「天職一芸~あの日のPoem 138」

今日の「天職人」は、三重県桑名市の「ビンロージ職人」。(平成十七年四月二十六日毎日新聞掲載)

ゴンチキチンの鉦の音に 桑名に暑い夏が来る       祭りの夜を待ち侘びて 力もこもるビンロ―ジ       ゴンチキチンの鉦の音に 心も騒ぐ桑名衆         夏が儚く尽きぬうち あの娘に響けビンロ―ジ

三重県桑名市の平屋樫材(かたざい)、八代目ビンロージ職人の廣川禎一(よしかず)さんを訪ねた。

「石取祭は、喧嘩祭やでなあ。狂ったように鉦と太鼓を打ち鳴らすんやで。鉦叩くこのビンロージの八角頭も、石榴(ざくろ)のようにパックリ開いてもうて、へっしゃけてまうんやで」と、禎一さん。

狭い作業場に、春の柔らかな陽射しが差し込み、大鋸粉(おがこ)が宙を舞う。

去年の石取祭を見事に務め上げ、原型を失い柄から抜き取られた、八角頭のビンロージを愛しそうに眺めた。

禎一さんは昭和四(1929)年に、七人兄弟の末っ子として誕生。「一番下の末子(ばっし)で、終いの子やさ」。六代目の父の跡を、長男が継いだ。

「鍛治町の実家には蔵が二つもあって、豪商やったんさ。そやで、これでも昔は『坊っちゃん、坊っちゃん』言われて、大事に育てられたんやさ」。

名古屋理工高等学校へ進むものの、すぐさま学徒動員の徴用。いつしか桑名の町からは、ゴンチキチンの鉦の音が消え、祭の主役を務める若衆の姿も戦地へと消えた。

昭和二十(1945)年七月、B29の大編隊が神々の御座(おわ)す伊勢湾を堂々と北上。桑名の城下町は、一瞬にして焦土と化した。

鍛治町の本家を焼け出され、現在の新家に身を寄せ終戦。

「いのくと腹も減るし」。しばらくは、家業を手伝い農具作りに従事する毎日が続いた。

それから五年。鍛治町に本家が再興し、農具・大八車・如雨露(じょうろ)・リヤカー作りが始まった。

昭和三十(1955)年、愛知県一宮市出身の妻を得、二人の息子が誕生。この頃から再び山車作りも盛んになり、ゴンチキチンの鉦の音が、桑名に暑い夏の訪れを告げ、高らかと鳴り響いた。

禎一さんは、家業が軌道に乗ったのを確認するかのように、昭和三十八(1963)年、名古屋のブラザー工業に入社。それからいつしか日々が過ぎゆき、間も無く定年を迎えようとしていた矢先のことだった。

昭和六十二(1987)年、七代目を継いだ兄が、高齢のため引退。禎一さんは早期退職の道を選び、五十八歳から再び家業を手伝った。

「兄貴が亡くなって『辞めよかな、辞めよかな』って内心迷ったんやさ。せやけど、周りの皆が『ボツボツでもやってや』ってゆうやんか。それも先祖の御陰やし、ビンロージは桑名の誇りの一つやで」。

八代目ビンロージ職人を継ぎ、ゴンチキチンの鉦の音を守り抜く決心を固めた。

ビンロージは、樫の木を材とする尺六寸(約四十八㎝)の柄に、長さ四寸二分(約十四㎝)の八角の頭を組み込んだもの。

昔は樫の木を部材の寸法に落とし、鉋がけで八角に加工し、柄を組み込む枘(ほぞ)を鑿で刳り貫いた。 「樫はかったいで、一日に十五~十六丁仕上げるんがやっとやったんさ」。

五月~六月が、ビンロージの最盛期。

「桑名の男衆は、物心付く時分から、ゴンチキチン聞いて育っとんやで。儲けなんて考えとったら出来やんて。欲得抜きやないと」。

年に一度の石取祭。浮かれて踊る者あれば、ゴンチキチンと囃す者あり。鉦を造る鋳物師(いもじ)あらば、鉦打つためのビンロージ職人あり。

そして今年も、一人に一つの石取祭が、蝉の鳴き声と共に、忘れず桑名の町に帰って来る。

*2020年は、新型コロナの影響で開催の有無は、桑名市にお問い合わせください。

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「宵火垂る」

思えば、去年も一昨年も、ホタルを目にすることがありませんでした。

そろそろホタルの恋の季節がやって来ているのでしょうか?

今日お聴きいただく「宵火垂る」は、深夜番組を始めて間もない頃に作った曲です。

その年にある小さな川沿いで、幻想的にホタルの乱舞する姿を目の当たりにすることが出来ました。

恐らくこれまで生きて来た中で、一番たくさんのホタルが見られた、実にファンタジックな夜のひとときでした。

出来うれば、観光化したホタルのスポットではなく、人気のない静かな場所で、藪蚊に喰われるのを覚悟で、ぼ~っといつまでも眺めたいものです。

以前、とある温泉に泊ったところ、近場のホタルスポットへマイクロバスで案内いただける機会がありました。

浴衣姿で下駄を鳴らして、人気のない細い車道を歩いてすすむと、何と群れからはぐれたのか、1匹だけ迷ったかのようにフラフラと舞うホタルを見ることがやっと出来たものです。

案内くださった旅館の方は、1匹だけでもホタルが舞ってくれてほっとされたように安堵されていたのが、とても印象に残っています。

ところがところが!

夕餉の折にしたたかにお酒を飲んだからか、前をはだけてしまう浴衣のせいか、もう体中藪蚊に刺されっぱなし!

急いで売店で虫刺されの薬を買ったものでした!

藪蚊は酒の匂いに寄って来るって、やっぱり本当のようですね。

それよりも感心したのは、土産物の並ぶ旅館の売店のレジ前に、虫刺され用の塗り薬が、大きなPOPの前にデーンと並んでいたのは、ホタル観賞のぼくのような酔っ払いたちが慌てて買い求めるからなんでしょうねぇ。

また今年ホタルがご覧になられた方は、教えてくださいね!

そんなわけで今夜の弾き語りは「宵火垂る」をお聴きください。

「宵火垂る」

詩・曲・唄/オカダ ミノル

君のうなじに 淡い灯りが そっと舞い降りた 宵火垂る

清か瀬音に 君のため息 肩に回した 手を握る

 わずかな命ゆえに 愛おしい 淡い灯りを賭け 燃え尽きる

 宵火垂るよ 今宵一夜 二人の行く末 そっと照らせ

君をどれほど 愛してるか どんな言葉でも 言い尽くせぬ

淡 い 月 影 君の横顔 見詰めるぼくを 振り返る

 わずかな命だから 心のまま 君を思いの丈 愛し抜こう

 宵火垂るよ 今宵一夜 愛し合う二人を そっと灯せ

 二人の夏の初め 彩って 儚く燃え尽きようと 忘れない

 宵火垂るに 想い重ね 君との愛を 永遠までも

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「初めて手にした自動車運転免許証の思い出!」。なんでも明後日25日は、「指定自動車教習所の日」なんだとか!1960年、つまり昭和35年の6月25日に道交法改正法が施行され、公安委員会が指定した自動車教習所を卒業すれば、技能試験が免除される制度が誕生したそうです。ぼくの子どもの頃の記憶や、映画Always 三丁目の夕日で見ると、まだまだ昭和39年の東京オリンピックの時代ですら、交通量が少なかったわけですから、この法律はやがて訪れるモータリゼーションに先んじて誕生した、いわば画期的な法律だったのかも知れませんね。

家の父は車の免許を持っていなかったため、わが家ではぼくが車に乗るまで、車はありませんでしたねぇ。ですからどこに行くのもバスや電車の交通機関ばかり。でもやっと車が持てるようになり、通勤する父を助手席に乗せ、ぼくも毎朝バイトに出掛けていた頃は、父も嬉しそうにして、時折なけなしの小遣いから、千円札をぼくのポケットにねじ込んでくれたものでした。今思えば、仕事帰りに飲みに行くわけでもなく、会社と家を行き来するだけの父は、わずかばかりのなけなしの小遣いで、大好きな煙草を買うお金さえ節約して、ぼくにそんな送迎代金をくれたのやも知れません。ありがとう!お父ちゃん!

今回はそんな、『初めて手にした自動車運転免許証の思い出!』。皆様からの思い出話のコメント、お待ちしております。

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クイズ!2020.06.23「残り物じゃないクッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回は残り物ではありませんが、夏バテ熱中症予防用の、『クイズ!「残り物じゃないクッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

今回は、冷凍庫のスペースを占有していた冷凍の麺を使って、●亀製麺のいかにも美味しそうなCMの刺激を受けた作品です。

ポイントはこの時期ならではの、ある薬味野菜ですかねぇ。この野菜は郡上から送っていただいたものですが、越前からやって来たものでしょうかねぇ。

越前は蕎麦の薬味にかかせませんものねぇ。

まあそれが、ヒントと言えばヒントでしょうか?

では頭を柔軟にして、どしどしコメントをお寄せ願います。

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「天職一芸~あの日のPoem 137」

今日の「天職人」は、岐阜県大垣市の「鮒味噌職人」。(平成十七年四月十九日毎日新聞掲載)

すいすい川面滑るよに アメンボたちも愉しそう      小川の辺(ほとり)爛漫と 儚き花も競い合う       川面に揺れる浮眺め 父と二人の鮒釣は          釣果(ちょうか)の神に見放され 魚篭(びく)に山盛りどて土筆

岐阜県大垣市、うなぎの川貞(かわてい)商店東前店の三代目、鮒味噌(ふなみそ)職人の古川定唈(さだお)さんを訪ねた。

「何でもそうやて。手数をかけたったら、その分だけええ味が出るんやで」。定唈さんは、初代伊之助の言葉をつぶやいた。

揖斐長良の大河が、河口へと向かい、一つに寄り添うように蛇行する。水郷地帯を南に擁(よう)する大垣では、古くから川魚の恩恵に貴重な蛋白源がもたらされた。

夏は鰻、冬は鮒やもろこはえに、川海老と鯰。それゆえ、臭みのある川魚に、独特の調理法が編み出された。

「この辺は、湿地帯やったで、あちこちに池があったんやて。だで昔は、田植えや稲刈りも、舟に乗ってやっとったんだわ」。

定唈さんは昭和十八(1943)年、本店のある大垣市郭町(くるわまち)で三人兄弟の長男として誕生。大学から親許を離れた。

「子供の頃から、焼きばっかり手伝わされとったで、土用丑の時は、一人で焼いとったほどやて」。

鰻の修業は普通、脇方三年、割き三年、串打ち四年に焼き一生とか。

定唈さんの修業は、跡取りゆえに即戦力が求められ、一生もんの焼から始まった。「大学時代は、夏休みが終わるまで、鰻焼かされとったんやて。だで、指の付け根で焼けた金串挟むもんやで、水脹れになって、夏の終わりにはタコができるほどやった」。懐かしそうに掌を見つめた。

先祖が高須松平家の武士であり、腹開きは切腹に通じると、この地では珍しい背開きを今も続ける。

中でも、最も技術が要求されるのは、串打ち。一本なりの鰻に四~五本の串が、皮と身の間を縫うように打たれる。焼き上げるまでの身の縮み具合と、焼かれて反り返る身の歪みを想定しながら。

「まあこれ、冷めたったけど、一口食べてみたって」。そう促されて一口味見。冷めたとは言え、もっちりふっくらとして、鰻の油がじゅわっと口中に広がった。

定唈さんは大学卒業後二年間、瑞浪のゴルフ場でレストランの厨房に勤務。昭和四十三(1968)年に本店へと戻って、再び修業を開始。その二年後、瑞浪時代に知りあった能登半島出身のミホさんを妻に迎えた。「鰻が大好きやで、たぶん俺と結婚したんやて」。不思議にも、他の川魚は未だ苦手だとか。二人は子宝に恵まれ、現在長男が四代目として厨房を預かる。

「ここらでは、お正月のおせちに欠かせないのが、鮒の味噌煮ともろこの甘露煮やて」。十月、鮒の解禁を待ち、味噌煮造りが開始される。

「鮒は泥臭いで、井戸水の生簀(いけす)に放して、一週間かけて臭みを抜くんやて」。次に鱗を落とし腸(はらわた)を取り出す。そして二升釜に経木(きょうぎ)を敷いては、鮒を乗せ、一度に約五十匹、七輪に藁灰(わらばい)を入れ、ことことと丸二日間水炊きを続ける。

「姿を壊さんように、骨まで柔らかくせんと」。 そこに今度は、八丁味噌と味醂に、最高級の砂糖を加え、再び一時間、味が染み込むまで炊き上げれば、水郷地帯ならではの郷土料理「鮒味噌姿造り」の完成だ。

眼の前に供された鮒味噌の姿造り。箸をそっと添えて見た。まるで箸の自重だけで、いともた易く身が解れる。口の中に、在りし日の母のような、やさしい甘さが広がった。臭みは何処にも感じられない。八丁味噌に染まった、あっさりとした鮒の柔らかな身と味わい。

水の都に相応しい逸品。 惜しみなく注がれた職人の手数が、素材の旨味を見事に引き出し、複雑に絡み合い、美味なる和音を奏で上げる。

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「天職一芸~あの日のPoem 136」

今日の「天職人」は、名古屋市北区の「民踊師範」。(平成十七年四月十二日毎日新聞掲載)

城下見守る金の鯱 雌雄一つで見つめ合う         幾つ時代が変わろうと 仰ぎ称える浮世の夫婦       お堀を染める宵桜 呑めや唄えの春の宴          月の灯りに照らされて 寝るに寝むれぬ夫婦金鯱

名古屋市北区、日本民踊研究会の師範、岸本豊淑芳(ほうしゅくほう)さんを訪ねた。

「あの世に行ったらまず、鬼のような義母を探して、御礼を言わなきゃ」。豊淑芳さんは、腹の底から朗らかに笑った。

豊淑芳さんは、大正十四(1925)年、北区金城に五人姉妹の末娘として誕生。「子供の頃、縁側に腰掛けちゃあ、金鯱をよく眺めたもの」。

日増しに軍靴の響が高まる中、愛知県立第二高等女学校を卒業。その後は、軍の徴用で戦闘機のプロペラ作りに従事。二十一歳の年に終戦を迎え、三年後に四つ年上の夫に嫁いだ。

「不思議と三つも四つも縁談話があって、一つは結納まで貰っとったんですわ。でも仲を取り持った叔母の言動に、母が激怒して結納を破棄しちゃって。当時はもう、それだけでも立派な傷物扱いだったでね。母は相当苦にしとったみたいだわ」。

幸運にも、西区庄内通で金物屋を営む、ご主人との縁談がまとまった。「そりゃあもう、庄内一のハンサムだったでねぇ」。傍らで往年のお弟子さんたちが、互いを見詰め合いこっそり笑った。塩見さん、野村さん、舟橋さん、西浦さんは、共に三十年近く岸本さんを師と仰いできた古参の弟子達だ。

昭和二十四(1949)に長女が、また昭和三十一(1956)には次女が誕生。幸せの絶頂と思いきや、姑の仕打ちも日毎増した。一方義母は、女手一つで育てた一人息子を祀り上げる。

「だから姑からすれば、嫁の私は道具の一つ」。ズボン穿きでトラックに乗り、金物を配達する毎日。男勝りな仕事に追われる岸本さんの姿を不憫に思い、実の姉たちが涙を零すほどだった。

昭和四十二(1967)年、実家の母に誘われるまま、民踊愛好者の集いに参加。踊りとの運命的な出逢いが、待ち構えていた。

「結納を破棄した事で傷物になって、姑の辛い仕打ちを受けているんじゃないかと母は自らを責め、気分転換にでもと、誘ってくれたんだろうね」。日増しに稽古日が、待ち遠しくてたまらない。しかし愛好者の集いは、二年程で敢え無く自然消滅。

だが民踊への熱は冷めるどころか、さらに高見へと向かい日本民踊研究会に入門。

しばらく後、解散した愛好者らが、豊淑芳さんに詰め寄った。「あんたねぇ、私らよりもずっと若いんだで、踊り教えてよ」。しかし、師範の資格が無いため丁重に辞退した。「そんな固い事言うけどねぇ、師範になったって、直ぐ弟子なんて取れんよ。あんたが教えてくれるなら、私たちが一番弟子になったるわ」。

考えあぐねた末、月謝を取らぬことを条件に、乞われるまま三~四会場で五十~六十人の一番弟子候補を受け持った。

昭和五十一(1976)年、師範免状を取得。こぞって一番弟子が、各地で名乗りを上げた。

昭和五十九(1984)年、金のシャチホコが地上に舞い降りる「名古屋城博」の開催を前に、中部九県を巡るPRキャンペーンへの出演依頼が舞い込んだ。

「頭の天辺に名古屋城の売店で買った、金鯱の灰皿くくり付けて、郷土の三英傑が登場する『お郷土(くに)ぶし』に合せて踊ったんだけど、これが各地でよう受けてねぇ」。古参のお弟子さんたちも一様にうなずく。「今日はねぇ、二十一年前の名城博の、思い出の衣装で集まったの」。

豊淑芳さんは五年前、二女で師範の服部豊淑利(ほうしゅくり)さんに、指導の道を譲った。

「今は母も一生徒です。かつてのお弟子さんと一緒に踊るのが、何より愉しそう」。二女はお茶を入れそうつぶやいた。

「自分が愉しくないと、人に愉しさなんて伝わらない」。

そう言い聞かせ、姑の仕打ちをバネに「民(たみ)の踊り」で、周りの人々を惹き付け続けた老師範。

『踊りの輪を人の和に』を信条に、今日も愉しげに踊り続ける。

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6/16の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「残りご飯のなぁ~んちゃってクレープ~春のサワーフルーツ&バナナクリームぜんざい添え」

ぼくも無性に甘い物が食べたくなる、そんな時があります。

冷蔵庫には、タッパーに冷ご飯が!

ならば冷ご飯処理と、ぜんざいの残り物を使って、なぁ~んちゃってクレープでも作るかぁってなもんで編みい出しましたる物が、この「残りご飯のなぁ~んちゃってクレープ~春のサワーフルーツ&バナナクリームぜんざい添え」です。

まず冷ご飯と生卵、砂糖をお好みでフードプロセッサーに入れ、ホイップモードで十分に攪拌し、フライパンにバターを溶かしてクレープっぽく薄焼きにしておきます。

続いて生クリームと色が変わってしまったバナナの、まだ奇麗な部分だけをざく切りにして、砂糖と生クリームにラム酒を加え、フードプロセッサーでホイップし、ボールに移して冷蔵庫で冷やしておきます。

あとは皿にクレープ生地を敷き、キーウイ、イチゴジャム、残り物のぜんざい、バナナチップスとラズベリーを添え、ホイップしたバナナクリームを盛り付ければ完了。

しか~し!

生クリームとバナナを一緒にホイップしたせいか、生クリームの凝固具合が不十分でドロッとしてしまいましたが、それはそれなりに美味しくいただけました。

こんなスイーツには、ドライワインか白ワイン、或いは贅沢にシャンパンなんぞを煽りたいところですが、ぼくは白ワインで美味しくいただきました。

皆々様からお寄せいただいたご回答には、見事に正解そのものの答えも頂戴し、さすが!と感心させていただきました。

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「天職一芸~あの日のPoem 135」

今日の「天職人」は、三重県鈴鹿市の「伊勢型紙筒合羽(つつがっぱ)職人」。(平成十七年四月五日毎日新聞掲載)

観音様の境内で 四季も厭(いと)わず花付ける      不断桜(ふだんざくら)よ恋しいか 儚く過ぎる白子の春が 寺家(じけ)に年中漂う香 伊勢型紙の柿の渋       春の予感に惑わされ 不断桜の蕾も緩む

三重県鈴鹿市伊勢型紙発祥の地、寺家の隣町。染物の糊付けには欠かせぬ、筒合羽を作り続ける森徳義(のりよし)さんを訪ねた。

不断桜

「渋はな、乾かさんようにして、乾かさんなんのやで。御守が大変なんやさ」。 徳義さんは、 土間から三尺(約九十㎝)程の框(かまち)を上がった板張りの作業場で、背を丸め扇型の美濃和紙に、「ニゴ」と呼ばれる稲穂の下部の軸で作られた専用の刷毛で、灰汁(あく)の強い柿渋を塗る。

左右交互にずらしながら三枚一組。寡黙に単調な作業が繰り返される。

明り取りの窓外には、春まだ浅い鈴鹿の山並み。古惚けた小屋の剥げ落ちた土壁から、木舞(こまい/土壁の下地。井桁に組まれた竹)が顔を覗かせ、雨に洗われた苆(すさ/藁屑)が風に揺れた。

余談だが、伊勢型紙の創始者は、江戸時代前期の型屋久太夫(かたやきゅうだゆう)。ある日、寺家の子安観音境内で、年がら年中咲く不断桜の一枚の葉に眼を奪われた。

喰い散らかされた虫食い葉を透かし見ると、何とも美しい紋様に。久太夫は虫食い葉から、伊勢型紙の技法を生み出したとか。

徳義さんは、昭和九(1934)年に寺家の農家の末っ子として誕生。「いらん子やさ」。昭和三十四(1959)年、遠縁の森家に婿入りし、義父と共に家業の伊勢型紙作りに精を出した。

「小さい時分から、渋塗った紙を干すために、何枚も張り板重ねて、腰に負(お)いねて手伝(てった)いよったもんやで」。異臭を放つ柿渋だが、幼い頃から身に染み何の抵抗も無かった。

昭和三十八(1963)年頃、筒合羽の作り手が無くなり、取引先にせがまれた。「型紙も筒も一緒のような仕事やないか。何(な)とか頼むわって」。

筒合羽作りの手順は、三枚一組の扇型和紙に渋を塗り、ビニールに包んで丸一日寝かせる。翌日、渋に粘りが出たところで、円錐形の型に合わせて巻き上げる。型は半円錐の組木で、底部に長さの異なる二本の取っ手が突き出ており、巻き上げた筒から交互に型を抜く。

「型が半分取れやんと、紙から抜けてきゃしませんでなあ」。円錐状に仕上げた筒を、冬でも夏でも室の中に入れ、蓋をして六昼夜寝かせる。

「渋は喰い付きが弱いで。六日もせや、否が応でも乾いてきますやろ」。 梅雨時は一番喰い付きが良い。他の季節は、室に如雨露(じょうろ)で水を打ち、湿度を保つ念の入れよう。

「乾かさず、乾かす」。矛盾に満ちた作業が、柿渋の粘りを引き出す。

次にもう一度渋に通して天日干し。友禅用の五寸(約十五㎝)ものから鯉幟用の一尺五寸(約四十五㎝)まで、日本独特の繊細な染めに欠かせぬ筒合羽が完成する。

写真は参考

「渋は怖い。油断すると蒟蒻みたいに固まってしもて」。昭和四十(1965)年代初頭の最盛期には、月間一万五千本を出荷。今はその一割。

渋の匂いに塗れながら、筒合羽一筋に一男一女を育て上げた。

「もうニゴの職人もおらんし、残った刷毛を使い切ったら、筒も仕舞いやな」。

老人は、暮れなずむ鈴鹿の山並みに、寂しげな目をそっと走らせた。

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「天職一芸~あの日のPoem 134」

今日の「天職人」は、岐阜市青柳町の「相撲幟筒引(すもうのぼりつつび)き職人」。(平成十七年三月二十六日毎日新聞掲載)

梅雨の長雨吹き飛ばし 夏場所告げる触れ太鼓       浴衣姿に下駄の音 夕陽に靡(なび)く幟旗        君は幟を繰るように 贔屓(ひいき)力士の名を探す    見つけた途端大ハシャギ  まるで金星上げたよな

岐阜市青柳町の吉田旗店、五代目の手捺染(てなせん/手染め)筒引き職人の吉田稔さんを訪ねた。

長良川を渡る空っ風。工場の庭先には、相撲幟が天日干しで横たわる。色鮮やかな染め物の花が、風を孕(はら)んで大きく揺れた。

「力士は、四股名を少しでも強く見えるように、大きく書いて欲しい。そんな願いが、幟に託されとんやて」。 と、稔さんがつぶやいた。

「江戸時代の身分制度で、染物屋は士農工商のどこにも属さんかったんやて。戦の旗指物や幔幕を作る『作り部(べ)』と呼ばれ、士と農の間にあって禄を食(は)んどったらしい」。

稔さんは、工業高校の染色科に入学すると同時に、住み込み職人と共に寝起きし、卒業までの三年間を過ごした。言わずと知れた職人の世界。先輩や親方の指運びを、盗みとる毎日が続いた。

四季の場所を彩る相撲幟は、幅九十㎝長さ五.四m。まず水に溶いた緋粉(ひこ)を筆にしたため、上から三分の二を、四股名の文字数で割り升目の当りを入れる。

次に力士の四股名をぶっつけ本番、下書きも無く一気に筆を走らせ、袋文字を描く。 「四股名の一文字分を桟敷に見立て、満員御礼になりますようにって祈りながら、升目一杯に文字を埋めるんやて」。力士がどっしりと四股を踏むよう、文字のバランスは、真ん中より下に重心を置くのが秘訣とか。

次に幟を両側から引っ張って吊るし、筒引きと呼ばれる糊置き作業。

この筒引きに、欠かせないのが筒合羽(つつがっぱ)。伊勢型紙を円錐に丸め、真鍮製の口先金具を取り付けたものだ。この合羽の中に、もち米、米糠と塩で煮た糊を入れ、緋粉の下書きに沿って搾(しぼ)り出すように、色分けの境界線をなぞる。

そして糊の乾燥を待って染色。 『今から染めさせてもらうで、綺麗に上がってね』って、やさしく声をかけ愛情を注ぎ込む。「最後は水にほとべ(ふやかし)て、天日干し。天日やで、染め色に輝きと艶が出るんやて」。

高度成長と共に、旗屋にも機械化の波が押し寄せた。コンピュータ化に迎合する者と、手染めに拘り続ける者とが二分。

「手染めには、機械に描き出せん味があるで、今でもこうして商えとるんやて」。 稔さんの元には、全国百軒足らずとなった手染めの旗屋から、跡取りの若者たちが送り込まれ、日々修業に明け暮れている。

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「天職一芸~あの日のPoem 133」

今日の「天職人」は、名古屋市中区の「夫婦社交舞踊講師」。(平成十七年三月十九日毎日新聞掲載)

月の明かりに波打つ調べ 砂の舞台にステップ刻み     舞姫踊る春の海                     腰に手を添え波打ち際で 君に寄り添い月夜に舞えば    素足に絡む春の波

名古屋市中区のハヤシダンススクール・林秀雄さんを訪ねた。

「『世界二十カ国くらい、新婚旅行で回った』って、そう思うようにしてるの。本当の新婚旅行には、連れて行ってもらってないから」と、妻の美恵子さん。「あの頃はまだ、今のような時代じゃありませんでしたし」。昔のアルバムを広げ、夫の秀雄さんは照れ笑い。

秀雄さんは昭和六(1931)年、三重県伊勢市に誕生。旧制中学卒業を控え、アマチュアのドラマーとして、ダンスパーティーに出演。ダンスの華麗さに魅せられた。

卒業後は伊勢税務署に就職し、その二年後、憧れの舞踊教室に入門。その後は、名古屋国税局へと転勤となり、昭和二十九(1954)年に税務署を辞し、ダンス教師を目指した。

翌年、ダンススクールの恩師がつぶやいた。「おいっ、林君。この娘とペアを組んでみろ」。勿論二の句などあろう筈も無い。恩師を敬うからではなく、美恵子夫人の美貌に一目惚れだったからだ。

こうしてプロ選手として競技会への出場が始まった。この年昭和三十(1955)年は、ダンス維新の夜明けの年でもあった。

明治の鹿鳴館に始まり、モボ・モガ時代を経てこの年まで、日本のモダンダンスは、ステップが図解された教則本を模倣する「ブックダンス」が中心だった。

しかしこの年、イギリスの世界チャンピオンが来日。後楽園ホールに、全国からダンスファンがこぞって押し寄せた。

オープニングは、ワルツ。会場はその華麗な舞に、水を打った静けさ。「レベルが違いすぎて。チャンピオン本人も、『俺たちのダンスは、日本人に受けなかった』と一瞬思ったほど」とか。やがて割れんばかりの喝采が、会場を揺るがした。

翌年、教師試験に合格。昭和三十四(1959)年、ダンスのパートナーは、人生を共に歩む伴侶となった。そして新婚旅行を控えたその年、見事東海チャンピオンの栄誉を獲得。

翌年、夫婦のダンススクールを大須に開設した。 その後も数々の大会を制し、多数の後進を世に送り出した。「子供には恵まれませんでしたが、人に喜びを与える大好きなダンスの道を、この年まで二人で歩んでこれました」。実子に縁が無かったものの、教え子は星の数。

夫婦は間もなく喜寿を迎える今も、ダンスという共通の生き甲斐を得て、新婚旅行気分さながらに世界を巡る。

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「天職一芸~あの日のPoem 132」

今日の「天職人」は、三重県伊勢市の「伊勢溜り職人」。(平成十七年三月十二日毎日新聞掲載)

伊勢路名物数あれど 炭火に爆ぜる肉汁と         焦げた溜りが絡み合う 牛の網焼き天下一         座敷一面馥郁(ふくいく)と ほんのり甘い溜りの香    君はお猪口を空にして 頬染めながら「幸せ」と

三重県伊勢市で創業二百年に及ぶ、糀屋・七代目の伊勢溜り職人、河村清隆さんを訪ねた。

「伊勢うどんの美味しい店が、ほん近くにありましてな。特別のお誂え溜りを家(う)っとこで、造らしてもうとんですわ。それがあんまりよう売れよるで、『家からホースでも引いて、溜り流そか』ゆうて、笑(わろ)たもんやさ」。 清隆さんは、古いアルバムを広げ上品な笑みをこぼした。

元々糀屋は、豪商が軒を連ねる河崎で産声を上げた。しかし、蒸した大豆に糀菌を付け、二晩炭火で保温する作業のため、二度も出火。

「先祖が火事で追い出され、外宮さんの今の場所へと鞍替えしましたんやさ」。それが文化十三(1816)年のこと。

清隆さんは昭和十四(1939)年、五人兄弟の長男として産声を上げた。しかし、日増しに大戦は激化。伊勢の地を、神風特攻隊の象徴と敵対視した米軍は、容赦なく空襲を繰り返した。

「終戦後は、皆(みな)配給切符片手に並んで並んで。朝も十時過ぎると、売る物(もん)がのうなって。親父はすることないで麻雀やさ」。

清隆さんは慶応大学へと進学したのも束の間、翌年父が他界。卒業生の多くが、商社マンを目指す中、老舗へと舞い戻った。

色褪せた葉書の写真。木綿の法被に、帆前掛け姿の出で立ち。片隅には「家業を継ぐ事になりました」の文字が並ぶ。

昭和三十六(1961)年、敗戦の傷跡も癒え、伊勢は観光ブームに沸き返った。伊勢・二見・鳥羽の旅館相手に商品を卸し、売上げは倍増。東京暮しで、本溜りが伊勢地方独特である事に気付き、溜りの旨さを全国に知らせようと駆けずり回った。

「溜りに含まれるアミノ酸が、肉の柔らかさを保つんですんさ」。すき焼や鰻のたれとして、料理人に重宝がられた。

溜り造りは、蒸した大豆に糀菌を付け、醗酵室で二晩保温することに始まる。日見(ひみ)ず桶と呼ぶ、直径三.六m三十石(五.四㎘)の樽に放り込み、八分目で塩を振り、重石を乗せ丸一年かけて天然醸造。

櫂(かい)を入れ空気を混ぜる醤油の好気発酵に対し、溜りは空気に触れさせぬ嫌気発酵。味噌樽の真ん中に注し込んだ竹筒から、伊勢溜りが染み出でる。

コクと深みに彩られた、漆黒の伊勢溜り。神領だけに古(いにしえ)より受け継がれ、食の恵みを今も際立たせる。

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