「昭和Nostalgia」(535)

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カセットテープのインデックスカードに、こんな風に録音したアーティスト名やタイトルなんぞを、手書きではなくインレタ(インスタントレタリング)でちょっとお洒落に作ったりしませんでしたかあ?

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昭和の80年前後から、カセットテープが手に入れられやすくなり、こんなインレタ仕様のオリジナルインデックスが流行ったものでしたですねぇ。

ぼくももちろんやりました!

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インレタのアルファベットをカードの升目に合わせ、ボールペンのキャップの方で擦って、カードにインレタの文字を貼り移して!

ところがどっこい!

ついついうっかり、肝心のアルファベットの綴りを間違えたり、或いは気の緩みのせいか文字が斜めにズレちゃったり!

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しかしもう今となっては、何もかもがPC一つでお茶の子さいさいなんですから、あの苦労は何だったのよってな感じなんですよねぇ。

きっとわが家のどこかにも、悪戦苦闘して貼り付けた、インレタ仕上げのカードのカセットテープが、埋もれているかも知れません!


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「昭和Nostalgia」(534)

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子どもの頃、白黒テレビを通して、興味津々と見入っていた演芸がありました。

こんな風貌のコメディアンが、縦笛を吹き鳴らし「レッドスネークカモン!」と言うと、上蓋を押し開けて愛嬌たっぷりのヘビが顔を出すと言う代物。

参考

「レッドスネークカモン」って言われて顔を出したのが、果たして赤色の顔のヘビだったのか、わが家の白黒テレビじゃあ、そんなもん識別できゃしませんでしたが、そう言われればきっとあのヘビは赤色何だろうなって思い込んだモノでした。

その演芸は、東京コミックショウのショパン 猪狩と言う芸人の持ちネタで、ぼくは土曜の半ドンの日は授業が終わると、一目散に家へ飛んで帰って、テレビに釘付けとなって「今日はレッドスネークカモンのオッチャンが出ないかなぁ」と、一日千秋の想いで首っ丈だったもの。

話の展開やらオチなんてすっかり忘れてしまっているのに、「レッドスネークカモン」の呼び声だけは、今でも覚えています。

気になってどんな展開の筋書きだったか調べてみると、こんな感じだったとか。

幼かったぼくは、もうさっぱり覚えちゃいませんでしたが!

どうやら、こんな感じだったようです。
「まずはレッドスネーク」と言いながら、縦笛を吹くと赤いザルの蓋が跳ね上がり、赤ヘビが現われ口をパクパク。
このヘビは鍋つかみを細くし、ヘビに似せてた手袋に目を描いたもの。

台の中に人が入り、手を動かしてヘビの口を開けたり閉じたりする。

ヘビがクネクネ身を捩り、口をパクパクさせる様子は愛嬌たっぷり。

次に緑のヘビを呼びだし、最後に黄色いキングコブラを呼び出す。

そしてクライマックスは、3匹のヘビを一緒に登場させようとする。

ところが赤と緑は出てくるが、黄色が出てこない。

ザルをたたくと「あ、痛」といって女性が顔を出す。

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その女性が、ショパンの愛妻、千重子夫人だったとか。

とてもとても懐かしい、白黒テレビでしか見れなかった、赤・緑・黄のヘビたち!


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「昭和Nostalgia」(533)

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こんなポップな白黒テレビって、ご覧になった方もおいででは?

もちろんわが家にゃあ、こんな洒落たテレビなんぞなく、4本足の箱型白黒テレビでした。

じゃあこんな洒落た小さなテレビをどこで見かけたのやら?

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わが家の周りにゃあ、どこからどう見渡したって、こんな洒落っぽいテレビが似合いそうな家なんて?

あっ、待てよ!

そう言えば、斜めお向かいのご隠居夫婦の息子さんで、アマチュア無線やらラジオやステレオをコレクションしていた、あのSさん家のお兄さんの部屋で見かけたんだぁ!

確かアマチュア無線のやり取りを見せていただくために伺った折り、こんなテレビが目に入ったんだぁ!

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こんな球体型のテレビ、ナショナルでは「スペースエイジ」、方やビクターでは「ビデオスフィア」とかってぇ商品名だったようです。

何でもこんな様式は、スペースエイジデザインと呼ばれるものだそうでして、1960~1970年代にかけ、アメリカを中心に流行した家具やインテリアのスタイルを指すんだとか。

まぁその時代は、米ソで挙って月を目指したような、宇宙開発時代の幕開けでもありましたですものねぇ。


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「昭和Nostalgia」(532)

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子どもの頃、遠足の度にお母ちゃんがぼくのリュックサックに入れていた「カルミン」。

それなりに食べたことがあったのに、もうすっかりどんな味だったのか、さっぱり思い出せません。

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いやはや、この齢になると、もう何かにつけ一事が万事こんな調子ってんですから、我ながら情けなくなるばかりです。

しかしこのカルミン、単なる駄菓子かと思いきや、何が何が!

参考

ちょいと調べてみますってえと、大正10(1921)年の生まれだってんですから、今を遡る104年も前からこの世に存在した、庶民の銘菓であったことになります。

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のちの明治製菓の前身、東京菓子株式会社から発売され、大正14(1925)「ココアカルミン」、昭和3(1928)年)「パパイヤカルミン」、昭和7(1932)年「チェリーカルミン」が発売されたと言いますから、まぁ何ともハイカラなお菓子だったようです。

そんな頃の一時期には、ストロベリーミントの「苺カルミン」も存在していたと言いますから、戦前のまだまだ束の間の平和を、誰もが享受していた時代だったのかも知れません。

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大正時代から続いた、大変息の長いロングセラー商品ではありましたが、2015年3月末をもって生産が終了。

惜しまれながら94年の歴史に幕を下ろしたんだとか。

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そんな歴史を振り返ってみると、94年も愛され続けた「カルミン」に、敬意を表したくなっちゃいましたぁ!


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「昭和Nostalgia」(531)

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公園の砂場で、友達と一緒に砂の山を築いて、トンネル堀りをした経験はございませんか?

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袖とズックを砂まみれにしても、平気の平左で!

しかし昭和の時代には、近所の小さな公園でも、必ず砂場があって、未就学児童やら低学年の小学生らが、砂場遊びを楽しんでいたものでした。

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ところが最近じゃあ、公園に砂場自体が無くなってしまっているような?

まぁ例え砂場があったにせよ、もう子どもたち自身も砂場遊びに興味を抱かないかも知れませんし、何より子どもたちの親が、不衛生だと一刀両断の元、砂場遊びを子どもらに勧めないかも知れませんですねぇ。

ぼくも娘が幼い頃に砂場遊びをしたのが最後。

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そう言えば、磁石を使って砂鉄集めなんてぇのもやりましたですねぇ。

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はてさて、面白がって集めた砂鉄は、その後一体どうしたものやら・・・。

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砂場遊びに興じる子も見かけない時代、砂鉄集めに興じる子どもたちは、なおさらいないんでしょうねぇ。

プロの手によるサンドアートとまでは行かなくったって、せめて不格好な砂の城なんぞ、一度くらい作って見たかったものです。

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って、やっぱり不器用なぼくにゃあ、そんなこと無理に決まってっかぁ!


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そう言えば子どもの頃、こんなカラフルなニッキ水を見かけると、飲んでみたいなぁと思ったものでした。

そしてついに初ニッキ水を買い求め、大喜びで口に含んだ途端!

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なんともエキゾチックな風味と刺激が、口の中で大騒ぎ!

それ以来、すっかりニッキ水は苦手になってしまったものでした。

でもぼく以外の子どもらには、すこぶる人気で、色んな色のニッキ水を飲んでは、色に染まった舌を出し、それを見せ合っている姿を目にしたものです。

昭和半ばのニッキ水は、合成着色料の強烈な色合いと、鼻を刺激するシナモンの香りが特徴で、舌や喉の奥がヒリヒリしたり、飲み終えた後もしばらく痺れが残るほどの刺激が、逆に怖いもの見たさの子どもらに人気となったとか。

しかし子どもが飲み干すには余りにも刺激が強すぎ、少しずつ舐めながら楽しみ、飲み終えると赤や緑に染まった舌を見せ、子供同士で笑い合う場面が定番であったとか。

そう考えると、子どもらの生態は、全国津々浦々、どこも同じだったようですねぇ。

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瓢箪に似たガラス瓶も特徴で、昭和20年代から30年代にかけては、縁日の屋台の人気モノだったとか。

肉桂玉なら舐められるんだから、今だったらニッキ水も平気かも?

でもさすがに何が何でも飲みたいってぇものでもありませんねぇ。


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「昭和Nostalgia」(529)

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これをご覧になって「懐かしい~っ」と思わず口に出てしまわれた方は、紛れも無く昭和半ばを生き抜いた、腕白坊主のお一人に相違ありません。

ただし、女子の方はご存じないやも?

ぼくも駄菓子屋で買って遊んだ記憶があります。

でも果たしてどうやって遊んだのやらと、調べてみてそうだったぁと思い出しました。

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そう言えばこんな紙の火薬を使ったものでした。

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でも空へ放り投げ、地面にぶち当たって火薬が爆発すると言う、至って単純な遊び。

今思うと、何がそんなに楽しかったのやら?

つくづく子どもの頃ってぇのは、そんな大人にして見たらなんてぇ事のないモノであっても、十二分に楽しかったのですから不思議でなりません。

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そう言えばこれまた、腕白坊主共の七つ道具の一つ、癇癪鉄砲です。

こんな紙火薬のロールをいくつもポケットに忍ばせ、仲間と打ち合いに興じたものでした。

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驚くなかれ、こんな地雷のオモチャもあったとか。

さすがに地雷なんて、ぼくは知りませんでした。

まぁそれにしても、昭和半ばには、何とも物騒なオモチャが子ども向けに売られていたものですねぇ。


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「昭和Nostalgia」(528)

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おまけの付いたキャラメルは、遠足用のお菓子にゃあ欠かせぬほど、それはそれは愉しみでならなかったお菓子の定番でした。

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食玩と言う名のおまけのオモチャ欲しさで、ついついキャラメルを買ってしまう子たちも多かったものでした。

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そんな中で、森永のキャラメルには、食玩は付いていなかったものの、ぼく的にはキャラメルの味が際立っていたように思えます。

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グリコが「一粒300m」なら、森永は「世界を3まわり半」と、広告のコピーでもしのぎを削っていたようですねぇ。

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いつかはこんな高級そうな、「フランスキャラメル」とやらを食べてみたいと思ったものでしたが、その夢かなわず、とうとう今さらキャラメル?ってな歳に成り果ててしまったものです。

昭和半ばの子どもたちを、魅了してならなかったキャラメルですが、国産キャラメルが誕生したのは明治の時代だとか。

その後、第二次世界大戦時に製造が中断。

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そして昭和28(1953)年に砂糖の統制が解除され、菓子メーカーが一斉にキャラメルを発売したようです。

メーカーの宣伝競争も激しくなるばかりで、ヘリコプターを使った広告宣伝も盛んに行われたようです。

なんだかぼくも空を仰ぎ見たような記憶が・・・。


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そう言えば子どもの頃、ご近所のお兄さんやお姉さんたちが、ジーンズにこんなWの穴の開いたベルトを、颯爽と着けていたものです。

もちろんぼくもご多分に漏れず、そんなW穴のベルトが欲しかったものでした。

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とは言え、まぁいつものことでしたが、そうそう簡単に等買ってはもらえっこ無いのが現実。

東映のヤクザ映画のチンピラ役で出て来る男優も、黒いパンタロンのようなパンツに、真っ白でピッカピカのエナメルのW穴ベルトを着け、白いエナメルのシューズを履いていたものでしたですねぇ。

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そんなW穴のベルトにも、ちゃんとした名前があったようで、その名も「ダブルピン パンチングベルト」ってんだそうです!

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ぼくも中学1年になった頃、やっとW穴のベルトを買い与えてもらったものです。

でもその頃は、もうとっくの昔にブームも過ぎ去っていたような・・・。


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「昭和Nostalgia」(526)

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ぼくも昭和の第4コーナーに入った頃、こんな風に車のキーを車内に残したまま、インロックしてしまい、大慌てをしたことがありました。

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当時は今のような、スマートキーやキーレスキーは無く、キーを車外に持ち出してボタン一つでロックする時代ではなく、どうしたものかインロックしてしまったのです。

気は焦れども、うんともすんとも、おいそれとドアロックは解除されません。

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「あっ、待てよ。そう言えば・・・」

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誰かが言っていた、ハンガーや指金を窓の隙間から差し入れ、ロックを解除するパーツに引っ掛け開錠すると言う手段。

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ところがそこら辺に都合よく、クリーニング屋さんで貰えるような、針金のハンガーなんて転がってませんし、ましてや指金なんてぇものは、荒物屋さんにでも行くか、大工職人さんでも無きゃ、そうそう滅多やたらに手に入る代物じゃあありません。

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車を止めていた脇のお宅を訪ね、コレコレしかじかと訳を説明し、クリーニング屋さんでもらった、安っぽい針金ハンガーをいただき、それを棒状に伸ばして先っちょを釣り針の様に曲げ、窓ガラスの隙間からそっと入れ、何度も何度も針金を上げたり下たりしていると、やがて「カチャ」と音がし、ドアのロックピンが持ち上がり運転席のドアが空きました!

すると俄かに拍手が巻き起こるじゃないですか!

そうです!

親切にも針金ハンガーを恵んでくださった、見ず知らずのご家族一堂が、ぼくのドアロックを開錠する一部始終、固唾を飲んで我がことのように眺め入ってくれていたようです!

まぁ差し詰め今風に言うなら、TV番組の「開かずの金庫」にご出演の、鍵師さながらだったのかも?

皆様も一度くらい、そんなご経験をお持ちなのでは?


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