白鳥駅界隈「子どもたちの隠れ家、ごんぱち」
子どもの頃、父の在所のある三重の田舎へ出掛けるのが、何よりの楽しみだった。
兄弟が無いから特にだが、従兄弟の兄ちゃん姉ちゃんを、心から慕ったものだ。
中でも年の近い姉ちゃんは、弟のように可愛がってくれたから、およそ何でもいいなり。
子どもながらにそんな役処を心得、必要以上に「姉ちゃん姉ちゃん」と甘えたものだ。
すると姉ちゃんは、叔父の自転車の荷台に座らせ、大人用の自転車を三角乗りして一目散に坂を下る。
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女性用の洒落た物ではなく、新聞配達のオッサンが乗り回す厳つい業務用のような自転車だった。
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しかもブレーキは、今のようなワイヤーではなく、ロッド式の昭和半ばに一世を風靡した旧式のもの。
おまけに雨曝しの錆びだらけだから、坂を下る間中、ブレーキがけたたましい軋み音を発した。
ちょうど坂を下り終えると、お目当ての一文菓子屋が現れる。
何と言っても一番のお目当ては、店の入り口脇に取り付けられたパチンコ台。
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今のように液晶画面から動画が映し出されたり、耳を劈くような過剰な効果音もない。
正真正銘、昭和半ばに一世を風靡した正村式ゲージの、チューリップさえないレトロなパチンコ台だ。
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姉ちゃんから10円玉を奪い取ると、迷わずパチンコ台の硬貨投入口へと投じる。
するとパチンコ台の下にある、玉の受け皿に銀色のパチンコ玉が、3個ほどコロコロと吐き出される。
それを1個ずつ、手打ちハンドルの右手上部に開いた玉の投入口に入れ、狙いをすましてハンドルを弾く。
だがハンドルの弾き加減の勘がつかめず、強すぎたり弱すぎたり。
やっと弾き加減が分かりかけた頃には、無情にも残り玉は最後の1個。
心で念じながら玉を放ってみるものの、結果はみなどれも、大きく口を開けたハズレ穴へと吸い込まれる。
すると店の中からオバチャンが、タイミングよく顔を覗かせ、「はいっ、おおきに。残念でした。次こそ頑張りや」と、赤や青のセロハンに包まれたラムネ菓子1個を差し出した。
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「ねぇ、姉ちゃん。お願いもう1回やらせて?今度は絶対に入れて見せるから」。
「かなんわ、この子は。なんぼしてもきりないでやめとき。それにあんたのお母んから、1日10円だけって言われとるんやで。あんなあ、パチンコなんてもんは、そう易々入らんように、ちゃんと釘が締めたるんやに。せやないとお店のオバチャンとこも、商売上がったりやろ」。
姉は大人びた口調で、まったく取り合おうともしなかったものだ。
「そやそや。昭和半ばのあの頃は、子どもらの眼も輝いとったんやさ。真冬でも年がら年中、半ズボン一丁で走り回って。子どもらにしたら、一文菓子屋や玩具屋は、いつでも夢の王国見たいなもんやったんやで」。
郡上市白鳥町の「おもちゃのごんぱち」。
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二代目主の野々村昇さん(72歳)が、店先でコロッケを揚げながら、子どものような眼をして笑う。
屋号には「おもちゃのごんぱち」とあるが、中々どうして守備範囲は実に広い。
まず店の入り口だけを見ると、まるでファストフード店さながらだ。
牛肉コロッケ、そばめし、唐揚げ、牛まんポテトにクレープ、そしてジュース類からソフトクリームまで。
子ども心を弄ぶような、魅惑的なメニューが勢揃い。
次に一歩入り口を入ると、そこは昭和レトロな一文菓子屋。
駄菓子や籤引きに、メンコやビー玉から玩具のピストルに縄跳びまで。
「こんな雑玩が、昔はよう売れたんやさ」。
さらに店の奥には、プラモデルやモデルガン、それにコレクターマニア垂涎の逸品、年代物の昭和のレトロ玩具がテンコ盛り。
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野球盤に初代の人生ゲームやダッコチャンまで。
どれ一つとっても、咽返るようなあの昭和の残像が鮮明に甦る。
さらに店中の壁を埋め尽くす、集合写真の数々。
「半世紀以上前からの、子どもたちとの記念写真やさ。たまに都会へ出てった者が、里帰りすると寄ってくれて、『おおい!オジキチ、オバキチ元気か!』って入ってくるんやて。しかも自分の子どもまで連れてきて『あっこれ、お父ちゃんの子どもの頃の写真や』ゆうて喜んで、もうどっちが子どもかわからんほどなんやて」。
昇さんは、傍らの清子さん(69歳)を見詰めた。
「こないだも自分の結婚式の披露宴で、スライドで見せたいゆうて、子どもの頃のやんちゃ坊主の記念写真を貸したげたばっかりなんやさ」。
子どもに釣銭を渡しながら、清子さんがつぶやいた。
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そもそも「ごんぱち」の由来はと問うた。
「祖父の名が権八やったもんで、周りの人がそういいないたんやわ」。
昇さんは昭和14年、3人姉妹の真ん中に長男として誕生。
しかしわずか3歳にして、父と死別。
幼子3人と姑2人を抱え、母は和裁仕事で一家を支えた。
「そりゃあ母は、女手一つで大変やったって。和裁仕事の傍ら、生徒を取って教えて。月謝の代わりに米貰って、生計立てとったんやで」。
戦後しばらくすると、友人が闇屋を勧めた。
「和裁なんかじゃ儲からんで、わしらと闇屋せえへんか」と。
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「母は米抱え、越美南線(現、長良川鉄道)の始発で名古屋の闇市へ。米売った金で、帰りに駄菓子やオモチャ仕入れて来るんやわ。ぼくも母や姉に付いてって、学生鞄の中によう隠したもんやて。警察に見つかると没収されてまうで。そんでも母は、食管法違反で2回捕まって、悲しい顔して帰ってきたの、今もよう忘れん」。
昭和29年、中学を出ると八百屋へ住み込みに入ったものの、翌年身体の弱い母に乞われ家業へ。
昭和39年、隣りの高鷲町から清子さんを妻に迎え、一男一女を授かった。
「ちょうど東京オリンピックの頃やった。それからしばらくは、子供も多く商売も一番全盛期やったわ」。
高度経済成長は、オモチャにも変化をもたらした。
人生ゲームやオセロ等の「盤モノ」は、やがてTVゲームへ。
ボール紙を切り抜く、着せ替え人形などの「女玩」は、ビニール製のフィギュアへ。
ブリキ玩具は、やがてセルロイドからプラスチック製へ。
「オモチャより何より、子どもが変わってまった。昔の子は、店に入って来ると、目がギラギラ光っとった。でも今の子は騙かいたようなオモチャにゃ目もくれん。何でも妙に大人ぶって、本物志向やで」。
品定めに夢中な子どもたちを、暖かな眼差しで見つめた。
「小さい頃、貧乏やったけど家風呂があって、いっつも近所の連中が貰い湯にやって来るんやて。だで、俺らいっつも一番ビリやわさ。でも皆『おおきに』って、煮た芋を持って来てくれたりして。今思うと昔は、人と人が支えあって、心と心で繋がっとったんやろな」。
子ども心に描く見果てぬ夢。
それを叶える魔法のオモチャ。
半世紀に渡り、子ども達に夢の欠片を届け続けた男は、店先に傾きかけた西日を、ぼんやり見つめ続けた。
おもちゃのごんぱち/郡上市白鳥町本町
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