「TASOGARE」

「黄昏」「たそがれ」「TASOGARE」。

同じ意味の「たそがれ」ではあっても、文字にしてみると漢字やひらがな、そしてぼくの曲のタイトルでもある、ローマ字にするのとでは、見た目的にも随分印象が異なって感じられるものです。

高層ビルが影絵のように黒ずみ、やがて地平線の彼方が美しいオレンジの光に包まれてゆく一瞬。

マンションのベランダに出て、缶ビールを片手に、夜の帳が下りてゆくまで、感慨深くその日一日の出来事を振り返りながら、ぼんやりと眺めている時間がぼくはとても好きです。

差し詰め南国の孤島にでもいられたなら、一日の内で最もご褒美のような、そんな美しいひと時に潮風を体中で受け止めながら、シャンパンなんぞをかっこつけて傾け、まったりと「たそがれ」てゆく水平線を見送りたいものです。

さすがに肴は「炙ったイカ」では、とてもシャンパンに似合いそうにありません。ですからそこは一つ、プリティーウーマンのリチャード・ギアを真似、カクテルグラスに入れたストロベリーなんぞを指先で摘むのがお洒落なんでしょうねぇ。

そんな光景を眺めながら、独りで思いに耽るとするならば、やっぱり今日一日の様々な出来事や、これまで生きて来た、様々な心の葛藤なんぞが、独り語りの話し相手にゃお似合いなんでしょう。

だって期待に満ちて躍動感が溢れる、そんな日の出とは一味違い、「日没」間近の「たそがれ」には、昼と夜とが入れ替わってゆく、何とも切ない気分を掻き立てられるものです。

だからでしょうか。

曲がりなりにもここまで生きて来られた人生を、ついつい日の出から日没になぞらえたりしてしまうのは・・・。

でも何と言っても太陽は、水平線や地平線の彼方へと沈み切る寸前に、この世の万物には代え難い美しさを、ほんの一瞬だけ見させてくれる点が最高に嬉しいじゃないですか!

それはそうと皆様は、朝日と夕日、どちらがお好きでしょうか?

今日は、「TASOGARE」をまずは弾き語りでお聴きください。

「TASOGARE」

詩・曲・歌/オカダ ミノル

黄昏の街を行けば 北風が頬を撫でる

君と一つの コートに包まった遠い日よ

黄昏が燃え尽きたら 暗闇に溶けて染まる

知ってはいても 君と二人なら怖くなかった

 今だけを信じられた 素直過ぎたあの日

 もうどれほど手を伸ばせど 戻れないあの黄昏

黄昏は物悲しい 君がそう言い残し

灯る町明かり 君の背が浮かんで消えてゆく

黄昏は燃え尽きても 明日はまた生まれ変わる

君とぼくの 恋が宵の中へと溶けてゆく

 今だけに全てを賭け 生きただけのあの日

 もうどれほど手を伸ばせど 戻れないあの黄昏

 今だけを信じられた 素直過ぎたあの日

 もうどれほど手を伸ばせど 戻れないあの黄昏

 今だけを信じられた 素直過ぎたあの日

 もうどれほど手を伸ばせど 戻れないあの黄昏

続いては、ガラリと雰囲気を変えて、CD音源から「TASOGARE」をお聴きください。

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「粉末ソーダ!」。いよいよ夏日がやって来るような季節になると、ついつい子供の頃の「春日井の粉末シトロンソーダ」を懐かしく思い出してしまいます。って言っても、もうどんな味だったのかもさっぱり思い出せませんが・・・。まだ昭和半ばの頃の事。チクロなんてへっちゃらだった時代でしたねぇ。グラスに氷をいれて粉末ジュースをお洒落に作ったりなんてせず、袋の端を歯で噛み千切って、そのまんま粉末ジュースの素を口に放り込み、口中シュパシュパになったものでした。ネットで調べて見たら、どこからどー見ても絵はメロンなんですが、それだけが「シトロンソーダ」の名で、イチゴの絵はイチゴのままで、その名もそのまんま「イチゴソーダ」でした。ちなみにネットで見た1袋10円の5袋が縦に繋がったセットには、上から順に「シトロンソーダ」「オレンジ」「イチゴソーダ」「オレンジ」「パイン」となっていたようです。オレンジとパインは、粉末ソーダではなく、ジュースのようです。しかし遠い昔の記憶ってぇのは、どうにも曖昧なものです。ぼくなんてずっと「シトロンソーダ」ばかりだと思っていましたし、家のお母ちゃんは、もっと大きなお徳用袋入りのシトロンソーダを買ってきてくれてあり、それでソーダを作ってくれようものならソーダの粉をケチるもんだから、シャビッシャビで飲めたものじゃなかった苦い記憶まで蘇ってしまったほどです。皆様もシトロンソーダ、お飲みになりませんでしたか?

今回はそんな、『粉末ソーダ!』。皆様からの思い出話のコメント、お待ちしております。

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クイズ!2020.05.19「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

これは写真だけじゃあ、ちょっと分かりにくいかも知れませんねぇ。

ヒントは、春の旬の食材を使った、中華風のイタリア~ンな作品です。

では頭を柔軟にして、どしどしコメントをお寄せ願います。

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「天職一芸~あの日のPoem 104」

今日の「天職人」は、愛知県一宮市の「鞄職人」。

小さな背中ピカピカと 大きく揺れるランドセル      君が成長する姿 見守り続け役終える           幾つもついた傷跡は 六年分の泣き笑い          君が大きくなるに連れ 小さく揺れるランドセル

愛知県一宮市のキトー鞄製作所、二代目鞄職人の鬼頭直人さんを訪ねた。

写真は参考

半世紀を捧げ、二十万人の新一年生に、手縫いのランドセルを作り続けた男。それが直人さんだ。

キトー鞄製作所は、初代が大阪で鞄職人として開業。直人さんも大阪で産声を上げた。しかし空襲が激しさを増し、小学二年の年に、親類を頼り愛知県祖父江町に疎開。

中学を上ると、直ぐに、父の元で朝六時から深夜まで作業に追われた。「大学行きたかったんだけど、『職人に大学なんていらん!』って、ど突かれながら毎日修業だて」。

ランドセル作りは、革の裁断に始まり、革の裏側を鉋掛(かんなが)けし厚さを調整。折り曲げる箇所は、「縁(へり)すき」と呼ぶ作業で折りしろを作る。そしてゴム糊で接着し、専用ミシンで縫製。金具を付け、蓋や肩紐を手で縫い取り付ける。製造工程は百手以上。朝から夜まで、熟練工でも一日一個がやっと。

写真は参考

「昭和三十(1955)年代は、まだ高級品だったで、ランドセル買っても机は後だったでなあ」。 昭和三十七(1962)年、妻俊子さんと所帯を持ち、一男二女を授かった。

「家中ランドセルだらけやで、うっかり長男のを作るの忘れとって。『ぼくのはどれ?』って言われて、確か慌てて傷物(きずもん)持たせたよね」。傍らで妻が懐かしそうにつぶやいた。

しかしその後は、大量生産の合成皮革(ひかく)に押され、受注は激減。ついに二年前工場を閉め、自宅で妻と二人の家内工業に切り替えた。(平成十六年八月七日時点)

するとある日、京都から一本の電話が。

余命一ヶ月と宣告された、娘を持つ母親からだった。入学式に行けるはずも無い我が娘に、ピンクのランドセルを、例えそれがベッドの上であっても、せめて一度だけでも手に持たせてやりたい…。 そんな母の願いが直人さんを突き動かした。

何もかも打っ遣(うっちゃ)って、ピンク色のとにかく軽いランドセル作りに没頭した。「ランドセルを抱く娘の姿と、その姿を間近に見つめるしかない母の気持ちを想うと…。そん時、大学なんか行かんで良かったって思ったって。鞄職人だったで、その母子の最後の望みを、叶えてやることが出来たんだで」。老鞄職人は目頭を潤ませた。

写真は参考

一人に一つのランドセル。形はどれも同じでも、六年かけて詰め込む想いは人それぞれ。

ハレの日、入学式の記念写真。どの子も校門でランドセルを重そうに背負う。でもどこかちょっぴり誇らしげだ。

ランドセルを背負うことが、幼児から子供への階段を上る、まるで大切な儀式であるかのように。

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5/12の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「アラビアータソース& Mozzarellaチーズの山菜満載PIZZA!」

今年も郡上から届いた、「タラの芽」「コシアブラ」「アズキナ」をたっぷり載せ、モッツァレラのピザにしてみました!

今回は、ほとんど多くの皆様が正解でした!

正式には、市販のピザ生地にアラビアータの残ったソースを塗り、その上にたっぷりモッツァレラチーズを敷き詰め、山菜を盛り付けて焼き上げただけの、超簡単手抜きクッキングでございました。

しかしモッツァレラチーズと山菜が見事な美味しさを醸し出してくれまして、春酣の山の幸をちょっとイタリア~ンな気分で、お気に入りの白ワインと共にペロッといただいてしまいました!

ありがたや、ありがたや!

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「ちょっとちょっとあんた!マスクしなさいよ!」

先日、必要火急の用を済ませ、越前花堂駅から名古屋へ戻る途中、敦賀の駅で乗り換えることになりました。

北陸線の次の列車に乗り換えるホームに向かうと、こんな新型コロナが心配されている中、マスクをしていないけったいな方が、ホームのベンチに!

さすが恐竜王国福井といえども、とてもお隣に腰掛ける勇気もなく、傍観しておりました。

異常に口が大きくて長い恐竜には、あの「ア〇ノマスク」が仮に届いたとしても、それでなくとも言い出しっぺのあの方が着けても小さそうですから、恐竜にしたら口の先っちょだけしか覆えそうにありませんよねぇ。

嗚呼ビックリしたなぁ!

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「天職一芸~あの日のPoem 103」

今日の「天職人」は、愛知県飛島村の「筏師(いかだし)」。

沖行く船に背を向けて 丸太操る軽業師                        広い海原自在に翔(か)けて 丸太の文字を海に浮かべた  スキと二文字の片仮名を 海に描いて手を振れば      岸辺に揺れる影一つ 筏乗りから海の恋文

愛知県飛島村の名古屋港木材倉庫に勤務する、親子二代の筏師、加藤勝三さんを訪ねた。

写真は参考

 「わしら筏師の道具は、この身体一丁と竹竿だけだて」。潮焼けした赤ら顔の勝三さんは、人懐っこそうな笑顔を見せた。

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「わし、勉強が嫌いだったんだわ」。昭和三十九(1964)年、中学を出ると直ぐ、父が筏師の親方を務める会社に入社。筏の一本乗りを始めた。「そんなもん、直ぐには乗れぇせんて。一日に二~三べんはぶち落ちてまって、助けてまうんだて」。

落ちても落ちても這い上がり、七年の月日を経て一人前の筏師に。 「冬場に落っこちると、銭いらんで帰ったろかと思うほど、冷たて痺れよるんだて」。

入社一年目、筏の一本乗り大会新人戦で、見事優勝。

晒しに紺の半纏、白足袋に鉢巻きの出で立ち。約二間(三.六m)の竹竿。根元には、丸太を引寄せるトビと、押し出すトッコ、ロープを切る鉈(なた)の三種の金具が取り付けられている。

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特殊作業の筏師は、一般の給与の二倍を得たという。 昭和四十六~四十七(1971~1972)年の全盛期には、名古屋だけで筏師も千人を越えた。

翌、昭和四十八(1973)年に、港区出身のしな子さんを嫁に迎えた。「姉(あね)さが洋裁の先生で、おっかあが生徒だったもんで。それが逢ったら、ええ女だでかんわ」。

しかしオイルショックの影響からか、一次加工済の外材が、筏師たちから丸太を奪い始めていった。

今では筏師もわずか三十人足らずとか。 筏師たちの仕事は、本船から丸太を下ろし、全方位型のロータリーボートで集める。カンと呼ぶ金具を打ち込み、ロープをかけ、長さ十二mの丸太を五十~百本ほどにまとめて筏を組む。そして引船で一時間かけて貯木場へと曳(ひ)く。

検査を経た丸太に等級別の標が付けられ、筏師が材木商の注文に応じ、貯木場に浮かぶ丸太を一本乗りで寄せ集める。

「自然の風や潮の加減に逆らったらかん。毎日の下げ潮と込(こ)み潮の時間を、身体が覚えとるんだて」。

写真は参考

海は穏かな優しい日ばかりではない。時には時化(しけ)に荒れ狂い、稲妻が海原を駆け抜ける。エンジンも櫓(ろ)も持たぬ竹竿一本の筏師は、海と対話し、竹竿一本で海と陸(おか)との間を自在に翔(か)ける。

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「越前花堂(えちぜんはなんどう)駅で見かけましたぁ!」

またしても必要火急な用があって、日帰りで越前花堂駅にまいりました。

用を済ませ名古屋へ戻るため米原方面のホームに行ってみると、そこでこんな案内板を見かけました!

確か小さな巨人と言われた、あの大先生の歌にあった「越美南線」の長良川鉄道ではなく、「越美北線」ではありませんか!

越美北線は、福井駅と岐阜県の美濃太田駅の間を、岐阜県郡上市白鳥町石徹白(旧福井県大野郡石徹白村)を経由して結ぶ鉄道、越美線の一部として建設されたものの、その計画は果たせなかったものだそうですねぇ。

越美北線は、福井駅から九頭竜湖駅を結んでいるそうですが、乗ってみたいものの乗ってしまえば九頭竜湖で途方に暮れてしまいます。

乗り鉄かも知れないぼくではありましたが、断念してローカル線を乗り継ぎ、4時間半を掛けて戻ってまいりました。

おかげで気分転換の小旅となりました。

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「縁起木の栽培!」

「縁起木栽培セット」の南天の種を、栽培セットの小鉢に種植えいたしました。

説明書によると南天の種を冷蔵庫で一ヵ月休ませ、その後一晩水に浸してから、セットに付いている土に植えるよう書いてありました。

ちゃんと指示通りに一ヵ月冷蔵し、一晩水に浸したのが、写真右手の小鉢の中に浮かんでいる南天の種でして、翌朝さっそく中央の鉢に植えてあげました。

早く発芽しないものかと、楽しみでなりません。

先に間引きして植えた唐辛子も、スクスクと成長を続けており、花が早く付かないものかと、こちらも毎朝眺めるのが楽しみでもあります。

難を転じて、唐辛子で厄除けとでもまいりたいものです。

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「天職一芸~あの日のPoem 102」

今日の「天職人」は、三重県御薗(みその)村の「手筒花火師」。(平成十六年七月十日時点)

夏の夜焦がす花火でも いつか枝垂(しだ)れて消えるもの 土手に寝転ぶ君の声 目尻を伝う花火の雫(しずく)    闇を切り裂き天翔(あまか)けて 見事に華を咲かせ散る  儚き定め花火にも 心震える君を想えば

三重県御薗村に代々続く、手筒花火師の山崎力さんを訪ねた。

写真は参考

「手筒花火を自分で作って、それを打ち上げてこそ、一人前の男やさ」。力さんは、葡萄棚の下で缶ビールを煽った。両親と兄・姉夫婦を交え、焼肉を肴に酒宴の真っ最中である。

御薗村には三百年ほど昔から、お盆に先祖を供養する念仏踊りと、送り火としての手筒花火が今も伝わり続けている。

この村に生を受け、この村を愛して育った力さんは、代々村の手筒花火を受継ぐ大念仏羯鼓(かんこ)保存会に十五歳の年に入会。父も兄もそうであった様に、手筒花火師を目指した。

とはいえ、職人であっても商人ではない。年に一度の念仏踊りの一晩のためだけに、秘伝の手筒作りを学んだ。 「事故が起こったらあかん。せやで自分で花火を作るんやさ。でも何時の間にか、その危なさに、みな取り憑かれてもうてな」。力さんは空の手筒を取り上げた。

手筒の太さは、二寸半(約七.五七㎝)。竹(現在は紙管)筒の底部には新聞紙を詰め込み、跳(は)ねと呼ばれる爆発力の強い黒色火薬を詰め、その上から先祖伝来の火薬を叩いて詰め込む。この叩き入れる時の感覚は、すべてが永年の勘だより。最後に噴出し穴の開いた木栓で塞げば完了。一晩のために二百本強の手筒が仕込まれる。

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打ち上げ時には、手筒と自分の腕をチェーンでつなぎ、ゴー、シューと音を立て火花の吹き上がる手筒を、両手でしっかと掲げ持つ。「打ち上げの最後んなあ、物凄い音を立てて筒の底が抜けたるんやけど、それが黒色火薬に燃え移って爆発する時の音なんやさ」。力さんは身振り手振りを交え、夢中で手筒の魅力を語った。 「わしの作ったんは、吹き上げる勢いも違(ちご)てな、音も高(た)こうてええ音さすんやさ」。傍らに寄り添う妻が、頼もしそうに力さんを見つめた。思わず奥さんに話かけようとすると、力さんが遮った。

写真は参考

「これなあ、まだ嫁とちゃうんやさ。わし前に一度離婚してなあ、今度これと一緒んなるんやさ。それで家族に紹介しよ思て。なあ皆そういうこっちゃで、一つ宜しゅう頼むわな」。何の衒(てら)いも無く力さんはそう告げ、ビールを飲み干した。

取材の席は一転、大家族の祝宴に。男たちは酔うほどに、手筒の武勇伝を、何とも誇らしげに語り続けた。

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「天職一芸~あの日のPoem 101」

今日の「天職人」は、岐阜市の「油紙師」。

鯉の昇りに舟下(ふなくだ)り 父と延竿(のべざお)垂れながら                          想わぬ釣果(ちょうか)期待して 母の悦ぶ顔浮かべ    母のむすびを頬張れど ビクとも浮きは動ぜぬに      父と二人で浮かぬ顔 母の溜め息風運ぶ

岐阜市で慶長年間(1596~1615)創業の油紙製造・小原屋商店、十二代目油紙師の河合良信さんを訪ねた。(平成十六年七月三日時点)

 「わし、特攻隊に憧れとったのになあ、赤紙ちっともこうへんのやて」。良信さんは、火の無い火鉢の前に座した。

「元々、信長公の御用商人から始まり、雨合羽や火縄銃の雨避けのため、油紙を納めとったんやて」。その歴史は四00年を溯る。

油紙は、美濃和紙に柿渋を塗って手で揉みしだき、皺を寄せ荏胡麻(えごま)油と桐油(きりゆ)を混ぜ合わせて塗り込む。そして長良の辺で石の上に広げ天日に干し、乾燥まで五~六日を要する。

良信さんは四人兄妹の長男として、代々続くこの家に誕生。尋常高等小学校を出ると、有無を言わさず家の手伝いが待ち構えていた。十八歳の年、軍事徴用で航空機製造工場へ。日に日に激しさを増す空襲で、延焼を食い止めようと、先祖代々の家屋敷も強制取り壊しの憂き目に。慶長の世から受け継がれたこの家の歴史は、愚かな戦の犠牲となって音を立てて崩れ去った。

飛行機乗りの夢も破れ、戦後はひたすら家業に打ち込んだ。「昭和三十(1955)年頃までは、同業者が十二~十三軒もあったんやて」。 昭和三十二(1957)年に、静岡県の三ケ日から一目惚れの妻を娶(めと)った。「でも亡くなってもう三年。わし独りぽっちやて」。良信さんは、かつて妻が座した座敷の一角を、こっそりと見やった。

「ビニールが世に出てからは、油紙は衰退の一途や。みんな同業者は、別の紙産業へと転じるし。家はなまじ先祖代々続いたもんやで、灯を消したらかんって。気が付いたら、残っとるのは家だけやったって」。

今となっては、何時売れるとも知れぬ油紙。生計など成り立とうはずも無い。 良信さんは油紙の応用とも言うべき、のぼり鯉作りも手掛ける。徳川吉宗の享保の改革で、絹の鯉のぼりが禁じられ、和紙で模られたのぼり鯉が作られたとか。型取りから絵付けまで、良信さん独りぽっちの作業が続く。 「体が太過ぎると鮒になってまうし、尾っぽが長いと金魚になってまうんやて」。

大きな真鯉に、菖蒲を鉢巻きに挿した金太郎が跨(またが)る勇壮なのぼり鯉。 見渡せばどこもかしこも、伝統を蹴散らすように、新たな技術や商品が世に溢れかえっている。

この世にたった一人の油紙師が、時代の速度を憂いて、重い溜め息を落とした。

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