤ちゃんが湯船でウンチしちゃったり、お湯で薄めるリンスが珍しかったり、脱衣所の壁に映画のポスター(けっこう色っぽいものも)が貼ってあったり、まあるく編んだ脱衣籠があったり、お母さんと一緒の同級生の男の子と会ったり、たまにフルーツ牛乳やマミーを飲ませてもらったり等々、懐かしく大らかな時代でしたね。

    1. 確かにそうでした。
      男湯ではもっぱら、裸男たちが腰にタオルを巻いて、片腕を腰に当て、牛乳をグビグビと喉を鳴らして飲んでいた光景がよみがえります。

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