「天職一芸~あの日のPoem 148」

今日の「天職人」は、愛知県豊田市の「御幣餅(ごへいもち)職人」。(平成十七年七月五日毎日新聞掲載)

せせらぎ覆う森の木々 水面に揺れる木漏れ日と      戯れながら糸蜻蛉 夏の訪れ告げて舞う          涼を求めた山間に 峠茶屋から立ち込める         小夏至(こげし)醤油の香ばしさ 三州足助御幣餅

愛知県豊田市の上坂(こうさか)商店、三代目・御幣餅職人の上坂敏明さんを訪ねた。

「餅は、半殺しに練らんとかんだあ」。いきなり物騒な言葉が、任侠映画さながらに、白衣をまとうやさしい顔をした男の口から飛び出した。

もともと足助町で明治四十五(1912)年に、祖父の藤太郎が創業。雛人形の内裏様が手にする御幣を真似、五角形の御幣餅を考案したとか。

「御幣の形をした御幣餅は、家が元祖だもんで、看板にも『元祖御幣餅』って書いとるじゃんね」。

敏明さんは、昭和十六(1941)年に足助町で二男として誕生。

中学卒業後、名古屋でスクーターの販売修理会社に就職した。「機械油の臭いが、どうにも性に合わんだあ」。

三年後、書籍販売の営業に身を転じた。丁度その年、両親は店を豊田市の現在地に移転。「兄が弟を連れて、豊田で呉服屋やりかけただもんで。それと、ここには当時製糸工場があって、そこの女工さんらでいっつも満員でよう流行っとっただあ」。

三年後には、三重県津市の営業所へと転勤。書籍販売に明け暮れる傍ら、事務員の金子さんとぞっこんの仲となり、昭和四十二(1967)年、ついに本懐を遂げ結ばれた。やがて二人の娘が誕生。三重県を、第ニの故郷と思い始めた頃だった。

四十を前に職場での責任も高まり、その重圧から内臓疾患を患い開腹手術の憂き目に。「そろそろ家で出来る仕事に就こうかと。両親も年老いて来とるし」。 四十歳になり豊田の実家へと戻り、調理師学校でまさに四十の手習いで免許を得た。

「だけど家のような店は、調理師免許なんていらんらしいだ。まあ、別にあったからって困るもんじゃなし」。敏明さんは、壁に掲げられた免状を指差した。

御幣餅の原料となる米は、地元産の物と、妻の在所で生産される米とを、適量の配分で混ぜ合わせる。「米には、良い時悪い時それぞれに斑(むら)があるらぁ」。研いだ米を一晩、カルキを抜いた水に浸し、三升釜で芯が抜け切る直前まで炊き上げ、臼に入れ杵で「半殺し」と呼ぶ六.五分ほど餅状にする搗き方で練る。

練り上げたら熱い内に、木綿の敷布を敷いた御幣型に入れ、竹串を差して形成。「それをロジ(御幣型を重ね入れる木箱)に入れて、ほとり(火照り)を抜いてまうだぁ」。

熱が抜けたところで敷布を持ち上げ、型から放す。「御幣餅は、敷布の布目の方が表じゃんね」。後は注文を待って、炭火にかざしながら、焼け斑が出来ぬよう、表側から素焼きし、特製の醤油だれを付けもう一度炙る。

一本ご飯茶碗八分目、有り難い元祖御幣餅の出来上がり。

わざとらしい甘味などない、秘伝の特製だれは、醤油と水で、白胡麻と粉山椒を入れ、トロミが付くまで毎晩煮込んで仕込む逸品。

選び抜かれた粳米(うるちまい)と、炭火に焦げる秘伝の醤油だれが、否応なしに鼻腔をくすぐり、皿から口元へと運ぶわずかな時間が待ち切れず、口中に唾液が溢れかえる。

「家の店の横綱は、『旨い旨い』って、気が付いたら一回で二十本。それが最高記録じゃんね」。

背広を白衣に着替えた、四十の手習いから早二十四年。すっかり三代目の風貌が板に付き、炭火の前に立つ姿は、何とも収まりが良い。

「いらっしゃい」。引き戸から忍び込む、そよ風のよう。飾り気のない柔らかな声が吹き抜けて行った。

さあ今日も、千客万来。

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「七夕~『願い星』」

正直言って62年生きてまいりましたが、肉眼で天の川も、ましてや織姫様や彦星様を見上げた記憶がありません。

でも62年間ずっと七夕の夜が、曇天や雨模様の日ばかりではなかったことでしょうし、それはまたどうした塩梅だったのだろうと、今更ながら感じています。

恐らく子どもの頃、プラネタリウムで見せていただいた天の川があまりにも奇麗で鮮烈であり、実際の夜空で煌めく星空とは異なって見えたから、夜空にまたがる天の川さえも容易に探し出せなかったのかも知れません。

もちろん天体望遠鏡など、そんな贅沢品がわが家にあろうはずなどありませんし。

だったら今夜の七夕こそはと、そう手ぐすねを引いては見たものの、やっぱり曇天並びに一時雨とか。

これじゃあ夏を彩る星たちのラブロマンスを見上げ、一杯などともまいりません。

今夜のぼくは、天の川と織姫彦星の代わりに、すっかり蓑虫色に変色した、アゲハ?の幼虫三兄妹の動かぬ姿でも眺めながら、グラスを傾けていることでしょう。

今夜は、見える見えないは別として、七夕ですから、以前にもお届けいたしましたが、やはりWish Star「願い星」をお聴きいただきましょう。

まずは弾き語りでバラードっぽく「願い星」です。

『願い星』

詩・曲・唄/オカダミノル

逢いたくて逢えなくて 君の名前呼び続けた

夜空に煌めく星を結び 君の顔を描いて

 どんなに愛を語ろうと こんなに心震えても

 君はただ 瞬くばかり

願い星伝えてよ もう一度だけ逢いたいと

そして必ず君だけに 生きて見せると

逢えなくてもどかしいと 心だけが夜を駆ける

君の寝顔に寄り添う心 気付いたろうか

 どれほど愛を語ろうと どれほど心震えても

 君の声が ぼくに聞こえない

願い星伝えてよ もう一度だけ逢いたいと

君を奪って二人そっと 生きてゆこうと

 どんなに愛を語ろうと こんなに心震えても

 君の声が ぼくに聞こえない

願い星伝えてよ もう一度だけ逢いたいと

君を奪って二人そっと 生きてゆこうと

続いては、ジャズっぽいアレンジの「願い星」お聴きください。

そして最後は、CDからオリジナルの「願い星」お聴きください。

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「子どもの頃のおまじない!」。今日は願い事を短冊に認める、七夕です。皆様は願い事を書かれ、笹の葉に吊るされましたか?ぼくはアゲハ?の幼虫三兄妹の発育に目が回り、すっかり失念しておりました。

でもよくよく思い起こせば、子どもの頃は強欲な物で、叶いっこないような願い事や、今日を占うまじないなんてぇのを、自分に都合の良い結果がでるまで、何度も何度も繰り返したりしたものです。

下駄や靴の片一方を蹴飛ばして、裏か表で天気を占ったり、片手の五本指の先っちょから指と指の付け根を行ったり来たりさせながら、二つあるお菓子のどちらかを選ぶのに迷った時などにやっていた、あの「どちどちどちらにしましょうか?天の神様の言う通り!ギッタンバッコンオマケ」と、指の先と指と指の谷間を行ったり来たりさせるまじないとか!

皆々様は子どもの頃、どんなまじないをなさいましたか?

今回はそんな、『子どもの頃のおまじない!』。皆様からの思い出話のコメント、お待ちしております。

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クイズ!2020.07.7「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

今回は、パスタです!

しか~しっ!そんじょそこらの洒落こいたイタリア~ンなパスタとは、一線を画したものです。

何と言ってもアゲハ?の幼虫三兄妹が残していった、お宝が山のようにございますから、それをせっせと処理してしまわねばなりません。

まあ、それがヒント中のヒントですねぇ!

では頭を柔軟にして、どしどしコメントをお寄せ願います。

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「天職一芸~あの日のPoem 147」

今日の「天職人」は、三重県いなべ市の「組子(くみこ)師」。(平成十七年六月二十八日毎日新聞掲載)

鼻歌混じり鉋掛け 首のタオルで汗拭う          父は眼鏡を鼻に掛け 組子細工に精を出す         幾千万に組み込んだ 組子が描く八重桜          木肌で色を使い分け 匠の技が競い咲く

三重県いなべ市のいとう建具工芸、建具組子師の伊藤末義さんを訪ねた。

伊藤善尚氏

「組子の材は薄うて細かい。せやで、ちょっとの歪みや縮で、ふだからかしてまう(壊してしまう)んさ」。 末義さんは、傍らの妻と息子を見やった。

組子の木材は、雨に濡れ風に晒されてから、作業場の片隅で、八~十年という途方もない年月を費やし、ひたすら出番を待ち続ける。

末義さんは、昭和十二(1937)年、この町で八人兄弟の六男として誕生。「喰うてくんには、手に職付けやんと」と、母の意向で中学を上がると、自転車で片道三十分かけ建具師の師匠の元へと通った。

「仕事も出来ん折りしは、仕事場で日の出やさ。帰りは日が暮れてから、山道走ってこんならん。上り坂のきっついとこやと、自転車も止まりかけて電気が消えよるし、怖てかなんだ」。 三年間の自転車通いを終え、さらに住み込みで七年。二十四歳の年に実家へ戻り、兄の家の軒先を借りて独立開業へ。

「石の上にも三年、そう自分で決めて。万能機欲して必死やった」。 昭和三十九(1964)年、東洋の魔女たちは回転レシーブで、宿敵ソ連を打ち破り、東京五輪で金メダルを獲得。その年、独立から三年で末義さんは、削る・挽(ひ)く・枘を切るの三役をこなす、画期的な万能機を三十三万円で導入。銀行員の初任給は、わずか二万三千円の時代に。

勤勉実直な仕事振りは、仕事が仕事を呼び込んだ。それから三年後には初弟子を取り、さらに二年後、同県菰野町から美佐子さんを妻に向かえ、二男一女を授かった。

『ところで、組子は何時頃から』と、核心を急いだ。

「ああ組子はなあ、わしが息子の弟子なんさ」。末義さんは、長男の義尚(よしひさ)さんを指差した。「建具と指物は父の方が先輩です。組子は、長野県篠ノ井の師匠の元に、修業に行かせてもうたもんで。父がぼくの弟子じゃなくて、組子を父と母に手伝(てっと)うてもうとんさ」。そんな息子の謙虚な発言を、父は誇らしげにちょっぴり照れ笑い。

「建具や指物も、これからは難しい時代やさ。なとしよかと思とった時に、組子の師匠と逢(お)おて。三百五十km離れた篠ノ井まで訪ねてっては、息子の弟子入り頼みに行ってん。せやけど三回断られて、四回目のお願いに行った後で、やっと弟子取る言うてもうて」。

息子の義尚さんは、昭和四十五(1970)年生まれ。専門学校を卒業した後、六年間に及ぶ組子の住み込み修業へ。「ダムや飛行場の設計がやりたかったんさ。でも師匠に逢おて、組子の緻密さに惹かれたんさ」。

弟子入り間もない二年間は、鑿(のみ)や鉋(かんな)の道具の手入れに始まる。一般の建具や指物の技術を身に付けた後、組子の技を学んだ。

組子とは、書院造りの欄間や障子を飾る工芸品。材は檜・神代杉・秋田杉・神代桂・朴・一位・漆など。

自然な木肌の色合いだけで、桔梗・八重桜・桜・富士山などの図柄を、小さな正三角形を果てしなく組み合わせ、遠目越しに絵柄を浮かび上がらせる妙技。

柾目の材を見込み(奥行き九㎜幅)にして、一.五㎜の厚さに挽き、さらに鉋掛けで一㎜に。小さな一㎝四方の部材の両端には、厚さ一㎜の断面に雌雄の凹凸が入れられ、正三角形に、「そっくい」と呼ぶもち米の粉を白く練った接着剤で貼り合わす。

「不都合があっても、水に濡らせば直ぐに取れるし」。 一番高度な技術を要す難所は、厚さ一㎜への凹凸。これを義尚さんが担当し、見込み作りを父、組子の小さな部材組を母が担当する。

義尚さんは、二十七歳の年に修業を終え父の元へと戻り、二年前に妻を得た。

施主が希望する図案を聞いて絵柄を描き、小さな正三角形を組み合わせ、組子の設計図は出来上がる。一枚の障子に、何万個という小さな組子の部材。

親子三人がかりでも四~五ヶ月が、無尽蔵に費やされる。

付かず離れず。組子の小さな正三角形の三つの辺は、互いに支えあい、時には寄り添い合う。

まるで組子師親子の絆のように。

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「天職一芸~あの日のPoem 146」

今日の「天職人」は、岐阜県関市の「鵜籠職人」。(平成十七年六月二十一日毎日新聞掲載)

川面を焦がす篝火に 小瀬の鵜飼も幕が開く        鵜籠開けばホーホーと 黒装束に鬨(とき)の声      我先競い鮎を追う 手縄捌(たなわさば)きも鮮やかに   艫(とも)で鵜匠が声上げりゃ 川面に踊る水飛沫(みずしぶき)                          千代の昔をそのままに 今宵も映す長良川

岐阜県関市の二代目鵜籠職人、石原文雄さんを訪ねた。

「竹っちゅう奴はなあ、『ミオキのハチステ』言うくらい、三年はまだまだ青いで見送って、八年以上は陳(ひ)ねて来るで見捨てるんやて」。それが竹選びの基本とか。 文雄さんは、幅八㎜長さ二mの竹籤(たけひご)を鉈でせっせと割き続ける。

文雄さんは、五人兄弟の長男として誕生。新制中学を出ると、定時制高校へと進学し、昼間は父と共に竹細工に明け暮れた。「お婆が『勉強せるなよ』ほんでのう『学校行くなよ』って毎日念仏みたいに唱えるんやて。ここらあは、貧乏集落やったもんで、『学校行く暇あったら家の仕事せんか』って、よう怒鳴られて。当時は養蚕が盛んやって、繭籠(まゆかご)作っとったんやて。籠は資本もいらんで、それなりに儲かったもんだて」。

農家に現金収入をもたらす、ありがたい養蚕は、蚕の幼虫に「お」を付け「お蚕様」と崇め、座敷の特等席にお蚕棚を据え置いた程とか。

「毎朝お蚕様に『ご機嫌はどうですか?』って言いながら、桑やって褥(しとね)るんやわ。自分たあわねぇ、物置小屋で寝るんやて」。

鵜籠作りは、まず竹選びに始まる。冒頭の「ミオキのハチステ」で、四~七年ものの淡竹(はちく)を、十一月~十二月に切り出し、竹小屋で1年間寝かす。

「竹と話しせんと。ほうすっとさいが、硬いか柔こいか教えてくれるんやて。竹も百本百色やで」。

頑なな職人の眼に、見初められた淡竹は、鵜匠が櫂(かい)を天秤棒にして担ぐ、鵜籠に生れ変わる。

「何と言っても、籤作りが命やて」。職人技の配分は、籤作りに六割、編みに四割とか。「籤は鉈で割くだけやなしに、小刀で鉋かけるように竹の内側を削るんやて。そうするとさいが、水切れも良く汚れも黴も付かん。本当は、そんなもん作らん方がえんやで。すぐ壊けてまう方が儲かるし」。

まずは、幅八㎜、長さ二mの竹籤四十八本で底を編み、長さ三mの籤で胴回りを、十二段積み重ねるように編み上げる。仕上げは、縁巻き。籠の上部を芯竹で円形にして、別の籤で芯竹を巻き上げる。

「籠の部分と縁巻きは、生い立ちが違う竹を使わんとかん」。

鵜籠の直径から高さまで、いちいち寸法を測りながら編み上げるわけではないのに、一㎝と違わぬ神憑(かみがか)りな技。鵜籠一つに、丸二日が惜しみなく費やされる。

一端に鵜籠が編めるまでは、十年とか。職人らしさも身に付いた昭和三十九(1964)年、文雄さんは二十九歳で岐阜市から妻を迎え、一人娘を授かった。

「オッカアとは、未だに朝から晩まで喧嘩しとるんやて」。夫婦の馴れ初めを問うと、照れ臭げに笑い飛ばした。

「竹編みは、二十年目でやっと愉しくなって、三十年やったら止められんくなる。これまでは生活のためにやっとったけど、これからが本当の愉しみやて。自然の材料で、自分の創意工夫で作り上げてくんやで」。

鵜籠には、鵜を四羽入れる「四つ差し」と、二羽入れの「二つ差し」があり、鵜が鮎を吐き出すための「吐(は)け籠」も手掛ける。

「鵜飼はお大尽(だいじん)が行くもんやで。俺んたら見たいな貧乏人は、鵜籠作っとっても、肝心の鵜飼は新聞やテレビのニュースでしか、見たことなかったんやて。でも七十歳を前に、初めて今年鵜飼開きに招待してもらったんや。狩下りの時に『ああっ!俺の作った鵜籠や』って。まさに職人冥利に尽きるっちゅうやっちゃ」。

長良川、小瀬の川原。腹を空かせた鵜が、鵜籠の中で漁の瞬間を待つ。鵜舟に篝火が灯る。

腰蓑(こしみの)姿の鵜匠は、ゆっくり漁場へと鵜舟を駆(か)る。

鵜籠が開く。手縄を付けた鵜が一斉に放たれ、水飛沫を上げ、月影揺れる川面へと消え入った。

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6/30の「残り物じゃないクッキング②~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「餡かけニョッキ&なぁ~んちゃって揚げラビオリwith もっちりクリーミーマッシュポテト クコの実添えと、ボイルド小松菜~それに一昨年のなぁ~んちゃってマロングラッセ」

賞味期限が刻々と迫ったニョッキと餃子の皮があり、こいつを何とか出来ぬものかと頭を捻り、思い付いたのがこの「餡かけニョッキ& なぁ~んちゃって揚げラビオリwith もっちりクリーミーマッシュポテト クコの実添えと、ボイルド小松菜~それに一昨年のなぁ~んちゃってマロングラッセ」でした。

しかもお手軽、ワンプレートランチです。

最初はちゃんとイタリアンっぽく、トマトソースも作るつもりでいたのですが、いつも切らしたことのないカットトマトの缶詰が品切れ!

とは言え、それだけ買いにスーパーへ向かう気にもなれず、いかがしたものかと保存庫をチェ~ック!

すると以前、無性に餡かけパスタが恋しくなり、買い込んでおいたレトルトのソースがあるじゃないですか!

もうこうなったらこれで代用だ!ってな塩梅で料理に取り掛かりました。

まず、フライパンにオリーブオイルをひき、ニンニクの微塵切りで香りを立て、合挽ミンチを炒めつつ軽く塩コショウをしておきます。

そして粗熱が取れたところで、餃子の皮でミンチの餡を、巾着のように包み、それをカリッカリになるまで揚げてしまいます。

そしてニョッキを茹で上げ皿に盛り付け、なぁ~んちゃってラビオリを添え、湯煎した餡かけパスタソースをドロッと掛ければ出来上がり。

さらにジャガイモを乱切りにしてシリコンスチーマーで約6分チンして、フードプロセッサーに生クリーム・コンソメ・塩コショウを入れて、ホイップすれば、もっちりしっとりとしたクリーミーマッシュポテトの出来上がりです。それをプレートに盛り付け、クコの実を振り掛けました。

後は彩でボイルしただけの小松菜と、一昨年ラム酒で煮た、なぁ~んちゃってマロングラッセを添えて完了です。マロングラッセは瓶詰にして冷蔵庫で保存していますが、水を一滴も使わずラム酒だけて贅沢に仕上げたからか、まったく風味も損なわれず、美味しいままでした。

皆々様も今回は、ぼくのアマノジャククッキングに手古摺られ、随分迷われたようでした。

そりゃあぼくの素人写真では、識別不可能かもしれませんよね。

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「天職一芸~あの日のPoem 145」

今日の「天職人」は、三重県鈴鹿市の「伊勢型紙彫師」。(平成十七年六月七日毎日新聞掲載)

コツコツコツと音たてて 伊勢型紙を彫り上げる      父の背中も丸くなり 蝉の抜け殻夏が行く         細かい柄を透かし彫り 眼鏡をずらし陽に翳(かざ)す   軒先揺れる風鈴が チリリトと鳴りて涼を呼ぶ

三重県鈴鹿市寺家(じけ)。江戸時代から続く、六代目伊勢型紙彫師の大杉石美(いしみ)さんを訪ねた。

写真は参考

「『出逢いもんがあるさかい』って、釣仲間に見合いをすすめられてなあ。鈴鹿の表具師っさんの娘貰(も)うて」。男は照れ隠しか、妻との出逢いをそう嘯(うそぶ)いた。

石美の名は、石積神社から拝命したとか。

俗に伊勢型紙の創始者は、江戸時代前期の型屋久太夫(かたやきゅうだゆう)とか。寺家の子安観音境内で、年がら年中咲く不断桜を眺め、虫食い葉から伊勢型紙の技法を思いついたのが、その発祥と伝えられる。

写真は参考

石美さんは昭和十一(1936)年、親兄弟全てが伊勢型紙に関わる家に、五人兄弟の末っ子として誕生。新制中学を卒業すると同時に、それが寺家に生まれし者の務めであるかのように、家業の修業を始めた。

先ずは、小刀砥ぎ。「刀(とう)が切れやんと、仕事んならんでなあ」。丸一年かけて砥ぎを身に着ける。この間、白紙の美濃和紙に穴を開ける「丁稚彫(でっちぼ)り」で練習を重ね、古本から図案を写し、彫り修業は進む。

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やがて砥ぎの技術が上がり、刀が切れるようになると、八~十枚の型紙を重ねて彫る「突き彫り」へ。上から刀を直角に突き刺し、刃を上下させながら前へと彫り進む。突き彫りが一端と認められるまでに、凡(およ)そ三年。

ちなみに、型紙一枚だけを彫る作業は「引き彫り」と呼ばれる。

さらに五年近くの年月をかけ、厚重ねの突き彫りへと技を極め、その後(のち)一年のお礼奉公を務め上げ一端の彫師となって一本立ちへ。

昭和四十二(1967)年、冒頭の釣仲間の紹介で嫁を得、翌年一人娘が誕生。まだ当時の寺家のあちこちからは、彫師の繰り出す刀が、型紙を穿(うが)ち穴板に当って発する、コツコツコツと規則正しく刻まれる、小さな音が聞こえた。

往時の寺家は、全戸数の九十五%が型紙産業。紙屋、絵師、彫師、それに型紙に紗(しゃ)の網を漆で裏張りする紗職人が、軒を連ねるように技を競い合った。

一枚の着物に、柄を彫り抜く型紙は、前身頃(まえみごろ)、衽(おくみ)、襟(えり)、肩山(かたやま)と最低でも十六~二十枚が必要。

粋筋の江戸小紋ともなれば、色数によっては二百~三百枚の型紙を必要とする。

柄も様々。一つとて同じ柄ばかりを彫り続けることなどない。毎日新たな柄と、彫師の細かな指先の格闘が続く。

「夕食を八時頃に食べたら、それから明け方まで八時間ぶっ通し。夜型なんやなあ」。丸一日十二時間座りっぱなしでも、苦痛ではないとか。

写真は参考

「これ見てえな」。石美さんが取り出した一枚の型紙。陽に翳(かざ)してみると、細かい穴がびっしりと穿たれている。

「通し柄ゆうて、小さな丸い穴と穴の間が、髪の毛一本分も無いほどなんさ」。僅か一寸(三.0三㎝)角の中に、針の先程の穴が約八百個。ミクロの世界に迷い込んだかの錯覚に陥る。

しかし江戸時代から続いた寺家の反映にも、昭和も四十(1965)年代後半に差し掛かると、大きな陰りが生じた。

「思い切って、足袋から靴下へ履き替えて見ようかと」。

昭和五十一(1967)年、石美さんは着物の型紙から、暖簾や風呂敷にインテリア小物へと、彫師の技術を転用した。

「もう今し、寺家の型紙産業は、最盛期の十分の一程度になってもうて。ご先祖が護り抜いてきた技術も、やがて消え入ってしまうんやろなあ」。 石美さんは、段ボール箱に無造作に詰め込んだ、止め柄の型紙を引きずり出して陽に翳した。

「失のうてまうんは、簡単なこっちゃ。せやけど、伝え遺してくんはしんどいことやさ」。

南に向いた窓。窓辺から手前に傾く、畳一枚ほどの作業台。彫師が畳に座し、小刀に体重を預けて彫り進むに、都合の良い高さが保たれている。

昭和という時代を、伊勢型紙に刻み続けた老彫師は、窓辺を染める夕陽を眺め、作業台の傷の跡に指先を這(は)わせた。

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「ななな、なんたるこっちゃあああ!!!」

一昨日ゴッド君が走り回ってやっと手に入れてくれた山椒の葉も、昨日の朝クール宅急便で届いた、郡上の知人の隣家の山椒の葉で、わが家は山椒農園のような有様。

「こうなったら、どんだけ食べてもいいからね!」と、サナギになりかけている一匹を除いた二匹を、山盛りの山椒の葉の上に乗せてやったものの、あらら???

いったいあの食い気はどこへやら・・・。

あまり口を動かさず、じっとしてばかり。

いささか気にはなりながらも、所用で出かけ深夜帰宅してビックリ!

ぼくの道具箱に引っ付いていた緑色だった幼虫君は、まるでミノムシのように変色してしまっているじゃありませんか!

ややや、もしやして???そう思って山椒の葉の中から、あとの二匹を探してもどこにも見当たりません。

こりゃあとの二匹たちもどこぞかで、サナギになる準備を始めたかと、部屋中探し回りました。

すると!

一匹は天井に!

もう一匹は、箪笥の奥の壁にへばり付いちゃってるじゃないですか!

でももう触って動かすことも出来ません!

後はこの三匹たちが無事に羽化して、大空を舞う日だけ夢見て、見守ってやるつもりです!

ああ!それにしても、皆さんの善意でやっとこさ手に入れた山椒の葉!どうすりゃあいいのよ!

なんなら、落ち武者殿!召し上がりますか?

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「やっとやっと手に入れた山椒の葉なのに~ぃ・・・」

協賛/松風苑

電車で国府宮へと向かい、夕方ゴッド君家へたどり着きました。

と言っても、矢合観音でバスを降りてから道に迷い、ゴッド君に迎えに来てもらう羽目になってしまったのですが・・・。

ゴッド君はこのように立派な、山椒の木を二鉢分も探し出してきてくれていたのです。

「ところであんた、どうやって持って帰るの?」とゴッド君に問われ、あまりの立派さに答えに窮してしまったほどです。

さすがにこんな立派で大きな木を、二本もエコバッグに詰めて帰宅時間に重なる夕方の電車に乗るのも憚られ、葉がよく茂った一鉢分の枝を持ち帰ることにしたのです。

さすがに満員電車の中で、山椒の枝の棘がどなたかに刺さっても、そりゃあ大変ですもの。

さぞや腹を空かしてぼくの帰りを待っているだろうと、急ぎ足で家路を急いでみると!

一番身体がまだ小さく、お腹を空かせて右往左往していた幼虫が、ぼくの道具箱に張り付いてじっとしているじゃないですか?

ええっ?????

よく見ると体から糸を出し、ぼくの道具箱に張り付いてサナギになろうとしているようです。

とは言え、まだお腹がすいているのではと、新鮮な山椒の葉を口元に運んでやると、オレンジの角を出して、もういらないとでもいうような素振りです。

あとの二匹の幼虫も、随分動きが緩慢になり、食欲もグンと落ちているようです。

後の二匹も間もなくサナギになるのでしょうね。

何ともお騒がせな一日でした。

ゴッド君、ありがとう!

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「えらいこっちゃー②!またしても緊急事態勃発!!!」

昨日の朝は、花屋さんやホームセンターに電話をかけまくり、やっと堀田にあるホームセンターに山椒の苗木の売れ残りが2鉢あると探し当て、取り置いていただき電車を乗り継ぎ、写真の手前に写っている2鉢を手に入れました。

しかしアゲハ?三兄妹のすこぶる旺盛な食欲に、いささかこれじゃあ足りないのではと、不安がよぎったものです。

でもさっそく山椒の苗木を与えると、もうご覧のような食べっぷり!

これにゃあさすがのヒロちゃんでも敵いませんか?

そしてそれなりに胸を撫で下ろし、眠りに就いて今朝起きたらまたもやビックリ!

一抹の不安が見事に当たってしまったのです!

昨日追加した山椒の苗木も見事に丸坊主!

ヒロちゃんのコメントにキャベツでもとあり、与えてはみたものの、キンカンの葉はおろかキャベツに見向きもせず、丸坊主になった山椒の枝に未練たらしくつかまっているじゃありませんか!

そこでコーヒーを一杯飲んだその足で、松原の花市場を巡って山椒の木を探しました。

しかし花問屋の方にお尋ねしても、虫が付くから扱ってないとか、2月頃には並んでいたけど、もう何処にもないねぇと・・・。

そこで奥の手だ!と、あのゴッド君に電話を入れ、緊急事態を告げ、どこぞかに山椒の葉が茂った木が無いかと問うてみました。

ゴッド君も仕事の前の忙しい時であったでしょうが、親身になって聞いて下さり、お仲間の方に聞いてやるとのこと。随分救われた思いがしたものです。

とは言え、ゴッド君をあまり当てにしてばかりいて負担をかけてはいけないと思い、いつも野菜やお米、それに山菜などを送ってくださる、郡上の知人に電話を入れて見ました。

すると奥方がちょっと探して見るからと、何とも期待の持てるご返事が!

それからしばらくすると、隣の家に山椒の木があったから、葉の良く茂った枝を分けてもらったから、宅急便で早速送ってやると!

なんとなんと、嬉しい限りです。

こうなったら何が何でも見事に羽化させてやって、大空に放してやらねばなりません!

皆々様の心温まる姿にただただ感謝です!

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