今日の「天職人」は、三重県伊勢市の、「蒲鉾職人」。
辛い思いを抱いた夜は 駅舎の待合室にいた 故郷からの汽車が着き お国訛りを目で追った 母恋しさに寝れぬ夜は 故郷に向いた窓を開け 煎餅布団に包まって 母の鼻歌口ずさむ
三重県伊勢市で明治38(1905)年創業の蒲鉾店「若松屋」三代目美濃豊松さんを訪ねた。

「丁稚奉公の頃は、窓が伊勢へ向いとるだけで、なんや嬉して、そんだけで幸せやったんやさ」。豊松さんは、水仕事で真っ赤になった手を揉みしだいた。
豊松さんは昭和16(1941)年、伊勢の台所として参宮客で賑わう河崎で誕生。しかし戦時の暗雲が重く垂れ込め、統制経済の影響で店は休業を余儀なくされた。
戦後の混乱期には、正直者が馬鹿を見た。「魚の頭落として、身だけ籠の下へ入れ、粗で上っ面を隠して。皆上手い事しとたらしい。でも家の親爺は、ようせんかって休業のままやさ。お陰で皆客取られてもうて」。戦後一年を経て、ようやく店は再開した。
豊松さんは小学生の頃から店を手伝い、高校を出ると大阪尼崎の蒲鉾屋へ丁稚奉公に出された。「しばらく他所で、冷や飯喰うて来い」と。
早朝4時に起き出し、食事は俎板を食卓代わりにして、立ったまま掻き込んだ。夜遅く仕事を終えると、疲れ果てた足で梯子を上り、屋根裏部屋に崩れ込んだ。「阪神が負けると、大ファンの番頭が、腹癒せにバケツで水をぶっ掛けよってかなんだわ」。ところが豊松さんは、辛かった丁稚時代が、今でも一番の宝物と言う。二年に及ぶ冷や飯修業を終え、伊勢に戻り先代の下で家業に明け暮れた。
二十七歳の昭和43(1968)年に妻を娶った。すると孫の成長を見納めたかのように、創業者であった祖父が息を引き取った。その翌年、今度は二代目の父が、後を追うかのように他界。わずか三十歳にして、先達二人を失い、途方に暮れながら三代目を襲名した。

豊松さんの蒲鉾には、最高級のグチやエソを始め、伊勢で水揚げされた地場の白身魚が使われる。まず下ろした身に塩を振り、粘りが出るまで磨り潰す。そこに魚の煮汁と砂糖、そして味醂を加え秘伝の味に調える。仕上げは蒲鉾の付け板に、刃の無い付庖丁(つけぼうちょう)ですり身をこんもりと半円型に盛り付け、着色した紅色のすり身を上塗りする。

「伊勢の杜が清めた水は、川を下り豊かな伊勢の海を作るんやさ。神様が与えて下さるこの土地の素材にこだわって、納得いく味ださんとな」。豊松さんは窓の外を眺めた。
神領河崎生まれの誇りを、白身魚と共に練り上げる伊勢蒲鉾は、一世紀も前の風味そのままに、現を生きる我らの舌に運び来る。
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