「昭和Nostalgia」(393)

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小学生時代の通学路は、田んぼの畦道を通るルートで、今のような季節にこんな小さなイチゴを見かけたものです。

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友の一人が道端のイチゴを手に取り、「こりゃあなぁ、ヘビイチゴって言うんだぞ!」とパクリ!

「甘酸っぱくってウメエ~ッ!」とかなんとか、のたまうもので、ついつい一緒に居た男坊主共も、我先にと野辺のヘビイチゴとやらを摘み取りパクリ!

ぼくは「ヘビイチゴには毒がある」って、お母ちゃんだったかお父ちゃんに聞いた気がして、摘み取ったまではいいものの、口に入れるのを躊躇った気がいたします。

果たしてお味の方はいかがなものだったのやら?

またしても遠い記憶は薄れゆくばかりで、本当に友に連れられ食べたのかさえ、今となってはどうにも怪しい限りです。

ちょっと気になって調べてみたら、ヘビイチゴはどうやら2種類あったようです。

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左側がヘビイチゴで、右側がヤブヘビイチゴとか?

これまた、果たしてどっちをぼくらは摘み取ったのやら?

参考

ちなみに中身はこうなっているようです。

それから、「ヘビイチゴには毒がある」ってぇ説は、どうやら間違っていたようで、毒などこれっぽっちも無いようです。

ただ食感がみずみずしくなく、甘みも感じられないようです。

さて皆さんは、子どもの頃、口にさませんでしたか?


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「昭和Nostalgia」(392)

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子供の頃は、家の周りは田んぼが多く、あちらこちらにこんな葦が生えておりました。

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ぼくらは葦の茎のような、葉が何層にも巻かれた、細長い三角錐のような部分を手に取って、まるでタケノコの皮を剥ぎ取るように、表面の皮一枚を残して、内側の何層にも巻かれた皮を取り除き、葦笛を作ったものでした。

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こんな感じで、茎の根元を口に挟んで、そっと息を吹きかけたものです。

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まぁ、何に付け不器用だったぼくは、友のように上手くは吹けなかったと思いますし、果たしてそれがどんな音色だったのやら?

ただただ、「ブーブー」といった音色しか奏でられなかった気がいたします。

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逆に女の子たちは、こんな笹船と言うか草船とでも言うか、器用にこんな草船を編み、水辺に浮かべていましたねぇ。

ぼくらの子ども時代は、お金のかからない身近なもので十分オモチャ代わりになったものでした。

それも近所のお兄ちゃんお姉ちゃんから、年下の者へと自然に伝授され続けた、そんな遊びでもありましたねぇ!

まぁ、いずれも水温む、こんな季節じゃあなかったかなぁ?


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「昭和Nostalgia」(391)

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そう言えば子供の頃、ちょうどこんな春の日。

みんなで四葉のクローバー探しを競い合ったことがありませんでしたか?

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ぼくはどんくさくって、なかなか四つ葉のクローバーが見つけられず、近所の女の子たちにいつも後れを取っていたものでした。

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何でも今は、伊良湖発祥と言われる、四つ葉の出現率が7割と言う、こんな鉢植えもあるようですから、子どもの頃にこんなスグレモノがあったなら、近所の女の子たちに鼻高々でいられたのにぃ!

チクショウ!

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それから近所の女の子の中にゃあ、こんなシロツメグサの花冠を、自慢げに着けている子もいましたねぇ。

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お母さんが器用な方で、シロツメグサを摘んで編み込まれたんでしょうねぇ!

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なんだかちょっぴり羨ましく感じたものでした。

もしかしたらこれをご覧の女性の中にも、子どもの頃こんな花冠を編まれた方もおいでかも?

だったらきっと、今のようなうららかなこんな時期、シロツメグサを摘んでは、お嬢さんやお孫ちゃんに作って差し上げたんじゃないでしょうか?


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「昭和Nostalgia」(390)

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今のようにインターネットが普及していなかった時代は、こんなぶ厚い時刻表を頼りに、旅の旅程を考えたものでした。

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中学生の頃のぼくは、見たこともない土地に想像を巡らせながら、飽きることなく時刻表をめくり、バーチャルな机上の旅をしていたものでした。

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鉄道時刻表を眺めていると、日本全国はとても広く、自分が知っている日本ってぇのは、恐ろしいほど狭っ苦しいしいものだとつくづく感じたものでした。

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そう言えば当時は、旅行先の情報も、こんな旅行ガイトブックと睨めっこしなきゃいけませんでしたものねぇ。

今じゃあそんなものも不要となり、ネットで動画まで見れちゃうんですから、旅行ガイドブックなんてページを開くのももどかしいってものかも知れません。

でも・・・、何度も見返すには、やっぱり刷り物の方が便利な気がする事が、既に時代遅れの昭和オヤジってことなんでしょうかねぇ!

ってやんでぃ!


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「昭和Nostalgia」(389)

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GW前半が終了しましたねぇ!って、人も羨む11連休って方もおいでなんでしょうねぇ。

しかしこれだけ紫外線が降り注いでくると、ぼくなんて昭和半ば生まれの者にゃあ、何てったってこんな日焼け用の「サンオイル」でしたですねぇ!

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海でも川でも、サンオイルを全身に塗りたくって、お日様の陽を体中で受け止めていたものです。

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あのサンオイルの匂い、今でも鮮明に覚えているくらいです。

そして日焼けオイルもサンオイルから、やがて大人の階段を登りつつ、コパトーンへと変っていったものでした。

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後半のGW期間中に、潮干狩りや海釣りなどレジャーに向われる方も多いことでしょう!

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恐らくぼくのような昭和半ば人間とは真逆な、日焼け止めクリームをしっかりすり込まれるんでしょうねぇ。


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「昭和Nostalgia」(388)

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間もなく端午の節句ですねぇ。

子どもの頃は、ご近所にあった大きな農家の庭先に、こんな立派なコイノボリが翻っていたものです。

でもわが家には、大空を優雅に泳ぐようなコイノボリなんてありませんでしたから、それはそれは羨ましく思って仰ぎ見たものでした。

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まぁ、ぼくの家では、古新聞でお父ちゃんが折ってくれた、折り紙の兜をかぶらされて、粽や柏餅を家族三人で食べたくらいのものでした。

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それとわが家じゃ、菖蒲湯もお目に掛ったことがありませんでしたですねぇ。

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大人になってから、端午の節句前だったかの頃、どこかの温泉で菖蒲を浮かべた湯船に浸かったことがあったくらいのものでした。

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当然のことながら、狭い当時のわが家にゃあ、こんな立派過ぎる節句人形を飾る余地などありませんでしたから、百姓家の友人の家でこんな節句飾りを目にして、そりゃあもうビックリしたものです。

そう言えばわが家でも、ガラスケースに入った節句人形が、この時期になると飾られていたものですが、それが果たして武者人形だったのか、はたまた金太郎だったのかさえ、もうすっかり遠い記憶の中で霞んでしまっているようです。

でも、貧しいながらも、お父ちゃんやお母ちゃんは、古新聞の折り紙兜を用意してくれ、こんな不甲斐ない息子ではありますが、健やかな成長を祈ってくれたのかと思うと、もう直ぐあの世とやらで両親と巡り合ったら、お礼の気持ちに代えて肩でも揉んであげるとするかぁ!

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「昭和Nostalgia」(387)

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昭和の後半には、駅のプラットホームで傘をゴルフクラブに見立てて、周りに人がいようが居まいが、そんなこたぁお構いなしで、素振りをするサラリーマンをよく見かけたものです。

はてさて、今はどうなんでしょうねぇ?

あまり地下鉄とかにも乗りませんから、現在の様子は存じませんが・・・。

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中にはこんな、傘も持たずにエアーで素振りをする方も!

接待ゴルフやらコンペが近いんでしょうかねぇ?

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まだホームで傘を振り回すよりは、こんなエアーの方が、周りの方の迷惑にもならないかも知れませんが、それはそれで多分に奇異な目で見られたことでしょう。

こんなプラットホームでゴルフスイングに興じるのは、きっと日本人だけじゃないんだろうかと思っていたら、何が何が!

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熱心なゴルファーは、ちゃんと世界中にもおいでになるようですねぇ。

ぼくは20代後半の頃に、少しだけゴルフを齧りましたが、さして才能もなきゃあ上達心も乏しく、早々に止めてしまったものです。


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「昭和Nostalgia」(386)

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昭和半ばのご馳走は、こんな「壱銭洋食」なんぞと呼ばれ持て囃された、お好み焼きでもございました。

って、ぼくが「壱銭洋食」と言う言葉を知ったのは、岐阜市柳瀬のアーケード内にあるお店の看板を目にした時でした。

確か「一銭洋食◎ュン」とか言った屋号のお店で、いつか取材に伺いたいと思いつつ、そんな連載も終わってしまい、お訪ねする機会を逸してしまったものです。

それにしても「壱銭洋食」とは、実に巧みなネーミングですよねぇ。

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まぁ、昭和半ばの時代までは、ソースが掛かってさえいたら、何でもかでも洋食と呼んでいた気がしますものねぇ。

コロッケだって目玉焼きにしろ、焼き飯だって、ソースさえ掛かっていりゃあ、洋食だと思い込んでいたくらいですから!

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そう言えば子供の頃、母方の明治生まれだったお婆ちゃんから、壱銭硬貨や壱銭紙幣やらを貰ったことがありましたねぇ。

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でも、あの古銭はいったい何処へ行っちまったのやら?


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「昭和Nostalgia」(385)

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今でも時折思い出すことがあります。

月に一度くらいだったでしょうか?

お母ちゃんに連れられ、市バスに揺られ名古屋駅まで行ったのは?

お母ちゃんが好きだった、名鉄百貨店の地下の片隅にあった、80円均一と言う名?の店で、散々悩みに悩みぬいて手にしたり戻したりを繰り返し、やっとのことまるで清水の舞台から飛び降りるかのように、わずかばかりの日用品を買う、そんなお母ちゃんのお供をしたのは。

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そしてお母ちゃんとぼくの二人きりの時は決まって、サンロード地下街から都地下街をかすめ、笹島の交差点に出る手前にあった、女性と子ども専用の寿がきやへ連れて行ってもらえたのは!

まぁ考えてみれば、お父ちゃんが一緒の時には、その寿がきやへは入れなかったってぇ事ですけどねぇ。

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確か入り口で、寿がきやラーメン2杯と、ぼくのソフトクリーム、そしてお母ちゃんは確かクリームぜんざいの食券を買い込んで、テーブル席で向かい合わせで食べたものでした。

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まぁ、当時のぼくにとっちゃあ、お母ちゃんと二人きりでの寿がきやランチタイムであったにしても、非日常的で魅惑的なとてもワクワクする外食だったものです。

あの寿がきや独特のフォークのようなスプーンも、欲しくって欲しくって仕方なかったものでした。

今にして思い返すと、例え寿がきやであれ、お母ちゃんにしてみれば、とっても贅沢な時間であったのだろうと偲ばれてなりません。

何故子どもと女性専用だったかと言うと、当時はまだまだ女性が外で、ラーメンをずるずる啜って食べたり、甘味をパクパク食べるのが恥じらわれる風潮の名残が遺っていた時代でもあったのかも知れませんねぇ。

今度ショッピングモールで寿がきやを見かけたら、ラーメンを所望して幼い頃のお母ちゃんを偲んでみたいものです。


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「昭和Nostalgia」(384)

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子供の頃の体温計は、こんな水銀の入った体温計でしたですねぇ。

最後にこんな水銀の体温計で、熱を測ってもらったのはいつの事だったやら?

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平熱が35°半ばくらいのぼくは、なかなか水銀が上がって来なかったような?

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そして体温を測り終えると、体温計の太いお尻の部分を持って、何度も何度もスナップを利かせ振り下ろし、水銀を針先の方へと戻したりしたものでした。

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でも病院の看護婦さんなんかは、体温計をケースに入れ、ケースの紐を巧みに操り、体温計をケース毎グルグルグルグル回転させ、水銀を針先に戻されていて、それを家でも真似てみようとしたこともありましたですねぇ。

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しかし今や、水銀など使用しない、こんな電子体温計で瞬時に測定できちゃうんですから、あの手間だった水銀体温計がふと懐かしくも感じられます。

例え風邪などをひいて、体温計の示す体温が上がっていたとしても、病院で出される水薬なんかよりも、お母ちゃんの掌をオデコにあてがってもらう方が、何よりの特効薬だった記憶がよみがえってまいりました。


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