ゆいぽおと「 長良川鉄道ゆるり旅」2011.9.13 ⑰

万場駅界隈「目から鱗の米ジャム醸造元」

ちょっと一服のつもりで、「古今伝授の里やまと」と言う、道の駅に立ち寄った。

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天然温泉もあるという立派な施設。

何かご当地物の土産でもと思い立ち、売店に並ぶ品々を興味深く物色していた時だ。

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どれもこれも、あちらこちらの道の駅で見かけるものばかりの中に、「わしだて。わし。わしをはよ見つけんかて!」と、凄まじい気を発しながら、語りかけて来るような瓶のラベルに目が釘付け。

そこには、なんと「米ジャム」の文字。

何だ?

お米のジャムってか…。

一旦はそう見切りを付け、通り過ぎた。

だが、待てよ?

お米のジャムって、まさか米がジャムになるはずもなし、しかし一体全体どうゆうものなのか?

しがない物書きの哀しい性か、こうなるともう確かめずにはいられない。

さっそく瓶を手に取り、裏のラベルで製造者を確かめた。

この、世にも不思議なお米のジャムとは、果たしてどんな味なのか?

確かめるには、一瓶550円を投資しなくてはならない。

残念なことに、見渡す限り何処にも、米ジャムの試食は見当たらないのだからして。

とは言え、いきなり大枚550円を叩いてみても、もしもそれに値する味でなかったとしたら…。

この身も凍り付くような不景気なご時世、そんな大博打に打って出ることも敵わぬ。

斯くなる上は、製造者の欄に記された、畑中商店へと乗り込むより手立てはない。

徳永駅へと戻り、北濃行きの列車を待つ。

やがて長良川の西に広がる田園地帯の中に、ポツンと佇む万場駅へと列車は滑り込んだ。

長良川鉄道と東海北陸自動車道とに挟まれた長閑な田園には、郡上大和ほたるの里公園が整備されている。

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夏になれば、街灯もほとんどないこの里山の地に、源氏蛍が幻想的な光を放ちながら乱舞することだろう。

そんな風雅な光景に思いを巡らせながら、白鳥板取線を北上する。

しばらく進むと、右側に造り酒屋を思わせる、大きな古民家が現れた。

道路脇の小さな小屋に、畑中商店(醸)と記されている。

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どうやらここが直売所のようだ。

入り口からガラス戸越に中を覗き込むと、真正面に道の駅で見つけた米ジャムの瓶が並んでいる。

「あれなあ、家の田んぼのコシヒカリと麹で作った、お米の甘さだけで出来とるジャムやさ。パンにちょっとバター塗って、その上に米ジャムを載せると、これがまた絶品もんやて」。

郡上市大和町万場で大正中期創業の畑中商店(醸)、糀職人の畑中雅喜さん(61歳)が、引き戸を開け店の中へと(いざな)った。

「昔は、『かうじ屋さん』って呼ばれとったんやて」。

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本家の地下には、糀を発酵させる室が今も残る。

「糀屋は冬の間の仕事やで。後は米作りやさ。昔はそれぞれの家々でも、糀を使ってくれとったで、糀だけ造って売っとったんやて。ところが年々糀の需要が落ち込んで、それで酒粕の甘酒やなくて、米糀だけで甘酒造ったり。でも今の若い者らには、好まれんでいかん」。

雅喜さんは苦笑い。

「何か米麹を活かした、特徴のある物が作れんもんかと思って。たまたまパンに甘酒をちょっと付けて見たら、これが何とも不思議な味わいで、中々のもんじゃないかって。それで秋口から試作を始めて半年。でもまだ味が定まらん。最初の頃は、パンが米ジャムを吸ってまうし。でも味は上々の評判やった。まあ、何はともあれいっぺん召し上がってみて」。

妻の美里さん(49歳)が、パンにバターを薄く塗り、米ジャムを載せて差し出した。

製造者夫婦の4つの(まなこ)に見つめる中、食パンに齧り付く。

程よい酸味とフルーティーな甘味が交じり合い、これまでに体験したことの無い、爽やかでまろやかな食感が口の中に押し寄せる。

イチゴやブルーベリーといった、果実が持ち合わせる酸味とは一味異なり、仄かな酸味が米本来の甘さを見事に引き立てている。

稲作文明が渡来して以降、弥生人のご先祖もさぞかし吃驚仰天の、初の快挙ではないか。

これぞ正しく、目から鱗の米の加工食品だ。

「決め手は、米糀が一番甘味を出すところで火入れし、全部の糀菌を殺さんと、そのまま菌を生かしたまま止めることやて」。

米麹職人としての、永年の勘だけが頼り。

それ以下でもそれ以上でも、生きている米麹の甘味の匙加減は、季節によっても微妙に異なる。

「それと決め手のもう一つは塩。お米に糀を混ぜて発酵させ、最後に煮上げる時の隠し味やね。ほんの一振りの塩が、お米の甘さを際立たせるんやで」。

美里さんは夫を見つめた。

米と糀。

夫と妻。

そしてパンと米ジャム。

1つが2つになることで、倍以上の旨味も生まれ出でる。

畑中商店(醸)/郡上市大和町万場(2011.9.13時点)

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ゆいぽおと「 長良川鉄道ゆるり旅」2011.9.13 ⑯

郡上大和駅界隈「てーまのホルモン焼き」

間違いなくこの店のはずだが…。

「てーまのホルモン焼き五石(ごこく)」という、大きな看板の矢印の先であるのだからして。

何でも昔ながらのケイちゃんを、朝から食わせると聞いた。

昨今のご当地グルメブームにより、「ケイちゃん」の名が脚光を浴びる遙か昭和の半ばから、この地でホルモン焼きと言えば、鶏肉を自家製の味噌ダレで焼く、この五石の「てーま」と決っていたそうだ。

しかしどこからどう眺めて見たところで、焼き肉屋らしき気配は、さらさら感じられない。

昔ながらの古びた引き戸を開け、中の様子を伺うと、野菜や缶詰に食料品、はたまた洗剤に殺虫剤からトイレ用の徳用ちり紙まで、日々の雑多な生活雑貨が渦高く積み上げられている。

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さし当たり、昭和半ばにはどこの町でも必ず見かけた「萬屋」だ。

だがどこからともなく、そこはかとなく味噌の匂いと、脂の焦げる小気味いい音が漂い、ねっとりと鼻腔にまとわりつく。

思わず匂いの出処はと、店中を眺め回すのだが、ホルモン焼き屋の気配などない。

すると入り口の引き戸が音を立て、野良仕事の途中のような出で立ちの老夫婦がやって来た。

老人は首に巻いたタオルで汗を拭いながら、開口一番「今日はまた一段と暑っいなあ。ちょっとビールでも飲んで汗を沈めんとなあ!」と、店の者に声を掛けレジの奥へとツカツカと入り込んで行くではないか。

ぼくも釣られて怖いもの見たさで、老夫婦の後を追う。

するとそこには、デコラ張りの4人掛けテーブルが配置され、ガスコンロの上の鋳物製の鉄板で、ケイチャンとキャベツが程よく焼け始めている。

何とも五臓六腑が騒ぎ立ついい匂いだ。

でも待てよ。

壁の柱時計を眺めると、何とまだ10時を回ったばかり。

まさかと思い、腕時計でもう一度確かめるが、やはり10時過ぎ。

しかも紛れも無く、お天道様が上りの途中の午前10時なのだ。

しかし、郷に入っては郷に従えか。

ぼくも老夫婦を真似、たまらずケイチャンとキャベツにビールを所望した。

「はいっ、お待たせ」。

てーまの味「ホルモン焼き五石」の二代目女将の佐古尾菊代さん(44歳)が、鉄板の上に具材を載せ焼き方を指南。

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すかさず店名の由来を問うた。

すると、「義父の名前が貞治やで、周りの人らから『てーま』の愛称で呼ばれとって、昭和34年にこの店開いたんやて」と。

ホルモンと言えば、ついつい豚や牛の臓物を連想してしまうのだが、ケイチャンは臓物どころか、どこをどう見ても立派な鶏肉そのものである。

「創業当時の頃はまだ一杯飲屋みたいやったそうですが、韓国の方が土木工事でこの辺にこられてたみたいで、その方から父がケイチャンの味付けとかを学んだとか。だから当時から鶏肉のことも、ホルモンって呼んでたらしいわ。さあどうぞ。そろそろ焼けてきましたに」。

鉄板の上で味噌に絡んだケイチャンが、ジュージュー音を立て始め、鶏肉の脂に味噌が溶け出しキャベツに絡まる。

「てーまのケイチャンはなあ、赤味噌に独自の調味料を混ぜて仕立てたタレで、丸一日浸け込んだるで、昔と変わらんええ味なんやて。どや、他所のんとは違うやろ?」。

先ほどの爺さんが、まるで我が事のように、赤ら顔で自慢する。

それにしてもまたなんで、まるで萬屋を隠れ蓑にするように、店の奥まった場所にひっそり人目を忍ぶ様な店構えなのか問うて見た。

「そんなもん決まっとろうが。店が表通りに面しとってみい、こんな田舎で真昼間から酒飲んだり、成せぬ仲の二人が逢引きしてみい、すぐに村中で評判になってまうやろ」。

なるほど、ご尤も。

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てーまの店内には、昭和半ばの頃のような、屈託ない笑い声と緩やかな時間が、ひっそり流れていた。

てーまの味「ホルモン焼き五石」/郡上市大和町名皿部

*取材時に訪問した店は、平成22年秋に取り壊され、平成23年2月に改築オープンとなりました。

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ゆいぽおと「 長良川鉄道ゆるり旅」2011.9.13 ⑮

徳永駅界隈「太古の恐竜王国」

長良川沿いの静かな山間に、田園風景が広がる。

徳永駅をわずかに南へ下り、西河橋を西へと渡ると、この牧歌的な風景とは不釣り合いな、決してそこにあってはならぬ光景と出くわすことだろう。

橋の中ほどまで進むと、川の右岸に放置されたままのトラックが1台、まずは目に飛び込んでくる。

ただそれだけならば、まだ救いようもある。

心ない者が、不法投棄でもしていったのだろうと。

しかしそんな悠長なことなど、言ってはいられない光景が、現実に目の前に立ちはだかっているのだ。

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想像を遥かに超える巨大な青虫の幼虫が、トラックの荷台から運転席の天井へと、ボッテリと横たわっているではないか!

かつて子供の頃に見た、映画「モスラ」の一シーンのようだ。

幼虫は今まさに、好物の木の葉でも貪るように、運転席を噛み砕かんとしている!

嗚呼、なんたることだ。

21世紀の世ともあろうに。

過去に映画で見た、人々が恐怖に(おのの)くシーンと、目の前の現実とが、猛暑のせいか()い交ぜになって混濁する一方だ。

「どや?シッコちびっとれせんか?」。

いつのまに現れたのか、顔中髭もじゃの男が、妙になれなれしそうに大声で笑いかける。

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何と無礼な!

しかもその男は、少年のように瞳をキラキラと輝かせながら。

「なぁ、もっとすっげえの見せたろか?太古の恐竜王国や。まあ一緒に付いてこやあ」。

男は昭和のガキ大将のように、くるりと踵を返し、工場のような建物へと導いた。

首の伸びたTシャツに、色褪せたジーンズが、なんとも似合いすぎる。

男の名は森藤弘美さん(69歳)。

郡上市大和町で特殊造形を手がける、郡上ラボのれっきとした社長さんだ。

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「ここのD‐Boxこそが、わしが40年掛けて造り上げた太古の恐竜王国やて」。

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入場料500円(子供/300円)を支払い、恐竜王国へと足を踏み入れようとした途端。

入り口脇の別棟から、アローザウルスが咆哮を上げ、今にも襲い掛かろうとして来るではないか。

「子供なんか入る前に、もうここで怖じ気付いてまって、泣き出すんやで。そんな時は、『やったあ!勝ったぞ!ざまあ見ろ』って感じで、一人ほくそえんどるんやて」。

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小さな目を思いっ切り見開き、少女マンガの主人公のような、キラキラとした瞳を輝かせた。

恐る恐る館内へと分け入ると、今から約2億1千万年前から1億4300万年前までのジュラ紀に君臨した恐竜や、それ以降約6500万年前続いたとされる、白亜紀に全盛を極めた恐竜たちが、渾然一体となって巨大な姿を晒しながら(うごめ)く。

人が近付く度、センサーがその気配を察知し、巨大な雄叫びを上げながら、襲い掛かろうと前進するディロフォザウルスや、耳を(つんざ)くほどの鳴き声を発し、巨大な羽根を広げ今にも羽ばたこうとする翼竜。

そのいずれの恐竜たちがリアル過ぎて、まるで映画の「生ダイナソー」や「生ジュラシックパーク」にでも紛れ込んでしまったようだ。

「どうや?なかなかの迫力もんやろ?」。

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還暦をとおに越えた腕白坊主が、してやったりと胸を張る。

どうやらここには、時系列が存在していないのかも知れない。

ジュラ紀と白亜紀のように、数1000万年という気も遠のく程の時代の長さが、この中にあってはまるで昨日と今日のように甚だしく交錯している。

とすれば、たった数10年前の、昭和の時代に腕白振りを発揮した少年が、平成の世となって姿こそ初老のオヤジに変わり果てながらも、心だけは未だ昭和の腕白少年であったとしてもなんら不思議ではない。

いっそのこと、そんな風に納得してしまえば、これほど愉快で痛快な恐竜王国は無いのだ。

郡上ラボ/郡上市大和町島

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ゆいぽおと「 長良川鉄道ゆるり旅」2011.9.13 ⑭

郡上八幡駅界隈「葉なんばん」

私利私欲と、権力欲にまみれた者たちが、蠢く政界。

利益至上主義を旗印に奔走する大企業が、弱小零細の下請けを踏み潰し、平気な顔で日本を代表する優良企業でございと、のたまう財界。

そんなおぞましさに接するたび、この国に生まれたことを否定したくなってしまう。

昭和半ばのこの国に、もがき苦しみながらでも、ぼくを産み落としてくれた母には申し訳ないが。

だが一方、この国に生まれて良かったと、心の底から思える瞬間もあるから、先のおぞましさすら掻き消されてしまう。

それは四季折々に食卓を飾る、旬の食材の豊富さを実感した時である。

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秋の夕暮れ。

路地裏に秋刀魚を焼く煙が立ち込め、脂がジュージューと音を立て、旨そうな匂いが鼻先をかすめる。

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小雪でもちらつく冬の日なんぞは、凍えた体を炬燵に潜り込ませ、火傷しそうなほどの熱燗をグイッと煽り、はふはふと湯豆腐を突きたい。

待ち焦がれた春のご馳走は、コゴミやコシアブラの山菜の天ぷらに限る。

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揚げたての衣に包まれた春の苦味が、寒さで強張ったままの体を、本能的に目覚めさせてくれるから、こいつが堪らない。

茹だるような暑さの夏は、鰻屋の店先から忍び寄る、蒲焼きの匂いに思わず眼が眩む。

それにしてもまあ、並べたくったものの、見事に安上がりな物ばかりではないか。

育ちが知れるとは、まさにこのことである。

「そうやて、人間そんで十分なんやて。そんなもん、上見たらキリがあれへん。わしの若い頃なんて、徹夜踊りで踊り明かした後は、一目散に家へ飛んで帰って、冷や飯にこの葉なんばんをのっけて、茶ぶっかけて啜り込んだもんやて。どっこい、こいつがまたあっつい夏の日には最高なんや。そりゃあもう、何杯でも飯が入ってくんやで」。

郡上市八幡町大手町の時代屋大國(おおくに)、二代目主の大坪順一さんが、(しわぶ)く声を張り上げ笑った。

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郡上周辺で、古くから郷土の味として伝わる、「幻の味葉なんばん」。

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唐辛子の葉と実を、秘伝の製法で煮上げた逸品だ。

順一さんは八十路を回った今も、三日に一度の割で葉なんばんを作り続ける。

「『葉なんばん』を作るようなったんは、平成に入ってからや。それまでは、出張披露宴の料理屋やっとったで。ところが昭和58年に、喉頭癌が見つかって、それから2年ほどは闘病生活の毎日やわ。そんな頃に年寄りらから、山菜料理や郷土料理を教えてもらったのがきっかけやて。昔からここらのもんは、唐辛子を南蛮って呼んどったもんで、唐辛子の実も葉も一緒に煮るで「葉なんばん」や」。

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幻の味と冠された「葉なんばん」には、長良川の清流で育った有機栽培物の、辛い中に甘さが宿る八房唐辛子や、テンツキ(赤唐辛子の郡上弁)を使用。

徹夜踊りの終わった、8月下旬に収穫される地物である。

「それを一旦冷凍保存しといて、3日毎に煮詰めて瓶詰めにするんやて」。

もちろん添加物や保存料は一切使わぬ、郡上生まれの郡上育ち、生粋の天然食だ。

「まあ1回食べたら病み付きやて。見た目がドスグロいで、最初見たときはびっくりするやろが」。

順一さんの言葉を思い出し、家に帰って炊き立てのご飯の上に載せ、さっそく一口頬張って見た。

コクのある醤油味が口中に広がり、ご飯と共に葉なんばんを噛みしめるたび、唐辛子のピリリとくる、心地よい刺激が舌の上で踊る。

確かに、どことなく懐かしさを覚える味と、この刺激はやはり曲者だ。

結局この日は、他のおかずに手を付ける余裕もなく、ご飯だけを3杯も立て続けに貪り食ったほどだ。

郡上の地を訪ねられたら、まず何は無くともこの葉なんばんを、騙されたと思って一度賞味されたし。

時代屋大國/郡上市八幡町大手町

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ゆいぽおと「 長良川鉄道ゆるり旅」2011.9.13 ⑬

郡上八幡駅界隈「看板のないパン屋」

「見掛け倒しの、看板倒れになったらかん」。

それが母の、ぼくが子どもの頃の口癖だった。

暑い夏の日、母はいつもシミーズいっちょうで、額には女だてらにタオルの捻り鉢巻き。

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いつも鼻歌交じりに、「♪ぼろは着てても こころの錦 どんな花より きれいだぜ♪」と、水前寺清子の「いっぽんどっこの唄」を口ずさんでいたものだ。

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そして折りたたみ式のくけ台を座布団で挟み、夜遅くまで内職の縫い物仕事に追われていた。

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昭和半ばの時代は、見てくれの良し悪しよりも、そんな心の奥底に潜めた、凛とした気高さや心意気を、尊としとした時代だったのだ。

つまり、中身の伴わない「看板倒れ」の嘘っ八よりも、「ぼろは着ててもこころの錦」である方が、どれだけ潔く人間らしいことか。

母はきっと、そう伝えたかったのであろう。

ところが昭和も終わりを告げる頃には、人心もすっかり狂い始めてしまった。

中身を伴わずとも、こけおどしの誇大表現が踊る看板を掲げ、妖しい商売で荒稼ぎする者がまかり通った狂気の時代。

そんな輩でさえ、時代の寵児とまで崇めたてまつられたのだから始末に終えない。

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それに引き替えたら、これほど商売っ気の欠片も感じさせないパン屋は、日本中どこを探したってお目にかかれないだろう。

看板倒れではない。

倒れる看板すら、何処にも掲げられていないのだから。

唯一、この民家がパン屋である証しは、引き戸を開けパンを片手に飛び出してくる、子どもたちの笑顔だけだ。

郡上八幡の町中を南北に流れる小駄良川。

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川西の山裾に、昭和半ばの商店がわずかに残る。

その内の一軒が、「平和パン」である。

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「そんなとっから覗いとらんと、狭い店やが入ってこやあ。焼き上がったばっかのメロンパン、今並べるで」。

主の加藤昌美さん(88)が手招く。(2011.9.13時点)

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すると「焼き立てはまたひと味違うでな」と、妻の千代子さん(86)がすかさず合いの手を入れた。

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ついつい何処にも見あたらぬ、看板の訳を問うた。

「そんなもん看板出すなんて、おこがましいでかんわ」と、夫。

「この人は昔っから『他人様を蹴っとばしてでも儲けたる!』っていう気がないんやて」と、傍らで妻が笑った。

「役所に届けたる本当の屋号は三恵堂。でもここが尾崎町だで、ここらあの人は『尾崎パン』とか『平和パン』って、みんな勝手に呼ばっせるわ」。

夫は年代物のガラスショーケースの中に、メロンパンを並べながらつぶやいた。

昌美さんは大正10年、愛知県瀬戸市に誕生。

小学校に入ったばかりの昭和3年、名古屋の鶴舞公園で開かれた御大典奉祝名古屋博覧会で、焼き立てのパンと出逢った。

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「テントがずらーっと並んで、大手製パン会社がパンを焼いとったんだて。これがどうにもええ匂いでなあ。そんでも金が無いで買ってまえんかったわ」。

昭和26年、統制が解除された頃、名古屋でパン屋を開業する戦友を訪ねた。

「見学しとるうちに、子どもの頃に見た、鶴舞公園の焼き立てパンを思い出してまって」。

居ても立ってもおられず、瀬戸市の実家へとその足で戻り、平和への願いを込めた「平和パン」を開業。

2年後、現在地へと移った。

「私の実家が、この隣やったんやて」と、妻がまたしても大笑い。

夫婦二人で焼き上げるメロンパンは、今も平和のシンボルとして、町中で愛され続けている。

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「今年の7月、今まで病気一つせんかった主人が、脳梗塞で倒れて入院したんやて」。

「まあわしも、平和パンも仕舞かって、町のみんなからえらい心配してまって。そのお陰か、2週間入院したらまた娑婆に戻してまえたって」。

今は週に2~3日だけ、甘いメロンパンのやさしい香りが、ほんわかと郡上の町に漂い出す。

「そうすると向かいの幼稚園から『パン屋のおじいちゃ~ん』って声がして。近所の人らからも『止めんといてや』って言われるもんで、いつまでたってもちっとも死ねんでかんて」。

友白髪の老夫婦は、互いの顔を見合わせ、こね上げたパン生地のようなほっこりした笑顔を交わした。

平和パン/郡上市八幡町尾崎町(2011.9.13時点)

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ゆいぽおと「 長良川鉄道ゆるり旅」2011.9.13 ⑫

郡上八幡駅界隈「ニッキ玉の駄賃」

昭和の半ば。

よく母にお使いを頼まれたものだ。

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隣のご隠居の家へなんぞ、ちょいと回覧板を届けに行ったりするだけで、お駄賃と称しては、広告チラシに包んだ飴玉などを貰えたものだ。

当時のお駄賃にこれと言った決まりなど無かった。

煎餅やアラレであったり、時にはラムネ菓子などという変り種もあった。

お駄賃の対象となる菓子は、だいたいその家のお茶請けとして、卓袱台の菓子鉢へと開け移された、お徳用袋入りのものであったりしたものだ。

しかし時には、意外な大当たりを引き当てたりする。

だからお使いも、これで中々止められない。

運さえよければ、どこか名だたる観光地の名物饅頭などに、ひょっこり出くわしたりするものだから。

言わば当時のお使いは、子どもらにとっての、ちょいとしたオヤツ稼ぎの場でもあったのだ。

ところが今では、お使いという言葉すら耳にしなくなった。

ぼくが子どもの頃は、学校から大急ぎで戻り、母の目を盗んでこっそり遊びにでも行こうとすると、何処からとも無く母の呼び声がして、その出鼻を挫かれたものだ。

そしてやおらあれこれと、矢継ぎ早にお使いを言い付かる。

「ちょっと、○○さん家のおばちゃんとこ行って、鍋返してきて。昨日お裾分けにもらった、あの煮物が入っとった鍋を」と。

今思えば母は、きっとぼくが学校から戻るまでに、何やかやとお使い仕事を用意していたに違いない。

確かに平成の今と、昭和半ばの世では、暮らし向きにも雲泥の差があり過ぎる。

それに今の子どもらは、学校から帰っても遊びに出掛けるどころか、息つく暇も無く、習い事や塾へと追い立てられるのだから、お使いどころの騒ぎではないはずだ。

もはや「お使い」は、昭和の死語となって滅び果てたのだろうか?

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桜間(おうま)見屋(みや)の店先で、土産の品定めをしながら、缶に入った肉桂玉を眺めていたら、そんな昔の「お使いの駄賃」が思い出された。

確かこの肉桂玉を、初めて駄賃にもらったのは、隣に住むご隠居さんのお婆ちゃんからだったか。

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琥珀色の大きなあめ玉を、光に翳すと広がる一つの独特な世界観に、子ども心もときめいたものだ。

「美味そうなニッキ玉やないの」。

母が覗き込んで羨ましそうにつぶやいた。

ここで取り上げられてはなるものかと、急いで小さな口一杯に頬張った。

しばらくすると、ピリリとした刺激が舌先を突き刺す。

当時の子どもにとって飴と言えば、とろけ出すような甘さという先入観しか無い。

だから、初めて口にしたニッキ玉は、どうにもエキゾチックな未知の香りと味がして、ついたまらず吐き出した。

するとすかさず母が手のひらを翳し、ぼくが吐き出したニッキ玉を、自分の口の中へと放り込んでしまったではないか。

「やっぱり子供には、ちょっと刺激的やろ」と、子どもが稼いだお使いの駄賃を、有無を言わさず取り上げてしまったのだから恐れ入る。

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そもそも駄賃のニッキ玉を貰う事となったお使いは、当時わが家で飼っていた雑種犬のジョンがしでかした、不始末の尻拭いに端を発する。

別名を「縄抜けのジョン」と渾名されたヤツは、中々の凄腕で、何度と無く首輪を擦り抜け、町内中を駆けずり回ったものだ。

それだけならまだしもだが、ヤツには妙な性癖があった。

町内中を駆け回っては、人様の玄関先から履物の片方だけを咥えて持ち帰り、我が家の勝手口にと放り出す。

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だから勝手口には、下駄から長靴に突っかけ、ズックに革靴まで、片っぽだけの履き物が無造作に放り出されるはめになる。

その度に父も母もぼくも、みんなで手分けし片方だけの履物を携え、持ち主を探しながら近所を侘びて回ったものだ。

だからその日も確か、隣のご隠居の家に、爺さんの下駄でも返しに行ったのだろう。

ジョンの歯型がくっきりとついた下駄を持って。

ところがお婆ちゃんは、それを目にしても取り立てて気にする様子も無く、「ハイハイ、ご苦労さんやったね」と笑いながら、「ちょっと待っとってな。今お駄賃持ってくるで」と。

懐紙に包んで差し出された大きな飴玉が、ニッキ玉との出逢いであったわけだ。

母に上前を撥ねられたニッキ玉は、もうそれ以来二度と、お使いの駄賃として登場することはなかった。

しかしそうなると子ども心にも、あの日の口惜しさだけが深く刻まれる。

もっとゆっくり味わって舐めていたら、あの刺激が今度は心地よく変わり、絵も言われぬ味わいを醸し出したのではなかろうかと。

ついにその念願も叶わぬまま、すっかり大人になりいつしかニッキ玉への執念も消え果てた。

ところが、である。

現在も連載中の「天職一芸(毎日新聞毎週土曜朝刊)」の取材で、数年前この桜間見屋を訪ねた。(2011.9.13時点)

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しかしその時点ではまだ、子どもの頃に駄賃として貰ったニッキ玉と、この肉桂玉が同じものとは思いもよらず、「まあ、お一つ食べて見て」と、お茶菓子のように供されるまで気付かなかった。

「初めて口にする子どもには、慣れるまでちょっと刺激的やろな」。

郡上市八幡町本町、明治20(1887)年創業の桜間見屋、六代目主の田口大介さんが笑う。

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「前は『大間見屋』やったんですが、昭和の初めに祖父が創業家から買い取らせてもらって、『大』を『桜』に代えて桜間見屋を名乗るようになったんやて」。

桜間見屋の肉桂玉は、ザラメの白と、黒砂糖の黒の2種類。

「普通の肉桂玉は、グラニュー糖。でも家では、後味がさっぱりするようにザラメを使ってます。だからグラニュー糖よりも作り難いんですが、その分口の中で溶け難く、長持ちするんやて」。

肉桂とは、クスノキ科の常緑高木の樹皮を剥ぎ取り、乾燥させたもので生薬としても用いられる。

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「日本に渡来した肉桂は、根っこの部分にしか辛味が無く、樹皮は使えんのやて。それで家では、香りが一番良いと言われる中国原産のカシアを取り寄せてます」。

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肉桂玉を頬張ると、表面に塗したグラニュー糖がさっと溶け去り、中からほんのりとニッキの香りが溢れ出す。

懐かしくもあり新鮮でもあるエキゾチックな味覚。

子どもの頃のあの無念さも、あっと言う間に溶け去ったものだ。

「あれっ?今日はこれから、郡上踊りですか?」。

黒肉桂の缶入りを手にしていると、主が気付いて声を掛けてきた。

「どうもこの暑さで、冷たい物ばっかり口にしてたから、何か胃がどんよりとして」。

そう苦笑いを交えて告げると、「それやったら肉桂玉舐めとったら、胃もすっきりして行きますに。昔から肉桂は、健胃に良しとされてますから」と。

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すっかり陽が傾いた、郡上の町並み。

家並に提灯の火が燈る。

打ち水の通りに、響く下駄の音。

吉田川の(ほとり)から、三味と笛太鼓に合わせ、「かわさき」の名調子に乗り、郡上の夏の夜がいま幕を上げた。

桜間見屋/郡上市八幡町本町

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ゆいぽおと「 長良川鉄道ゆるり旅」2011.9.13 ⑪

深戸駅界隈「元台に刻まれし釣師の誉れ『福作』銘~天下の郡上竿」

深戸駅のすぐ南を、長良川が悠然と西から東へと流れる。

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何千年、何万年と、何一つ変わらぬ、大自然の営みだけが、ただ淡々と繰り返されているのだ。

「あかんて!そんなへっぴり腰じゃあ!」。

川の流れに合わせ、友釣りの竿を操っていると、背後から突然声がした。

「あんた、友釣り初めてやろ?」。

何と厚かましい不躾な声。

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声の主を見定めてやろうと振り返った。

「鮎にはな、鮎の縄張りってもんがあるんやて。そこを狙わんと、ただオトリ鮎を流れに合わせて泳がせとっても、鮎は一向にかかれせん。鮎の縄張りに、新参者のオトリ鮎を放り込んだるで、オトリの鮎を駆逐しようと体当たりしてくんやで。そこを逃さんようにグッと引っ掛けたらんと」。

そう言うと男は川の中へと入り込み、徐に竿を延べた。

するとどうしたことか、川面に銀鱗が跳ね躍り、あっと言う間に友掛けされた鮎が吊り上げられるではないか。

名人はわずかな間に、事も無く3匹を吊り上げた。

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すると身を翻し、さっさと河原へと引き上げ、釣竿を仕舞い始める。

ポーン、ポーン、ポーン。

端切れの良い音と共に、7メートルはあろうかと思われる竿の継ぎ手がばらされた。

「カーボン製じゃないんだあ」。

思わずつぶやくと「これはわしが作った、四間もんの郡上竿やさ」と名人。

漆が飴色に輝く郡上竿には、絹糸を巻きつけて描いた、幾何学模様が織り成されている。

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「よかったらわしの作業場へ来るか?」。

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名人の名は、二代目竿師の福手福雄さん(74)。

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釣り好きで鳴らした先代の俵次は、昭和初期、関東の釣客が携えた、組み立て式の竿を真似郡上竿を編み出した。

「ちょうど戦争の影が忍び寄る中、今のように真鍮が手に入らんもんで、継ぎ手には空き缶を巻いて使ったんやて。それでもここらの皆は、『わしもわしも』言うて、空き缶持参で並んどったほどやで」。

先代に劣らず大の釣好きである福雄さんは、中学を出るとすぐ、迷うことなく父と共に竿作りを始めた。

「昔は鮎も値が張って、竿もよう売れたんやて」。

鮎の禁漁期は竿作り。

解禁を待ち侘び、友釣りでもう一稼ぎ。

「まあ、竿作りの準備は、10月初めに竹を切り出し、11月に入ったら大きなトタン板の鍋で、灰入れて竹を煮て油取りをするんやて」。

年の瀬は天日干しに追われ、年が改まったころに竿作りが始まる。

「やっぱり竹選びが肝心やて。はよ出る竹は重いし、遅いと軽なる。枝が3つ出たところで切り出すのが一番やさ。あんまり竹もみあいて(ひねて)まうと、(しな)りが悪なるで」。

材を見抜く、竿師の目は厳しい。

まず四間物の5本継ぎは、「穂先」「穂持ち」「三番」「二番」「元台」と組み、管継ぎを定める。

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次に真鍮を何度も火で炙り、真っ直ぐ伸ばして2枚重ねにし、継ぎ手を取り付ける。

そして絹糸を何度も何度も竿に巻き付け、漆で留めて柄を描き出す。

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さらに元台には、藤蔓を滑り止めに巻き付ける。

「1本の竿に、900メートルも絹糸巻いたこともあったわ」。

作業場に人が入ると、気が散って糸が緩むため、入り口を締め切ったまま黙々と作業を続ける。

「どうや、これ?」。

福雄さんは、自慢の柄の入った竿を取り出した。

飴色に輝く光沢と、絹巻き模様が絶妙な、竿師の描いた意匠。

そして元台に刻まれた「福作」の銘。

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友釣りに魅せられし者の、垂涎の逸品であろう。

しばらく美術品と見紛うほどの、美しさを放つ竿に言葉を失い見入ってしまった。

「そんでも使わな、何にもならん。所詮、魚釣りの道具なんやで」。

福雄さんは何の気負いも無く、あっけらかんと笑った。

今ではカーボン製の竿が主流となり、1年で50本の生産がやっととか。

「そんでも鮎の友釣りには、やっぱり竹竿が一番。でももう跡継ぐもんもおらんで、わしで仕舞いやわ」。

作業場から見下ろす長良川の流れ。

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誰よりも長良川と鮎釣を、心から愛し続けた竿師親子二代。

かつて日々の糧を得るための釣道具は、いつしか美術品と呼ばれるほどの美しさを手に入れ、やがて儚く消え入ろうとしている。

郡上釣竿製造フクテ 郡上市美並町三戸

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ゆいぽおと「 長良川鉄道ゆるり旅」2011.9.13 ⑩

深戸駅界隈「汽車が来るまでもう一曲~駅舎のカラオケ喫茶」

どこからどう見たところで、駅であることに違いはない。

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だがどこかが違う。

既に土曜も深夜の十一時。

とっくに終電も行き過ぎたというのに、駅舎から仄かに明かりがこぼれだしている。

駅員がうっかり、電気を切り忘れたのだろう。

だがそれにしても、妙に気になる。

なぜだろう。

そう思ってもう一度、駅舎の南側を東西に延びる国道まで戻り、駅全体を俯瞰して見ることにした。

静かな山裾と長良川に挟まれた小さな集落が、真っ暗なしじまの中にぼんやりとその輪郭を浮かべている。

まるで集落がひっそりと、駅に寄り添うように。

こじんまりした駅前広場は閑散とし、置き忘れられた自転車だけが、首を長く伸ばしじっと主の帰りを待ち侘びる。

月明かりにぼんやり照らし出された駅。

改札から向かって右側半分は、どこででも見かける駅の風景に相違ない。

だが問題はその反対側だ。

つまり改札に向かって左側。

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駅員の執務室兼、乗降客の待合いのような駅舎の方である。

駅舎正面には、古びた「ステーション深戸」の看板。

ガラスドアの向こうから、かすかに(なま)めかしい、怪しげな灯かりがこぼれ出しているではないか。

怖いもの見たさも手伝い、歩を進めガラスドアの隙間に耳を当てた。

するとあろうことか店内からは、情感たっぷりに小節を利かした艶歌が、聞こえて来るではないか。

まだそれだけでなら、大音量の有線放送かと思えるはずだが、歌声に合わせ手拍子やら、愉しげな囃し声まで上がる始末だ。

もはや尋常な様子とは言えまい。

こうなっちゃあ、止むを得まい。

しがない物書きの習性か、或いは単なる野次馬根性か。

どうにもその実体に迫らずにはいられない。

そんな無用の責任感が、ついつい頭をもたげてしまう。

勇気を奮い立たせ、ガラスドアを押し開けた。

すると入って右側の舞台では、年輩の着物姿の女性が、七色のスポットライトに全身を染め抜かれ、ご満悦の形相を浮かべ都はるみの「アンコ椿は恋の花」を熱唱中ではないか。

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しかも舞台前のボックス席では、やはり舞台衣装か、ロングドレスをまとった年輩の女性が、かぶりつき状態で身を乗り出し、熱狂的に声援を送り続けている。

今にも紙テープでも飛び交いそうな勢いだ。

「昔は火曜と土曜の二晩、カラオケ教室もやっとったんやて。もう今は、土曜の深夜くらいしか、カラオケする人らもおらんけど」。

駅舎がそのまま店舗の、カラオケ喫茶「ステーション深戸」の、森下つるゑママ(70)は、ステージの客に向って拍手を送りながら笑った。

「昔っから夫婦二人で、飛騨牛乳を配達しとったんやて。それが平成2年にJRから長良川鉄道に変わって、駅舎が貸し出されることになったもんやで、それを店に改装したんやに。そしたら主人の演歌好きが高じて、平成4年からカラオケ置くようになって、近所のお客さん等にも歌ってもらっとったんやわ」。

平成14年にはカラオケ教室を始め、生徒も12~13人ほどの盛況ぶりに。

「平成17年まで毎月第3土曜日になると、ゲストの歌手を呼んだりして、カラオケ大会もしとったんやに」。

この小さなステージで、カラオケ大会は64回も続いた。

「このへんは田舎やで、なあんも楽しみもないやろ。だからカラオケ大会がある言うと、みんな野良着から舞台衣装に着替えて、目一杯にお化粧して。それはそれで楽しいもんやて。時折走る電車の音と、長良川の水の音聞きながらな」。

人気の無い駅には、咽び泣くような演歌の節回しが似合い過ぎる。

「ええっ?わたしは歌わんのかって?そんなもんわたしは聞くが専門。カラオケに挑戦せることは無い」。

真夜中の珈琲は、いつもよりほろ苦い大人の味がした。

ステーション深戸/郡上市美並町深戸

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ゆいぽおと「 長良川鉄道ゆるり旅」2011.9.13 ⑨

洲原駅界隈「姿のブッポウソウもお洲原詣り~洲原神社千年の御霊験」

江戸時代中期の建立といわれる、楼門を潜り抜けると、静謐とした杜の匂いに包まれる。

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楼門の脇には、樹齢500年にも及ぼうかという男檜と女檜が、仲睦まじくまるで寄り添うかのように天空へと枝を伸ばす。

「この2本の檜には、昔から縁結びのご利益がありまして、今も恋人たちが両手を広げ抱き付いてゆかれます」。

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白衣に白袴姿の宮司、跡部亮一さん(54)だ。

「昭和の半ば頃までは、瑠璃色の体に真紅の嘴をしたブッポウソウが、この境内の老木に巣を掛けて、卵を産み雛を育て上げ、秋風が吹き始める頃になると、ジャワ、スマトラ、ボルネオ方面へと帰って行ったそうやに」。

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今ではもう残念ながらその姿を見ることは無くなったと言う。

宮司の言うブッポウソウとは、俗に言う姿のブッポウソウだ。

森の中から夜になると聞こえる「仏法僧」の鳴き声の主こそが、ブッポウソウだろうとこのありがたい名が付いた。

しかし実際には、誰一人としてブッポウソウが「仏法僧」と鳴くことを確認した者はいない。

故にその後も、声の主に関する謎が取り残された。

さて、読者諸兄はご存知であろうか?

ブッポウソウと呼ばれるもう一種類の鳥がいることを。

正式には学術名ではない、いわゆる俗称だが。

それが声のブッポウソウと呼ばれる、コノハズクだ。

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コノハズクは体長15㌢ほどの小型のフクロウ。

愛知県の鳳来寺山でよく泣き声が聞こえたこともあり、昭和40年に愛知県の鳥として選定されている。

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鳳来寺山のコノハズクだが、洲原神社のブッポウソウ同様、昭和50年後半に入ると姿の確認はおろか、鳴き声さえまったく聞かれなくなったという。

だが近年では、わずかにその鳴き声が確認されるように回復しつつあるようだ。

ではなぜそのコノハズクの別名が、声のブッポウソウなのか。

昭和10年6月、NHK名古屋放送局が、鳳来寺山から全国に向け「仏法僧」の鳴き声のラジオ中継を試みた。

するとその放送を聴いていた、東京浅草の傘屋から「家で飼ってる鳥も、同じ声で鳴き始めたぞ」との一報が。

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その正体こそが、紛れも無い小型フクロウのコノハズクであったのだ。

その後、鳥類学会は右往左往の大騒ぎ。

「今更学術名を変更しても、混乱を招くだけだ」と。

ならばと編み出された苦肉の策が、「声の仏法僧=コノハズク」「姿の仏法僧=ブッポウソウ」だ。

とは言え、それはそれで未だに十分まどろっこしい限りだが。

「ブッポウソウもコノハズクも、共に人里離れた大自然の森の中で、静かに子を成し暮らしとったんやて。ところが高速道路が通って、車もどんどん増える一方やで、もっともっと深い森の中へと、引きこもってしまったんやろな」。

樹齢五百年を数える、神木に囲まれた洲原神社。

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今でもこれほど浮世離れした神域はないと、鈍感過ぎるぼくにも感じられる。

しかし、我ら人間よりも遥かに鋭敏な感覚を持つ鳥たちにとっては、この神域ですら、もはや近代文明の手垢に穢された、子育てに適さなぬ場所と映ったのだ。

洲原神社/美濃市須原

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ゆいぽおと「 長良川鉄道ゆるり旅」2011.9.13 ⑧

美濃駅界隈「卯建つは上らねど『チキンのり巻き』揚げて、はや八十四年」

卯建つの昔屋並みを西に過ぎた、町外れの食堂。

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家族連れがひっきりなしに、店先の暖簾をくぐる日曜の昼下がり。

「チキンのり巻き五人前ね」。

「あっ、こっちは三つね」。

客は席に陣取ると、メニューに目をやるでもなく、我先にと「チキンのり巻き」を所望する。

「家の名物やでね。『チキンのり巻き』は。衣にパリッとした海苔が載せてあって、昭和2年の創業から続くヒット商品なんやて」。

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美濃市の美濃食堂。

二代目店主の古田省三さんは、白い調理師帽を取りながら笑った。

初期のビートルズのように、襟首辺りまで伸びた白髪が、画家か音楽家のようだ。

名物「チキンのり巻き」は、何と言ってもその柔らかくマシュマロのような、ふんわりとしたササミの食感に尽きる。

「ササミが新鮮なのは当たり前。衣に対するササミの厚さが、これぞ一番のポイントなんやて」。

小麦粉と卵に秘伝の材料を加えた衣で、ササミを包んで海苔を載せて揚げただけの代物。

とは言え、家に帰ってどんなに真似てみたところで、美濃食堂のチキンのり巻きとはいかない。

それが84年の歴史だと、改めて思い知るのが落ちだ。

「海苔のパリッとした食感と、見た目の艶が何とも食欲をそそるんや。なあ、和ちゃん!」。

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客席の後片付けに追われる妻の後ろ姿に、省三さんが笑いかけた。

仲睦まじさに感心していると、「ぼくらまだ新婚間もないんやて」と。

ってことは、省三さんが67歳で結婚した勘定になる。

そうとあっては、何が何でもその馴れ初めを知りたいと願うのも人情。

「えらいおそがけに春が訪れたようで」と、ひやかし半分に水を向けた。

すると省三さんは、一瞬顔を曇らせた。

何でも平成14(2002)年に、家族を支え続けた先妻を失っていたという。

「すっかり落ち込んで、息子も店畳んだらどうやって。でもぼくは父が作ったこの店の暖簾を、まだ降ろしたくなかったんやて。それに孫の守して、自分自身の生甲斐を失いたくなかったし」。

張り合いも連れ合いも失い、抜け殻状態のまま店を続けたという。

しかしその4年後、夏風邪を拗らせ肺炎で入院する騒ぎに。

医師から息子と旧知の和子さんが呼び出され「何時息が止まるかわからん」と無情な宣告が下された。

直ちに専門の医療機関へと転院。

「もうあかんと思って、彼女に頼みこんだんやて。『仕事辞めて、ぼくの看病してくれんか?』って」。

それが67歳のプロポーズだった。

しかしその後、再検査を試みると、何処にも異常が見当たらない。

「人生捨てたもんやないって。嫁は来てくれるし、病気も治ってまうんやで。なぁ、和ちゃん!」。

美濃食堂の「チキンのり巻き」は鶏ではなく、もしかしたら鴛鴦(おしどり)なのかも知れない。

美濃食堂/美濃市米屋町(2011.9.13時点)

※美濃駅を背に北へ。広岡町の交差点を越え一本目左側

※余談/隠れた逸品は、腹開きの鰻の蒲焼き。80年以上継ぎ足された濃厚のタレが、パリッと焼き上がった蒲焼きを、その旨味で包み込む。県内の川魚問屋で仕入れる活きのいい三河一色産の鰻は、先代から80年以上続くという取引だけに、問屋の目利きが選び抜いた鮮度と質の良さは天下一品。

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