今日の「天職人」は、岐阜県下呂市の、「花街芸者」。
いで湯の里は雪化粧 穢れを知らぬ白無垢のよう あの日の駅前広場は 無事を祈る人で溢れた 声を限りの万歳に あなたは黙って右手を揚げた 咽び泣くよな汽笛を遺し 戻らぬ汽車は旅立った いで湯の里は今日も雪 本掛けがえりにあの日を偲ぶ 岸辺の白鷺伝えておくれ 遥かな海に召された人に 今も独りを通していると
下呂市の芸者置屋「住吉」の女将、山崎スミ子さんを訪ねた。
スミ子さんは、今(平成十五年一月十四日)も現役でお座敷に着く、この道六十六年の温泉芸者だ。

スミ子さんは新潟県長岡市で、大正14(1925)年に七人姉妹の長女として誕生。二二六事件勃発に揺れた昭和11(1936)年春、百五十円で下呂の花街へと、向こう十年間無給の「一生籍ぐるみ」で身売りされた。まだ十一歳のいたいけない少女だった。
置屋の養女とは言え、深夜まで寝ずに芸子の帰りを待ち、朝は五時起きでご飯を炊き上げ学校へと通う毎日。しかしわずか十一歳の娘にとって、竈の火加減は多難を極めた。焦がしたご飯をこっそり裏手の川へ流し、もう一度炊き直し学校へは遅刻ばかり。教師はスミ子さんの身の上を知り、「遅刻してでもいいから、ちゃんと毎日学校へは来るんやぞ」と励まし続けた。
舞妓としての初お座付(ざつき)は、端唄「紅葉の橋」。十六歳になった舞妓は、酔客を前に可憐に舞った。

戦局は日毎悪化の一途をたどり、昭和18(1943)東条内閣は学徒出陣を決定。その頃、出征を間近に控え、地元の若者三人が芸者を上げた。一人の若者がスミ子さんに入れ揚げ、復員したら所帯を持ちたいと求婚。
しかし出征の日は容赦なく訪れた。若者は舞妓姿のスミ子さんの写真を胸に、不慣れな別れの敬礼を手向けた。それが二人の今生の別れに!

「あんな時代やったで、手もよう握らんと・・・。遥かな海に散ってしまった」スミ子さんは瞳を潤ませた。還らぬ男の菩提を未だ弔い続ける。「私みたいなオヘチャを、嫁にと言ってくれたんやで。幸せなこっちゃ」。スミ子さんは目頭をこっそり押さえた。貧しき時代故に流れ着いた下呂の花街。芸一筋に激動の昭和を生き抜いた老芸者。その顔は、穏やかな慈愛に満ちた観音菩薩が、まるで舞い降りたのかと見紛う程だった。
*「本掛けがえり」は、干支の一回り六十年の意。
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綺麗な方ですね!見惚れてしまいます。
この方の人生 まるでドラマさながらですよね。
遥かな海に散ってしまった方への想いを胸に芸一筋。生半可な歩みじゃなかったんじゃないでしょうか。
でも それらが芸や舞に現れて ずっと現役でこられたのかなぁ〜と。
昔々 芸者さんに憧れた時期がありました。何故か舞妓さんではなく芸者さんに。
一度 舞う姿を目の前で見てみたいですね( ◠‿◠ )
人には人それぞれの宿命ってのがあるんでしょうね。
今生で逃げたりせず、向き合い続けなければならない、そんな試練が。
どの人生が良くて、どの人生が悪いとかではなく、一人に一つの今生における定めのような。
時代の宿命とはいえ戦局時の下呂温泉での感動的なお話、胸に迫る思いです。郡上八幡の街でもかつては花街があり芸者さんがみえて私共のホテルにもよく来て頂きました。近年は時代の流れとはいえ八幡でも酌婦さんさえも僅かな人数となってしまいました。オカダさんが取材された貴重なお話、是非後世にも語り継いで頂きたいものです。
温泉街と花街は、切っても切れないものですものね。
ぼくの稚拙な取材記事に過分なお言葉、ただただ痛み入ります。
こんにちは。下呂に、芸者さんが見えたのですね。知りませんでした。
山崎スミ子さん 66年同じ道をやっている事は、すごいですね。
綺麗な方ですね。山崎さんの人生は、ドラマ見たいですね。
戦争がなければ、山崎さんは、結婚して旦那さんと幸せな人生だったのでしょうね。
「花街へ身売り」映画ドラマの中だけと思ったら
本当にそんな事が遠い昔には現実にあったんですねぇ!
11歳の少女スミ子さんの心情は想像がつきません。
昭和30年生まれの私はつくづく良い時代に生まれて来たと思います。
これからの世の中自然災害、細菌でどうなるやら?
悔いのない人生を送りたいもんです。
皆さんも今日出来る事は今日しましょう!
明日でもいいやぁ⤴なんて言わずに・・・
あかぁ~~ん!らしくない投稿になってしまった。
でも確かに、仰る通り!
さすが、年の功。
確実な明日は、誰も約束してはくれませんものね。