今日の「天職人」は、愛知県岡崎市の「蒟蒻職人」。
母の煮しめが恋しくて 市場であれこれ品定め 牛蒡人参椎茸と プルプルグニャリ平蒟蒻 色も香も瓜二つ どんなもんよと味見れば 何か一味足らぬのは 母の慈愛の一匙(さじ)か
愛知県岡崎市の池田屋、四代目蒟蒻職人の長坂信一(のぶいち)さんを訪ねた。

「平蒟蒻は手で千切り取って、鷹の爪入れてから八丁味噌でコッテコテになるまでイビル(煎る)じゃんねぇ。そうすると味がよう染みて一番美味いだ」。信一さんが身を乗り出した。
池田屋は明治15(1882)年の創業。初代は跡取りに恵まれず、大門(だいもん)の遠縁から婿を得た。しかし三代目も跡継ぎを得られず、池田屋の往く末に一抹の不安が。
信一さんは池田屋二代目を送り出した大門の家に生まれ、農業一筋に休む間も惜しんで働き詰める父の背を見て育った。そして岡崎北高へと進学。背広に革靴姿の銀行員に憧れたと言う。同じ学び舎には、同い年であった池田屋三代目の愛娘、久子さんも通っていた。まさかその後の人生を共に歩む伴侶になろうとは、努々(ゆめゆめ)思いもしなかった。「あの頃は色気も出始め、アレとすれ違っても、眼もよう合わさんかっただぁ」。
それから間もなく池田屋の二代目から、婿入り話を持ち掛けられた。「『米糠一升あったら養子に行くな(「小糠三合あるならば入り婿すな」の変形。男はわずかでも財産があるなら、他家へ入り婿せず、独立して一家を構えよ。男は自立の心構えを持つべきであることのたとえ。また、入り婿の苦労の多いことのたとえ)』って言われとった時代やったで、やっぱりそりゃあ躊躇っただ」。しかし隔世遺伝の成せる業か。二代目同様大門の家から、久子さんの美貌に惹かれ婿入りを果たすことに。背広と革靴は敢え無く白衣に取って代わった。

蒟蒻作りは早朝から、蒟蒻芋を蒸しては摩り下ろす作業に始まる。そして水を加えて凝固剤を入れ、バタ練り(バタンバタンと音を立てながら機械で芋を練る)を繰り返し、型に流して茹で上げる。午前中に仕込みを終え、午後からは配達に追われた。「昔はよう儲かった」。昭和29(1954)年当時、高卒の初任給は三~四千円。しかし信一さんのポケットには、常時一万円ほどが捻じ込まれていたそうだ。「伝票なんてあれせんし、小遣いには不自由せんかっただぁ。でも年がら年中、山葵下ろしみたいな荒れた手しとったで、他所の女の手なんてよう握らんかったじゃん」。昔は石灰を使う水仕事のため、酷い手荒れに悩まされたとか。

「群馬県下仁田の種芋を取り寄せ、作手村で有機栽培した無消毒の蒟蒻芋を使用し、離水せぬよう芋を多く使い硬めに仕上げます」。名大農学部出の五代目光司さんは、優し気な眼を輝かせた。

秋風に乗り天神様の祭囃子が聞こえると、蒟蒻作りも酣。伝統の蒟蒻作り一筋に、半世紀を共に生き抜いた老夫婦。金婚式ならぬ、金蒟蒻式まで後二年(平成十五年八月五日時点)。
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