今日の「天職人」は、愛知県甚目寺町の、「畳刺(たたみざし)職人」。
春も宵 萱津堤(かやづづつみ)に 朧月 波陀米(はだめ)の里の 藤娘 お初穂に 畑の実りと 藻塩添え 藪の香物 阿波手杜(あわでもり)
愛知県甚目寺町で江戸末期から続く畳職、伊藤畳店四代目の伊藤あや子さんと、あや子さんの孫で六代目を継いだ秀さんを訪ねた。

あや子さんは、昭和25(1950)年、故四代目に嫁いだ。「戦後は喰うが先。畳なんてもっと後だわ」。あや子さんは、畑作で夫を支えた。昭和33(1958)年、次女を出産。その直後、亡き夫が胸を患い半年間の闘病を余儀なくされた。あや子さんは三代目の義父に付き、いろはを学び急場を凌いだ。
「リヤカーの鉄製の轅(ながえ)に乳飲み子を括り付けて、そんであんたぁ、荷台に畳六枚も載せるんだて。一枚二十七キロのを!百六十キロも積んで萱津橋越えて、枇杷島まで運ぶんだで」。あや子さんは、当時を振り返った。「赤子は乳欲しいって泣き出すし、坂の途中で立ち往生してまうし。そんでもあの頃は、誰かかんかが助けてくれよったでなぁ」。
翌年、伊勢湾台風が襲来。一家は災害復興の特需に追われ倉庫を新築。しかし二年後、隣の火災の貰い火で全焼。
名古屋市中区の畳店の三男坊を、長女の婿として五代目に迎えた。再び一家に明るさが兆した。ところがそれも束の間。秀さんが小学六年の時、五代目は四十一歳の若さでこの世を去った。四代目は「まっと出来の悪い子でええで、なんで長生きせんかった!」と号泣した。自慢の婿だったのだ。
秀さんが大学四年になるのを待っていたかのように、四代目も召された。「後を頼むでなぁ、秀くん」の一言だけを遺して。卒業と同時に秀さんは、京都の畳職の下で一年間修業を積んだ。
「父が生きていたら、違う世界へ進んだでしょう」と、秀さんは父の形見の畳庖丁を握り締めた。

職人に道具の貸し借りは無用。昔は、畳庖丁も棺に入れたそうだ。秀さんは修業を切り上げ、あや子さんを案じ甚目寺へと戻った。「ぼくにとっては、親そのものですから」。秀さんは爽やかな笑顔を見せ、畳表の髭を裁った。

上って下る、吉凶対なす人の道・・・。「幸あれ」老婆と孫の畳算(たたみざん)。
*「畳刺し」は、畳職の別称。「波陀米」は、甚目寺町の旧村名。「阿波手杜」は、萱津神社周辺の森の名称。「畳算」は、占いの一種。簪(かんざし)を畳に落とし、畳の目の数で吉凶を占った。
秀さんは、とてもお婆ちゃん思いの、今時珍しい爽やかな若職人でした。
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おはようございます。畳刺(たたみざし)職人さんの話ですね。
秀さんは、お婆ちゃん思いの爽やかな職人さんですね。
最近 畳は、あまり見ませんね。
道具の貸し借りも無用だったのですね。知りませんでした。勉強になりました。(棺に入れてしまうのだから)
畳が、見直されると良いですね。
六代目を継ぐお孫さん
なかなか出来ることではないですよ。
きっと小さい頃から お婆ちゃんの働く姿や家族の絆をしっかり見て感じてきたからでしょうね ( ◠‿◠ )
お二人が一緒に働いてる風景…
畳同様あったかいです。
ねっ!なんだかイグサの匂いを感じるでしょ!
小学校の同級生の家も畳屋さんをしていました。
家に遊びに行った時に、おじさんの畳を作る手さばきを飽きもせず見ていました。
懐かしいですね。
畳屋さんのイグサの匂いって、日本人には堪りませんよね。