「天職一芸~あの日のPoem 53」

今日の「天職人」は、三重県名張市の「薬師(くすし)」。

病の床の 母の背を そっと擦って 夜を明かす     微かな寝息 響くたび 幼き日々が 蘇る        風邪に咳き込む ぼくの胸 母は夜通し 手を添えた   世に妙薬は 数あれど あの温もりが 天下一      母の痛みは 取れぬとも せめて孝行 真似てみた

三重県名張市で二百三十年(平成十五年六月十七日時点)以上続く、田中余以徳斉(たなかよいとこせ)薬局、九代目田中トミエさんと、十代目の英樹さんを訪ねた。

「この人なぁ。二十年も前から決まって、月に一回京都で勉強や言うて、一泊で出掛けるんやさ。最初は嫁も『京都に女でも出来たんやろか』って、皆が怪しんでなぁ」。トミエさんが秀樹さんを指差し、いきなりそんな話を切り出した。

屋号に冠した余以徳斉とは、「余りを以って徳を斉す」の意。創業当時より紀州徳川家への出入りが許され、婦人病に効果のある「白水龍王湯(はくすいりゅうおうとう)」を御側目女衆(おそばめしゅう)向きに納め続けた縁で、藩主から拝領したとか。

トミエさんは奈良県榛原町で誕生。昭和24(1949)年、大阪の帝国女子薬専を卒業後、戦後初の国家試験に合格し薬剤師となった。翌年田中家に嫁ぎ、その明くる年に英樹さんを出産。「嫁いで見るとこの家は、天井から薬草の入った油紙の袋が一杯吊り下がっとって『きったないな』言うてみなほかしてもうたわ」。トミエさんが懐かし気に大笑い。

敗戦は日本人の価値観を、悉く豹変させた。漢方一筋を歩んだ田中家の歴史も、最新の薬学を学んだトミエさんの前では、どれもこれも時代遅れの産物にしか過ぎなかった。トミエさんは早速店を現代風に改装。入り口に掲げられた漢方薬製造元の金看板は、見事に取り払われた。「廊下の渡し板代わりに丁度ええし、風呂の焚き付けにつこたった」。

英樹さんは、昭和薬科大を経て国家資格を取得し帰省。二十七歳で嫁を迎え、家業の行く末を思案した。同時に対処療法中心の近代医学に限界を感じ、京都に出向き漢方の権威、渡邊武薬学博士の門を叩いた。「漢方には終わりがない。学ぶことは無限大やで」。以来二十二年(平成十五年六月十七日時点)、漢方に恋した男は、月一回の師との逢瀬を未だ待ち侘びる。

余以徳斉二百三十年(平成十五年六月十七日時点)の歴史の中で、激変に塗れた昭和の半ば。店の生き残りを賭け、漢方を追いやるしかなかった空白の時間は、英樹さんの誕生で埋め合わされた。

「ご立派な跡取りで」と水を向けたら「はい。日本一の孝行者(もん)ですわ」と、トミエさんがにっこりと母の顔を覗かせた。

「薬剤師が患者と向き合わず、処方薬を売るだけでは・・・」。別れ際そう呟いた平成の薬師の言葉に、妙に心が揺さぶられたものだ。

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「天職一芸~あの日のPoem 52」

今日の「天職人」は、岐阜市柳ケ瀬の「眼鏡士」。

何度眼鏡を新調しても 老いた父はその都度失くし    古びた昔のロイドメガネ 箪笥の隅から取り出した    父の形見を片付けながら ロイドのケースに目を止めた  古びた紙片に「ご苦労様」と 在りし日 母の面影筆運び

岐阜市柳ケ瀬の賞月堂、三代目木方(きかた)清一郎さんを訪ねた。

「昔は印判屋(いんばんや)が片手間に、舶来品の眼鏡を扱っとったんやて」。清一郎さんは背筋をピーンと伸ばし、柔らかな物腰で語り出した。

明治7(1874)年生まれの初代、千代五郎は十一歳で印判屋に奉公に上がり、明治26(1893)年に賞月堂を創業。

清一郎さんは大正14(1925)年に誕生。名古屋工業専門学校(現、名古屋工業大学)電気工学部へと進学。しかし日増しに戦況が悪化する中、昭和20(1945)年1月に出征。

敗戦後無事復員し学校に戻ると、無残な学び舎の残骸を目にした。「いつから授業が再開出来るかわからん。もう校舎もあれへんで、あんたもう卒業だわ」。そう言われ藁半紙の卒業証書を受け取った。授業を受けたのは、たったの一年足らず。物も人も何もかもが不足していた。とは言え、例え藁半紙とは言えども、曲がりなりにも工業専門学校の、電気工学部の卒業証書には違いない。さっそく技術者不足に喘ぐ企業が、全く技術の無い清一郎さんに、一月二百二十円の高給を提示した。「ちょうど家も空襲で焼かれ、そんなに貰えるんやったら勤めに行けといわれてなぁ」。

昭和23(1948)年、焼け跡から復興した賞月堂に戻り、妻を迎え家業を継いだ。「昭和30年代は一番忙しかったもんやて。特に花火と盆暮れは。番号札配るほどやったわ」。高度経済成長と歩調を合わせ、店も拡大していった。「戦前はもっぱらロイドメガネ。戦後はマッカーサーのレイバンばっかやった」。しかしやがて時代は、大型専門店化へ。三世代続く老舗といえども、もはや安堵などしていられない。

写真は参考

清一郎さんはそんな危機感から、長男の大学卒業を待ち、英国留学へと送り出した。当時の日本では、まだ誰も取得していなかった、英国の国家資格であるオプトメトリスト(眼鏡士)の資格を取らせようと。「眼鏡をモノとして扱った時代は終わりました。眼鏡を必要とする人が網膜に感じる<自覚>と、検眼師が測定する客観的な数値による<他覚>とを組み合わせ、最適なレンズでどう視力を補うか。それが今求められています」。まるで学者のように、穏やかな口調で語る四代目の言葉に、清一郎さんは黙って頷いた。

印判屋の眼鏡屋に始まった賞月堂は、日本に一握りのオプトメトリストを擁し、鮮明な視力回復に貢献すべく、百年以上を経た今も頑なに挑み続ける。

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「天職一芸~あの日のPoem 51」

今日の「天職人」は、名古屋市中村区の、「活版屋」。

蚊の鳴くような小さな声で 「はじめまして」と君が言う ガチャコン ガチャコン 輪転機の影から「よろしく」と 父は真っ黒な手を差し出した 思わず君が身を引いた   「何の構いもできませんが」と 母は黒い手のまま茶を入れた                           ガチャコン ガチャコン 帰り道真面目な瞳で君が問う  「インクに塗れた手をしても あなたは家族を守れますか?」と                       ガチャコン ガチャコン 「お茶よ!」の声に振り向けば 真っ黒な手に盆を持つ 乳飲み子背負う君がいた

名古屋市中村区の尚栄社印刷所、二代目鳥居朋由(ともゆき)さんを訪ねた。

「まあこれ見てみゃあ。他に人に誇れるもんもないで」。朋由さんは、両手にペンを持ち、右手は正体(せいたい)の漢字を。左手は漢字を裏返した逆さ文字を、同時に見事に難なく書き上げた。「こんなもん、もう何の役にも立たんでかん」。「それなら俺も小学生の頃、よう書いたわ。先生や友達が不思議がっとったって」と、傍らで三代目を継ぐ泰夫さんが茶化した。

朋由さんが工業高校の土木科を卒業した翌年の昭和33(1958)年。それまで印刷工場を持たず、印刷の斡旋を糧にした父が輪転機を購入し、活版印刷所を開業した。「親父が活版屋始めるんだったら、早よそう言ってくれたら・・・土木なんか習わんで済んだのに」。朋由さんは父の活版屋に入り、職人と一緒に原稿片手に鉛の活字を拾う「文撰(ぶんせん)」、真鍮製のステッキに組み込む「植字」、印刷を終えた後、活字を元に戻す「返版(へんぱん)」を徹底的に仕込まれた。

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「一番脂が乗っとった頃は、タイプ打つのと変らんスピードで活字を拾っとったでなぁ。まるで麻雀の盲牌(もうぱい)みたいに」。朋由さんは鼻高々と笑った。「私もこの子を乳母車に乗せたまま、よう返版手伝わされたわ」。妻が泰夫さんを指差した。グーテンベルグの発明以来、世界に君臨し続けた活版印刷は、写植文字に取って代わられ、三百数十年の歴史に幕を下ろした。

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三代目の泰夫さんは、平成元(1989)年、大学卒業と同時に跡継ぎを決意。「七十歳になっても、お爺さんが重い荷物運んどる姿見ると・・・」。わずかな期間ではあったものの、まるで新しい橋の渡り初めの様に、親子三代揃い踏みの仕事が始まった。初代はさぞや晴れがましい想いで、毎日を送ったことだろう。孫の成長をしかと見届け、二年後にこの世を去った。

「印刷屋は時代の合わせ鏡のようなもんだわ。その時代その時代を切り取って、歴史の一頁を刷り込むんだで」。

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町の活版屋朋由さんは、いつの間にかインクの黒ずみが抜け去った指先を、愛おしそうに見つめた。

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「天職一芸~あの日のPoem 50」

今日の「天職人」は、三重県伊勢市の、「船番匠(ふなばんじょう)」。

勢田川口(せたがわぐち)の 船溜(ふなだ)まり    村の童が 声上げて                  船蔵目掛け 駆け出した                今日は直会(なおらい) 船卸(ふなおろし)      船大将の 掛け声で                  水主(かこ)が船手(ふなで)に お神酒撒き      伊勢の港に 漕ぎ出せば                朝日に映える 船標(ふなじるし)

三重県伊勢市、兵作屋こと出口造船所、十三代目の船番匠、出口元夫さんを訪ねた。

「家(うっとこ)の先祖は、海賊船造っとったんやさ。孫爺さんからよう聞かされよったでなぁ」と、元夫さんが潮焼けした赤ら顔で笑った。

創業は始祖「兵作」が船造りを始めた、一六五〇年代頃。徳川幕府第三代将軍家光の時代である。

元夫さんは大正13(1924)年に誕生。東京工学院造船科で学んだ。そして昭和19(1944)年12月、伊勢に戻ると召集令状が届けられた。出征祝いの宴の最中、空襲警報が!それでも電灯を笠で覆い酒宴を続行した。「明日の朝早(はよう)に出たらええ。一日(いちんち)でも家で寝て行け」。父は元夫さんとの別れを惜しんだ。

そして敗戦。元夫さんは無事に復員を果たした。すると誰よりも元夫さんの帰りを待ち続けた祖父が言った。「もうお前の顔見たで、いつ逝ってもええわ」と。その言葉通り、それから三ヵ月後祖父は安らかに息を引き取った。

戦時中、多くの漁船は軍に徴用され、敗戦後人々は空腹を満たすため、漁の再開を求めた。兵作屋は漁船の建造に沸き、棟梁の下、和船造りの厳しい修業が始まった。

元夫さんは材を求め、自転車を四時間も走らせ、宮川上流へと通っては、山を学び木を学んだ。「細かい年輪の赤身がかった朝熊杉は、曲げても折れやんでなぁ。逆に強風に晒されとる所の木は『揉め』言うてな、中が傷んどるんやさ。それを知らんと使こたると、淦(あか)が出る(浸水する)んやで」。樹齢百五十年、太さ七十センチほどの丸太を宮川に落とし、筏を組んで勢田川河口の船蔵へと運び、木挽(こび)きで引き揚げる。そして棟梁が板に十分の一の大きさで設計図を描き、それを頼りに船大工たちは鋸を引いた。

伊勢和船

戦後の狂乱物価は、一隻二十五万円の漁船を、わずか一年足らずで百六十万円に跳ね上げた。「契約した時の金額は、材木代で終いやさ」。漁船需要も一段落した昭和25(1950)年からは、最後の和船時代を築いた団平船(だんぺいせん)と呼ばれる、伊勢特有の運搬船造りが始まった。しかしそれも昭和40(1965)年に入ると需要も激減。洋型船時代が到来した。

「和船の伝統を遺したいと、博物館の展示用に造らんか言う話もあるけど、船を陸(おか)に揚げてなとする?金捨てるだけやで。船は海原駆けてこその船やでなぁ」。元夫さんが苦笑い。

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伊勢和船。最後の船番匠は三百五十年前(平成十五年五月二十七日時点)と、何一つ変わらず潮を打ち寄せる、伊勢の海原を見つめた。

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「天職一芸~あの日のPoem 49」

今日の「天職人」は、岐阜県美濃市の、「筆師」。

君がこの世に生まれた夜は 何度も筆を走らせた     どんな娘になるのだろうと 授けし名前読み上げた    平凡なれどただ健やかに 親の想いが筆を追う      仮名の墨痕和紙に滲めば 命も宿る君の名に

岐阜県美濃市の古田毛筆、二代目筆匠(ひっしょう)の古田久規(ひさのり)さんを訪ねた。

今では既に絶えた名古屋筆。その最後の職人だったのが、父であった故古田理一さんだ。空襲を逃れ郷里の美濃に戻り、生涯の大半、七十年を筆結いに捧げた。「そんでも会心の一本なんて、一年に一回あるかないかやて」。久規さんが斜め前に座す、妻を見つめた。

玄関脇の小さな作業場。年季の入った作業机を挟み、夫婦は黙々と指先を繰る。「子供の頃は、ここが遊び場やったんやて」。先代夫婦もここに座し、秒刻みで目まぐるしく動く世間の慌ただしさを他所に、緩やかな時を静かに刻み続けた。

二十歳を迎えた久規さんは、名古屋の青果市場に就職。決して父の跡を継ぐのが嫌だったわけでは無い。高度成長期は誰もが浮足立ち、書を嗜む心の余裕などなく、筆の需要も落ち込んでいたからだ。その七年後に公代さんを妻に迎え、美濃へと戻り先代と共に筆作りを始めた。

筆の命とも言うべき獣毛は、中国産のイタチの尻毛。毛の油分を抜き取るため、夏は一~二週間、冬ならば二週間~一ヵ月、土の中に埋め置く。そして土から取り出した後、綿毛を取り除き、湯で三十分ほど煮て乾燥させる。次に毛の長さを揃え、籾殻や蕎麦殻の白い灰で、毛が摩擦で温かくなるまで揉みしだき、油を徹底的に抜き取る。さらに十一~十二種類の分板(ぶいた)で毛の長さを合わせ、真鍮製の寄せ金で揃えて元を断ち切る。

先混ぜと呼ぶ筆先から喉までの部分には、タヌキの毛と四~五種類の長さの毛を混ぜる。その下になる腰混ぜには、鹿の毛とやはり四~五種類の長さの毛を練り混ぜ、丸く芯立(しんたて)をしてから上毛(うわげ)で化粧巻きを施す。そして最後に毛の根元を麻糸で緒締(おじ)めし、電木鏝で焼き入れてから軸に挿げ込む。

「一番ええのは、雄のイタチの冬毛やて。でも動物は夏と冬とで毛が生え変るけど、・・・人間の毛はもう二度と生え変わってくれんでなぁ・・・」と、久規さんは白髪混じりに薄くなった自分の頭を小突いた。傍らで公代さんがこっそり笑った。

一本の筆に三十数手の工程。途方もない時間と、細かな手数が惜しみなく注ぎ込まれる。

「弘法筆を選ばず」。だが美濃に唯一人の筆匠は、敢えて多難な筆作りに生きる道を自ら選び取った。

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「ウォーキング雑観~えっ、床屋はどこよ?」

ウォーキングの途中で、こんなハイカラな床屋のサインポールを見掛けました。

さぞかしお洒落な床屋かと、探しては見たものの、どこにも見当たりません。

もしかするとサインポールのお隣の神社の境内の奥にでも、神社のサイドビジネスかなにかの床屋があるのではと、境内を見渡して見ても、普通の神社の境内で、床屋の「と」の字も見当たらないじゃあないですか!

しからば、この黄色い車のお宅が床屋なのかと近付いて見ても、ただ普通の住宅です。

じゃあ一体、このサインポールは何のためにクルクル回り続けているんだろうと、しばらく頭を傾げておりました。

それこそ近所の住人の方にでも聞いて見ようかと思ったものの、誰一人通らないんですから・・・。

ちなみにここから15mほど離れたところに、床屋があるにはあったのですが、そこはそこでサインポールがクルクルと回っておりましたし、果たしてこの意味不明なサインポールとの関連性も定かでは無さそうでした。

なんだかキツネに抓まれたようで、不思議な気持ちになったものです。

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「ウォーキング雑観~なんで民家に?」

ウォーキングの途中の民家の玄関口で、こんな光景を見掛けました。

朝の連ドラじゃありませんが、信楽焼のたぬきです。しかもでかい!

まるで英国王室の近衛兵の様に、来客の品定めでもしているようです。

信楽の土産でたぬきの置物を買ったとしても、いくらなんでもこれは大きすぎます。どちらかと言えば、お店屋さんの入り口でお客様を迎える方が似合っているようにも思われます。

これはあくまでぼくの勝手な想像ですが、昔この家は飲食店か何かをやっておられ、廃業されてからもこの信楽焼のたぬきを処分するのも忍ばれ、入り口においていらっしゃるように感じました。

右手に名古屋のマークの「丸八」と染め抜かれた徳利を手にしているところから、この地方の商店向けに出荷されていたのかも知れませんねぇ。

ぼくが子どもの頃は、どこのお店屋さんにもこんなたぬきがデーンと飾られていたように記憶しています。

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「心の扉」

「心には扉がある」と、感じられたことはありませんか?

誰もが自分にとって都合の良い事には、ドアスコープから相手を覗き見ることも無いまま、心の扉を全面的に開け放ち、両手を大きく開いて向かい入れてしまうものです。

ところが逆に、とても受け入れ難い事実に対しては、心の扉にも二重ロックを施し、事の過ぎ去るまで固唾を飲んで息を潜めてしまうものです。

しかしそうした受け入れ難い事実と言うものは、好むと好まざるとに関わらず、些細な隙間から心の中へと忍び込み、今世界を震撼させている新型コロナウイルスではありませんが、心に食い込みやがて蝕んでしまうものではないでしょうか?

そうした受け入れ難い事実と言うウイルスに蝕まれると、しばらくは誰もが心の扉を締め切り、塞ぎ込んでしまったりしてしまうものです。この世の誰も信じられないような孤独感に苛まれながら。

人の心は、たった誰かの何気ない一言や、何気ない素振りの一つでも、傷付いてしまうものです。自分では故意に、人を傷付けたりしたつもりが無かったとしても、相手からすれば心を抉(えぐ)られた様に感じられてしまう事だってあるでしょう。

今日お聴きいただく「心の扉」は、確か23歳頃の作品だったように記憶しています。

「恋」と「愛」の区別も碌に付かない若い頃は、ともすると自分の気持ちばかりを、相手の気持ちが追い付いていない事にも気付かず、ついつい押し付けてしまい、悪気が無くても相手を傷つけてしまうこともあります。

そんな些細な心のすれ違いが、やがて取り返しの付かない、大きな溝となってしまう事だってしばしば。

今日の「心の扉」は、些細な心のすれ違いを許せなかった無器用な男が、別れてから初めて相手の女性の真の大切さに気付き、塞ぎ込んでしまった彼女の心の扉を抉じ開け、もう一度やり直したい・・・そんな想いで彼女の部屋の灯りを眺めている・・・。「恋に恋した」男の未練を描いた曲です。

この「心の扉」は、CD化されてはおりませんが、若い頃のデモ・レコーディング版がいつくかあります。一つは、センチメンタル・シティー・ロマンス版。もう一つは、ヤマハ・スタジオ・ミュージシャン版です。

まずは、ぼくの拙い弾き語りからお聴きいただきましょう。「心の扉」です。

『心の扉』

詩・曲・歌/オカダ ミノル

街角で見かけたあなたの横顔 揺らぐ街の灯に翳りを浮かべてた

細い肩丸めてうつむくその癖 今もまだ一人でいるのかい

 愛していたと言えるはずも無い  身勝手な別れをきっと恨んだことだろう

 このカフェテラス角曲がれば  あの頃に出逢える気がする

点された灯りに揺れるシルエット あなたを最後に送ったあの夜も

この場所でこうして影だけ見詰めて くり返し心で侘びていたよ

 悪いのは俺愛し合う事を  急ぎ過ぎたばかり別れの足音さえも

 聞こえなくて想えばあなただけ  知らぬ間に傷付けていたね

 この階段を一息に上り  塞ぎ込んだままのあなたの心の扉(ドア)を

 押し開けたいもう一度だけ  愛したい心のままに

 心の扉開け放す鍵を  あの頃と言う戻れない時間の彼方へ

 投げ込んだのは捨て去ったのは  この馬鹿な俺の癖に

続いては、センチメンタル・シティー・ロマンス版の「心の扉」をお聴き比べいただきましょう。

そして次は、ヤマハのスタジオ・ミュージシャン版「心の扉」です。

続いては、約40年ほど前の一宮勤労会館での、センチの皆さんにバックを務めていただいた時の、Live音源がカセットテープから出てきましたので、本邦初公開でLive版「心の扉」お聴きください。

そしてもう一曲。これもヤマハのスタジオミュージシャンとのレコーディングの前のさらにデモ・レコーディングされた別アレンジの「心の扉」です。正直ぼくも昔のカセットテープをデジタルに変換して、ああ、こんなアレンジのものもあったなぁと、思い出したほどです。これまた本邦初公開の「心の扉」、お付き合いください。

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「詰襟学生服の第二釦!」。正直ぼくは、詰襟学生服の第二釦を、意中の女学生に手渡したことは、残念ながらありませんでした。チクショ~ッ!皆様はいかがでしたか?意中の女学生に渡されましたか?或いは、憧れの男子学生から、手渡されたことがありましたか?何だかとってもロマンチックな光景ですよねぇ。この「詰襟学生服の第二釦」を、なぜ卒業式の後で大切な人に贈るのか?どうやらこれにも諸説あるようです。一つ目の説は.「一番大切な人になりたい」。 この説によると、5つある学生服の釦には、上から順に一つ一つ意味がつけられているとか。まず一番上は自分用。二番目が1番大切な人へ。三番目は友人に。そして四番目は家族で、五番目は・・・謎だとか。釦を贈る女学生にとって、自分が貴女の「一番大切な人になりたい」と、そんな気持ちから第二釦を贈るのだとする説。また二つ目の説では、 第二釦が一番心臓に近いところにあるため、「貴女のハートを掴む」という意味で、意中の人に第二釦を贈るとする説。 三つ目の説。元々詰襟学生服は、軍服の応用だったとも言われるそうです。戦時中は若者達が、学徒出陣等、半ば強制的に戦地へと送られました。もしも戦地に散り、意中の人に二度と逢えぬかも知れぬと、出征の際一番大切な人に想いを伝え、自分の形見として軍服の第二釦を手渡したと伝えられています。それと一番上のボタンが取れていると、だらしないと上官に叱責されるが、第二釦ならまだ分かりにくいと言う事で、第二釦が選ばれたのだとか。ぼくらはそんな切なすぎる時代の上に築かれた、曲がりなりにも平和な世でしたので、学徒出陣で形見代わりに第二釦を贈った先達に比べると、それほど思い詰めるでもなく、卒業の通過儀礼の一つのような感覚で、意中の人に釦を贈ったり貰ったりしていたのかも知れませんね。さて、あなたはいかがでしたでしょうか?

今回はそんな、『詰襟学生服の第二釦!』。皆様からの思い出話のコメント、お待ちしております。

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「残り物クッキング~豚キムチクリームニョッキ」

ぼくのニョッキブームは、まだまだ続いております。従って使いかけのニョッキが、どうしても冷蔵庫に残ってしまいます。

今回は、Honey Babeのしゃぶしゃぶ用腿肉の使い掛けが残っておりましたので、それで豚キムチにしてしまえってなもんで、サクサクッと挑戦して見たのが、この「豚キムチクリームニョッキ」です。

まずフライパンにオリーブオイルをひき、Honey Babeの腿肉、キムチを炒め、茹で上げたニョッキを加えてさらに炒め、最後に生クリームを注いで軽く炒めれば完了。

この「豚キムチクリームニョッキ」は、超手抜きで簡単、そして生クリームを入れたことでキムチの辛さがまろやかになり、どことなく洋風なご機嫌な作品となりました。

これにはビールも白ワインも、グビグビと進んでしまったほどです。

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「天職一芸~あの日のPoem 48」

今日の「天職人」は、愛知県豊橋市の、「質屋女将」。

やっとデートに漕ぎ着けたのに 給料前の間の悪さ    急な用でと彼女を待たせ 質屋の暖簾に駆け込んだ    舶来時計がステーキに 見栄を通すつもりのはずが    勘定書きに目を剥いて 彼女の財布に縋る失態      それがご縁で結ばれて見りゃ 子守り洗濯質奉公

愛知県豊橋市で明治末期創業の「佐野質店」二代目女将の佐野悦子さんを訪ねた。

写真は参考

「昔の職人さんは、朝飯の残りの入ったお釜を、仕事の出がけに質入れして、その日の日当で帰りがけに質請けしとったらしいじゃんね。よう先代がそう言って笑っとったもん」。店先を監視するテレビモニターを眺めながら、悦子さんが笑った。

悦子さんは昭和10(1935)年、お隣の新城市の農家で誕生。二十四歳の年に、縁あって質屋の嫁に入った。

その半年後には店を任され、質草の値踏みを恐る恐る始めたと言う。「質屋は決断力と度胸だけ。それが身に付くまでに十年はかかるじゃんね。恥ずかしい話だけど、今までどんだけ失敗したことか」。

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戦前の質草には、大八車や僧衣といった変わり種も多かったそうだ。「だって質屋なんて、下駄履きの気楽な庶民の金融屋だらぁ」。悦子さんの許には、様々な客が訪れた。「たった今、監獄から出て来たばっかりだと凄んで見せる者。子供の給食代をと駆けこんで来る母親」もいたそうだ。また、子連れの母親から、一銭の値打ちもないものを質草に差し出され、ついつい情に絆され拒めなかったことも一度や二度ではない。

客との間を仕切るガラスの向こうに、必死で生き抜こうとするそれぞれの人生があった。「今は贅沢な貧乏が多いじゃんね」。悦子さんが呟いた。「外車を横付けして、舶来もんの時計を質入れして行く時代らぁ」。昔は、今日一日を生き抜かんと質屋を頼った。

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「ねぇ、あのプラチナ、あんたが取ったんだった?」「それはお母さんが・・・」。三代目を継ぐ、長男の嫁真理子さんが口を挟んだ。それは二年前の閉店間際。五十代半ばの品のいい女性が店に現れた。「これで」と、真珠が埋め込まれたプラチナの指輪を差し出した。本来プラチナの真贋は、比重計で識別するが、真珠が埋め込まれているためそれが出来なかった。悦子さんは、自分の眼力を信じ引き取ったが、まんまと贋作にしてやられた。

「質屋は失敗が家宝じゃんね。痛みをしらなかんらぁ。でも人を疑ってばっかでは寂しいでなぁ」。悦子さんは誰にともなく呟いた。

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この世は所詮、持ちつ持たれつ。客との間を分かつ一枚のガラスは、この世を必死に生き抜く庶民の辛苦を、どれだけ見守って来たことだろう。

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