「昭和Nostalgia」(468)

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今日は国民の祝日の「海の日」ですねぇ、って言っても、もっとも昭和半ば生まれのオヤジにゃあ、ちとピ~ンと来ないものです。

そもそも今日の海の日は、平成8(1996)年に施行されたものだったのが、平成15(2003)年からハッピーマンデー制に変更され、7月の第3月曜日が「海の日」とされるようになったってぇわけですから、昭和生まれのオヤジにとっちゃあ馴染みがないのも頷けます。

ぼくが子どもの頃は、祝日になると朝一番でお父ちゃんが、国旗を玄関先に掲揚しておりました。

写真は参考

もちろんご近所のあっちもこっちも、日の丸だらけ!

写真は参考

ところが最近じゃあ、そんな光景全くと言っていいほど、見かけられなくなってしまいました。

そもそも調べてみると、「海の日」ってぇのは、昭和16(1941)年に制定された、「海の記念日」が元だとか。

待てよ!

昭和16年と言えば、12月8日に真珠湾攻撃と言う暴挙の末、太平洋戦争に突入していった年でもありますよねぇ。

でもその大元となる「海の記念日」ってぇのは、明治9(1876)年に明治天皇が東北地方に巡幸された際、灯台視察船「明治丸」で航海 し、同年7月20日に横浜港に無事入港されたことを記念し、制定された日なんだそうです。

それを昭和16年に当時の逓信大臣であった村田省蔵が提唱し、記念日の一つとなったとか。

何でも国土交通省によれば、「世界の国々の中で『海の日』を国民の祝日としている国は唯一日本だけ」なんだとか!

さすが四方を海に取り囲まれた国だけありますねぇ!

写真は参考

じゃあ何十年ぶりかで、ベランダにでも国旗を掲げるかぁ!って、組み立て式の国旗掲揚ポールセットを、今さらネットで取り寄せても、もう間に合わないやぁ!


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「昭和Nostalgia」(467)

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小学生だった頃は、夏休みがやって来るのを毎日指折り数えたものでした。

何よりの愉しみは、虫取りに草野球。

そして冷蔵庫の製氷器でお母ちゃんが作ってくれた、シャービックや丼鉢入りのプリンにスイカと、相場は決まったものでもありました。

写真は参考「家のは、こんなお洒落なモノじゃありませんでしたけど・・・」

今ほど豊かじゃなかった昭和の半ばは、それだけであっても十分に幸せを感じられた夏休みでもありました。

ある時、いつものように冷蔵庫を開け物色すると、ガラスの皿の上でキラキラと輝くゼリーが鎮座しているじゃないですか!

写真は参考

こいつぁーいただきだぁ!ってなもんで、さっそく卓袱台に持って行ってペロリと平らげると、玄関でお母ちゃんの声。

「あらぁーお久しぶり。よう来てくれたわねぇ。暑かったでしょ。さぁ上がって上がって。扇風機に当たってる間に、冷たいモノ用意するからねぇ」

ぼくは大慌てでゼリーがのっていたガラスの皿を、そそくさと流し台に持って行って証拠隠滅を図ろうとしたにも関らず、運悪くお母ちゃんと出会い頭にバッタリ!

お母ちゃんの目が、ガラスの皿を紛れも無く捉えておりました。

写真は参考

「お客さん用に冷やしといたゼリー、食ってまったんかぁ!」と、それはそれは恐ろしい憤怒の形相で射すくめられ、さっきまで暑くて暑くてどーしよーも無かったくせに、一瞬にして寒くもないのに凍り付くほどの身震いが、ぼくに襲って来たものでした。

あ~あっ!


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「昭和Nostalgia」(466)

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子どもの頃の遠足のお菓子として、このチューレットを買った事がありました。

チューインガムのようでもあり、キャラメルのようでもあるような、とにかく不思議な食感で、最後はチューインガムのように味の無くなったガムが残るわけでもなく、キャラメルのように姿形も消え果ててしまい、大いに驚かされたものでした。

子どもの頃の、その日暮らしの様な、1日10円玉一個のお小遣いじゃとても手が出せず、遠足の日や盆暮れの特別な日にしか、買い求められなかった気がいたします。

写真は参考

それもそのはず、そもそもチューレットの宣伝文句は、「食べられるガム」が売りだったようです!

それを知っていて買ったのか、それを知らずたまたま買ったチューレットを初めて口にし、溶けて消え果てる、ガムのようなキャラメルのような物体に、度肝を抜かれたのでしょう!

これまた記憶の彼方でしかありません。

このチューレットは、昭和31(1956)年に発売が開始されたそうで、「子供が飲み込んでしまっても大丈夫なチューインガム」をとの、消費者の声に応じて開発された、「チューイングソフトキャンディ」って代物だったようです。

ガムとキャラメルが混ざったような味わいが、当時の子どもたちの人気の的となったとか。

写真は参考

大人になってから、あのチューレットをもう一度食べて見たくなって、菓子屋を探し回った事がありました。

でももう、そんな頃には、森永と言うメーカー名も、ましてや「チューレット」なる商品名も覚えてなど無く、結局探し当てられずに諦め果てたものでした。

そしてネットであれこれ検索している内に、それが「森永チューレット」だったとやっと探し当て、それとなく読み進んでみると、昭和50(1975)年に初代チューレットの内容や、包装がリニューアルされ、現在のハイチュウへ取って代わった事を知りました。

写真は参考

だからいくら探したって、昔買った当時の記憶の残像に残っていた、そんなチューインガムのようでもあり、キャラメルのようでもあった「チューレット」を探し出せなかったってぇ事になります。

とは言え、今さらながら昔を思い出し、「ハイチュウ」でも買ってみるかってぇ気にはなりそうにありません。

なんせお洒落に生まれ変わった「ハイチュウ」ってぇ奴に、昭和半ば生まれのオヤジにゃあ、どうにもこーにも馴染めなくっていけません!


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「昭和Nostalgia」(465)

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子どもの頃、どなたがお持ちくださったのか、まったく記憶にありませんが、ある日こんなウイスキーボンボンが、卓袱台の上に載っていました。

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「ねぇ、お母ちゃん?これなに?」とぼく。するとお母ちゃんは、「チョコレートみたいやで、食べてええよ」って。

やったぁとばかりに、金紙を剥がしてチョコレートの塊り?をパクリ!

すると中から液体が口の中に、ドバァ~ッと広がって、口の中全体がカァ~ッと熱くなり、呑み込むと今度は喉がこれまたカァ~ッ!

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ところがどっこい、その初めて体験した刺激的な感覚の虜となって仕舞い、もう一つもう一つと、お母ちゃんの目を盗んじゃあパクリパクリ!

その内に、心臓の鼓動がドキドキドキドキ!

「どうしたんや?顔が真っ赤で目がトロ~ンとしとるで!熱でも出たんやないか?」とお母ちゃんがぼくの額に手を当てたものでした。

そのままぼくは、布団に寝かされグ~スカピー!

あんなに美味しくって悩ましいチョコレートが、ウイスキーボンボンだと知ったのは、それから随分と時を経てからだったような?

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今もスーパーのお菓子売り場で、バッカスとかを見かけると、そんな子どもの頃が思い出されてなりません。


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「昭和Nostalgia」(464)

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出典::モリナガデジタルミュージアム

チョコレートの歴史を、モリナガデジタルミュージアムさんのHPを拝見しておりますと、こんな不思議なチョコレートが昭和5(1930)年に発売されていたとありました。

その名もズバリ「森永ハーモニカチョコレート」!

ぼくはてっきり、チョコの甘い味を愉しみながら、チョコで出来たハーモニカで、演奏を奏でられる、そんな画期的なチョコレートなんだと、勝手に早合点してしまいました。

参考

ところがそうではなく、包装紙30枚を送ると、「パール印ハーモニカ」が、そしてさらに100枚送ると「バナナ印ハーモニカ」がもらえると言う、販促キャンペーンの付いた商品だったようで、当時の価格は10銭だったそうです。

当時と今の貨幣価値を調べてみると、昭和5年当時はラーメンが一杯10銭程度だったと記録があり、かなり高額なチョコレートであったことになります。

なかなか幼い子どものお小遣いでは、とても手が出なかった気がいたします。

そんな高価なハーモニカチョコレートの販売促進として取り入れられたのが、その名の通りハーモニカであったわけですから、当時の多くの方がハーモニカを欲しがっていた、そんな時代であったのかも知れません。

写真は参考

そう言えば、家のお父ちゃんも、休みの日なんかにハーモニカを奏でてくれたものでした。

とは言え、お父ちゃんの十八番は、当時の流行歌なんかじゃなくって、童謡か軍歌と決まっていたものです。

お父ちゃんは招集され、中国戦線で敵の弾を潜り抜け、命からがら復員してまいりました。

束の間の青春を、あの忌まわしき戦争の犠牲にさせられたと言うのに、ハーモニカで奏でる曲が軍歌とは!

お父ちゃんは、あの忌まわしき戦争を、心から憎んだにせよ、戦地で命を散らした戦友と共に歌った軍歌は別物で、戦後の平和になった世でハーモニカで奏でる軍歌は、戦友への鎮魂歌であったのかも知れません。

どうかどうか、人が人を殺める戦争が、この世界から消え果ますように!


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「昭和Nostalgia」(463)

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これ、これっ!

昭和半ばの甘いモノが、何よりのご馳走だったぼくらは、後の世に体に有害とされるような、人工甘味料を日々大喜びで口にしていたものでした。

昭和31(1956)年に甘味料として食品添加物に指定されながら、 安全性に疑問が生じたとのことで、昭和44(1969)年に食品添加物の指定から削除されたそうです。

いやはや、そんなこととは露知らず、昭和半ばの子どもたちは、美味しい美味しいとその甘さにすっかり魅了されたものでした。

写真は参考

こんな粉末ジュースだったり

写真は参考

こんな飴玉だったり!

参考

中にゃあ当時、人工甘味料を推奨する、こんな広告まであったようです。

写真は参考

とは言え昭和半ばの子どもたちは、そんなこたぁお構いなしで、立派に成長したものです。

写真は参考

ところが一転、昭和44(1969)年に食品添加物の指定から削除されると、たちまちこんな広告が登場するようになったんだとか。

でも、どんなに思い返そうとしても、チクロやサッカリンの人工甘味料の、至福の甘い味わいが一向に、もうさっぱり思い出せないんだからから、ほとほと自分の曖昧な記憶が嫌んなっちゃいますねぇ。


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「飛騨びと達の、SOYAな SOYAさ」がJOYSOUNDのカラオケに登場!」

飛騨市立古川中学校3年生の、2024年マイプロジェクトメンバーが、この曲の動画を制作してくださいました。
飛騨市の四季、観光スポット、祭りと、飛騨びとたちの暮らしぶりがテンコ盛りでご覧いただけます。


「飛騨びと達の、SOYAな SOYAさ」の歌入りは、こちらをご覧ください!
https://youtu.be/3CeTEMdXC7I

ぜひ皆様もJOYSOUNDで口ずさんでください!
著作権料の一部は、飛騨市さんに寄付させていただきます!

https://social.kicks.video/v1/re/kr/80152/joysound_coupon?utm_source=vk&utm_medium=sw&utm_campaign=share&utm_term=80152

「昭和Nostalgia」(462)

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こんなお洒落なフィンガーチョコに、子どもの頃のぼくなんて、憧れたものでしたねぇ。

銀紙にくるまれた、それこそ貴婦人の華奢な、人差し指くらいの大きさのビスケットが、チョコレートでコーティングされたモノ!

自分のその日のお小遣いであった、10円じゃあとても買えなかったと思いますから、きっとお母ちゃんの遣いで、ご近所まで回覧板でも持って行き、そのお駄賃として頂いたような気がいたします。

写真は参考

恐らくそれがぼくにとって、フィンガーチョコとの初めての出逢いであったんでしょう。

奇麗な銀紙にくるまれた、お駄賃として頂いたモノが、フィンガーチョコであるとは露知らず、後で家に帰ってから食べようとでも思い、半ズボンのポケットに仕舞い込んだのが運の尽き!

そのまま原っぱへ向かい、腕白共に混ざって、日が傾くまで白球を追い駆け、ポケットに入れた大切なフィンガーチョコの事などすっかり忘れ、駆けずり回っちゃったんでしょう。

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家に帰って気が付いて、ポケットから頂き物のフィンガーチョコを取り出して見てビックリ!

銀紙の包装紙は所々破れ、フィンガーチョコも真っ二つに折れ、コーティングされていたチョコレートが溶け出して、もうネッチョネチョ!

それでも悔しくって、破れた銀紙にネッチョリと付着したチョコを舐め、真っ二つに折れてしまった中身のビスケットを、夢中で頬張ったものです。

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はて、そのフィンガーチョコとやらは、いつの世から存在していたのか気になって調べてみると、森永から大正6(1917)年に発売されたとの事。

そして戦時中は物資の統制とかもあり、一時発売が中止されていたようですが、戦後の昭和28(1953)年にやっと再び発売が始まったんだそうです。

そう言えば、フィンガーチョコの銀紙を集め、それを丸めてピンポン玉くらいの、銀色のボールを作ったような?

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って、それはぼくではなく、近所の誰かが作ったんだったか?

そんなどーでもいいような記憶は、すっかり闇の中に溶け出してしまっているようです!

まぁ、そんな事いちいち覚えてたって、それが何か世のため人のためになるわけでも無いかぁ!


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「昭和Nostalgia」(461)

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こんな卓上ピアノを見かけると、ついつい思い出してしまう、子どもの頃の1シーンがあります。

ちょうどその日も、原っぱで仲間たちと草野球に夢中になっていると、雲行きが急に怪しくなって夕立に!

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そう言えば最近は、「夕立」やら「入道雲」なんて、とんと聞かなくなってしまい、やおら「ゲリラ豪雨」とかって、何とも風情も感じられない、危険な名称で呼ばれるようになってしまったものです。

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草野球を早々に切り上げ、原っぱから一番近い、同い年の「フミ」ちゃん家の軒先で雨宿りをしておりました。

すると玄関が開き、「フミ」ちゃんが顔を覗かせ、良かったら上がって来て、一緒に遊ぼうと。

「フミ」ちゃん家の茶の間には、こんな赤い卓上ピアノが置かれ、それをおもむろに弾き始めたのです。

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はてさて一体どんな曲だったのかは思い出せそうにありませんが、やがてブリキ製の鉄琴を模したオモチャを使って、「フミ」ちゃんのピアノに合わせて、一緒に演奏する羽目に!

って言ったって、鉄琴なんて一度も叩いた試しも無く、「フミ」ちゃんのピアノ演奏の傍らで、鉄琴擬きを叩いては不協和音を奏でたものでした。

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内心では、こんな合奏遊びよりも、早く夕立が上がってくれて、もう一度草野球がやりたいばかりでしょうがなかった、そんな記憶が大半を占めていた気がします。

やっぱり女子は男子とは異なり、遊び一つとっても、文化度が高くって、粗野な男坊主に取っちゃあ、居心地があんまり良くなかったのかも知れません。


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「昭和Nostalgia」(460)

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子どもの頃を過ごした町内にも、こんな火の見櫓がありました。

もう最近街中では、とんと見かけなくなってしまったものです。

二階建て家屋の2.5倍くらい、5階建てビルに相当する高さだったんでしょうか?

仮に今でも火の見櫓があったにせよ、高層ビルや高層マンションに取り囲まれちゃあ、その役割も果たせず仕舞いかも知れません。

子どもの頃は、火の見櫓の下から、見張り台部分を仰ぎ見たものです。

腕白坊主の中には、見張り台まで登ろうとする、血気盛んな輩もおりましたですねぇ。

高所恐怖症のヘタレなぼくなんて、火の見櫓の下から見張り台を眺めるだけで、既に足がすくんでしまうほどでした。

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江戸時代は、時代劇で描かれるように、町火消しが中心で、町ごとに番屋が設置され、番太郎なる番人が常駐し、24時間態勢で警戒にあったとか。

この番太郎が町全体を見渡せるよう、番屋に櫓を組み、高いところに見張台を置いたことから、火の見櫓と呼ばれたんだそうです。

まあ俗に花のお江戸は、「火事と喧嘩は江戸の花」なんて言われるほど、しょっちゅう火事や喧嘩が頻発していたって事なんでしょうねぇ。

そして火の見櫓の上部には、半鐘が設置され、火災を発見した番太郎が警鐘を鳴らし、火消を招集すると同時に、町人に火災の発生を知らせる役割も担っていたんだとか。

写真は参考

江戸を皮切りに火消体制が整備され、火の見櫓は昭和の初期になると、全国ほぼ全ての地域に広がったそうです。

その名残か、各地には消防団ってぇのが、今でも残って活動されておりますものねぇ。

ぼくの通う床屋のご主人も、消防団員として、地域の活動に力を入れられております。

そうした地域の方々のご尽力があって、火災から地域を日々守ってくださっているんですねぇ。

ご苦労様でございます!


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