今日の「天職人」は、名古屋市中川区の、「提琴師(ていきんし)」。
バスを待つ雨の日がすきだった 坂の途中の洋館見上げ ぼくは窓越しに君を探した 傘を打つ雨音に バジイオリンの甘い調べが 重なった 君の影が揺れるたび バスを待つ雨の日が好きだった そしてぼくは君が・・・
明治20(1887)年創業の鈴木バイオリン製造、四代目の鈴木隆さんと奥様の香里さんを訪ねた。
初代の鈴木政吉は尾張藩士で、維新後に三味線製造を手掛けた、鈴木正春の長男とし安政6(1859)年に誕生。十七歳の年から三味線製造を学ぶが、急速な西洋化の波に先行きを案じ、唱歌の教員を目指し西洋音楽理論を学んだ。そこで学友が手にしていたバイオリンに釘付けに!政吉は貴重なバイオリンを借り受け、一晩で全ての部材を採寸し模写。そのまま寝食も忘れ、憑りつかれたように試作づくりに励んだ。

それから一週間。見よう見真似で、日本初のバイオリンが完成。日本のアントニオ・ストラディバリの誕生だった。その後、本格的な生産を開始。
しかし大正3(1914)年、第一次世界大戦が勃発。ヨーロッパが戦禍にまみれた。ところが皮肉にもこの戦争が、鈴木バイオリンを世界のスズキに押し上げることに。ヨーロッパの製造が停止し、飛躍的に海外からの受注が増加。
だが政吉は、素直に喜べなかった。「いつか世界の名器を越えたい」が口癖だったと言う政吉の本意は、生涯一職人にあった。
現当主の隆さんは、先代の次女であった香里さんと、学生時代からの交際を実らせ鈴木家に婿入りした。隆さんは結婚一ヵ月前に入社し、一筋縄ではいかない職人の世界へ飛び込んだ。そして六年間の修業を経て、バイオリン作りを習得した。

今後の目標はと、隆さんに問うた。すると「政吉が遺したバイオリン作りへの職人魂を、守り抜くのが我々の務めですから、事業を広げる考えなど毛頭ありません」と、毅然と言い放った。
政吉の魂は曾孫に宿り、欲を捨て名器作りに励もうとする孫娘の婿を、きっと頼もし気に眺めていることだろう。
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三味線からバイオリンに。
見よう見真似でバイオリンを完成させるなんて…
一体 何に惹かれたんだろう?
問うても その答えは返って来ないのかも。
本人にしかわからない 言葉にならないものが心の奥底にあるのかも?
な〜んて ( ◠‿◠ )
現当主の方も きっと同じなんじゃないでしょうか⁈
確かに仰る通り!
とにかくクレモナに負けない名器が、この地から世界に羽ばたいてゆくことが、何よりの楽しみです!
バイオリニストには、知る人ぞ知る、名器なんでいしょうね!
やはり、国産が一番!
安心出来ます。
オカダさんの愛用ギターも世界の「タカミネギター」
私も大の「K.YAIRIギター」ファン
ズッ~~と!大切に使って行きたいと思っています。
因みに「ストラディバリウス」ってウン⤴億円するんでしょう!
そんなお金あったら誰でも気軽に演奏出来る「ライブハウス」作るわぁ~~!
こけら落としは、勿論!オカダさんに宜しくお願いします。
ライブハウス期待してますよ!
そう言えば、入院中だったぼくのK.YAIRIも、無事に退院して手元に戻って来ました!
今晩は。「提琴師(ていきんし)」さんが見えたのですね。私は、知りませんでした。勉強になりました。
バイオリン製造の話分かりますいですね。大正3年に日本初のバイオリンが完成したのですね。
三味線からバイオリンに変わったのですね。西洋化した影響があったのですね。バイオリン綺麗ですね。お値段も高いですね。有名なバイオリンは、億越えですね。
どんな音色なんでしょうね~。
目の前で聴いてみたいです。
ギター退院されて良かったですね。
大切な相棒、分身ですもんね。
大切な相棒のギターとは、かれこれ44~45年くらいの付き合いですから!
唄って歩いていた想い出のアルバムそのものです。