今日の「天職人」は、三重県桑名市の「ビンロージ職人」。(平成十七年四月二十六日毎日新聞掲載)
ゴンチキチンの鉦の音に 桑名に暑い夏が来る 祭りの夜を待ち侘びて 力もこもるビンロ―ジ ゴンチキチンの鉦の音に 心も騒ぐ桑名衆 夏が儚く尽きぬうち あの娘に響けビンロ―ジ
三重県桑名市の平屋樫材(かたざい)、八代目ビンロージ職人の廣川禎一(よしかず)さんを訪ねた。

「石取祭は、喧嘩祭やでなあ。狂ったように鉦と太鼓を打ち鳴らすんやで。鉦叩くこのビンロージの八角頭も、石榴(ざくろ)のようにパックリ開いてもうて、へっしゃけてまうんやで」と、禎一さん。

狭い作業場に、春の柔らかな陽射しが差し込み、大鋸粉(おがこ)が宙を舞う。
去年の石取祭を見事に務め上げ、原型を失い柄から抜き取られた、八角頭のビンロージを愛しそうに眺めた。

禎一さんは昭和四(1929)年に、七人兄弟の末っ子として誕生。「一番下の末子(ばっし)で、終いの子やさ」。六代目の父の跡を、長男が継いだ。
「鍛治町の実家には蔵が二つもあって、豪商やったんさ。そやで、これでも昔は『坊っちゃん、坊っちゃん』言われて、大事に育てられたんやさ」。
名古屋理工高等学校へ進むものの、すぐさま学徒動員の徴用。いつしか桑名の町からは、ゴンチキチンの鉦の音が消え、祭の主役を務める若衆の姿も戦地へと消えた。
昭和二十(1945)年七月、B29の大編隊が神々の御座(おわ)す伊勢湾を堂々と北上。桑名の城下町は、一瞬にして焦土と化した。
鍛治町の本家を焼け出され、現在の新家に身を寄せ終戦。
「いのくと腹も減るし」。しばらくは、家業を手伝い農具作りに従事する毎日が続いた。
それから五年。鍛治町に本家が再興し、農具・大八車・如雨露(じょうろ)・リヤカー作りが始まった。
昭和三十(1955)年、愛知県一宮市出身の妻を得、二人の息子が誕生。この頃から再び山車作りも盛んになり、ゴンチキチンの鉦の音が、桑名に暑い夏の訪れを告げ、高らかと鳴り響いた。
禎一さんは、家業が軌道に乗ったのを確認するかのように、昭和三十八(1963)年、名古屋のブラザー工業に入社。それからいつしか日々が過ぎゆき、間も無く定年を迎えようとしていた矢先のことだった。
昭和六十二(1987)年、七代目を継いだ兄が、高齢のため引退。禎一さんは早期退職の道を選び、五十八歳から再び家業を手伝った。
「兄貴が亡くなって『辞めよかな、辞めよかな』って内心迷ったんやさ。せやけど、周りの皆が『ボツボツでもやってや』ってゆうやんか。それも先祖の御陰やし、ビンロージは桑名の誇りの一つやで」。

八代目ビンロージ職人を継ぎ、ゴンチキチンの鉦の音を守り抜く決心を固めた。
ビンロージは、樫の木を材とする尺六寸(約四十八㎝)の柄に、長さ四寸二分(約十四㎝)の八角の頭を組み込んだもの。
昔は樫の木を部材の寸法に落とし、鉋がけで八角に加工し、柄を組み込む枘(ほぞ)を鑿で刳り貫いた。 「樫はかったいで、一日に十五~十六丁仕上げるんがやっとやったんさ」。

五月~六月が、ビンロージの最盛期。
「桑名の男衆は、物心付く時分から、ゴンチキチン聞いて育っとんやで。儲けなんて考えとったら出来やんて。欲得抜きやないと」。
年に一度の石取祭。浮かれて踊る者あれば、ゴンチキチンと囃す者あり。鉦を造る鋳物師(いもじ)あらば、鉦打つためのビンロージ職人あり。

そして今年も、一人に一つの石取祭が、蝉の鳴き声と共に、忘れず桑名の町に帰って来る。
*2020年は、新型コロナの影響で開催の有無は、桑名市にお問い合わせください。
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