
「After you」 詩・曲・歌/オカダ ミノル
After you どうぞ君がお先に
ぼくは君の後を 追い越さぬように 見守るだけ
After you もしも君がそこに
蹲(うずくま)るならぼくが 直ぐに駆け付けて 手を差し出そう
哀しみ詰めた 重い荷物は
もう捨て去って 心開いて
After you どうぞ君がお先に
君はぼくの心を 導く一筋の 燈(ともし)火(び)
After you 君が道に迷えば
ぼくは風を集めて 草木を靡(なび)かせ 君を導こう
After you 君の行く先を
嵐が塞(ふさ)ごうとも ぼくは壁となり 立ちはだかろう
鈍色(にびいろ)した 重い雲でも
明日になれば 流れ去ってゆく
After you 君を見守ろう
ぼくの命の灯が 消え入るその日の 来るまで
After youぼくが 前を行くなら
君がはぐれて しまわないだろうか
After you だから君が先に
君はぼくの心を 導く一筋の 燈火
子供の頃、田んぼの中を横切る畦道の通学路には、あちらこちらで屈み込み道草を食う子どもらが沢山いたものです。
今の子たちと違って、学習塾やら習い事に追われるわけでもありません。だから授業が終わって校門を飛び出そうものなら、そこからは先生も立ち入る隙の無い、子どもらの聖域ともいうべき、遊びの時間の始まりです。畦道に屈み込んで見たり、草むらから慌てて飛び出すバッタを追いかけたり…。草笛を鳴らして見たり…。なんかかんかを見つけ出しては、それを遊び道具や遊び相手として見繕う術を持ち合わせていたものです。
それはそうと、「After you」。とても大好きな英語の一つです。ホテルのエレベーターの入り口などで、英国紳士風のジェントルマンに片手を差し出され「After you」と促されようものなら、自分がとんでもなく子どもに見えて仕方なくなってしまいそうです。「どうぞお先に」。この一言を最近の日本人は、見失っているように思えてなりません。仮に「どうぞお先に」と譲って差し上げたとしても、そんなものは長い人生の中の、ほんのわずか数秒の違いでしかありません!
それどころか我こそは我こそはと、譲ることがあたかも負けであるかのように忌み嫌い、先へ先へと進んでいかれる方も目にします。先へ先へと急ぐあまりに、周りの景色や路傍の花々に目を向けることも無く、ただただ突き進む。まあそれもひとの一生には違いないでしょうが…。
「どうぞお先に!」と、ごくごく自然体でその言葉を発し、己の心地よい歩速を保ちながら、道草ばかりして何度となく立ち止まり、そして振り返ってみる。どこまで行かなければいけないなんて、人それぞれの人生に一定のゴールなんてありません。行けるところまで行けるだけでも、十分に幸せな一生もあるはずです。
どちらが良くって、どちらが悪いと言うものなんかではありません。
そもそも自分らしい道程は、そのどちらだろうか、と言う事でしかない、そんな気がいたします。
たった一回こっきりの人生だからこそ、何もかもかなぐり捨てて、人よりも前を行く事だけに命を懸けなくたっていい。例えどん尻であろうと、人生のゴールまでの道程の中で、何を見て、何を感じ、何を悟れたかが、ぼくにはとても重要に思えてなりません。
なぜならぼくは、人生で道草ばかりを食らい続けた、自虐的に言うならば、「道草の達人」だからかも知れません(笑)
「After you」。英国紳士のように、いつか自然体でそう言える日が来るような、そんな生き方を身に着けたいものです。
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