「天職一芸~あの日のPoem 153」

今日の「天職人」は、三重県桑名市長島町の「流木細工師」。(平成十七年八月九日毎日新聞掲載)

寄せては帰す波の音(ね)に 耳を澄ませば聞こえ来る   海の彼方の異国から ザバーンシュワワ泣き笑い      波が運んだ流木を 君は拾って耳寄せる          何処から流れ着いたやら 遠き彼方のまほろばか

三重県桑名市長島町、流木細工師の市川茂さんを訪ねた。

写真は参考

「この辺の人らに『木磨いとる人おらへんか?』って尋(たん)ねたってみ。すぐに家(うっ)とこ教えてくれるで」。茂さんが笑った。

自慢の流木は、直径約一.二m、高さ約一.五m程。欅(けやき)の根を前に、昔語りを始めた。

茂さんは昭和十一(1936)年、六人兄弟の末子(ばっし)として半農半漁の家に誕生。

終戦後、中学を上がるとすぐ、親兄弟と共に船に乗り込み、木曽三川の河口を魚場に漁で生計を担った。

「立干網(たてぼしあみ)漁ゆうてな、満潮時に立干網をフェンスのように立てて張り巡らしたるんさ。後は、潮が引くのを待つだけ。網にゴロゴロ魚がひっかかっとんやで」。

海水と淡水が入り混じる河口の水際で、大型のマダカにセイゴ、フナや鯉が、引き潮と共に姿を現す。

昭和三十四(1959)年五月、妻を娶(めと)り母屋の脇に新居を構えた。

「あの頃から、河口に流れ着く流木に、ちょいちょい気があったんさ」。

漁の合間に流木を拾い集め、我流で磨き上げては、新居に飾り付けた。

写真は参考

新婚から四ヶ月が過ぎた九月二十六日。午後六時過ぎに紀伊半島潮岬(しおのみさき)に上陸した台風十五号は、伊勢湾を北上。東海地方に未曾有(みぞう)の被害をもたらした、伊勢湾台風であった。

午後七時、満潮と重なった伊勢湾の潮位は、通常を三.四五mも上回る高潮となって、茂さんの母屋と新居を襲った。

「『港の船見てくるわ』って堤防に向かったら、高潮が酷ていのけやんで、はんどった(へばりついた)んやさ」。猛(たけ)り狂った高潮が、母屋と母親を一瞬のうちに飲み込んだ。

翌朝浜には母の亡骸が。茂さんは妻と高潮に流され、生死の淵を彷徨いながらも、どうにか九死に一生を得た。

台風の傷跡も満足に癒えぬ中、折からの地盤沈下による影響からか、漁獲量にも陰りが差し始めた。

「チャーター船を出しては、釣船の営業で凌(しの)いどったんさ」。その後、昭和四十二(1967)年には内航不定期航路事業に乗り出し、二十人乗りの客船を手に入れた。

「ちょうど子供が大病患って、手術はせんならんし弱っとったら、造船会社の親方が『金なんか、ある時持ってくりゃいい』って」。

いつまでも栄えるようにと願いを込め「新栄丸」と名付け、新たな船出に。

船に関わる仕事で家族の生計を支えながらも、河口に流れ着く流木を拾い集めては、家へと持ち帰る毎日。

「この辺のもんらに『ガラクタばっか拾い集めて、あいつは流木キチガイや』って。ある時は、駐在が怪しんで『あいつ、焚物(たきもん)ばっか積んで毎日走っとるけど』って、後付け回しよった」。それでも流木拾いを止めようとはしなかった。

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「あれ見てみい。船喰い虫の芸術作品を」。

丸太の幹に、びっしりと無数の穴。「川の船食虫は、真っ直ぐに穴を彫るけど、伊勢の方の海の船食虫は、横へ横へと彫ってくんさ。わしには、何でか解らんけどな」。

拾い集めた流木は、簓(ささら)で表面のゴミを取り除き、一年も二年もかけて、炒った粉糠を布袋に入れ、天然な光沢が浮かび上がるまで根気良く磨き続ける。

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「底になる部分だけ、据わりがええように切るだけで、後は流れ着いた時のまんま」。昭和三十七(1962)年に員弁川の河口に流れ着いた欅の根は、三ヶ月かけて付着したゴミをこそぎ落としただけで、三十年以上雨曝(あまざら)しのまま眠かせた力作。

「こんな大きな流木、船のスクリュウに巻き込んでみい、一巻の終わりやて。ほんだでわしがせっせと拾ろとったんさ。それが、海と共に生きるもんの務めやで」。

海と川の狭間で、半世紀を生き抜いた男。

山での何百年という樹齢を終え、川から海へと流離(さすら)う流木。

男は今日も陸(おか)へと引き上げ、まるで長旅を労うかのように磨き上げ、新たな命を宿らせる。

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「君は夏の女神」

昭和半ば生まれのぼくなんぞにすると、真夏の匂いは「サンオイル」や「コパトーン」の日焼けオイルの香りと相場は決まっています。

今のような紫外線対策だなんて、誰も気にしていなかった時代です。

日焼けの黒さが男らしさだ!なぁ~んて思っていたほどですもの。

しかし今年は、各地の海水浴場も新型コロナの影響で、閉鎖されるとか。

若者たちにとってひと夏の恋物語は、お預けってことになっちゃうんでしょうか?

夏・海・水着って言うと、ついつい心も開放的になり、ちょっと大胆な刺激を求めて、恋心に火が付いたり・・・なぁ~んてご経験が皆様にも、きっと一つや二つはおありになることでしょう。

今日は梅雨明け宣言前ではありますが、せめて気分だけでも、あの青春時代の輝いていた夏を思い出していただければと、「君は夏の女神」を弾き語らせていただきます。

『君は夏の女神』

詩・曲・歌/オカダ ミノル

流れ行く星追い 君の町目指し走り続けた

遠い日を一度も 忘れた事などない君との夏を

 果ないこの道は 君の心へと

 続いていると 信じれた若さの証し

海沿いのカーブを 曲がれば噎せ返る潮の香りが

鮮やかに甦る 君はぼくの夏の女神そのものだった

月明かり頼りに 君と砂の城築いた浜辺

あんなに輝いた 夏の日は二度と戻らない

 夏の女神は 一度だけ微笑んで

 夜明と連れ立ち 水平線彼方へ消えた

海沿いのカーブを 曲がれば噎せ返る潮の香りが

鮮やかに甦る 君はぼくの夏の女神そのものだった

海沿いのカーブを 曲がれば噎せ返る潮の香りが

鮮やかに甦る 君はぼくの夏の女神そのものだった

続いては、長良川国際会議場大ホールでの、Live音源から「君は夏の女神」をお聴きください。

どうか今年の夏が、皆様にとっても素晴らしい夏となりますように!

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「昆虫採集セット!」。夏休みの自由研究で、昆虫標本を作りたいと、さんざんっぱらお母ちゃんに泣きついて、わが家にしたらそりゃあ高価な昆虫採集セットを買ってもらったものです。

注射器や防虫剤の液体も入ったもので、嬉しくって嬉しくって、毎朝ラジオ体操が終わって朝ご飯を済ませると、タモと虫篭をぶら下げ、氏神様のお社を目指したものです。

アブラゼミやニイニイゼミにトンボなど、何でもかでも手に入れた昆虫たちには、注射針を打ち込んだものでした。しかし今考えたら、子どもとは言え、ちょっと残酷だった気がして反省しきりです。

皆様は昆虫採集やりませんでしたか?少なくともお嬢ちゃまはさておき、腕白坊主どもなら同じように朝から晩までタモを掲げて走り回っていたのでは?

今回は、そんな「昆虫採集セット」の思い出話をお聞かせください。

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クイズ!2020.07.14「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

これぞ正しく、超手抜きなズボラ残り物クッキングです。

前の日の残り物と、冷凍のアレを使って、丼風にして見ました!

もうキリン一番搾りにピッタリ!

やっぱりこんなジメジメした日にゃあ、チュルチュルさっぱり、そして夏バテ防止のコッテリが相乗りが一番です!

では頭を柔軟にして、どしどしコメントをお寄せ願います。

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「天職一芸~あの日のPoem 152」

今日の「天職人」は、岐阜県関市の「蕎麦打ち職人」。(平成十七年八月二日毎日新聞掲載)

ゴトゴト回る石臼を 眺め過ごした夏休み         捻じり鉢巻き汗まみれ 父の在りし日偲ぶ宵        裸電球煌々(こうこう)と 夜毎蕎麦打つ父眺め      粘土団子で真似てみる 母は溜め息苦笑い

岐阜県関市で創業五十年を迎える、萬屋町(よろずやちょう)助六の蕎麦打ち職人、二代目の小林明さんを訪ねた。

「中華そばのおかげやて。大学まで出してもらえたんは」。明さんは呟いた。

刃物産業で栄えた関市は、古来より高山へと続く飛騨街道や、郡上とを結ぶ街道の要所。馬車牽(ひ)き目当てに食堂が軒を連ねて賑い、銭湯も五軒を数えた。

「家は中華そばがとんでもなく美味い繁盛店で、みんな風呂上りや映画見た帰りに『助六でそば食べてこ』って。でも『そば』は、蕎麦じゃなくって『中華そば』のことなんやて」。昔ながらの支那(しな)そば風。和風出汁の効いた素朴な味わいで、町の人から旅人にまで愛され続けた一品とか。

そんな繁盛店となる助六開店の昭和三十(1955)に、明さんは長男として誕生。やがて京都の大学へと進学。

「家業が嫌で嫌で。役人や銀行員のような、普通の生活に憧れとったんやて」。

商売屋故に、家族揃っての食事もままならぬ。ましてや家族旅行などもってのほか。そんな子供の頃の歯痒さが、明さんをそんな思いに駆り立てた。

大学在学中は、各地のユースホステルを巡った。

「貧乏学生やで、旅先で美味いもの食べようと思うと、蕎麦が一番最適なんやて」。ある日、出雲大社近くの蕎麦屋で蕎麦湯を供された。

「何なんやろう?頼みもしとらんのに。周りの人らの様子見ながら、真似て飲んでみたんやて。そしたら滋味があって美味い」。蕎麦の魅力に惹かれ始めていった。

卒業も近付き、同期の仲間たちは長髪を切り揃え、就職活動に専念。

「そんな姿が虚しくて。『俺は、蕎麦屋やろう』って」。

京都烏丸の蕎麦屋に、履歴書持参で飛び込んだ。

「あんた大学出たはんのに・・・何か悪いことでもしやはったんか?」と訝(いぶか)られながらも修業を開始。

毎朝五時から夜九時まで、無休の日々が二年続いた。

「技術の習得は早かった。両親の後姿見とった分だけ、体内時計が覚えとるんやて」。しかし蕎麦への執着心は、止まるどころか、更に深みへ。

石臼挽き自家製粉の、高山の蕎麦屋に頼み込んで住み込みを開始。朝八時から深夜0時まで、石臼挽きから蕎麦打ちを続けた。

昭和五十五(1980)年、中華そばで助六を切り盛りし続けた父が心臓病に。

明さんは取るものも取らず、夜行列車で帰郷。年老いた母一人に、助六を委(ゆだ)ねることは忍びなく、高山の蕎麦屋を辞して家業に転じた。

助六で「そば一杯ちょうだい」と言われれば、それは兎にも角にも中華そば。

助六で蕎麦を出そうと舞い戻った明さんは、愕然(がくぜん)とする毎日が続いた。

昭和六十(1985)年、店舗の改装と合せ、周りの反対を押し切り、中華そばを品書きから消した。

「お客さんが『そば、ちょう』って注文するもんやで、『蕎麦』を出すと『嘘やろう?』って、目が点になって。今でも『助六のたあけ坊が』って言われるほどやて」。

改装から二年。板取村の農家に協力を得て、蕎麦作りを開始。

「『毎週関から変わり者が来る』って言われながら通い詰めて。じきに気心が通じ、『昼飯どうや、風呂入れ、泊まってけ』って」。

一途な蕎麦職人は、何時しか「助(すけ)さ」と親しみを込めて呼ばれるほどに。

それから七年。

板取村の農夫から一本の電話が入った。「『助さ、家の下の娘どう思う?ええのか、悪いかどっちや』って」。

明さんは店で天麩羅を上げながら「ええと思うわ」と。

それが妻みちるさんとの馴れ初め。

蕎麦作りへの情熱は、そのままみちるさんへの熱き想いでもあったのだろう。

明さんは前日に石臼で蕎麦粉を挽き、翌朝六時半から一時間半かけ、混じり気の無い蕎麦粉を生子(きこ)打ちで仕上げる。

板取産生山葵のピンッとした刺激が、凛とした辛口の笊汁(ざるつゆ)を際立たせ、冷水にもまれた蕎麦本来の味を引き立てる。

未だ日に三人程が、幻の中華そばを所望するほどの助六で、「そば」が『蕎麦』として認知されるまで、ゆうに十五年の年月を要したとか。

「高級蕎麦とかじゃなく、フラッと入れる庶民的な町場(まちば)の蕎麦屋が目標なんやて」。

誇張した宣伝文句も、薀蓄(うんちく)も一切無用。

黙って座して一啜(ひとすす)り。

さすれば唸る間も無くもう一枚。

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「ついに大空へ!」

ついにお別れの日がやって来てしまいました。

頑張って山椒の葉を食べ尽くした、三匹のアゲハ?の幼虫三兄妹の内一匹が、今朝見事にサナギを脱ぎ捨て、お母さんと瓜二つのアゲハに羽化しました!

何と目出度く、なんとも寂しい瞬間です。

ぼくは昨夜早くに酔いつぶれて寝てしまい、今朝は逆に3時半頃に目が覚め、ブログやら書き物をしておりました。

その時点では、「おはよう」と必ず目覚めたら挨拶しておりましたので、間違いなくサナギのままだったのです。

そしてしばらく書き物を続け、午前5時少し前にふと出窓の天井を眺めると、おやっ???

そこにはサナギの殻から抜け出した、まだ羽根も完全には広がらないでいる、アゲハの成虫がいるではありませんか!まるで自分の脱ぎ捨てた殻を、愛おしそうに眺めているようでもあります!

それからは、ゆっくりと羽根を広げて見たり、またすぼめて見たり。

嬉しいやら寂しいやら・・・不思議な感覚を味わいながら、生命の神秘にただただ感動しています。

こちらが、あまり動かないものの、動画です。

そして今窓を開け放ち、窓辺に水で希釈したハチミツを用意してあげました。

まるで水盃のようでしょうか?

元気で大空を駆け巡ってくれますように!

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7/7の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「鶏そぼろの山椒味噌煮込みソースかけパスタ ~ 玉蒟蒻のバターソテー添え」

アゲハ?三兄妹がサナギに成長して食べ残してしまった山椒の葉。

ゴッド君が血眼になって探し回ってくれたり、郡上の知人が慌ててクール便で送ってくれた、お隣の屋敷の山椒の葉ではありましたが、残念なことにそれらの葉を食べつくす前に、こっそりとサナギになってしまい、冷蔵庫の野菜室には山椒の葉がてんこ盛り!

そんなブログにヒロちゃんが、「アゲハ?三兄妹が食べのこした山椒の葉は、茹でて冷凍して保存したり、煮魚と一緒に煮て酒の肴にどうぞ!」なぁ~んてコメントをお寄せいただいておりましたので、ぼくも残り物の山椒の葉で一捻り。

山椒の葉と言うと、味噌田楽の上や煮物の上に彩りとして添えられているじゃないですか!

ならばいっそのことと思い、「鶏そぼろの山椒味噌煮込みソースかけパスタ ~ 玉蒟蒻のバターソテー添え」にチャレンジしてみました。

まずは小鍋で湯を沸かし、鶏ガラスープの素と赤味噌、そして味醂をたっぷり加え、そこに鶏肉のミンチをほぐ入れ、茹でておいた山椒の葉をたんまり入れてしばらく煮込み、最後に片栗粉で緩めの餡に仕上げ、茹で上げたパスタの上にかけ、生クリームとパルミジャーノレッジャーノをすり下ろしながら振り掛けます。

そして最後にバターソテーして、少し焦げ目をつけた玉蒟蒻を添えれば完了です。

まあ味噌の味と山椒の組み合わせは、恐ろしいほど最強のコンビで、キリン一番搾りがこれまたグビグヒと進んだものでした。

さすがに今回も、お目の高い皆々様には、ほとんどお見通しのようで、まるで素っ裸にされたような気がしたほどです。

毎度毎度お付き合い、誠にありがとうございます。

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「天職一芸~あの日のPoem 151」

今日の「天職人」は、愛知県額田郡の「造り酒屋主」。(平成十七年七月二十六日毎日新聞掲載)

杉の木立ちを縫うように さやけく流る神水(かんずい)は やがて小さな沢となり 静かな郷に舞い降りる       麓の郷に秋茜 畦に色付く彼岸花             造り酒屋の軒先に 杉玉上がりゃ喉が鳴る

愛知県額田町で天保元(1830)年創業、柴田酒造場の七代目主、柴田卓男(たかお)さんを訪ねた。

「米の出来不出来で、酒の柄がいいか悪いか決ってしまうでね」。造り酒屋の老主人は、いきなり酒に人格を与えてそうつぶやいた。

卓男さんは大正十五(1926)年に、六人兄弟の二男として誕生。とは言え、兄弟を死産や病死で次々と失った。

昭和十九(1944)年、戦局は悪化の一途を辿る中、安城農林高校を卒業し鳥取県の大学へ。「学徒動員に巻き込まれて、九州で終戦だわ」。

昭和二十二(1947)年に実家へと帰還。

その後一年足らず、村の中学校で教鞭をとり、家業へと身を投じた。

「GHQの農地改革で、十五町歩(約十五ha)もあった田んぼを一反七百円で解放させられただぁ」。

全国各地の大地主は、先祖代々護り続けた田畑(でんばた)を泣く泣く手放す憂目となった。

「あの当時の酒は、全国的に統制物資の不足を補うため、三倍酒と呼ぶ合成酒が幅を利かせとった」。廃糖蜜などを発酵させ、蒸留したアルコールを添加したり、アルコールに糖や酸を添加する増醸法だ。

戦中戦後の混乱は、静かな農村の造り酒屋にも容赦なく押し寄せた。

「一級上の友人に、『まだ嫁さんの来てが無いのか』とからかわれて」。昭和二十五(1950)年、隣村から嫁を得て二人の娘が誕生。時代は、朝鮮動乱による特需の追い風を受け、本格的な復興期へと差し掛かっていた。

そんな矢先の昭和三十(1955)年、幼子(おさなご)二人を遺し妻が急逝。

周りの薦めで妻の妹と再婚し、一人息子を授かった。

毎年十月二十日、杜氏(とうじ)と蔵人(くらびと)を迎え、酒六(さかろく/六尺樽)への仕込みが始まる。

まずは地元産の米を、真っ白に精米し洗って蒸す。

「冷夏だった年の未熟な米は、砕けてしまうだぁ」。

傍らで八代目の秀和さんが、四分搗き(六割を糠にして、四割を酒造りに用いる)に精米された米を差し出した。

蒸し米と酵母に糀と水を入れ、二週間かけて酒母(しゅぼ)を作る。そして酵母の数を増やしてから本仕込へ。

酒母に蒸し米と糀に水を加え、三回に分けて仕込み、二十日程して「荒走(あらばし)り」「中汲(なかぐ)み」「攻(せ)め」の順で搾り切る。

「最初に絞る荒走りは、まだ味が若い。やっぱり真ん中の中汲みが、一番旨いですね」と、若旦那。

半年から一年弱、新酒は蔵の中で深い眠りに就く。

「だいたい十二月に仕込んで、翌年の秋に杜氏が杉玉を作り『新酒、出来ました』って、軒先に吊るすんです」。

野球選手に憧れたという、立派な体格の若旦那は、茶色くなった杉玉を振り返った。

若旦那は、大阪の大学を出ると、兵庫の造り酒屋で二年間修業。その後、東京の醸造試験所で一年間、酒造りを学んで家業を受け継いだ。

「この土地の米と水。それが酒造りの命です」。若旦那はきっぱりと言い放った。

「ここらの字名は、神の水と書いて神水(かんずい)と読むだあ。この山を登って行くと、川へ注ぐ源流が湧き出しとるだで」。先代は、清冽な水の恵みを、まるで我が事のように、誇らしげにつぶやいた。

八代続く額田の酒は、郷土が産する米と、地下に凍み込んだ神の水で、じっくりと搾り出したる生一本(きいっぽん)。大吟醸「神水仕込(かんずいじこみ)」と、三代続く吟醸「孝(こう)の司(つかさ)」の逸品。

八代続き左党を唸らせた、郷の慶弔には欠かせぬ脇役が、今宵も郷の宴を司る。

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「おお~っ、昔はお世話になりましたぁ!」

初めてマックのハンバーガーを食べたのは、確か高校一年の時だったと記憶しています。

名古屋の昔の丸善ビルを南に入った、昔のダイエーとの間くらいにあった、名古屋では一号店のマックでした。

ハンバーガーが確か一個360円。当時の高1には、途轍もないほどの贅沢品です!

ガラス張りの向こうの鉄板の上で、お好み焼きのようにバンズとパテで焼かれていたような・・・。

そりゃあもうほっぺたが落ちるほどの美味しさでした!

ところでつかぬことをお尋ねしますが、落ち武者殿!

ぼくが落っことした頬っぺた、どこへやったかご存じありません?

まあ、そんなことはさておき、先だってよんどころない事情で、とある海沿いの町へ出かけ、次の電車待ちまでの間に寂れた街を彷徨っていると、この錆びれた自販機を発見いたしました。

若き日、自分の車を買ってから、オートドライブインとかって、自販機だらけの24時間営業のところで、何度かこの自販機からハンバーガーを買わせていただいたものでしたねぇ。

でも自販機によっては、電子レンジのタイマー設定が微妙に違うのか、バンズに含まれている微かな水分まで蒸発してしまって、カッチカチになっていたのが妙に懐かしい気がいたします。

当時いくらだったかは覚えていませんが、安くも高すぎることもなかったようで、もう一度見かけたら懐かしさで思わず買ってしまいそうです!

皆さんもそんなご経験がおありなのでは???

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「天職一芸~あの日のPoem 150」

今日の「天職人」は、三重県桑名市の「茶道具指物師」。(平成十七年七月十九日毎日新聞掲載)

ぶんぶく茶釜煮え立って チンチン湯気を吹き飛ばす    ドロンと狸飛び出せば 蛙(かわず)も跳ねる縁側で    茶人気取りでカシャコショと 茶筅鳴らせば鳥も鳴く    夏の盛りの通り雨 忙しきことよ獅子脅(ししおど)し

三重県桑名市のこんどう工房、茶道具指物師の近藤千力(ゆきちか)さんを訪ねた。

写真は参考

「これ見てみいな。なとして組んであるか、あんたら解るか?」。麻痺の残る身体を重たげにもたげ、老職人は立ち上がった。隣の部屋から岡持ちほどの大きさをした、茶道具を持ち運ぶための屋久杉製茶箱が、座卓の上へと置かれた。

千力さんが指差した茶箱の四隅には、蟻組(ありぐ)み細工の技法が取り入れられている。

写真は参考

普通の指物であれば、片方が雄ならば、それを受ける側は雌の受け口となる。

しかしこの蟻組みの技法は、組み合わせる両方の板共に、両端に雄雌両方の凹凸が交互に細工され、一度組み上げたら最後、二度と外れぬほどの強靭さが得られる。

「斜交(はすか)いに切り込んで、それを組み込んであるやろ。どやったら出来るか、あんたらには解らんやろなあ。それくらい、難しい組み方やで、誰も真似できやんわさ。わしも親方に教えてもうては、永い間かけてそれを改良して来たんやで。教えて欲しい言われても、まあ絶対教えやんわさ」。

写真は参考

千力さんは昭和四(1929)年、桑名で八百屋を営む家の二男として誕生。尋常高等小学校を卒業した昭和十九(1944)年、三菱航空機に入社し、養成工として戦闘機の部品作りに励んだ。

「終戦後は、一番上の姉婿が建具屋の親方しとったもんやで、下働きの弟子にしてもうて。建設会社の下請けで、松阪の現場へ六年行っとった」。

義兄の親方の下、炊事洗濯の下働きに始まり、すり上げ障子等の建具作りを身に付けた。

建具職人としてのイロハが、朧げに分かりかけてきた二十三歳の年、転機が訪れた。

「親方と喧嘩してもうて、親父の在所があった員弁郡藤原村(現いなべ市藤原町)で、独立して建具屋始めたんやさ」。

順風満帆、薔薇色の人生が訪れるはずであった。しかし。

「一年に一軒、たんまに家が建ちゃあいい方なんやさ。後はそこらへんの、おかしな仕事しかあらへんのやで」。二年後ついに見切りをつけ、桑名市内へと移転。

二十七歳の年に、親方の姪を嫁に迎え、三人の子を授かった。「好きも嫌いもあるかさ。親方が決めてもうて」。時は昭和三十一(1956)年。一部の大都市を除き、未だ職人の世界には、封建的な徒弟制度が色濃く残っていたそうだ。

住宅需要が引っ切り無しの、高度経済成長期と歩調を合わせ、近藤さんは建具作りに追われ家族の成長を支えた。しかし昭和も四十(1965)年代を下る頃になると、サッシが登場し急激な勢いで建具の職が薙(な)ぎ払らわれて行った。

「そんな頃やった。茶道のお師匠はんが『こさえてまえんか』って、訪(たん)ねてこられて」。世は終戦の太平から約三十年、文化教室華盛りを迎えつつあった。

茶筒、菓子器、茶箪笥、棗(なつめ)から、冒頭の蟻組みの茶箱まで。中でも蟻組みには、指物師の力量が惜しみなく発揮される。

まずは、材となる屋久杉・桐・杉への丁寧な鉋掛け。次に、頭の中の設計図を頼りに、指物の真骨頂たる蟻組み細工の凹凸を斜交いに施す。

斜交いの凹凸を、平らに繫ぎ合せるだけでも至難の技だ。

写真は参考

しかし近藤さんの蟻組み細工は、底板・側板・天板が、いずれも直角にぴたりと寸分の狂いもなく組み合わさる。仕上げは、慳貪(けんどん)と呼ばれる蓋だ。

取っ手を持って蓋を上げ、下側を斜め手前に引いて外す。茶道の優雅な和装の所作には、何とも似合いすぎる。

「六十年もようやったわ。飽きやんと」。

蟻組み細工を施す指物師は、全国広しと言えど近藤さんの他に数多くはいない。

跡取りはと問うた。「こんな仕事、もう誰(だ~れ)もせやん。でも近いうちに、腕のええ職人に教えといたろと思(おも)て」。

宮大工の蟻組み(写真は参考)

茶人が描く、侘び寂びの境地。

匠は、人知れずこっそりと、己が技のすべてを注ぎ、茶箱の四隅に組み込んだ。

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「天職一芸~あの日のPoem 149」

今日の「天職人」は、岐阜市川原町の「鮎炭火焼き職人」。(平成十七年七月十二日毎日新聞掲載)

ほろ酔い歩く城下町 浴衣姿で涼み行く          夜店を巡り品定め 盥(たらい)のラムネ君が手に     鼻をくすぐる香ばしさ 道行く人も立ち止まる       炭焼き鮎にかぶりつき ぼくはビールで喉鳴らす

岐阜市の川原町泉屋、五代目泉善七さんを訪ねた。

「蓼(たで)喰う虫も好き好き」ならば、焼きたての鮎を蓼酢(たでず)に浸けるのも然りかな。「いや、家ではそれは邪道。蓼酢で臭みを消すような鮎は、使ってませんから」。 善七さんは、焼き場の備長炭に火を熾(おこ)しながら、きっぱりそうつぶやいた。

善七さんは昭和四十一(1966)年、創業明治二十(1887)年の老舗に誕生。長女の誕生から十年を経て、やっと授かった跡取り息子だった。

当時の泉屋は、長良川の恵みである鮎やハエを加工した、高級進物品から佃煮までの加工販売が中心。

「子供の頃から、父に連れられて一流の料亭や割烹、それに高級なステーキを食べさせてもらってました」。食通の父の影響は、味覚に対する感性を磨き上げた。

しかし高校二年の時に、先代が他界。翌年、高校三年在学中に本名の栄一から、五代目善七を襲名した。

「本当は、これでも外交官になって、世界中を巡るのが夢だったんです。だから『ああっ、これで俺の人生が決ってしまった』って感じで」。大学進学を前に、儚い夢は泡沫(うたかた)となって長良川を下った。

東京の大学を出ると、店に戻り古参の職人に混じって製造を学んだ。「よく職人と喧嘩しました」。一徹な職人達は、やがては主人と仰ぐ器かどうか、若干二十二歳で鼻っ柱も強い善七さんを、心の奥底で試していたのだろう。

それから二年後、高校時代の同級生を妻に迎え、二人の娘を授かった。「両親にとって、自分が遅い子でしたから、早く子供が欲しくって」。京都の大学に通う妻と、東海道五十三次分の遠距離恋愛が成就した。

バブル経済の崩壊は、少なからずとも泉屋にも影響を及ぼした。それまでは百貨店でも飛ぶように売れていた、ご進物用の高級ギフトもさっぱり低迷。

「ギフトの行き詰まりを感じてました。でも、鮎を食べること自体はなくならないだろうと」。 今から十年ほど前のこと。市内の繁華街にある本店の店先で、夏場だけじっくりと炭火で四十分かけて焼き上げた鮎の塩焼きを販売した。

丸ごと一匹の天然鮎は、どこにも包丁を入れず、ただ天日塩だけを程よく振り、そのまま炭火にかけられる。

熾りに落ちた鮎の脂が、灰と共に舞い上がり再び鮎の柔肌を覆い尽くす。

何とも言われぬ馨しい薫りが、鮎の身の中へと封じ込められてゆく。

並々ならぬ善七さんのこだわりが、ついに報われた。

三年前のある日、関西の食通雑誌記者がふらりと訪れ、鮎の炭火焼の虜に。以来、全国各地からその評判を聞きつけ、本物の鮎を賞味しようと食通達が訪れた。

今年六月。長良川の辺に残る、古い町並みの一角に、念願の新たな店を開業。「この辺りは昔、筏流しの拠点で、筏の下に群れるハエを『いかだばえ』と呼んでおったんです。それが創業以来の看板商品『いかだばゑ』の甘露煮です」。鮎にも負けぬ味わい、いかだばゑの商品は、泉屋五代が今日まで護り抜いた。

その発祥地とも言うべき場所に立ち返り、五代目善七は、今日もパチパチと炭火を熾し、天下一に違わぬ天然鮎を焼き上げる。

「河口堰が出来てから、この辺の苔が悪くなって、鮎も臭い。だから家は、郡上辺りの上流で上がる天然ものを取り寄せてます」。

長良の清流に生きた鮎だけが、神の与えた天然無垢の「スッピンの旨さ」を宿す。

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