今日の「天職人」は、三重県桑名市の、「髪結」。
色取り取りの 振り袖姿 雪化粧の 街を染め 二十歳を祝う 声が弾む 慣れぬ足取り 簪揺れる 春の寿ぎ 日本髪 今日を限りの 大和撫子
三重県桑名市の「美容室由季」へ創業者の水谷ユキさんを訪ねた。

「父の夢なぁ・・・いっぺんも見たことないなあ」と、二代目の恵美子さんがユキさんを見つめた。「この子がお腹ん中入ったのも知らんと、夫は戦地へ出征しましたんやわ」。
員弁出身のユキさんは、昭和17(1942)年、二十一歳の年に桑名で自動車修理業を営む政美さんの元へと嫁いだ。翌年には長女が誕生。小さな幸せが訪れた。
しかし昭和19(1944)年6月、一通の赤紙が届いた。政美さんは新妻と一歳半の娘に見送られ、汽車へと乗り込んだ。「あかん、あかん」。長女は父を乗せ走り去る汽車に向かって、覚えたての言葉を声の限り叫んだ。「そりゃあ、あかんはずや」と、誰かが見るに見かねて吐き捨てるように呟いた。周りで嗚咽が漏れた。すでにその時、ユキさんは恵美子さんを身籠っていたと言う。
翌年3月、恵美子さんを無事に出産し、戦地の夫に通知。翌月、まだ見ぬ次女の成長を願う便りが届けられた。空襲の激化で、一家は員弁のユキさんの実家に疎開。玉音放送が流れ、貧しいながらも安寧な時が訪れたかに見えた。しかしそれも束の間。夫の訃報が!政美さんは一度も次女の顔を見ることもなく、その胸に抱き上げる事も叶わず、祖国を護り戦地に散った。大黒柱を失い、義父の下でギリギリの生活が始まった。ある日、美容院に嫁いだ友人から「手に職を付けるしかないで」と、美容師の職を勧められた。ユキさんは娘二人を抱え、二十八歳の年に美容学院へ。しかし入学の時点で、三ヵ月の授業課程の内の一ヵ月が終了していた。残り二カ月、猛勉強を開始。学科はまだしも、実技など全くの素人。「『頭』がないで、実技の練習が出来やん」。ユキさんは、近所の奥さんたちに頼み込み、頭と髪の毛を借り、特訓に励んだ。「今もその人らは、開業以来のええお客さんなんさ」。その甲斐あって二カ月で国家試験を通過。「子供ら抱えて必死やったでなぁ」。ユキさんが懐かしむように笑った。

昭和26(1951)年、現在の美容室を開業。「私は技術が未熟やで、真心だけやわ。取り柄なんて」。謙虚なユキさんは、半世紀に渡り現役を続け、娘二人と孫までも立派な美容師に育て上げた。
「私ら姉妹は、別に不自由した覚えなんてないし・・・。ただ記念写真の中に、父親が写っとらなんだだけやったわ」。恵美子さんが目頭を押さえた。

人も羨む髪結いの亭主は、妻と娘二人の記憶の片隅で、今も確かに生き続けている。
このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。
おはようございます。髪結さんのお話ですね。
髪結さんが居ないと芸術さん,舞妓さんが、困りますね。
今は、髪結が、出来る所(美容院等)は、あっても少ないでしょうね。
ユキさん髪結さんの修行大変でしたね。人生色々な経験(疎開,旦那さんが戦死,出産,髪結さんの修行等)したのですね。ユキさんは、謙虚な所が良いですね。常連さんが、見えるでしょうね。
私がお世話になっている美容室は、ご年配の方が多いのですが、いつもお着物姿の100才過ぎの常連さんが、いらっしゃいますよ。すごいでしょう~。
皆さん、心地良いんでしょうね~。
やっぱり特に女性は、髪をカットしてもらったり、セットしてもらったり、紅を挿すだけでも若返るって言いますものねぇ。
やっぱり女性は強いですね!
って言うか この方の芯の強さや謙虚さや頑張りやあたたかさが周りを巻き込みずっと現役でこられたんでしょうね( ◠‿◠ )
本当に凄い時代…
二度とあってはならない時代…
時代に流されない自分でありたい。
そうですよね。
時代の最先端に居たいって、時代を追い駆けてばかりいては、いつまで経っても時代の後ろ姿を追うばかりですものねぇ。
ならば、その場に立ち止まって、巡り来ないかもしれない時代とやらを待ち続けて見るのもいいかも知れませんよね。
こうして苦労を重ねた皆様方のお蔭で今の幸せな日本があるんですねぇ!
忘れてはいけないと思います。
最近、どうも?真面目な投稿しか出来ない・・・
気分を変えて⤴
子供の頃、母親についてよくパーマネント屋さんへ行った覚えがあります。
だって、子供目線で「お客さんやスタッフの方」皆さん美熟女の方がいっぱいで
「ウキウキ⤴ワクワク⤴」目をギンギラに輝かせてました。
今、思えばあの頃から美熟女好きだったんだぁ~!
ええ~っ、その時代はパーマネントじゃなくって、「電髪(でんぱつ)」の時代じゃありませんか???