「昭和Nostalgia」(564)

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こんな昔ながらの板チョコとは一味違う、不二家のメロディを覚えておいでですか?

なんと昭和40(1965)年に発売されたと言いますから、ぼくがまだ小学2年生の時代です。

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片手で食べることができる一口サイズで、当時は50円だったそうですから、1日10円のぼくのお小遣いでは、とてもとても手を出せない、高級なチョコだったと記憶しています。

おそらく小学校の高学年になったくらいの頃、遠足のお菓子として持たせてもらったのが、最初のメロディチョコだったかも知れません。

天地真理さんがCMに出ていた頃は、たしか中学2年になった頃だったでしょうか?

「あなたのお口にメロディ~♪フジヤ~メロディ~♪」のCMソングがバックに流れ、真理ちゃんがメロディを美味しそうに食べるとCMも大変人気でしたが、ぼく的には麻丘めぐみさんの方に、夢中だったような気がします。

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中でも人気は、赤いパッケージのミルク味だったようです。


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「昭和Nostalgia」(563)

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そう言えば、昭和の終盤には、こんな新聞の自販機ってぇのもございましたですねぇ。

ぼくも2~3度買った記憶があります。

でももう今じゃ、新聞の自販機なんてぇのは元より、新聞自体を皆さん読まれなくなりましたものねぇ。

せいぜいお手軽なネットで、ニュースの大見出しを眺める程度で!

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そう言えば、こんな乾電池の自販機ってぇのも、結構あっちこっちで見かけたものでしたが、これまたもうそんじょそこらじゃ見かけなくなってしまいましたですねぇ。

昔は今ほどコンビニとかも少なかく、乾電池を買おうとすると町の電気屋さんとか、荒物屋さんなんかでしか手に入りにくく、プラモデル全盛期の子どもらが、モーターを動かしたい一心で、こんな乾電池の自販機を頼ったものだったんでしょうか?

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ところでコロナ渦以降、色んな無人販売用の自販機が登場しましたが、こんな和菓子の自販機もあるんだとか!

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それと昭和半ばの頃から、こんなガチャもあったんですねぇ。

ぼくが足蹴く通った一文菓子屋では、ついぞ見かけなかった気がいたします。


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「昭和Nostalgia」(562)

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ぼくが中学に上がってからの事ですが、こんな洒落た色鉛筆を持っている女子がおりました。

さすがに中学生ともなると、近所の一文菓子屋へは通うことも無くなり、中学の正門前にあった文房具屋へ立ち寄っては、くじ引き代わりに文具やら小物なんぞを買うでもなく眺めながら、瓶入りのファンタやコーラをラッパ飲みしながら、友と悪戯に放課後の時間を費やしたものです。

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実用的で武骨な文具売り場の横には、こんな小洒落た色鉛筆やスヌーピーなんぞが描かれた小物類のファンシーグッズが並び、女子が周辺にたむろして、ワイワイガヤガヤやっていたのを傍目に眺めていたりしましたねぇ。

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この小洒落た色鉛筆は、コクヨから昭和47(1972)年に「テンシル」として発売されたものだとか。

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こんな芯だけ取り換えるタイプの鉛筆は、先っちょの構造から「ロケット鉛筆」という名でも親しまれたように記憶しております。

皆様もお使いになられましたか?


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「昭和Nostalgia」(561)

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東京新宿の「しょんべん横丁」をご存知でしょうか?

ぼくは東京のプロダクションに居候していた22歳頃だったでしょうか、一度だけこの「しょんべん横丁」で苦い酒を飲んだことがありました。

当時のプロダクションからぼくは「磯 狼(イソ ロウ)」なる芸名を拝領し、オーディションに通わせてもらったりしていたものです。

既に勘所の良い方はお気付きかも知れませんが、芸名「磯 狼」なる由来は、プロダクションの「居候」だったと言う、なんとも安直なモノでありました。

そしてとあるオーディションの最終選考会へと進んだまでは良いものの、プロダクションの期待とは裏腹に残念ながら落選。

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その後、プロダクションの専務様が、落胆するぼくを労って下さったのが、この「しょんべん横丁」のどこかにあった焼鳥屋さんだったと記憶しています。

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ところが自分の不甲斐なさばかりが募り、何を食べながら何を呑ませていただいたのやら、さっぱり記憶にありません。

この昔の俗称「しょんべん横丁」は、新宿西口にある商店街で、現在は「思い出横丁」と呼ばれているようです。

参考

焦土と化した新宿西口界隈に、昭和21(1946)年頃から焼け野原の跡に闇市が立ち、後に酔っぱらったサラリーマンが、路上で立ち小便をしたことから、「しょんべん横丁」と呼ばれた由来とか。

果たしてぼくがお邪魔した時は、しょんべん臭かったのか?そんな記憶すら残っていないようです。


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「昭和Nostalgia」(560)

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ぼくの友人の家には、こんな「たまごの自動販売機」とやらが置かれていたそうです。

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ぼくは見たことがありませんでしたが、産みたての新鮮な卵の無人販売機なら、24時間いつでも卵を切らしていても困る事も無く、卵料理を作れちゃうんですから、今ほど至る所にコンビニがまだ存在していなかった昭和終盤の時代にゃあ、とっても重宝したに違いありませんよねぇ。

ぼくも友人の家の、たまごの自販機とやらを一度見てみたいと思いながら、そのチャンスを逸したまま、ついにいつの日にやら、友人の家の自販機は姿を消したとか。

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すこぶる卵好きのぼくの近所にあったなら、その都度ぼくはお世話になっていた事でしょう。

「卵かけご飯」に「目玉焼き」、「スクランブルエッグ」に「オムレツ」「ゆで卵」と、卵なしの食卓など考えられない程の卵好きですから、卵の自販機がご近所にあったなら、ぼくなんてきっと上客の一人であったに違いないと思います。


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「昭和Nostalgia」(559)

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子どもの頃、学校から帰って玄関を開け、耳をそばだてて聞こえてくる音で、一喜一憂したものです。

その時点で既にお母ちゃんが内職の手を休め、台所に立ち何やら夕餉の下準備を始めていようものなら、今日はどんな手の込んだご馳走やらと、期待に大きく胸を膨らませたりしました。

「ただいま~っ!」と言いながら台所のお母ちゃんを盗み見ると、擂鉢を片手で押さえ擂粉木で何かを潰していると、いよいよ大好物のお母ちゃんのコロッケに相違ないと、確信したものです。

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台所中に蒸したジャガイモの香りが漂い、夕飯が待ちどうしくってなりませんでした。

でもこれがドッコイ!

確かにお母ちゃんのコロッケは、頬っぺたが落っこちるほど美味しかったのですが!

でもそれは、せめてせいぜい2~3個ならばの話し!

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ところが夕餉の卓袱台の中央には、大皿に山のように盛られたコロッケが!

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さすがに子どもの頃から、揚げ物好きだったぼくでも、コロッケの二百三高地を仰ぎ見た瞬間に、たちまち戦意喪失したものでした。

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しかし今にして思うと、当時のわが家には、マッシャーなどと言う、ハイカラな調理器具など無く、お母ちゃんは擂鉢擂粉木を代用品として使っていたのだと、改めてお母ちゃんの苦労が偲ばれてなりません。

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しかもあの、ラードで揚げた、挽き肉何て数えるほどの粒しか入ってなかったお母ちゃんのコロッケでしたが、あのズングリムックリとした俵型のコロッケが妙に懐かしく、あの美味しさをあてに、キリングッドエールをプッハァ~ッと傾けたいものです。

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「昭和Nostalgia」(558)

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この「新聞少年」と言う曲をご存知ですか?

ぼくが小学2年になった年だったか、昭和40(1965)年に山田太郎さんが唄って大ヒットを記録した、昭和の名曲です。

前年に東京五輪が開催されたとはいえ、今よりももっともっと貧しい時代でもあり、小学生や中学生が、新聞配達のアルバイトをして、家計を支えることが、ある意味孝行息子や孝行娘なんて褒めちぎられ、美化されていたような時代でもあったものです。

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それが冒頭の歌詞「僕のアダナを知ってるかい? 朝刊太郎というんだぜ」と言うフレーズに象徴されていたような気がします。

ぼくの同級生の中にも、新聞少年や牛乳配達をする牛乳少年なんぞがおりました。

ぼくは残念ながら、憧れたものの新聞配達はさせてもらえませんでしたが、裏の家のジュン君家が雪印の牛乳販売店だったこともあり、夏休にほんの少しだけ遊び半分で、ジュン君のオジサンの軽トラの荷台にジュン君と乗せてもらって、数件牛乳配達を手伝わせていただく機会がありました。

そのほんの僅かばかりのお手伝いの報酬は、たしかオジサンが飲ませてくれた、コーヒー牛乳とフルーツ牛乳だった記憶があります。

それから40年以上経ってからでしたが、取材で新聞販売店にお邪魔したことがありました。

ぼくの関心は、新聞配達員さんたちが、何を目印に自分の配達区域を把握されるのか?でした。

参考

話を伺うと、こんな配達区域の道順を描いた、専用のノートがあり、そこには暗号のような記しと文字が簡潔に描かれていたものです。

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「・ト」は、「一軒左隣り」のような感じで!

これをデスメッセージにして、サスペンスでも描けないものかと、当時は真剣に考えたりもしたものでした。


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「昭和Nostalgia」(557)

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幼かった頃にたった一度だけ、按摩さんの笛の音を聞いたことがあります。

それは男笛だったのか、はたまた女笛だったのか、もう今となっては確かめようもありませんが・・・。

その夜、按摩さんの笛の音とも知らず、ぼくはお母ちゃんかお父ちゃんに、「窓の外から、夜鳴きソバ屋のラッパじゃなくって、変な笛の音が聞こえるよ?」とかなんとか、奇妙な音色に思わず問うたんでしょう。

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するとお母ちゃんだったかお父ちゃんだったかが、「あれは按摩さんが、『按摩はいかがですかぁ?』と、呼ばっとらっせる合図なんやわ!」と。

慌ててカーテンを開けて窓の外を眺めると、杖を片手に笛を吹きながら歩く、男の按摩さんの姿が街灯の裸電球の光に、ぼんやりと浮かんでいたものです。

しかし後にも先にも、按摩さんの笛の音を聞いたのは、それ1回だけでした。

ですから、按摩さんの笛の音がどんな音色だったのか、もう記憶の欠片さえありません。

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ちょっと気になって調べてみると、按摩笛には「男笛(おぶえ)」と「女笛(めぶえ)」の2種類があり、男笛には指穴があり音階を奏でられ、女笛には指穴がなく2本の竹を並べ共鳴させる構造なんだとか。

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ではなぜ、男笛と女笛とに分かれていたかと言うと、笛の音色で按摩さんの性別を区別し、希望する按摩さんを選ぶ目安としていたんだとか。

なるほどなるほど!

そう言えば昭和の昔には、食欲旺盛で何でも食べてしまう、食い意地の張った人を指す言葉として「口に入る物なら按摩の笛でも」ということわざもあったくらいですものねぇ。

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按摩さんには大変失礼なことわざだろうと、時代が移ろう中で、もうさすがに使われなくなりましたが、昭和半ばの時代では、人々の暮らしの中に按摩さんが、癒しの存在として遺っていた証だったのではないでしょうか?


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「昭和Nostalgia」(556)

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この方を昭和人なら、きっとご存知なんじゃありませんか?

ぼくは一度だけ、すれ違ったことがございます。

それは昭和も50年代に入ったばかりの頃だったでしょうか?

当時の古い古い名古屋駅の、地下鉄名古屋駅と名鉄名古屋駅、そして近鉄名古屋駅が、半地下のような狭い連絡通路で結ばれておりました。

確か非常に不鮮明なぼくの記憶によれば、近鉄名古屋駅側には床屋や蕎麦屋、それに一杯飲み屋のような小さな店が数件並んでいたと思います。

近鉄側から入り、名鉄名古屋駅を経て地下鉄名古屋駅へ続く、その狭い幅3.6mほど、高さ2.2mほどの連絡通路には、いつもシャボンの匂いと蕎麦屋の出汁の香、一杯飲み屋の味噌おでんの匂いが混じり合って立ち込めていたものです。

ぼくはその日も用があって、名鉄名古屋駅から近鉄名古屋駅へと、その連絡通路を進んでおりました。

するとすれ違う人混みの向こうから、何やら大きく朗らかな声が聞こえて来るじゃありませんか!

その声は糞狭い連絡通路を一歩二歩と進むうちに、より鮮明になってまいりました。

「指圧の心は母ごころ、おせば生命の泉湧く」と!

ええっ、待てよ!

確かにどっか聞き覚えのある名調子じゃないか!

そう思っている内に、人混みの向こうから、両手を前へ突き出し、親指を押し立てた、ぼくの不鮮明な記憶では、上半身裸で笑いながら大声を発し、あの浪越徳次郎先生がやって来られたんです!

でも果たして本当に、昭和50年代の初め頃とは言うものの、狭い連絡通路を上半身裸のまま、浪越先生ともあろう著名人が歩いていたとは、いささか考えにくいです。

ですからきっと上着は、治療着の白衣を召されていたのかも知れませんが、ぼくの記憶の中ではすっかり上半身裸として記憶に遺ってしまっていたようです。

いずれにしろ、狭い通路を通り抜けるまで、浪越先生は「指圧の心は母ごころ、おせば生命の泉湧く」と、大きな声で笑いながら繰り返され、人波がサッ~ッと割れ、道が開らけるようでした。

浪越先生と言えば、新婚旅行で来日し、胃痙攣で体調を崩したマリリン・モンローに、素手で指圧を施した唯一の日本人。

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ご本人も後に、「そりゃあもう、とにかく綺麗な方でしたよ。いつもより三倍くらい時間をかけてしまいました」と語られたとか。

文字通り押しも押されもせぬ、日本を代表する指圧師でもいらっしゃったわけです。

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ぼくも当時、もう少し心に余裕を持てていれば、冷静になって大学ノートの1ページを開いて、先生の拇印でも押していただけばたかもと、今さらながら痛感するばかりです。


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「昭和Nostalgia」(555)

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昭和も50年代に入った頃だったでしょうか?

サウナとか昔の銭湯とは異なる、日帰り温浴の出来る大浴場とかの、脱衣場や娯楽室と言った所で、こんな足のツボをを刺激して疲労を取ったりする、足ツボプレートなんかを見かけたものでした。

でもプレートに恐る恐る乗っかると、くすぐったいやら、とんでもなく痛かったりで、長い時間静かに乗っかっているなんて、とてもできなかったものです。

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なかにゃあ、こんな竹の突起物を踏むものもございましたですよねぇ。

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ぼく的には、自分の全体重をかけて乗っかる、足ツボプレート的なモノより、こんなゴムの突起物の付いた、ローラー式の足ツボマッサージ機の方が好きだったものです。

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やがて昭和も終わりを告げる頃だったか、とうに昭和が平成に改まってからだったか、こんな電動の足裏マッサージ機なんてぇのも登場してまいりましたですねぇ。

温泉なんぞの脱衣場や休憩室なんかで見掛け、ぼくも癒されたものでした。

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でもどうしても、わざわざ高い施術代を支払ってまで、顔を歪めながら痛みに耐える足ツボマッサージってぇのは、ヘタレなぼくにゃあ、とても無理な相談ってぇものでした。


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