今日の「天職人」は、愛知県豊田市の「御幣餅(ごへいもち)職人」。(平成十七年七月五日毎日新聞掲載)
せせらぎ覆う森の木々 水面に揺れる木漏れ日と 戯れながら糸蜻蛉 夏の訪れ告げて舞う 涼を求めた山間に 峠茶屋から立ち込める 小夏至(こげし)醤油の香ばしさ 三州足助御幣餅
愛知県豊田市の上坂(こうさか)商店、三代目・御幣餅職人の上坂敏明さんを訪ねた。

「餅は、半殺しに練らんとかんだあ」。いきなり物騒な言葉が、任侠映画さながらに、白衣をまとうやさしい顔をした男の口から飛び出した。
もともと足助町で明治四十五(1912)年に、祖父の藤太郎が創業。雛人形の内裏様が手にする御幣を真似、五角形の御幣餅を考案したとか。

「御幣の形をした御幣餅は、家が元祖だもんで、看板にも『元祖御幣餅』って書いとるじゃんね」。
敏明さんは、昭和十六(1941)年に足助町で二男として誕生。
中学卒業後、名古屋でスクーターの販売修理会社に就職した。「機械油の臭いが、どうにも性に合わんだあ」。
三年後、書籍販売の営業に身を転じた。丁度その年、両親は店を豊田市の現在地に移転。「兄が弟を連れて、豊田で呉服屋やりかけただもんで。それと、ここには当時製糸工場があって、そこの女工さんらでいっつも満員でよう流行っとっただあ」。
三年後には、三重県津市の営業所へと転勤。書籍販売に明け暮れる傍ら、事務員の金子さんとぞっこんの仲となり、昭和四十二(1967)年、ついに本懐を遂げ結ばれた。やがて二人の娘が誕生。三重県を、第ニの故郷と思い始めた頃だった。
四十を前に職場での責任も高まり、その重圧から内臓疾患を患い開腹手術の憂き目に。「そろそろ家で出来る仕事に就こうかと。両親も年老いて来とるし」。 四十歳になり豊田の実家へと戻り、調理師学校でまさに四十の手習いで免許を得た。
「だけど家のような店は、調理師免許なんていらんらしいだ。まあ、別にあったからって困るもんじゃなし」。敏明さんは、壁に掲げられた免状を指差した。

御幣餅の原料となる米は、地元産の物と、妻の在所で生産される米とを、適量の配分で混ぜ合わせる。「米には、良い時悪い時それぞれに斑(むら)があるらぁ」。研いだ米を一晩、カルキを抜いた水に浸し、三升釜で芯が抜け切る直前まで炊き上げ、臼に入れ杵で「半殺し」と呼ぶ六.五分ほど餅状にする搗き方で練る。
練り上げたら熱い内に、木綿の敷布を敷いた御幣型に入れ、竹串を差して形成。「それをロジ(御幣型を重ね入れる木箱)に入れて、ほとり(火照り)を抜いてまうだぁ」。
熱が抜けたところで敷布を持ち上げ、型から放す。「御幣餅は、敷布の布目の方が表じゃんね」。後は注文を待って、炭火にかざしながら、焼け斑が出来ぬよう、表側から素焼きし、特製の醤油だれを付けもう一度炙る。
一本ご飯茶碗八分目、有り難い元祖御幣餅の出来上がり。
わざとらしい甘味などない、秘伝の特製だれは、醤油と水で、白胡麻と粉山椒を入れ、トロミが付くまで毎晩煮込んで仕込む逸品。
選び抜かれた粳米(うるちまい)と、炭火に焦げる秘伝の醤油だれが、否応なしに鼻腔をくすぐり、皿から口元へと運ぶわずかな時間が待ち切れず、口中に唾液が溢れかえる。
「家の店の横綱は、『旨い旨い』って、気が付いたら一回で二十本。それが最高記録じゃんね」。
背広を白衣に着替えた、四十の手習いから早二十四年。すっかり三代目の風貌が板に付き、炭火の前に立つ姿は、何とも収まりが良い。

「いらっしゃい」。引き戸から忍び込む、そよ風のよう。飾り気のない柔らかな声が吹き抜けて行った。
さあ今日も、千客万来。
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