「えらいこっちゃー!緊急事態勃発!!!」

まずはこちらをご覧あれ!

今朝見てビックリ!

山椒の葉がすっかり、落ち武者殿以上に丸坊主じゃないですか!

おかげでアゲハ?三兄妹はスクスクお育ちなんですが、これじゃあ餌の葉が足りないかもしれません。

ぼくはこれから、何はともあれ、山椒の苗木を探して、花屋さんや種苗店、そしてホームセンターを巡って、三兄妹の餌の買い出しに行ってまいります!!!

それまで頑張れよ!アゲハ?三兄妹よ!

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「天職一芸~あの日のPoem 143」

今日の「天職人」は、岐阜県笠松町の「志古羅(しこら)ん職人」。(平成十七年五月三十一日毎日新聞掲載)

卓袱台の上菓子折りは 誰が手向けた物やろか       蓋をずらせば肉桂(にっき)の香 そこはかとなく匂い立つ 父の帰りを待ち侘びて 蓋をずらして一つまみ       あれあれ別の手が伸びて 母もちゃっかり茶を啜る

一年前の夜。「もう在庫も無いで、明日は志古羅ん作らんなんで、早よ起きるわ」。

岐阜県笠松町で永禄五(1562)年創業の笠松志古羅ん、十六代当主、若き太田屋半右衛門(本名/高橋裕治)は、妻にそう告げると早めに床を取った。生後五ヶ月の愛娘に、風邪を移すまいと。

しかしそれが今生の別れの言葉となった。

享年三十八歳。早すぎて酷すぎる、突然の死であった。

「いつもなら朝五時半には、もう仕事を始めてる筈やのに、おかしいなあと思って。そしたら布団の中で冷たくなってしまって」。妻、真紀子さんは、伏目がちにつぶやき、込み上げる無念の涙を悟られまいと、一歳七ヶ月の未朋(みほ)ちゃんを抱き上げた。

夫の死から一週間。不幸があったことなど知らぬ遠来の客が、志古羅んを求めて訪れた。

「もう在庫も底を付いて。けど誰一人、作り方も知らんし。わしがいっぺんやってみよかって」。故・裕治さんの父勝一さんが、家業の危機を見かね腰を上げた。

元々、十四代太田屋半右衛門に子は無く、姪の故・洋子さん(後の十五代目女将)を養子に迎え家業を託した。

志古羅んの由来は、戦国の世に溯る。

時の太閤、豊臣秀吉が上洛の途中、木曽川堤で憩うた折り、家伝の米菓子を献上。「風味豊で、蘭の香気が鼻を打つ」と愛(め)で、その形が兜の錣(しころ)に似ていることから「しこらん」と名付けられたとか。

一方勝一さんは、愛知県木曽川町で誕生。中学を卒業すると、和菓子職人を目指した。しかし隣の一宮から聞こえる、ガチャマン景気に沸く声に誘われ、姉の家の毛織工場へと職替え。その後、叔母の世話で二十六歳の年に、高橋家へと婿に入った。

「家内が細々と、暖簾を守っとっただけやて」。

三男一女を授かり、六十三歳で毛織工場を退職。 既にその頃には、大学卒業後京都に上り、五年に及ぶ和菓子職人の修業を終えた、故・裕治さんが実家に戻って十六代太田屋半右衛門を名乗り、志古羅ん作りに励んでいた。

平成十三(2001)年、友人として付き合いのあった、岐阜市出身の真紀子さんが嫁ぎ、何もかもが順風満帆に見えた。

しかしそれから僅か一ヵ月後。息子に家伝を引き継ぎ、まるで安堵したかのように、十五代洋子さんは他界。先代を亡くした悲しみに暮れる暇も無く、裕治さんは創作和菓子の通販へも乗り出し、寝る間を惜しんで菓子作りに精を出した。

それから二年後、未朋ちゃんが誕生。一家に明るさが広がった。

悠久の銘菓志古羅んは、まず吟味された餅米を蒸す事に始まる。それを天日干し。頃合を見計らって炭火で水飴と砂糖を煮絡める。程良く絡まったところで平らに延ばし、肉桂を加えて自然乾燥へ。

「郷土の身近なお菓子やでね。志古羅ん切った時に出る粉を、買いに来る方もあるほどやて」。勝一さんは、在りし日の息子の遺影を見つめた。

「わしはやっぱり十五代目の家内の連れ合いやて。十六代目の女将が嫁で、何時の日か孫が十七代目を名乗ってくれたらええなあ」。取材の冒頭、勝一さんに『何代目になられますか?』と尋ねた回答が、重い口からやっと零れ出した。

複雑に絡み合う、人生の幾何学模様。

何人たりとも、一言で語り尽くせるものなど無い。

「夫の死で、消えかかった志古羅んの伝統を、義父が見事に護り抜いてくれたんです」。真紀子さんは、未朋ちゃんをあやしながら菓子器を見つめた。

水飴に輝く、素朴な風合を留める志古羅ん。まるで亡き夫の面影を忍ぶかのように。

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「紫陽花の花嫁」

先日26日は、娘の誕生日でした。

満27歳です。

いよいよ結婚も近付き、今は将来の旦那様と一緒に、式場選びにテンヤワンヤとか。

一番いい時だから、この時間を大切にするんだよと、メールを送っておいたものです。

まさにこの「紫陽花の花嫁」を、そっくりそのまま持たせてやりたいものだと、そう想う今日この頃です。

今夜は、このシーズン二度目になりますが、先週ブログのコメント欄にも、ヤマもモさんからリクエストを賜りました「紫陽花の花嫁」をお聴きいただきたいと思います。

「紫陽花の花嫁」

詩・曲・唄/オカダ ミノル

雨に打たれる度に その色を深め 見事に咲き誇る 紫陽花のように

白いドレスを揺らし 一度振り向いて 真紅の道を行く 君にどうか幸あれ

 紫陽花の花嫁は 誰よりも幸せになると

 月並みな言葉だけれど 二人していつの日も信じて

 今日からこの先は どんなことがあっても

 決して振り返らずに お互いをいつの日も信じて

雨に打たれる度に 心強くあれ 命を懸けて咲く 紫陽花のように

幸せは比べたら 直ぐに色褪せる 君が信じた道 目を逸らさないで

 紫陽花の花嫁は 誰よりも幸せになると

 月並みな言葉だけれど 二人していつの日も信じて

 もし辛い出来事に 打ちのめされたとしても

 紫陽花の花のように 叩きつける雨さえも受け止めて

 紫陽花の花嫁よ 誰よりも幸せであれ

 月並みな言葉だけれど いつまでもお互いを信じて

 もし辛い出来事に 打ちのめされたとしても

 紫陽花の花のように 叩きつける雨さえも受け止めて

続いては、CDの音源から「紫陽花の花嫁」お聴きください。

ところで、わが家のベランダの真っ白な紫陽花はとても元気ではありますが、この所もっぱらマイブームに火を付けてくれたのが、山椒の木の鉢植えに巣食った「アゲハの幼虫?三兄妹」君たちです。

今日は、すっかり緑色に変色を遂げ、益々日々成長を続けている「アゲハの幼虫?三兄妹」の動画をご覧いただきたいと思います!

題して「お兄ちゃんは爆睡中!ワタシは、色気より食い気のランチタイム!」です。

日に日に逞しく成長を続ける、アゲハの幼虫?三兄妹には、癒されたり笑わせてもらったり、子どもの頃の接し方とは随分違ったものです。

そう言えば、ちょっとふざけて三兄妹の誰かはわかりませんが、頭をちょっとだけ触ってやったら!

いっちょ前に「何だよぉ!」ってな感じで、こんなオレンジ色の可愛らしい角を振り上げ威嚇してくれました。

これからも目が離せそうにありません!

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「初めて買ってもらったトランジスタラジオの思い出!」。なんでも今日は、トランジスタの日なんだとか。ぼくが初めて買ってもらったトランジスタラジオは、中学に上がってからの事でした。一応カセットテープで録音もできるもので、横30cm、縦25cm、幅7cmほどの大きさで、片側にワイヤレスマイクが付いていた気がします。今思うとあの渋ちんなお母ちゃんが、よくもまあそんな当時のわが家に取っちゃ高価なものを、買い与えてくれたものだと改めて感心するばかりです。そのラジオで深夜放送を聞くようになり、マイクを使ってラジオ番組の真似事を録音したりしたこともありました。そう言えば、あの大切だったはずの、ぼくのトランジスタラジオ、何処へやっちゃったか!落ち武者殿はご存知ありませんか???

今回はそんな、『初めて買ってもらったトランジスタラジオの思い出!』。皆様からの思い出話のコメント、お待ちしております。

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クイズ!2020.06.30「残り物じゃないクッキング②~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回も残り物ではありませんが、ちょいとイタリア~ンな、『クイズ!「残り物じゃないクッキング②~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

ちょいとイタリア~ンな料理にしようかと作り始めてビックリ!

いつも常備しているカットトマトの缶詰が品切れじゃありませんか!

ある程度下拵えを始めていたので、今更急に後戻りも出来ません。何かそれに代わるものはと、保存庫と睨めっこをしていたら、名古屋メシのレトルトパック入りのソースがあるじゃないですか!

ならばそれを代用してしまえってなもんで、今回はこんな作品になりました。

では頭を柔軟にして、どしどしコメントをお寄せ願います。

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「天職一芸~あの日のPoem 142」

今日の「天職人」は、愛知県蒲郡市の「鼻緒職人」。(平成十七年五月二十四日毎日新聞掲載)

浴衣の君の手を引いて カランコロンと下駄鳴らす     鎮守の杜に燈が灯りゃ 祭囃子も夏を呼ぶ         綿飴を手に駆け出して 目当ての夜店(みせ)で屈み込む  針金細工紙のタモ 金魚掬(すく)いの君が夏

愛知県蒲郡市のこばやしはきもの店、三代目の鼻緒職人・小林和徳さんを訪ねた。

橋の袂。鼻緒の切れた下駄を片手に、困惑顔の町娘。

「お嬢さん、あっしの肩につかまりなさい」。若い手代が娘の前に屈み込み、手拭を引き裂き鼻緒を挿げ替える。時代劇によくある出逢いの場面だ。

「両親が亡くなって、女房が店の面倒を見るようになった時、『下駄の挿げ方なんて、俺らあ知らん』って、惚(とぼ)けとったじゃんね。まだサラリーマンやっとっただで」と和徳さん。傍らで妻がくすりと笑った。

明治四十二(1909)年創業のこの店に、和徳さんは三人兄弟の長男として昭和十六(1941)年に誕生。地元の高校を上がり東京の大学を出て、コンピューターのシステムコンサルティングの職に就いた。

とは言え、昭和四十(1965)年のこと。

まだ前年に初の国産高速コンピューターが、開発されたばかりの時代である。

昭和四十一(1966)年に名古屋へ転勤となり、それから四年後に豊橋市出身の清子さんを妻に迎えた。 一男二女を授かり、昭和五十五(1980)年に実家へと戻り、先代親子と共に同居へ。

「親父が亡くなってから、母が女房に仕入れと、下駄の挿げ方を教えただよ」。しかしやがてその母も他界。和則さんが定年を迎え、店を継ぐ決心を固めるまでの間、妻は細腕一つで暖簾を護り抜いた。

「来る時が来たら、そん時は店閉めればいいかなって思うとっただあ」。平成十四(2002)年、晴れて定年退職。店をどうすべきか、思案に暮れている頃だった。

「がまごおり商店ご自慢コンクール」への出品話が持ち上がり、昔取った杵柄を、腕試しとばかりに振り上げた。

地元の三河木綿を鼻緒に誂(あつら)え、それを挿げた下駄を出品。見事、受賞と相成り、眠っていたはずの鼻緒職人としての遺伝子が目を覚ました。そうなると、後はもう止まらない。これまでの空白の時間を取り戻すかのように、和徳さんは子供の頃の記憶を手繰り寄せ、鼻緒作りに励んだ。「幸い道具は、残っとったじゃんね」。

写真は参考

鼻緒作りの工程は、多岐に渡る。まず、客が持ち込んだ思い出深い生地を表面に、甲に当る裏側には本絹三越織りの生地に裏打ちし、表を内側に重ねて裁断。

両脇をミシン縫いし、巨大な耳掻きに似た、先端の曲がった自転車のスポークでひっかけ裏返す。 次に海苔巻の要領で、海苔の代わりのハトロン紙に、シャリのように綿を広げ、干瓢(かんぴょう)の様にボール紙の芯と、縄芯と呼ぶ麻と化繊の紐を載せ巻き上げる。

そして、細長く筒状に縫い上げた鼻緒の中へ、巨大な耳掻きを差し込み、真ん中で二つ折りに。

「この前壺をかがる二つ折りが、鼻緒の命じゃんね」。 鼻緒に前壺をかがり、アイロンで熱を加え押さえ込む。前壺とは、足の親指と人差し指の付け根に当る鼻緒の先端部で、鼻緒と同じ要領で細工される。

男物三十八㎝、女物三十六㎝の鼻緒の仕上げは、両端を糸で〆込む。

「子供の頃は盆暮れになると、何百足って鼻緒の挿げ込みを手伝っただあ」。和徳さんはそうつぶやきながら、鼻緒の端に目打ちで穴を開け、縄芯の端を通して絞り込む。 それを今度は、下駄の三つの穴に通し、鼻緒が挿げられる。

前壺の裏側には、兎や花の裏金を打ち付けて縄芯の結び目を隠す。踵側の二つの縄芯は、両方を一つに結んで巻き上げる。

写真は参考

「鼻緒を挿げる時は、その人の歩き方の癖を聞いて、足の形を見ながら甲高に合わせて挿げるだて」。とても、四十年に及んだ会社勤めの隔たりなど、先ず持って感じさせぬ堂の入り様。

「所詮、下駄も鼻緒も日用品だで、どんなに高価な物でも、何時かは磨り減らして捨てるだあ。だもんで、美術品や工芸品になったら終いだて」。

鼻緒職人は、傍らの妻を見つめ、まるで自分を諭す様につぶやいた。

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「見る見る大きく成長中!」

昨日の朝、西側に当たる玄関の通路に、山椒の鉢植えとアゲハの幼虫を移動させてやりました。

するとわずか1日2日ばかりで、こんなにも大きくお育ちじゃあないですか!

感動しながら3匹の幼虫を探したものの、2匹は直ぐに見つかったのに、もう1匹がどこにも見当たらないじゃないですか!

ええっ、カラスにでもやられちゃったか?と案じながら、山椒の鉢植えを隈なく探して見ると・・・

あらら?

黒っぽい体のアゲハの幼虫に、こんな緑色の幼虫が混ざっているじゃないですか!

違う種類の蝶か蛾が、アゲハのお母さんと同じぼくの山椒の鉢植えに卵を産み付けていたのかぁ!これぞ正に、アゲハと他の蝶か蛾のお母さんたちが、ぼくの山椒の鉢植えで鉢合わせになっていたのか!なぁ~んて思ったほどです。

まあ、羽化して蛾ならビックリですが、こうなったら一緒にサナギになって羽化するまで付き合ってやるつもりです。

そうして午前中に出掛けて、家に戻って幼虫君たちの無事を確認して、これまたビックリ!

ずば抜けた食欲のご様子で、枝の葉っぱが丸坊主です!

そして幼虫君を探して見るとナント!

3匹ともさっきまでの黒っぽかった体の色が、緑色に変化しているじゃあないですか!

他の蝶か蛾の幼虫化と思った緑色の幼虫は、一番上のお兄ちゃんかお姉ちゃんだったようです。やれやれ!

どうやらこれからしばらくは、幼虫君たちの成長ぶりから目が離せそうにありません。

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6/23の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「追い鰹出汁のなぁ~んちゃって鍋揚げ冷凍うどん~郡上産辛味夏大根と梅肉クラッシュの薬味添え!」

今回は、冷凍庫のスペースを占領していた冷凍のさぬきうどんを使って、●亀製麺のいかにも美味しそうなCMから刺激を受け、ちょっと真似てみた、「追い鰹出汁のなぁ~んちゃって鍋揚げ冷凍うどん~郡上産辛味夏大根と梅肉クラッシュの薬味添え」でした。

蒸し暑い夏に、釜揚げならぬ鍋揚げうどんに、昆布と鰹の出汁に追い鰹を効かせた汁につけ、さっぱりといただいて見ました。

薬味には越前そばを真似、郡上から送っていただいた辛味の効いた夏大根おろしと、熱中症対策を兼ね梅干しを包丁で叩いてクラッシュしたものと、小ねぎを添えて見ました。

普段あまり好んで梅干しを食べる方ではありませんが、辛味の効いた夏大根と鰹出汁、それに梅肉の酸味がほどよく絡み合い、とてもサッパリと美味しくいただけてしまいました。

もちろん額に汗しながらのキリン一番搾りを忘れちゃーいけません、いけません!

たまにゃあ、こんなさっぱりとしたものも、いいものですねぇーっ!

皆様のご回答もほぼほぼ当たっていたのにゃー、さすがだなぁと感心しきりでした。

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「天職一芸~あの日のPoem 141」

今日の「天職人」は、三重県桑名市の「一文菓子屋女主人」。(平成十七年五月十七日毎日新聞掲載)

一つ違いのまあ君と 十円持って駄菓子屋へ        五円で籤を一つ引き 十円アイス半分こ          学校帰り田んぼ道 五円の籤で何引こう          大物狙う算段は いつも狸の皮算用

三重県桑名市の駄菓子屋、佐藤房商店の二代目女主人、佐藤節子さんを訪ねた。

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「おばちゃん!これなんぼ?」「おおきになあ」駄菓子の封を切りながら、少年が駆け出した。

四十年近く前の、我が身が少年の後姿と重なる。

「家(うち)とこはレジがあらしませんのさ。せやでこれが家のレジなんさ」。節子さんは、割烹着のポケットを揺らし、小銭の音を響かせながら親しげに笑った。

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節子さんは昭和四(1929)年、隣町で七人兄妹の六番目として誕生。

「主人の家が隣やってん。せやで毎日、魚釣やトンボ捕りに連れってもうた。夏休みは、絵や工作の宿題やってもうたし」。節子さんは目を輝かせながら、遠き日を見つめた。何とも牧歌的で安穏とした、昭和初期の光景である。

しかしそれも束の間、高鳴る軍靴の響は、いつしか長閑な営みを封じ込めた。昭和二十(1945)年三月、女学校の卒業は軍の徴用で延期。七月の桑名大空襲で焼け出され、幼馴染の夫とも散り散りバラバラに。

同年十二月、日本貯蓄銀行に入行し、銀行事務の職に就いた。

それから数年後、左官職人となっていた夫・故房一さんとの縁談話が持ち上がった。「あんまり近くやったし、小さい頃から何もかも知り過ぎてて嫌やってん。せやでそん時は、一回振ったったんさ」。

しかしそれからしばらく後、今度は親の薦めで再び嫁入り話が持ち上がり、昭和二十八(1953)年に幼馴染の元へと嫁いだ。

夫は腕の良い左官職人。義母が営む日用雑貨品店を手伝い、一男二女の子育てに追われた。

「せやけど、段々スーパーが出来てきて、日用品がさっぱり売れやんようになってもうて」。五十歳を目前に控えた1970年代終盤。子育てにも目途がつき、「子供時分、よう一文菓子屋へ通とったの思い出して」、駄菓子屋への鞍替えを決意した。

「名古屋駅から明道町まで、一日おきに歩いて。両手一杯に、籤や駄菓子を抱えて、電車で通とった」。ウエハースの籤や、ラーメン当てに黒棒籤が人気を呼んだ。

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「おばちゃん、おばちゃんゆうて、毎日子供らが並んで買いに来るんやで」。しかし中には、狡賢い子もいた。「籤の当りが出るまで、何枚もめくっては、箱の下にこっそり隠したんのやさ」。そのため外れ籤が不足し、その都度めくられた籤に紙を貼って元に戻すという、鼬(いたち)ごっこが繰り返された。

「それでも男の子は、その程度やで可愛らし。女の子はえげつないで。すました顔して、箱ごと持ってくんやで」。

間も無く三十年を迎えようとする駄菓子屋の店先には、三十年分の子供たちの小さな歴史が刻まれているようだ。「中には、自分の子供や彼女を連れて、訪(たん)ねて来る子もおんやさ。『おばちゃん、ぼくのこと覚えとるか?』ってゆうて。しばらく話しもって顔を眺めとると、そのうち『ああっ、いっつも泣かされとったあの子や』ってな調子で」。

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特に遠足前は大忙し。店のあちこちから「おばちゃん、これなんぼ」の声に振り回される始末。「忙しいて小骨が折れるわりに、なんぼも儲かれへんのやさ」。

町内の子供の成長を、我子のようなやさしい眼差しで見守り続け、家族も皆も平等に齢を重ねた。

幼馴染の夫は、七十七歳まで左官を勤め上げ、よく年他界。「店番は苦手やったけど、母を大事にする父やったんさ。職人の癖に、酒も煙草も博打もしやんと、洗濯したり米砥ぎ手伝(てっと)うたり。ほんま仲がようて。せやで父が死んだ途端、母はしばらく呆(ほう)けたようになってもうたんさ」。近所に住む長女が、店番を手伝いながらそう言って笑った。

写真は参考

「あらっ、いらっしゃい」。小学生の男女があれこれ品定めを始めた。

「あの子らほんま仲ええなあ。いっつも二人で手えつないで」。節子さんは店先の子供たちを見つめた。

幼馴染の夫に手を引かれ、一文菓子屋に出かけたあの遠い日。まるで在りし日の二人の面影を、重ね合わせるかのように。

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「山椒の木にナニコレ!えっ、モスラの幼虫???」

頂き物の筍に添えようと思い、スーパーで購入した山椒の小さな鉢植え。

田楽やらにも添えて存分に楽しませていただいたものです。

ところがいつしか新芽はどんどんと成長を続け、もう新芽とは呼べないほど硬い葉っぱになってしまい、ベランダの片隅に置いてありました。

するとある日のこと。

わが家の11Fのベランダを、ユラユラとアゲハチョウが舞っていたのです。

へぇー、こんな上までよく上がってきたものだ、なぁ~んてその優雅な姿に見とれたものでした。

そして先日、鉢植えにいつものように水を撒いていると、アレレ?????

山椒の葉っぱが随分無くなっているではありませんか!

まるでどなたかの、あの〇武者様の頭頂部のような惨状です!

どうしたものかと、顔を近づけて、も一つビックリ!

何やら葉っぱの上を我が物顔で占領しているではありませんか!

それがこの、モスラの幼虫ならぬ、アゲハチョウ?の幼虫三匹なんです!

聞くところによると、アゲハチョウのお母さんは、山椒やカラタチやミカンなどに、卵を産み付けるものとか。

そしてわが家の小さな鉢植えの山椒の葉の茂り具合から、卵三個が妥当と考え、我が子を産み付け、また空へと帰っていったようです。

つまり卵が幼虫になり、サナギに成長でするまでの幼虫君たちの食料が、わが家の山椒の鉢植えの葉の茂りからすると、卵三個分が妥当と踏んだようです。いつの世も、どんな世でも、母は我が子の事を片時もぞんざいには扱わないものですねぇ。

ご覧のように枝の葉っぱは、どんどん幼虫君たちに蝕まれて行っています。

でも毎朝見ると、毎朝葉っぱが無くなった分だけ、幼虫君たちは確実に成長して大きくなっているのです!

そこでぼくは考えました。

三匹の幼虫君たちがサナギになりそうになったら、山椒の鉢ごと部屋の中に入れ、サナギからやがて羽化するまでを大切に育て、羽ばたいたら窓を全開にして、大空に返してあげようと思っています。

オンブバッタの肥後ニャンに続いて、また一つ楽しみが増えました!

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「天職一芸~あの日のPoem 140」

今日の「天職人」は、愛知県常滑市の「醤油団子屋」。(平成十七年五月三日毎日新聞掲載)

今は名残の土管坂 煉瓦煙突役目終え           青葉の梢鳥も鳴く 古窯(こよう)常滑五月晴れ      炭火に爆ぜる溜りの香 道行く人の足を惹く        我も一串みたらしを 常滑焼きの団子茶屋

愛知県常滑市で団子茶屋を営む、村田昌弘さんを訪ねた。

赤茶けて滑らかな、土肌が特徴の常滑焼。日本六古窯の中でも、最も古い歴史を持つ。 「『何で常滑には、小さいカラスがおるんか』って、よう言われただあ。そんだけ昔は窯元が多て、煙突から真っ黒な煙が立ち昇るもんだで、雀がカラスみたいになってそ」。 昌弘さんは、紺の作務衣姿で紺地の手拭を頭にちょこんと載せ、大きな身体を揺らしながら笑った。

元々村田さんは、祖父が創業した土管の窯元の二男坊として、昭和十三(1938)年に誕生。地元の高校の窯業科を出て、兄と共に家業に従事した。

「兄貴は出来がええけど、わしはてんであかん。いっつも兄貴に比べられるそ、だで面白ないし。『まあかん、愚連たる』って思とっただあ」。

戦後急成長を遂げた昭和三十(1955)年代の日本にあって、下水管の需要は引きもきらず、常滑焼きの土管製造も大車輪での操業が続いた。長さ六十㎝、太さ三十㎝の並管は、まず土を土練機にかけ、練り上げられた土が土管機を通り、心太(ところてん)の要領で形成され押し出される。それを土管一個分に切り離し、窯へと運び込む。

「まんだ若かったもんで、一個三十五㌔ほどの土管を、難なく担いどっただあ。まあ今は、ようやらんて」。

昭和三十八(1963)年、高校の一年後輩でもあった、たつ代さんを嫁に迎え二人の息子をもうけた。「常滑の嫁さは、よう働くでねぇ」。

しかし急激な国の成長の前に、公害問題が大きく立ちはだかった。やがて窯元に対する、煤煙規制も厳しさを増し、常滑焼きの風情溢れる土管は、無機質で安価なコンクリート製に取って代わられた。

そんな時代の訪れを兄が見越し、昭和四十六(1971)年に草々と廃業。

「兄貴は出来が違うで、さっさと税理士になっちまって。工場を空けとってももったいないでって、今度は植木用に九寸の駄鉢作りだて」。 しかしそれも束の間。五年後には、駄鉢から盆栽鉢へと、商品を切り替え時代の求めに応じた。

だが富める国を目指し、今度は海外から安価な輸入品が大量に押し寄せる。「まあかんて、えらて儲からへんそ」。

二年後、昭和五十三(1978)年には、急須作りへと転換。二人の子供の育ち盛り。夫婦は共に焼物の里、常滑に生を受けた者の務めであるかのように、時代の中をうねりながら懸命に生きた。

しかし常滑の煉瓦煙突から、往時を偲ばせる程の煙が舞い上がる事は無く、無情にも二十世紀の幕が降りた。

平成十三(2001)年、親会社の廃業で、ついに村田さんの窯から火が消えた。「どうせ沈没する船なら、最後まで付き合って、そこで辞めりゃあええそと」。

すぐさま翌年一月には、やきもの散歩道脇で団子茶屋を開業。

「嫁さが醤油団子焼いて、わしはもっぱらお客さん相手の営業」。

一串に五玉、直径二㎝程のみたらしが、醤油の焦げる匂いを漂わせて焼きあがる。「自家製のタレは、地元の醸造元で一番高い醤油と溜りを混ぜたんの」と、妻が焼きたてを差し出した。「一本六十円の団子売っとったって、儲かれへんて。だけどこれやっとりゃあ、遊びにも行けへんし、金遣わんそ」。二本以上注文の客には、お茶も付く。  

焼物の里に生まれ、常滑の土と関わり続けた生涯。大きな土管から急須へ、そして今では常滑焼そっくりの、小さな醤油団子をせっせと焼き続ける老夫婦。

「なんか泥団子みたいそ」。土管坂へと続く人波を見つめ、こっそり笑った。

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