「天職一芸~あの日のPoem 47」

今日の「天職人」は、三重県伊勢市の、「蒲鉾職人」。

辛い思いを抱いた夜は 駅舎の待合室にいた       故郷からの汽車が着き お国訛りを目で追った      母恋しさに寝れぬ夜は 故郷に向いた窓を開け      煎餅布団に包まって 母の鼻歌口ずさむ

三重県伊勢市で明治38(1905)年創業の蒲鉾店「若松屋」三代目美濃豊松さんを訪ねた。

「丁稚奉公の頃は、窓が伊勢へ向いとるだけで、なんや嬉して、そんだけで幸せやったんやさ」。豊松さんは、水仕事で真っ赤になった手を揉みしだいた。

豊松さんは昭和16(1941)年、伊勢の台所として参宮客で賑わう河崎で誕生。しかし戦時の暗雲が重く垂れ込め、統制経済の影響で店は休業を余儀なくされた。

戦後の混乱期には、正直者が馬鹿を見た。「魚の頭落として、身だけ籠の下へ入れ、粗で上っ面を隠して。皆上手い事しとたらしい。でも家の親爺は、ようせんかって休業のままやさ。お陰で皆客取られてもうて」。戦後一年を経て、ようやく店は再開した。

豊松さんは小学生の頃から店を手伝い、高校を出ると大阪尼崎の蒲鉾屋へ丁稚奉公に出された。「しばらく他所で、冷や飯喰うて来い」と。

早朝4時に起き出し、食事は俎板を食卓代わりにして、立ったまま掻き込んだ。夜遅く仕事を終えると、疲れ果てた足で梯子を上り、屋根裏部屋に崩れ込んだ。「阪神が負けると、大ファンの番頭が、腹癒せにバケツで水をぶっ掛けよってかなんだわ」。ところが豊松さんは、辛かった丁稚時代が、今でも一番の宝物と言う。二年に及ぶ冷や飯修業を終え、伊勢に戻り先代の下で家業に明け暮れた。

二十七歳の昭和43(1968)年に妻を娶った。すると孫の成長を見納めたかのように、創業者であった祖父が息を引き取った。その翌年、今度は二代目の父が、後を追うかのように他界。わずか三十歳にして、先達二人を失い、途方に暮れながら三代目を襲名した。

豊松さんの蒲鉾には、最高級のグチやエソを始め、伊勢で水揚げされた地場の白身魚が使われる。まず下ろした身に塩を振り、粘りが出るまで磨り潰す。そこに魚の煮汁と砂糖、そして味醂を加え秘伝の味に調える。仕上げは蒲鉾の付け板に、刃の無い付庖丁(つけぼうちょう)ですり身をこんもりと半円型に盛り付け、着色した紅色のすり身を上塗りする。

「伊勢の杜が清めた水は、川を下り豊かな伊勢の海を作るんやさ。神様が与えて下さるこの土地の素材にこだわって、納得いく味ださんとな」。豊松さんは窓の外を眺めた。

神領河崎生まれの誇りを、白身魚と共に練り上げる伊勢蒲鉾は、一世紀も前の風味そのままに、現を生きる我らの舌に運び来る。

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「天職一芸~あの日のPoem 46」

今日の「天職人」は、岐阜市日ノ出町の、「珈琲職人」。

朝昼晩 三杯の珈琲 いつもの店 いつもの席      「お待たせしました」 いつも君の声がした       いつもかわらぬ珈琲が 今日は何だかほろ苦い      小さな店を見渡せば 君と似つかぬ声がする

岐阜市日ノ出町で昭和2(1927)年から続く、たつみ茶寮、二代目女将の竹中さがみさんを訪ねた。

外観

女将は大正13(1924)年、岐阜県安八町で誕生。十六歳の年に初代夫婦の養女となった。しかし昭和16(1941)年、七・七禁令が施行され、珈琲は贅沢品として槍玉に挙げられた。戦争拡大は、国民の生活を日々蝕み、農林省により代用珈琲の原料が、さつま芋やユリ根に規格化された。「横文字の看板を取り換えた店もあったんやて。そんでもここでは、珈琲は珈琲って言うとったけど」。さがみさんが目を細めた。

昭和19(1944)正月。芝居小屋の金華劇場から出火。煙草の不始末により日ノ出町の一帯が類焼。一家は鍋屋町に居を構え移り住んだ。しかしそれも束の間。翌昭和20(1945)年7月9日、八百六十三人もの尊い命を奪い、市中を焼き尽くした岐阜空襲で、再び焼け出された。何人たりとも戦禍に抗う事など出来ず、呆然と玉音放送に耳を傾けた。

昭和22(1947)年、疎開先から引き揚げ、現在地に店を再興。さがみさんは美容師の資格を取得し、店の二階に美容室を構えた。やっと戦禍の呪縛から解き放たれ、生きる希望が輝き始めた矢先のこと。今度は目と鼻の先の映画館から出火。火の手は一気に近隣を襲った。「まんだ買ったばっかやった、電髪(でんぱつ)の機械も黒焦げやて。一階の店は水でベッタベタやったし」。三度目の貰い火は、二階のさがみさんの美容室だけを焼き尽くし、さがみさんの希望に満ちた夢は呆気なく潰えた。

店内

昭和27(1952)年、北海道出身の博さん(故人)と所帯を持ち、店を切り盛りした。翌年には、テレビの本放送でプロレスが中継され、力道山の空手チョップに人々は歓喜。「天皇家と同じやいう一番大きなテレビ買って。それが評判を呼んで、プロレスが始まると超満員やったて」。

昭和30(1955)年には、三代目を継ぐ一粒種の英次さんをもうけた。

未だに戦前から使用する大型ミルで、七種類の豆を挽き、創業時と何一つ変わらぬ手法で珈琲を立てる。「商いだけに、飽きんとやってこれたんやて」。

写真は参考

逆境をものともせず生き抜いたさがみさんは、七十六年前(平成十五年四月二十二日時点)と変らぬ珈琲を差し出した。こくのある深い薫りに導かれ、ちょっぴり切ない昭和初めのハイカラな味が、喉の奥に広がった。

写真は参考

*「七・七禁令」とは、奢侈品等製造販売制限規制。

*「電髪」とは、パーマネントの呼称。

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「天職一芸~あの日のPoem 45」

今日の「天職人」は、愛知県蒲郡市の、「洋服仕立て職人」。

家は魔法の館やで みんな嘘や言うけれど        入り口潜るただのおっさん 帰りは気取ったモボになる  家の父さん魔法使いやで 唱える呪文教えたろか     シャキシャキ鋏の音がして カシャカシャミシンが音立てる

愛知県蒲郡市で昭和9(1934)年創業のノサキ洋服、二代目の野崎龍也さんを訪ねた。

ノサキ洋服外観

「大正末から昭和初期にかけてのモボ(モダンボーイ)は、東京銀座のお話し。ここらぁじゃ、三つ揃えの背広に足袋、それに下駄履きだったようです」。和洋折衷が織り成す、当時の不思議な光景が浮かんだ。

写真はイメージ

達也さんは、戦後間もない昭和21(1946)年に誕生。「敗戦で物資も乏しく、当時は進駐軍払い下げのシーツでYシャツを誂え、軍服をスーツに仕立て直した」とか。羅紗切鋏(らしゃぎりばさみ)の音と、足踏みミシンが発する規則的な音を、子守歌代わりに成長した。高校を出ると上京。夜間大学に通いながら東京洋服学校へ通い、裁断、縫製、ミシンかけを学んだ。アイビールック隆盛の東京暮らしを身に付け、龍也さんは意気揚々と帰郷した。しかし中卒で住み込み、先代の下で修業を続けて来た同世代の職人には、とても太刀打ち出来なかった。

「職人が寝静まるのを待って作業場へ。先輩たちの仕立て方を、懐中電灯を点けて盗み見るんです。気付かれないよう、物音を立てずにトイレにも行かず。でも翌朝になると『昨日は夜鼠がうるさかったなぁ』って、先輩に言われて」。

仕立て職人への道程は、スラックスに2~3年。ベストに2年。上着に3~5年を費やし、やっとモーニングやタキシード、燕尾服へと腕を上げる。

まず客の体型を目で測り、好みの色を見極める。「だって今着ている服を見ればわかります。そもそも大嫌いな色は絶対に入っていませんから」。龍也さんがメジャーを使うのは、あくまで目測を確認するためだ。服地が決まれば裁断、仮縫いへ。ここまでの作業は十分の一。

着せ付け後は、仮縫いを解いて分解し、お客の身体的な特徴に応じて補正を加え縫製へ。仕上がりまで二週間。射るような職人の眼に晒され、金糸でモボの影絵を織り込んだ見返しのネーミングタグが、職人の誇りと共に縫い込まれる。

今尚三代に渡って続く客も多い。「良い服を着れば、心も福をまとう」。龍也さんは、年代物の鋏を取り出しそう呟いた。代々親方だけに持つことが許される、手打ちの羅紗切鋏だ。重厚な面構えの鋏は、七十年(平成十五年四月十五日時点)におよぶダンディズムの歴史を宿し、浪漫を秘め鈍色の光を放った。

写真は参考

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「天職一芸~あの日のPoem 44」

今日の「天職人」は、三重県津市の、「簾(すだれ)職人」。

旦那の代わりのお遣いは 隣の町のお店(たな)まで   ご苦労さんと労われ 土間で番茶を一啜り        簾越しに揺れる影 清楚可憐なお幼(いと)はん     一目お顔を拝みたい 一言言葉も交わしたい       身の程知らずの片想い 簾隔てる淡き恋

三重県津市で明治20(1887)年から続く、阿部久すだれ店三代目の阿部久司さんを訪ねた。

「二塁手の二番。甲子園の高校球児やったんさ」。一畳ほどの作業場に座し、苦竹(にがたけ)を割く手を止め、久司さんは壁の写真を指差した。

久司さんは昭和10(1935)年に誕生。津高校へと進学した。「名門やったで、大学へ行きたかった。でも親爺は店継げ言うて認めてくれやんで。進学あきらめて、代わりに野球に打ち込んだんやさ」。

高校三年の夏、久司さんは甲子園の土を踏んだ。初日の第三試合、対するは宇都宮工業。グラウンドに落ちた影が長く伸び始めた頃、ナインの健闘も空しく、二対一の僅差で敗退。津高校野球部と久司さんの夏が終わった。「今し、みんな甲子園の土持ち帰るけど、忘れてもうてなぁ。後で貰(もろ)てきたんさ」。

高校を出るとすぐ職人見習いが始まった。春から夏は簾。秋から冬は竹籠作りと、朝から深夜まで作業に追われた。

ある日町内の若者たちからスキーに誘われたが、仕事に追われそれどころではなかった。するとその日、初めて父が久司さんに詫びたと言う。一刻な職人が、父親としての顔をわずかに覗かせた瞬間。「働くことは苦にならんだ。でも帰省した連れが角帽姿やで、一緒に歩くのんが一番かなんだ」。心の何処かで負い目を感じていた。

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「簾一枚垂らせば、向こうは別世界やでなぁ。昔の人らの知恵は大したもんや」。お座敷簾も、神社仏閣の御翠簾(おみす)も、竹籤(たけひご)を自家染めの綿糸で編み込む簡素な作り。しかも簾の表面に透かし彫りの様に、波や鳥をあしらう意匠は、竹籤の節を少しずつずらして編み込むだけ。それで遠目に図柄を浮き立たせるのだ。その控え目な意匠の表現方法が、簾の味を一層際立たせる。

神社仏閣からは、二百年ほど前の御翠簾の修理も依頼される。「竹籤に二百年前の日付と、職人の名が刻み込まれとるんやで。そんなん見るとなぁ、まだまだ自分はヒョッコや思てなぁ」。右利きの久司さんは、左庖丁を買い求め、籤の太さに応じて刃先を削り込み、竹の皮剥ぎ用の道具に仕立て上げる。

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「これも職人の大事な仕事のうちやで。でも今までようけ失敗して、刃みんなこぼしてもうたわ」。無駄一つない動きの指先を、片時も休めず久司さんは笑った。

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「天職一芸~あの日のPoem 43」

今日の「天職人」は、岐阜県高山市の、「神棚指物師」。

信心深くもないぼくが 柏手打って神頼み        隣の駅で見掛けるあの娘に 恋する心が届きますよう   縁結び名高き神のご利益か 席を譲った老婆がまさか   義理の祖母になろうとは 赤子抱くあの娘に寄り添う宮参り

岐阜県高山市の神棚指物師、岩花憲徳(としみち)さんを訪ねた。

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半世紀以上も昔、「昭和の甚五郎」と呼ばれた神童がいた。それが岩花さんだ。

憲徳さんの父は、高山で手広く事業を拡げ、当時としては珍しい大恋愛の末、岐阜県岩村町から妻を迎えた。誰もが羨む幸せ絶頂の中、一粒種の憲徳さんが昭和2(1927)年に誕生。だがその幸せの輝きは、闇夜を照らす蛍の灯より儚かった。程なく父は事業に失敗し、一家は名古屋へと落ち延びた。

そして追い打ちをかけるように、憲徳さんが二歳の年、再起を果たせぬまま父が他界。遺された母は、幼子を抱え故郷岩村町の兄妹を頼った。だが一度坂を転がり始めた勢いを、止める術などどこにも無かった。さらに神は、一家を突き放すかのように、今度は母の命を召し上げた。四歳の憲徳さんは、天涯孤独の身と成り果てた。

「よう学校で『捨て子ゃ』って虐められた。でも得意の工作で見返したったんやて」。それが評判を呼び、いつしか神童と讃えられた。

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昭和18(1943)年、育ての親への孝行にと、命を差し出す覚悟で予科練を志願。しかし敢え無く二次試験に落ち、結果として一命を取り留めた。

終戦から三年。貧しくも平穏な暮らしが村に戻った頃、兄妹同然に育った従兄妹の嫁入り話が持ち上がった。憲徳さんは、せめてもの祝いの品にと、昼間の野良仕事を終えると、寝る間を惜しみ嫁入り道具作りに没頭。見よう見真似で、桐の夫婦箪笥から下駄箱までを仕上げた。馬車に積み込まれた嫁入り道具は、村中の評判を呼び注文が殺到した。

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それから三年。一家三人が夜逃げ同然で後にした、高山へと一人舞い戻った。桐と漆箪笥専門店の職人として勤め、二十九歳の年に妻を迎え、自らの手で家を建てた。

四十九歳の年に箪笥店を辞し、京都へ足蹴く通いつつ、試行錯誤で工夫を重ね、百八十種に及ぶ神棚作りを開始。「神棚は、神様に棲んでいただく聖なる神殿や。相次いで両親を亡くした時は、神も仏も無いと思ったもんやけど、何とかここまでこれたんは、やっぱり神様のご加護やて」。憲徳さんは、真っ黒な指先を見つめた。

写真は参考

お家再興を果たせず散った父の志を、昭和の甚五郎と呼ばれた神童は、己の指先一つで神をも味方に引き寄せ、半世紀以上の時を費やし、見事故郷に錦を飾った。

*二〇〇四年三月二十三日永眠。合掌

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「天職一芸~あの日のPoem 42」

今日の「天職人」は、愛知県東海市の、「産婆」。

おはよう 行ってきます ただいま おやすみ      早く君に逢いたくて 毎日話しかけたものです      こうして ああして 君との出逢い 思い描き      月の満ち欠け数えながら ぼくらは父と母になった    ようこそわが家へ ようこそ愛しき君よ

愛知県東海市の山口助産院、助産婦(助産師)の山口みちるさんを訪ねた。

山口助産院公式HPより 山口みちるさん

「この手で一万人の命を取り上げて来たんやで。道具なんて要らん。この手一つあれば」。みちるさんが両手を差し出した。弾力のある、温かく大きな手。一万人の新しい命が、この手の中で産声を上げた。「大きくても小さくても、赤ちゃんの命の重さはみんな同じ」。

昔の産婆(参考)

みちるさんは三重県菰野町で昭和9(1934)年に誕生。小学生の頃から、産婆の母親を手伝い、命の誕生の瞬間を間近で見つめ続けた。そして伊勢市山田日赤の黒衣の看護服に憧れ、日赤看護学校へ進学。卒業後は京大助産婦学校を経て、昭和32(1957)年に晴れて助産婦として山田日赤へと舞い戻った。

昔の山田日赤(参考)

昭和34(1959)年7月には、名古屋中村の第一日赤に転勤となり、寮生活を開始。その2ヵ月後の9月26日午後7時。最大風速三十七メートルの暴風雨を伴い、二十世紀最大の気象災害をもたらした伊勢湾台風が、名古屋港の満潮に合わせ上陸。通常より三・四五メートルも高い高潮だった。この日当直だったみちるさんは、午後7時からわずか2時間で、四人の赤ちゃんを取り上げた。

「『潮が満ちるとか、月が満ちる』言うやろ。月はまさに臨月のことやでな。必死んなってバケツで病室の水を掻き出したもんやわ」。後の記録によれば、伊勢湾台風による全国の死者・行方不明者の数は、五千九十八人に及んだ。しかし停電で真っ暗になった病室の片隅では、小さな四つの命が確かな産声を響かせていた。

寮母さんの口利きで、みちるさんは昭和36(1961)年、義母が助産院を営む山口家へと嫁いだ。

「結婚する時、仕事は手伝わないと、誓約書まで交わしたのに、忙しそうな義母を見るとつい手が出て・・・」。

みちるさんは、安易な神通誘発剤の使用に疑問を感じると言う。「赤ちゃんはな、S字産道潜って産まれる瞬間を、自分で調節しとるんやで。自分の力で肺呼吸するためにな。それを薬で『早よ出ろ』って追い出すようなもんやでな」。

「お母さんが初めて赤ちゃん抱いた時のあの笑顔。産婆への何よりの褒美や」。みちるさんが聖母マリアのように笑った。

写真は参考

メーテル・リンクのミチルは、幸せの青い鳥を探す物語。名付け親はきっと、みちるさんの行く末を見越し、青い鳥のミチルと、潮と月が満ちるの想いを込め、そう名付けたに違いない。

その結果として、伊勢湾台風で尊い命を失われた五千九十八人の、その倍に当たる新たな命を、この世に導くことになったのかも知れない。

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「君だけに贈るLove Song」

写真はイメージ

ぼくの曲の中に2曲、出逢いの奇跡を唄った曲があります。

一つは、ぼくが小学校の1~2年の頃の、ママゴト遊びに付き合わされていた当時を思い出しながら、フィクションで描いた「まあちゃんのママゴト」です。小学校1~2年当時、わが家の周りにもたくさんの同級生たちが住んでいたものです。特にわが家の近所は、同級生の女子が多く、「ふみちゃん」「たかちゃん」「よしこちゃん」「まあちゃん」と。わが家の周りには、同級生の男子が少なかったせいか、ママゴト遊びが始まると、ぼくがお父さん役を仰せつかったものでした。

本当はぼくにしてみれば、ママゴト遊びよりも、近くの広場で草野球の方が良かったのですが、草野球に向かおうとする度、直ぐに見つけられママゴト遊びに加えられたものです。そして「ふみちゃん」「たかちゃん」「よしこちゃん」「まあちゃん」のお相手を務めなければなりませんでした。

そんな事を21~22歳になってから思い出し、この「まあちゃんのママゴト」が誕生したものです。何故「ふみちゃん」「たかちゃん」「よしこちゃん」ではなく、「まあちゃん」だったかと言うと、この曲のメロディーに一番しっくり来たからです。

そして今日弾き語らせていただく「君だけに贈るLove Song」も、もう一つの出逢いの奇跡を曲にした作品です。

こちらはぼくが下手な解説をさせていただくよりも、何はともあれお聴きいただき、皆様それぞれの解釈をしていただければ幸です。

君だけに贈るLove Song

詩・曲・歌/オカダ ミノル

ぼくでも詩人になれると思った 街で初めて君を見た時

寄せる想いの甘い言葉を 並べて書いた手紙

 改札口で待ち伏せ 赤くなって手渡すぼくに

 クスリと君は「アリガトウ」 それが最初のLove Song

淡い想いもいつしか記憶の 片隅に埋もれたそんなある夜

終電のぼくの座席の前に 君がふと立ち止まる

 「改札口の恋文は 今も私の宝物」と

  クスリと君が「アリガトウ」 それが二度目のLove Song

真っ紅な糸の昔話は 叶わぬ絵空事なんかじゃない

二人の手を引きはしゃぐ娘が 何よりの証拠だね

 二度目の出逢いは神様が ぼくに与えて下さったと

 そう信じてるよ だから これがぼくからのLove Song

 二人の愛の物語の 行方はぼくの舵まかせさ

 キザな台詞で悪いけれど 君だけに贈るLove Song

 君だけに贈るLove Song

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「春の味覚狩り!」。そろそろ土筆やヨモギに筍に潮干狩りと、春の味覚狩りシーズンの到来です。人間にはいかな農耕民族とは言え、「狩り」に対する執着心が、DNAに深く刻み込まれているような気がしてなりません。ぼくも子供の頃なんて、家族で土手で食べれもしないほど土筆狩りに精を出したものです。ヨモギはお父ちゃんと取りに行き、お父ちゃんが一度だけ蓬餅を作ってくれたことがありました。三重の田舎で生まれた父は、尋常高等小学校を出ると、口減らしも兼ね大阪の和菓子屋へ、住み込みの丁稚奉公に上がったようです。しかし志那事変以降、日に日に軍靴の音が高まり、やがて父も出征。菓子職人の夢は潰えることとなったようです。そんな小僧時代に覚えたのでしょうか、とにかくびっくりするほど旨い蓬餅を作ってくれました。お母ちゃんと一緒に、美味しい美味しいと何度も言いながら、お父ちゃんの蓬餅を食べさせてもらったものです。どう言う風の吹き回しだったのか、お父ちゃんが蓬餅を作ってくれたのは、後にも先にもその時だけでした。でも今でもぼくにとっては、お父ちゃんの蓬餅が世界一でした。皆様は、どんな「春の味覚狩り」をなさいましたでしょうか?

今回はそんな、『春の味覚狩り!』。皆様からの思い出話のコメント、お待ちしております。

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「残り物クッキング~ニョッキのなぁ~んちゃってドルチェ 餡子とバニラアイス&カカオの生クリーム添え」

今回は、ちょっとイタリア~ンな、なぁ~んちゃってドルチェです。

白玉のように見えるものは、このところぼくがはまっているニョッキです。

調子に乗ってニョッキを買い込んでしまい、その半端な残り物を使って、なぁ~んちゃってドルチェにチャレンジしたのが、この「ニョッキのなぁ~んちゃってドルチェ 餡子とバニラアイス&カカオの生クリーム添え」です。

まずは生クリームとカカオパウダー、砂糖、ラム酒少々をホイップしておきます。

次にお皿の中央に、餡子で円を描き、その中にバニラアイスクリームを盛り付け、シナモンパウダーを振り掛けておきます。ぼくは御座候のビニール袋入りの粒あんを使い、ビニール袋の先端を挟みで切って、そこから餡子を絞り出して見ました。

次に3分ほど茹で上げ、バターソテーしたニョッキを皿にお好みで盛り付け、最後にカカオの生クリームを絞り出し、彩にマーブルチョコを散りばめたら完了。ぼくはコンビニで40円の8の字をしたマーブルチョコを買って見ました。

なかなかシャンパンによく合うドルチェとなりました。と言ってもぼくは、シャンパンのフルボトルを抜いて、呑み切る自信が無く、白ワインを相手にいただきましたが、我ながらビックリな美味しさでした。

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今日はひな祭りですねぇ。「天職一芸~あの日のPoem 41」

今日の「天職人」は、三重県桑名市の、「時雨煮職人」。

桑名赤須賀(あかすか) 川湊(かわみなと)      秋の時雨が 貝育て                  河岸も俄かに活気付く                 蛤漁の水揚げに                    家並漂う溜りの香り                  河岸に上がった蛤が                  桑名名物時雨煮に                   茶漬けに浮かべ舌鼓

三重県桑名市で時雨煮一筋で創業百有余年を超える、志ぐれ蛤貝増(かいます)商店の三代目女将、服部たゑ子さんを訪ねた。

「何でもあいくさ(相性)が合わんとなぁ。鰻と山椒のように、時雨煮には溜りと生姜がええし、毒気と匂いも消してくれるでなぁ。たいがい夫婦だって、あいくさが合わなんだら、添い遂げられやんで」。たゑ子さんは帳場に顔を出した夫を、目で追いながら笑った。

たゑ子さんは、桑名市の東外れ、長良川と揖斐川が合流し、伊勢湾に注ぎ込む赤須賀の川湊に、八人姉妹の末っ子として誕生。

赤須賀の貝漁は、蛤の「マキ漁」、浅蜊(あさり)の「ジョウレン漁」、蜆の「チャンチャン漁」の三種。多くの者が、貝漁や貝の加工で生計を支えた。

たゑ子さんは高校を出ると、名古屋市西区明道町の姉が嫁いだ菓子問屋に勤務。「漁師だけでは食べれやんでと、母は魚介と一緒に貝増で時雨を仕入れては、名古屋まで負(お)いねてって(背負って)行商しとったんやさ」。母と貝増先代との繋がり。義兄の嫁と姉が同級生だったという繋がり。そして夫となった、三代目時雨職人の豊治さんが、仕入れのため赤須賀の河岸を訪れていた繋がり。いくつもの繋がりが、まるで貝蛤(かいあ)わせのように、たゑ子さんと豊治さんの運命を引き寄せていった。「逞しさに惹かれちゃって」。たゑ子さんは懐かし気に笑って見せた。そして柔道で国体に出場した豊治さんと、二十二歳の年に結ばれた。

時雨煮は、赤須賀で剥き身にされた蛤を仕入れ、沸騰したたっぷりの溜りの中で、蛤の身が浮くように入れて炊き上げる。「晩秋に時雨る頃の蛤が、一番美味しいんやさ。冬を前に栄養を蓄えとるで、身がおおきてなぁ」。たゑ子さんが人差し指と親指を環にして、身の大きさを示した。

「この人なぁ、誰にでも親し気やろ。アゲマンの優秀な売り子さんやで、家(うっ)とこも何とかここまでやって来れたんやさ」。再び帳場を覗いて、豊治さんが嬉しそうに口を挟んだ。

「あの人に上手に仕込まれただけやさ。あの人なぁ、本当、欲得ない人でなぁ。自分で売った時雨の代金も、よう集金に行けやんのやで。嫁いで三十七年(平成十六年七月三十一日時点)。あいくさが合(お)うとったんやろか?せめて主人を先に送り出すまでは、頑張らんとなぁ」。

これはぼくの「貝蛤わせ」の内側です。
こちらが「貝蛤わせ」を合体させた、蝶番の部分です。

まるで時雨煮職人夫婦のような、この世にたった一つきりの貝蛤わせ。二枚の貝を繋ぎ止める蝶番のような絆は、蛤がその命を全うした後も、永遠に二枚の殻を繋ぎ止める。

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「天職一芸~あの日のPoem 40」

今日の「天職人」は、三重県伊勢市の、「風呂屋女将」。

洗面器の中石鹸が鳴る 泥んこ顔で妹と二人       一番風呂の先を競った                 背伸びで小銭差し出すと 番台越しにお婆の笑顔     湯気立ち込める向こうから 壁の赤富士背負った隠居   手拭い頭に浪花節                   意味も分からぬ二人でも 湯屋の風情が好きだった    一番風呂は小さな褒美 世を下り行く隠居と       荒波に向かう子供らへ 神が与えた湯殿の楽園

三重県伊勢市の喜楽湯二代目女将、中村久子さんを訪ねた。

「おおきになぁ。ええ湯やったわ。あんたに話したらなぁ、何や心まで洗濯したみたいんなって、心が軽うなったわ」。湯浴み客は、思い思いの言葉を残し、番台を後にする。「もう今し、お客も一日十人もおらんでなぁ。履物見ただけで、誰やすぐにわかるんやさ。なんせ家族の風呂みたいなもんやでな」。久子さんが笑った。

久子さんは昭和11(1936)年、七人兄妹の末っ子として福島県で誕生。戦後、中学を上がると集団就職で秩父の織工に。二年後理容師を志し、東京北千住で住み込み見習いを始めた。

唯一の愉しみは銭湯通い。風呂屋の親爺から、「あんたそんなに風呂好きだったら、いっそのこと風呂屋へ嫁いだらどうだ」とからかわれる始末。しかしその一言は、その後の久子さんの運命を暗示していた。

理容師見習いも板に付き始めた頃。電力会社勤務の青年が、久子さん目当てに床屋へ通い詰めていた。いつしか二人は恋仲となり、将来を誓い合う仲へ。

久子さん二十二歳の夏。半年前に伊勢の実家に戻った恋人を訪ね、夜行列車で伊勢を目指した。「遊びに行くつもりやってん。そしたらここのお婆ちゃんに口説き落とされてなぁ・・・。とうとう気が付いたら、一生分のお伊勢詣りしとったんやさ」。着の身着のまま、伊勢での暮らしが始まった。「最初の頃は、『阿呆やなあ』って言葉に腹がたってなぁ。人のこと犬畜生のようにって思てな。でも四十五年も経つと、ええ言葉やわ」。久子さんの言葉に、もう東北訛は見当たらない。

銭湯の原型と言われる蒸し風呂の湯屋は、天正19(1591)年、江戸の銭甕橋(ぜにがめばし)で伊勢与一(いせのよいち)が始めたものとか。しかし昭和も45(1970)年を過ぎると、銭湯は急激に姿を消し始めた。今も(平成十五年三月十八日時点)昼間にパート務めを終え、それからボイラーに製材所から出る木屑をくべ、わずかばかりの客を待つ。

「馴染み客ばっかやで、髪の裾揃えたったりするんやさ。昔取った杵柄で。もういつやめてもおかしない。でも町の人らの団欒の場やで、気張れる限りはなぁ」。久子さんの一生分のお伊勢詣りは、今日も続く。

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