クイズ!2020.04.14「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

ヒントは、和風のようですが、ちょっと違った魚料理です。でも本物の現地の魚が手に入りませんので、代表品を利用してみました。

さあ、頭を柔軟にして、どしどしコメントをお寄せ願います。

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「天職一芸~あの日のPoem 76」

今日の「天職人」は、岐阜県美並村の「竿師(さおし)」。

長良の流れ腰に受け 囮(おとり)の鮎に穂先をまかす   胴に伝わる微かな当り 釣り名人と郡上竿         霞垂れ込む川面から 幾重も伸びる釣り人の影       長尺竿を岩場にかざし 我に釣果の誉れあれ

岐阜県美並村の二代目竿師、福手福雄さんを訪ねた。

「ポン、ポン、ポン」。何とも小気味良い音が、竿の継ぎ手から響いた。「この音が郡上竿の命なんやて」。福雄さんは真鍮が巻かれた継ぎ手を差し出した。

写真は参考

釣り好きの初代、俵次(ひょうじ)は昭和の初め、関東の釣り客が携えた組み立て式の竿に目を留めた。そして直ぐに見よう見真似で竿作りを開始。戦争の影が忍び寄る中、今のような真鍮(しんちゅう)は手に入らず、継ぎ手には空き缶を利用した。「わしもわしも言うて、皆空き缶持参やって」。

写真は参考

福雄さんも父に劣らず大の釣り好き。昭和25(1950)年、中学を上がると父と共に竿作りを始めた。「昔は鮎も値が張って、竿も売れて売れて!」。

禁漁期は竿作りで稼ぎ、解禁を待ち鮎釣りでもう一稼ぎ。十月初めからは竹切、十一月に入ると大きなトタン板の鍋に灰を入れ、竹の油取りに追われた。そして年の瀬を天日干しに費やし、年が改まるといよいよ竿作りの開始。

四間(約七.二メートル)物の五本継は、穂先-穂持ち-三番-二番-元台と組む。「早く出る竹は重い。逆に遅いと軽くなるんや。枝が三つ出た所で切り出すんが一番なんやて。あんまり竹も、みあいて(ひねて)まうと、しなりが悪なる」。半世紀を費やした、竹選びの目は厳しい。

管継ぎが定まると、真鍮版を何度も火で炙って真っ直ぐ伸ばし、二枚重ねで継ぎ手を取り付ける。次に絹糸を何度も竿に巻き付け、漆で留めて柄を描き出す。さらに元台には、藤蔓(ふじつる)が滑り止めに巻き付けられる。「一本の竿に、九百メートルも絹糸を巻いたこともあった。人が来ると、糸が弛んでまうで、店閉め切ってやらなかんて」。

福雄さんが、自慢の柄の入った竿を取り出した。飴色焼けした光沢の中に、幾何学模様のように巻き付けられた一本の絹糸が描く竿師の意匠。しばらくその美術品とも呼べる美しさに魅せられた。

元台に打たれる釣師の誉れとも言うべき「福作」の銘。「ほんでも使ってもらわな、何にもならん。所詮魚釣るための竿やでな」。何の気負いもなく、竿師はつぶやいた。

今ではカーボン製の竿が主流となり、一年に五十本の生産がやっと。「鮎釣りには、竹竿が一番。でも跡継ぐもんもおらんし、わしで終いや」。

店の前を悠然と流れる長良川。誰よりも長良の流れを愛し、釣りを愛した竿師二代。かつて生活を支えた道具は、美術品と見紛う美しさを手に入れ、やがて儚く消え入ろうとしている。

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「天職一芸~あの日のPoem 75」

今日の「天職人」は、愛知県豊橋市の「女釘師」。

お給料日はひと月で 父が一番偉い日だった        百円握ってスマートボール 母も渋々送り出す       両手に抱えた紙袋 卓袱台の上で店開き          お煎にキャラメル金平糖 父は得意げ赤ら顔

愛知県豊橋市のアサクラスマートボール、女釘師でもある店主の朝倉文子さんを訪ねた。

「ガラガラガラ」。店内のあちこちで、大きなビー玉がスマートボールのガラス板を転がる。試しに百円で挑戦。だがすぐには、うんともすんとも言わない。三秒ほどして、二十五個のちょっと大きめのビー玉が手元へと転がり落ちて来た。「あかんて!まっと左半分に玉を落とさんといかんじゃんねぇ」。前掛けをした文子さんが、台の向うから声を張り上げて笑った。

文子さんは生後間もなく、朝倉家の養女として迎えられ、女学生時代を名古屋で過ごした。しかし終戦間際の空襲で焼け出され、一家は文子さんの実父を頼り豊橋へと移り住んだ。

「戦後間もない頃にこの店借りて、野菜や果物に、かき氷も売っとっただぁ」。昭和23(1948)年、重三さんが婿入り。

それから二年後に、店を借りたいと浜松の男が訪れ、スマートボール店を開業した。「その人の息子が店番任されとったんだけど、売上持っては夜遊びばっか。とうとう一年もせんうちに店仕舞いらぁ」。結局文子さん夫婦が、そのままスマートボールの営業を引き継いだ。

当時は十円で玉が五個。バチンコ屋の大将の勧めで、遊技場組合に加盟し、出玉を景品や現金に換金した。「それが流行ってないだよ。だってパチンコは、玉が真っ直ぐ下に落ちてくけど、これは台が斜めだで、玉がなかなか落ちてけへんらぁ。だで売り上げだってちっとも増えんじゃんねぇ」。

やがてパチンコは手打ちから自動へ。最新のデジタル技術を取り入れ、射幸心を煽って我が世の春よとばかりの隆盛期へ。しかしそれとは裏腹に、スマートボールは衰退の一途を辿った。昭和60年頃には、スマートボールの台も製造が中止に。現存する二十六台が、薄れ行く昭和の名残を今に留める。

「もう全国でも、家と大阪通天閣の二軒だけらしいわ」。最新のコンピュータ制御によるパチンコとは違い、出玉の予測も立たず天候次第とか。

「もうやめようかと思いながらも、結局僅かばかりの年金まで景品代に注ぎ込んどるらぁ。でもやめたら呆けるかと思うじゃんねぇ」。文子さんは愛しそうに店内を見回した。

ついに最後の一個となってしまった玉を弾く。玉はゆっくりと盤上を転がり落ちながら、五と十五の当たり穴の上を行ったり来たり。思わせぶりな玉は、散々迷った挙句、五の当たり穴に吸い込まれた。

「釘師の腕がええで、そう簡単にようけ出る方へは入らんらぁ」。台の向うで女釘師はしてやったり。たった百円玉一枚の戯れ。緩やかな昭和半ばの時間が、心地よく流れていった。

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4/07の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「きしめんのなぁ~んちゃってシーフード・フィットチーネ~ほうれん草のクリームソース添え」

皆々様からも、非常に正解に近い回答もお寄せいただきました。ありがとうございます。

正解は、レンジでチンすればOKなマルチャンのきしめんを、フィットチーネに見立て、冷凍庫の使いかけで保存してありました、エビとイカに厚切りベーコン、そして湯がいたほうれん草をクリーム味に仕立てたのが、この「きしめんのなぁ~んちゃってシーフード・フィットチーネ~ほうれん草のクリームソース添え」です。

実はほうれん草をおひたし用に茹でた残りが、冷蔵庫に保存してありましたので、それをフードプロセッサーですりつぶしました。そして小鍋にすりつぶしたほうれん草と生クリーム、そしてコンソメと塩コショウに白ワインを加え軽く一煮立ちさせ、味を調えておきます。

厚切りベーコン、海老、イカと、おひたし用に湯がいてあったほうれん草の半分をバターソテーしておきます。

あとは、マルチャンのレンジでチンするだけのきしめんを加熱し、オリーブオイルを掛けて麺をほぐし皿に盛り付けます。

そしてバターソテーした具材を盛り付け、ほうれん草クリームソースを掛ければ完了。

きしめんのもっちりとした食感が、ほうれん草仕立てのクリームソースによく合い、バターソテーした具材ともベストマッチな一品となり、新緑の春が感じられるランチとなりました。

キリン一番搾りにも白ワインにもピッタリで、ついついランチタイムからグビグヒとやってしまいました。

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「天職一芸~あの日のPoem 74」

今日の「天職人」は、三重県鳥羽市の「海女眼鏡職人」。

磯笛響く石鏡(いじか)の浜に 海女舟揺れて鳥が鳴く   濡れた磯着で空見上げ 漁終え外す海女眼鏡        海女の眼鏡に映る景色は 陸(おか)では見れぬ竜宮城   白い磯着で禊して 海棲む神に無事祈る

三重県鳥羽市石鏡町の海女眼鏡職人、二代目の城山巳治夫(みちお)さんを訪ねた。

世界の海に認められた「海女眼鏡」。文字通り海女専用に開発され特許も取得した「城山式水中眼鏡」だ。「ここいら海女の本拠地みたいなもんやで。鳥羽の鉄工所に行っとった親父も、潜りが好きやってなぁ。二十五歳の時にゴムと真鍮に平面のガラス板を組み合わせて、発明したんがこれやさ」。巳治夫さんは、昔の氷枕を思わせる橙色のゴムに、金色の縁取りのある水中眼鏡を取り出した。

ちなみに昔の海女用水中眼鏡は、ニッケル製でレンズが丸く膨らみ、一人一人の海女の顔型に合わせると言う難儀な代物。その難点を改良し、巳治夫さんの父が試行錯誤の末に発明した。

毎日の重労働で、最盛期の海女は顔が細る。それを見越した微調整の機能と、海底から水面が見やすくする工夫も取り入れた。海女の本拠地ならではの細かな気配り。それが口伝となり、全国各地の海女から注文が殺到した。最盛期には年間千個も出荷。とは言え、全ての部品を手作りで組み立てるから大変だ。ガラスを丸く切り出し、枠用の真鍮が弧を描くように曲げて叩き出す。鼻の部分のゴムを削り、小物金具と紐ゴムを取り付ける。「設計図はじぇ~んぶ頭ん中や。木槌も手製やし、なんぼでも出来るわ」。

中には度付きの特製海女眼鏡の注文もあった。さらにはオーストラリアの木曜島やハワイからも注文が寄せられたとか。「そんでもなぁ、とにかく丈夫に出来とるで、海女さんらの方が早うに亡くなるんやさ」。巳治夫さんが冗談交じりに笑った。

巳治夫さんは四男坊として誕生。終戦間際には予科練を志願した。そして復員すると漁船の機関士を経て、父の跡を継いだ。

「なんや爺やん、ここやったんか」。五十年前、巳治夫さんに嫁いだ、現役海女の千代子さんがやって来た。半世紀の間、夫はコツコツと海女眼鏡を作り、妻は夫が作った眼鏡を着け海へと潜り、立派に三人の子を育て上げた。「もう今日び、海女になる人がおらんでなぁ」。夫の言葉に千代子さんもうなづいた。

「もう今し、作っても年間で二百個ほどや」。それでも海に身一つで命を張り、大自然の恵みを糧(かて)とする、逞しい素潜りの海女に愛され続ける城山式水中眼鏡。「まんだ材料はこんなに仕入れたるんやさ」。巳治夫さんは、真鍮の束を重そうに引き摺り出して笑った。

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「天職一芸~あの日のPoem 73」

今日の「天職人」は、岐阜県大垣市の「切花職人」。

生家の庭の片隅で 今年も忘れず咲く花は         床伏す母の目の保養 幼い娘と植えた秋桜         蕾の開花待ち侘びて 母は静かに旅立った         墓前に手向けた秋桜が 行く秋惜しみ揺れている

岐阜県大垣市で創業百年を越す、西田花店に勤める水野芳子さんを訪ねた。

「求人の貼り紙見てからもう三十二年(平成十五年十一月二十九日時点)。花の勉強からお勝手仕事に花嫁修業まで教わり、おまけにここからお嫁に出してもらって」。芳子さんは感慨深げに語りだした。

芳子さんは昭和27(1952)年、北海道の十勝平野の農家に生まれた。「母は花が大好きで、家の周りは四季折々の花でいっぱい」。

しかし小学五年生の年、大好きな花に囲まれ母が他界。幼い弟妹の面倒を見ながら、父と農作業に明け暮れた。そして北海道生まれの母が亡くなり、父の故郷であった岐阜県養老町へと移住。十八歳になった芳子さんは、大垣市の紡績会社に勤め家計を支えた。「でも毎日同じ仕事の繰り返しばかり。息が詰まっちゃって」。広大な北の大地の大らかさが恋しく感じられた。

翌年春、店先にあった求人の貼り紙に、買い物帰りの足が止まった。そのまま西田花店へ入社。住み込み生活が始まった。「これで毎日、大好きな花に囲まれる」と意気込んだものの、一年間は先代のお婆ちゃんに付き、お勝手仕事と花嫁修業の手習いばかり。二度目の春が巡って来ると、大好きな花が彩を添え芳子さんを迎えた。

花市場から荷が到着すると、余分な葉や棘を取り、水揚げや湯揚げで花に新たな命を与える。牡丹などの特殊な花は、根元を火で炙り真っ黒に焼いてから冷水に。一度は摘み取られた命が、切花職人の手により見事に蘇る。

昭和53年、長野県出身のご主人勝さんと結婚。先代のお婆ちゃんは、まるで我が子の晴れ姿でも見るような想いで、白無垢に打掛姿の芳子さんを送り出した。「滝のような、三段組のキャスケードブーケも自分で作って」。花屋で嫁入り支度を調え、手製のブーケを携える。花嫁を「花の嫁」と呼ぶに相応しい門出であった。

写真は参考

しかし中々子宝に恵まれず、七年目にしてやっと一人息子を授かった。「家族の縁が薄いのかなあ?でもその分、この店の人たちが家族みたいに温かくて」。忙し気に立ち働く同僚を、芳子さんは見つめた。

「福寿草が好き。だって一生懸命に咲いてるでしょ」。まるで愛しい我が子の様に、切花に新たな命を授ける切花職人。

店先の花に癒された三十二年前。まるであの日の花の心に、報いるかのようだ。

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「Friday Walking きまぐれ Shot!~もしや貴人がお忍びで?鄙びた酒場がご本陣?」

新型コロナの影響に伴う緊急事態宣言下で、夜の居酒屋などには、休業の貼り紙が見かけられました。

そんな中、締め切ったシャッターの前に、こんな歓迎看板が!!!

「水戸黄門ご一行様」に「徳川家ご一行様」、そして「尾張宗春ご一行様」とあるじゃないですか!

尾張宗春とは、おそらく尾張徳川家第七代当主の徳川宗春公の事でしょうが。

こんな貴人方がこの小さな居酒屋で鉢合わせとは・・・。これまた如何に!

しかも水戸黄門様である徳川光圀公の世は、江戸時代前期のこと。徳川宗春公の世は、江戸時代中期であり、仮にこの店が掲げる歓迎看板が事実であるとすれば、ここはこの世ではないあの世かと(汗)

それに徳川家ご一行様とありますが、徳川を名乗る親藩まで含めると、大変な人数であったことでしょうから、これまた無理が・・・。

なんとも理解不能に陥りましたぁ・・・。

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「天職一芸~あの日のPoem 72」

今日の「天職人」は、名古屋市中区の「寄席芸人」。

小さな君が笑うたび どれほど勇気を得たことか      客もまばらな寄席に立つ 儚き浮き草寄席芸人       「紹介したい人がいる」 年頃になった君が言う      出囃子の音に舞台に上がりゃ 花道脇に二人連れ      「初めましてお義父さん」 楽屋でそのまま嫁入り話    今じゃ孫が笑うたび 心でテンツク寄席囃子

名古屋市中区の寄席芸人、伊勢元気(本名/南端繁希・みなみばたしげき)さんを訪ねた。

「今日も昼まで、ビル掃除のバイトしてきましてなぁ」。元気さんが苦笑い。

元気さんは芸名通り、三重県伊勢市で漁師の長男として誕生。高校卒業後、県内の会社に就職。昼休みの食堂で、テレビに目が釘付けとなった。同僚たちはコント55号(萩本欽一さん、坂上二郎さん)に夢中。「初めて欽チャン見て『こんなん俺も出来る!』って。それが間違いの始まりや」。

欽チャンへの弟子入りを目指し上京。所属事務所で座り込んだ。「ハトバス乗ったら国へ帰れ。コント目指すならまずは芝居だ」と言われ、その足で大阪へ。寿司屋に住み込み吉本新喜劇の団員募集に応募。研究生としてコッテコテの新喜劇を学んだ。そして「東京で一旗揚げたい」と、二十五歳で再び上京。浅草のストリップ劇場やキャバレー廻りの日々。「だって女の裸もただやしな」。吉本の後輩と結成した「天突天(てんつくてん)のコンビが人気を呼び、大手芸能プロに所属。和田アキコ主演の映画「お姐(ねえ)ちゃんおてやわらかに」に出演。次から次へと仕事も舞い込んだ。「金も仕事もあってすっかり有頂天」。ついに芸能プロの社長から「もう少し勉強しようか」と遠回しな解雇通達。

二十九歳で名古屋に戻り、大須演芸場で「劇団Now」を旗揚げ。そして翌年、劇団員を妻に迎えた。一男一女に恵まれたものの、鳴かず飛ばず。家族を引き連れ伊勢の実家に戻り、アサリ漁で生活を支えた。

子供も成長しゆとりも出ると、テレビの芸人が目に付いた。「こいつら、違う」。家族を年老いた母に託し、劇団伊勢を結成。再び大須の舞台に。とはいえ、所詮金にはならない。朝一から昼まで喫茶店。昼からは靴屋の販売員。店番の隙を見ては、演芸場の舞台に立ち、深夜まで居酒屋の調理場で、酔客相手に話芸で盛り上げた。

「やっと子供も一端になった途端、女房に逃げられてもうてなぁ」。窓の外、子供の手を引く幸せそうな家族に、元気さんは目を細めた。

「奥の席から笑いの波が押し寄せる。それをもう一度味わうまでは・・・」。男はしたたかに明日を見つめた。

寄せては返す波のような人生。「馬鹿にされても、舐められたくはない。せめて舞台の上ではなぁ」。初めて見せた厳しい眼差しで、寄席に命を張る小柄な芸人はつぶやいた。

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「天職一芸~あの日のPoem 71」

今日の「天職人」は、三重県伊勢市の「伊勢うどん職人」。

お伊勢詣りに賑わう参道 暖簾犇めく伊勢うどん      溜まり醤油の出汁の香が 詣でる前から鼻を惹く      帰りは何処に寄ろかしら 妻は今から気も漫ろ       今食べたいと子は愚図り 溜りませんわ伊勢うどん

三重県伊勢市で大正末期から続く、名代伊勢うどん、山口屋の二代目山口浩さんを訪ねた。

「晴れの日の食事やったんさ。正月とか祭りの日は、必ず伊勢うどん喰うて」。浩さんは前掛けを外して腰掛けた。

浩さんは陸軍航空部隊の地上勤務に就き、旧満州への出兵寸前に終戦を迎えた。戦中戦後の物資不足に、軒を連ねたうどん屋は、暖簾を畳み休業状態に。復員した浩さんは、先代と共に近所の配給粉を預かっては麺にして、伊勢うどんの灯を細々と守り続けた。

昭和25(1950)年の朝鮮特需を境に、翌年のサンフランシスコ講和条約による日本の「独立」回復へ。やっと平和を実感する日々が訪れた。

昭和29(1954)年、同級生の妹貞子さんと結ばれ、うどん作りに精を出した。「わしは、ようもてよったんさ」。傍らの貞子さんが鼻先で笑った。

山口屋の伊勢うどんは、自家製のタレと、一時間かけふっくらと茹で上げる太麺が命。溜り醤油に煮干しと鰹節を入れじっくり煮出し、創業以来受け継がれる秘伝の味を加え、麺と相性の良い芳醇なコクを醸し出す秘伝のタレが完成する。

「学生時代によう通うてくれよった人らが、ひょっこり立ち寄って『昔のまんまの味や。丼も一緒やし』言うて。今し皆偉ろうなった人ばっかやけどなぁ」と、貞子さん。

金毘羅さんの讃岐うどんと、お伊勢さんの伊勢うどん。いずれも似て非なる郷土が誇る素朴なうどんだ。麺も出汁も、食し方まで違えども、いずれの神々を詣でる参詣客には「まぁ遠路よう詣でてくれた。さあ帰りにうどんでもたべてき」と、参道に漂う溜り出汁の香が、神々の有難いお告げとなって袖を引く。

三代目を継ぐ敦史さんは、銀行に就職してからも、週末には店の手伝いに明け暮れた。入行から六年目を迎えた頃。異動の辞令が下りた。「配属先がこの店の三軒隣の支店やって・・・。家へ戻れってことかと・・・」。年老いて行く両親の姿に、跡取りの責任を感じ銀行を辞した。

そして伝統を守りつつ、現代人好みの新商品も考案。「『ごちゃ伊勢うどん』言いましてな、お揚げに焼き麩、蒲鉾の加薬に、肉と海老の天麩羅を添えた具沢山の代物ですんや」。どこからどう見ても、元バリバリの銀行員とは思えぬ若大将だ。

ふっくら茹った太麺に、磯の香漂う溜りダレ。溜まらずお代わり、もう一杯。

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「誰よりも誰よりも」

今日はまず、弾き語りやCD音源をお聴きいただく前に、今日の一曲「誰よりも誰よりも」の歌詞からお読みいただければ何よりです。

「誰よりも誰よりも」

詩・曲・唄/オカダ ミノル

昨日の君まで 好きでいたいなんて 身勝手過ぎることなど 百も承知だけど

もう止まらない 君を愛し過ぎて 出逢う前の君さえも 独り占めにしたい

 ああ出来ることなら 君の記憶さえ  すべてぼく一色に 塗り替えてしまいたい

  昨日の君さえ やっぱり好きなんだ 誰よりも誰よりも 君に愛されたい

昨日までの日々 流した涙の分 君は幸せになる 権利がきっとある

ごらん足跡(あしあと)を昨日が今日に向かって 真っ直ぐにこのぼくへ歩み続けている

 ああ今日を限りに 記憶を閉じて  すべてこのぼくだけに 委(ゆだ)ねてくれないか

  今日も明日も 君を好きだから 誰よりも誰よりも 君に愛されたい

 ああ今日を限りに 記憶を閉じて  すべてこのぼくだけに 委(ゆだ)ねてくれないか

  今日も明日も 君を好きだから 誰よりも誰よりも 君に愛されたい

  誰よりも誰よりも 君に愛されたい

この歌詞にあるように、どなたかの事が好きで好きで、どうしようもないほど、狂おしくてたまらなくなったと言う、そんなご経験はございませんでしょうか?

ぼくは誰にでも、誰かを好きになった瞬間、この歌詞にあるような想いを抱かれるものだと思っています。

ただそれがどれだけの大きさであるかは、人によってそれぞれ違いがあるとは想いますが・・・。

それとこの歌詞にあるような気持ちを、仮に一瞬でも心の何処かで想い描いたとしても、それを素直に相手にぶつけることもままならず、むしろ恋だとか愛だとかについて、自分は十分に酸いも辛いも知っているかのような、そんな真逆な素振りをしてしまう。きっとこんな方もおいでのことでしょう。

確かにこっばずかしかったり、柄じゃないとか、ついつい素直に心の内を打ち明けられず・・・。

それでも互いに心が十分に通じ合えれば、それに越したことはありませんが・・・。

如何なものでしょうかねぇ。

ぼくならば、ぶきっちょなもどかしい言葉を繋ぎ合わせてでも、どんなにこっぱずかしかったとしても、やっぱり胸の内を吐露したいものです。

それだけ言葉ってぇのは便利な一方で、煩雑でもどかしくって、何もかも洗いざらいに根こそぎ相手に伝えきるには・・・。ぼくの場合は、いささかいまだに語彙が不足しているかも知れません・・・。

でもきっと、お相手もこちらが必死に心の内を曝け出そうとしていれば、わずかな顔の表情の変化や目の動き一つが、言葉以上にモノを言ってくれるだろうと、そう信じています。

それではまず拙いぼくの弾き語りで「誰よりも誰よりも」をお聴きください。

続いては、CDに収録されている「誰よりも誰よりも」と、お聴き比べいただければ幸です。

★4月8日の明日は、噛み噛みシンちゃんのお誕生日です。いつものようにささやかに、Happy Birthday~「君が生まれた夜は」でお祝いをさせていただきます。

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「初めてのランドセル!」。ぼくが小学校に入学したのは、昭和39年の東京オリンピックの年でした。戦後復興の象徴と言われた東京五輪でしたが、今と比べたらまだまだ貧しい時代でした。ですから入学式のランドセルだって、兄弟や姉妹が沢山いる家の子供たちは、兄や姉のお下がりが普通でした。それは何もランドセルだけに限ったわけでは無く、洋服にしても文房具にしたって同様でした。ぼくは一人っ子だったため、何もかもが新品で友から散々に羨ましがられたものでした。しかし今にして思うと、何もかも新品で揃えなければならなかった両親の負担は、なまなかなものでは無かったことでしょう。しかしそれでも一応曲がりなりにも、何不自由なくそれらを用意してくれた両親に今更ながら感謝感謝です。とは言えまあ、いずれの備品や持ちモノも当然ながら「上」ではなく「並」でしたが!新型コロナの影響もあり、真新しいランドセルを重そうに背負った新一年生を見掛けませんが、懐かしさだけが込み上げてまいりました。

今回はそんな、『初めてのランドセル!』。皆様からの思い出話のコメント、お待ちしております。

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