「天職一芸~あの日のPoem 161」

今日の「天職人」は、岐阜市神田町の「田楽職人」。(平成十七年十月十一日毎日新聞掲載)

季節を愛でる旬ならば 春夏秋冬それぞれに        味わい深い恵みあり 菜めし田楽里の秋          濡れ縁越に虫たちも わずかな秋を惜しみ鳴く       遠くに響く笛太鼓 豊年祝う村祭り

岐阜市神田町、木の芽でんがく処「むらせ」の三代目主人、村瀬善紀さんを訪ねた。

「家の田楽食べて、後十五年は生きるんやて」。 義紀さんはそう宣言した。

「祖母が明治三十五(1902)年に、岐阜公園の中の茶店で、田楽を焼き始めたんやて」。

善紀さんは昭和十(1935)年に、煎餅職人の父と、祖母と田楽屋を切り盛りする母との間に、長男として誕生。

地元高校から東京の大学へ。寮生活が始まった。母は息子の食生活を案じ、田楽味噌を送った。「寮で奴が出たから、味噌付けたんやて。そしたら皆が俺もって、あっと言う間に売り切れ」。

大学を出ると名古屋で就職。社会人チームで、サッカーボールを追いかけた。堅物で不器用なスポーツマン。そんな善紀さんに転機が訪れた。

毎日仕事で顔をあわせる、娘のことがどうにも脳裏から離れない。堅物男が勇気を出して放った、純な想いのシュートは、娘心のゴールネットを揺らした。

昭和三十七(1962)年、名古屋出身の英子さんを嫁に迎え、二男一女が誕生。

やがて昭和も五十(1975)年代へ。父が病を発病し、わずか一年で他界。焼き手を失った煎餅屋は、他所から仕入れ妻が子育ての傍ら店番を担当。

昭和五十二(1977)年、善紀さんは四十二歳で会社を辞し家業を継ぐことに。

「でも主人は、直ぐに調停員の仕事についてしまって」。

煎餅屋を建替え、田楽処の二店舗目を開き、結局英子さんが店を切り盛り。

「私はもっぱら、妻の田楽で一杯やりながら接客担当。それと代々続く、家の田楽の味の監視人やて」。

代々地元の豆腐を仕入れ、三分の一丁を六つに切って串を打ち、まずは素焼き。

八丁味噌に秘伝の味付けを施し、四時間かけて細火で煮込んだ味噌を塗り、再び竈(くど)で炙る。

「家の田楽がやっぱり一番旨い」。義紀さんは、各地の田楽を食べ歩いた。

「『味噌分けてもらえんか?』って言うお客さんも見えますが、『味噌だけ売るべからず』を信条に、お断りしとんやて。やっぱりこの土地の恵みは、ここで食べてもらわんと」。

「さあどうぞ」。英子さんが熱々の豆腐田楽を差し出した。

串から焦げた味噌の香が立ち込め、鼻をくすぐる。

口中に田の恵み、豆腐と味噌の、共に大豆の絶妙な魔法が広がる。

媚びるような甘さなどいらぬ。ただ辛口の、冷酒一献あればいい。

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「天職一芸~あの日のPoem 160」

今日の「天職人」は、名古屋市昭和区の「人形焼職人」。(平成十七年十月四日毎日新聞掲載)

巨人大鵬卵焼き どれもぼくらの好物で          朝も早よから相撲取り 日が暮れるまで草野球       市で賑う参道に 仄かに甘いカステーラ          人形焼の一番は 王のバットでホームラン

名古屋市昭和区の小判堂、三代目人形焼職人の石浜政雄さんを訪ねた。

「夏は暑て暑て。えらいばっかり」。 白衣の正雄さんが苦笑い。

小判堂は明治四十(1907)年に同市中区で、政雄さんの叔父が創業。父が二代目を継いだ。

政雄さんは昭和七(1932)年、七人兄弟の二男として誕生。時代は、戦争の渦の中へ。

「当時は、軍艦や戦車、それに戦闘機形の人形焼に、人気があったんでしょうな」。政雄さんは、先代が遺した鋳物製の鏝(こて)を見つめた。

写真は参考

悪化の一途をたどる戦局と食糧事情。配給制の前に止む無く休業へ。

政雄さんが小学六年生の年、一家は岐阜県養老町へと疎開し、そのまま終戦。

中学を出ると農業に従事し、父と共に小判堂の再興を期した。

昭和二十九(1954)年、縁者の世話で現在地にて店を再興。「当時は静かな町でね。夜音がすると言えば、興正寺の鐘の音と、夜回りの拍子木くらい」。

二十二歳になった政雄さんは、父の鏝捌きに学んだ。「手先の呼吸で焼くんだわ」。店も再興し、幼い兄弟を支えようという矢先、母が四十八歳の若さで急死。末の妹は、まだ小学五年生だった。

しかし政雄さんは悲しみに暮れる間も無く、鏝を握り続けた。

人形焼の材料は、卵、小麦粉、砂糖。それを三同割(さんどうわり)で混ぜ合わせ、後は型に流し込んで焼き上げるだけ。

写真は参考

昭和四十三(1968)年、妹婿の紹介で真澄さんを妻に迎え、翌年一人息子が誕生。父はまるで孫と入れ代るように他界。

「一生職人として。亡くなる直前まで、人形焼いとったでね」。

高度経済成長期を迎え、興正寺参道の市には、参拝者が溢れ人形焼も飛ぶように売れた。「売れて売れて。ご飯も食べずに焼いて焼いて」。政雄さんは、懐かしそうに妻を見つめた。

一つの鏝で九個。二時間で約七百個を焼き上げ、またタネ作り。それを一日四~五回繰り返し、約三千個とか。

「『おじさんの人形焼の味、我が子にも食べさせたいから』って、買いに来てくれたり、老人ホームに入った方が、よう買いに行けんでと言われて届けに行ったり」。

明治・大正・昭和・平成。庶民に仄かな甘さと、幸せな風味を届け続けた老人形焼職人夫婦が、初秋の風のように何とも爽やかで、そして穏かな笑顔を向けた。

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「八幡様のお百度」

今年は新型コロナの影響で、いつもの夏とは様変わりのようです。

あれほど暑い暑いと嘆いてばかりだったいつもの夏でしたが、コロナの無いあのいつもの夏がどれほど尊いものだったか、改めて感じさせられるばかりです。

盆踊りに花火大会と、着慣れぬ浴衣に袖を通して、団扇片手に下駄を鳴らして夕涼みがてら漫ろ歩き、居並ぶ夜店を覗いているだけでも、夏の歳時記を大いに堪能できたものです。

まぁぼくの場合は、焼き鳥つついてキリン一番搾りを煽っていられたら、それだけで十分幸せですけどねぇ。

つくづく思うのは、踊りのセンスさえあれば、郡上や白鳥の徹夜踊りで夜を明かしたいと思うものの、これがからっきしで・・・。

でも浴衣姿の踊り手さんたちを眺めているだけでも、十分すぎる酒の肴にゃあ違いありませんが!

それに花火大会もコロナの影響で中止が続出し、コロナに「日本の夏を返せ!」とどやしつけたい心境です。

しかしもしかすると、コロナでの花火大会中止をこれ幸いにと、それでなくとも不景気に喘ぐ花火大会の主催者は、挙って何食わぬ顔で今後も中止にしてしまわないか・・・。実しやかに心配でなりません。

どうやら今年は着る機会もなく、袖も通さぬまま夏が終わってしまうのだろうかと、いささか寂しくなり、押し入れから浴衣を引っ張り出して、今夜はほろ酔い気分で「八幡様のお百度」を弾き語って見ました。

「八幡様のお百度」

詩・曲・唄/オカダ ミノル

八幡様のお百度は 二人結ばれるように あとどれだけ 願えばいいの

人目忍んで俯いて 川面を眺めながら 浮かぶ月明かり あなたの笑顔

 祭囃子がお城山から 過ぎて行く夏惜しむのか

 次の夏にはあなたと二人 相の下駄鳴らし踊れますか

八幡様のお百度に 二人の行方たくし 今日も一人で 祈りを込めて

郡上踊りの人の輪に いないと知りつつ あなたの背中を 探してしまう

 祭囃子に合わせて踊る あなた恋しい宮ケ瀬橋よ

 次の夏にはあなたと並び 相の下駄鳴らし踊れますか

 桐の下駄なら相目取(あいめど)りのよに この世に一つだけあなたと私

 次の夏にはどうかあなたと 手を取り合いながら結ばれますように

続いては、CD音源から「八幡様のお百度」、お聴きください!

そして長良川国際会議場でのLive音源の「八幡様のお百度」、お聴きください!

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、逸品ではありませんが「昭和の盆踊りの思い出!」。子どもの頃の盆踊りの季節がやってくると、近所のご隠居たちが俄然張り切りだし、片肌脱いだ捩じり鉢巻き姿で、盆踊りの櫓を組み立てる姿に見入っていたものです。

真昼間っからコップ酒を煽り、いつものしみったれたような感じは微塵も感じさせず、鯔背な爺ちゃんに早変わりで、ビックリしたものです。

それも立派な祭り男なんでしょうねぇ。

踊りのセンスのからっきし無いぼくではありましたが、浴衣姿の母の後ろを付いて回りながら、炭坑節なんぞを見よう見真似で踊った、というかヘンテコな調子っぱずれな踊りを踊ったものでした。

子どもの頃の盆踊りは、踊りの途中に仮装大会やら、演芸大会なんぞもあり、隣のオッチャンのヘンテコな仮装姿に腹を抱えて笑ったものでした。

今年はコロナの影響で、そんな盆踊りも中止になるのでしょうか?

今回は、そんな皆様の「昭和の盆踊りの思い出!」をお聞かせください。

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クイズ!2020.07.21「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

今回は、ノーヒント!

さあどんなお答えが飛び出しますやら!

それでは頭を柔軟にして、どしどしコメントをお寄せ願います。

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「天職一芸~あの日のPoem 159」

今日の「天職人」は、三重県東員町の「山田の凧師」。(平成十七年九月二十七日毎日新聞掲載)

山田の凧の飛行機が 北風受けて空を舞う         神を詣でる人波を 見下ろすように悠々と         ぼくらは夢を詰め込んで 力の限り田を駆けた       誰より高く舞い揚がれ 異国の町へ連れて行け

三重県東員町の『山田の凧師』、山添勇さんを訪ねた。

写真は参考

「うっかりしとってさ、まだ一時間あるもんと、勘違いしとったんやさ。まあ入って」。玄関先でズボンをずり上げながら、勇さんは照れ笑いを浮かべた。

山田の凧とは、三重県伊勢(山田)地方に江戸末期から伝わる、幅約九十㎝、長さ約百二十㎝もある勇壮な飛行機型の立体凧だ。昭和の始め頃に、隆盛を極めたものだとか。

写真は参考

しかし高度経済成長の恩恵と引換に、手作り玩具はその姿を消し、昭和の後半には凧職人すらこの世を去った。

「正月になると飛行機型した山田の凧が、裏山を背にして悠々と、いくつも空を舞っとったもんやさ。家は子沢山の貧乏やったで、買うてもらえやんだけど」。

ところが十一年前。生家の蔵の中から、甥が遊んだという骨の折れた山田の凧が出現。

勇さんはその復元を果たそうと、無手勝流の凧師の道へ。

勇さんは昭和九(1934)年、伊勢市の農家に誕生。

中学を上がると農作業を手伝いながら県立伝習農場に入学。十八歳で家畜の人工授精士免許を取得し、家畜の交配に明け暮れた。

「毎朝一杯貰える牛乳が、唯一の楽しみやったんさ。先生から『ちゃんと噛んで飲めよ。水みたいにガブガブ飲んだら勿体ない』って。半分だけそのまま飲んで、半分は味噌汁ん中へ入れたり、ご飯にかけたり」。牛乳はまだまだ高価な時代だった。

それから二年後。「乳牛の交配用に支給された種が、間違っとったんやさ。黒和牛の雄が生まれてもうて」。その事故で嫌気がさし、農協に職を求めて商業高校の夜学にも通った。しかし翌年には、幼い弟や妹を遺し父が他界。

その年、勇さんは二十一歳の若さで食料品店を開業し、同郷出身の故・敏枝さんを妻に迎え、三人の子供を授かった。

「昭和も五十(1975)年代に入ると、大型スーパーの出店で、商売上がったりやわさ」。四十六歳の年に止む無く店をたたみ、商売敵の大型スーパーへと就職し、東員町へと移り住んだ。

「十七年ほど前やろうか。浅草の参道で、歌舞伎の隈取を描いた、江戸凧を土産に買うて」。それから和凧への感心が、心の中で広がった。

「後五年もしたら定年だ」。いつしか定年後の生甲斐を、和凧作りに求め始めていた。全国各地に伝わる伝統的な和凧から、勇さんが考案した家紋が図柄の家紋凧。

「せやけど、どれも小さいですやろ。大きいと『邪魔や』言うて、二ヶ月前に亡くなった女房によう叱られましたんさ。それでしかたなしに、小さなミニチュアに」。

どれもトランプ一枚分ほどの大きさだが、飾り物としては最適だ。

そして十一年前。生家の蔵の中から「山田の凧」が。子供時分には高価すぎて、手にする事も出来なかった凧と、半世紀ぶりの運命的な出会いとなった。

檜の骨の一部が折れ、日の丸を描いた美濃和紙が色褪せていたものの、復元作業に支障は無い。

勇さんは慎重に分解し、設計図に詳細を描きこみ、傷みの修復を終えた。

「念願だった山田の凧は、揚げてみましたか?」と、問うてみた。

「揚げて破ったったら代わりがないで、本物はよう揚げやんのさ」。

凧揚げは、二人一組。一人が飛行機凧を抱え、風に向って走り、もう一人は糸を操る。

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「もう今し、空き地がのうなって、なかなか飛ばせやんさ。でも上手い事風に乗ったら、二百~三百mは揚がるんやで」。

「女房がもう一年生きとったら、金婚式やったんさ」。凧師がコトリとつぶやいた。

妻と二人の、旅が夢だったとか。

ならば一人きりの金婚式に、山田の凧を揚げてみてはどうだろう。伝えきれなかった凧師の想いを、彼岸の岸に佇む妻に、きっと届けてくれることだろう。

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「天職一芸~あの日のPoem 158」

今日の「天職人」は、岐阜市加納天神町の「枕木商人」。(平成十七年九月二十日毎日新聞掲載)

ガタンゴト~ン ガタンゴト~ン 枕木鳴らし汽車は行く  茜色付く山裾を 母の好物おはぎ手に 秋のふるさと墓参り 枕木鳴らし橋渡る 堤に揺れる彼岸花           記憶の窓を開けてみりゃ 「よう来たなあ」と母の声

岐阜市加納天神町の枕木商人、小林三之助商店の三代目小林三之助さんを訪ねた。

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「栗の木は、狂いが少なくて強い。それと栗の渋に、防虫効果があるんです」。三之助さんは、穏かな笑みを浮かべた。

三之助さんの本名は、真男(まなお)。三之助は、初代の父が他界して改名したのだ。

真男さんは、兵庫県で明治四十一(1908)年に創業された鉄道用枕木商を営む、初代の二男として大正十(1921)年に誕生。

「父は元々、木炭や薪炭の卸をやっておったんです。ところが、日露戦争従軍の折、上官から『お前は山林に詳しい。帰ったら枕木を商え。これからは鉄道の時代がやって来る』と勧められ、枕木に最適な栗の木を追い求め、各地を飛び回ったんです」。

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大正五(1916)年、兵庫に家族を残し、初代は単身で岐阜を足場に、福井から長野へと栗の木を求め歩いた。近代化を急速に進める当時の日本にとって、大動脈とも言える鉄道建設は急務であり、鉄道省の御用商人としてその発展を支え続けた。

昭和九(1934)年、兵庫に母と姉二人を残し、真男さんは岐阜へ。

鉄道省福知山線の保全主任を辞し、父の跡を継いでいた兄が迎えた。

真男さんは岐阜二中に編入し、卒業と同時に神戸工廠の徴用へ。盧溝橋事件に端を発した日中戦争は、拡大の一途をたどっていた。

昭和十五(1940)年、二代目を継いだばかりの兄が他界。真男さんは神戸工廠から父の元へ。亡き兄に代わり家業に就いた。

しかしその途端、今度は召集令状が。

十九歳で岡山工兵隊に入隊。中国本土を転戦し、ラバウルで終戦を迎えた。「まさに死の淵を彷徨い歩いとった感じだわ」。

多くの戦友たちを失い、昭和二十一(1946)年にやっとの思いで復員。「父が岐阜駅で、抱いて迎えてくれました。跡取りを帰して貰えたって」。

翌年、兄嫁が連れ子していた、二つ年下の娘を嫁に向かえ、男女四人の子を授かった。「父は他界した兄の家族の行く末と、家業の将来を考え、一番の円満策を捻り出した結果が、私たちの結婚だったんです」。

敗戦と引換に平和を手に入れた日本は、急速な復興が続いた。真男さんも先代と共に、栗の木を求め山に分け入った。

「栗の原木を切り出し、手斧(ちょうな)で削(はつ)り、山に積み置いて冬まで自然に乾燥」。

雪が降り始めると川狩りが始まる。長良川の上流から本流までは、一本流し。本流で筏に汲んで再び川を下る。 枕木一本の、長さは七尺(約二百十二㎝)、幅六寸六分(約十八.四㎝)厚さ四寸(約十二㎝)。昭和の鉄道建設の代表となった、東海道新幹線建設工事は、昭和三十四(1959)年四月二十日に、新丹那トンネルでの起工式を皮切りに、東京オリンピック開幕までの五年間で完成させようと、急ピッチで槌音を響かせた。

「東海道新幹線の枕木百三十万本の内、百万本がPCコンクリート製。残りの三十万本は栗の枕木。主に橋梁やレールの継ぎ目、それと東京の大井町―八重洲間も」。

東京五輪開幕まで、あと九日と迫った昭和三十九(1964)年十月一日。国鉄が三千八百億円の巨費を投じた、夢の超特急「ひかり一号」は、全国民の期待を乗せ午前六時、東京駅を新大阪駅へと向け発車した。

だがレールを支える枕木に、一生を捧げた初代三之助は、わずか三ヶ月前に身罷り、夢に見た新幹線の勇姿を拝むことさえ叶わなかった。

それから真男さんは、三之助に改名し、父の志を引き継ぎ、今日も鉄道事業を支え続ける。

「もう今は、栗の木の原料も少ないし、広葉樹に防腐剤を注入する方法が主流です」。

写真は参考

世界に冠たる新幹線。影で支え続けた枕木商。

昭和と共に六〇年近くを、全力で駆け抜けた。

ガターンゴトーン、ガターンゴトーン。

まるで寄せては帰す波の音のように、一定のリズムを伴い安定感のあるレール音が、脳裏を駆け抜けて行った。

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7/14の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「トンぺらカツ丼風~冷やしコロうどん!」

今回は、ほとんどの方に、見事に見透かされてしまう程、分かりやすい残り物クッキングとなりました。

まあ、これぞ残り物クッキングの極みかと、言わんがばかりの作品となりました。その名も「トンぺらカツ丼風~冷やしコロうどん!」です。

前の日の夜、無性にトンカツが食べたくなり、冷凍庫の中を探してはみたものの、買い置いてある冷凍のHoney Babeのトンカツ用厚切りロースが見当たらないじゃないですか!

★「Honey Babe」はこちらをご覧あれ!

https://hayashifarm.jp/info/1105784

でも一度口の中と胃袋が「トンカツ」を意識してしまったせいか、益々持って「トンカツ」への執着が留まりません。

厚切りロースに代わるものはと、望みを捨てずに探して見ると、Honey Babeの焼き肉用にスライスされた肩ロースが!

これだぁ!と思って、キリン一番搾りの肴に全部平らげてやろうと、薄っぺらなトンカツを揚げてみました。

ところが!

最初の5~6枚まではハイペースでグビグビガツガツいただけたものの、そこから一気にペースダウンしてギブアップ。

前の晩に残った薄っぺらなトンカツを何とか片付けてしまおうと、お手軽なカツ丼風に仕立てて見ました。

まず銅製のカツ丼鍋に出汁を入れ、醤油と味醂でちょっと濃いめに味を調え、そこに薄っぺらなトンカツを入れ、溶き卵を回し入れ、卵が半熟になる程度軽く煮ます。

冷凍の讃岐うどんをレンジでチンして、それをボールに空けて冷水で絞め皿に盛り付けます。

そしてカツ丼の具をうどんの上に乗せ、彩で三つ葉を添えて完成です。

まぁ、手っ取り早くご飯がうどんに変わっただけの、なぁ~んの捻りもない作品でした。

しかしこれはこれで、キリン一番搾りとの相性は今更言うまでもなく、バツグンでしたぁ!

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「天職一芸~あの日のPoem 157」

今日の「天職人」は、愛知県幸田町の「厩舎人(うまやのとねり)」。(平成十七年九月十三日毎日新聞掲載)

緑の大地馬を駆り 君と二人で夕陽追う          小高い丘も茜色 海から寄せる夕映えに          空にくの字の渡り鳥 馬を駆りたて追いかけた       帰り支度の往く夏に 惜しむ二人の想い乗せ

愛知県幸田町のアオイ乗馬クラブ、花井静男さんを訪ねた。

「飼葉に麦と、麬(ふすま)に塩。それと間食に青草。これが馬の餌だけど、こいつら結構美食家なんだて」。厩舎の飼葉桶がカランと鳴った。 静男さんは、柵から顔を出す馬の、長い鼻を撫でながら笑った。

「こうやって毎日厩(うまや)に入っとるで、もう餌の時間かと勘違いしとるだぁ」。

静男さんは昭和二十(1945)年、豊田市の農家で姉二人の下に長男として誕生。

地元の中学で農林高校の受験を目指した。ところが中学三年の年に、実家の農地に自動車部品製造会社の進出が決定。慌てて農林高校の志望を、工業高校へと切り替えた。

「皆がサラリーマンになってくのに、いつまでも農家やっとってもなあ」。 無事、岡崎工業高校の機械化へと進学。ところが翌年、父が交通事故でこの世を去った。

卒業と同時に実家の土地に進出した自動車部品製造会社に入社。疲弊した戦後の傷跡も徐々に癒え、東京五輪、東海道新幹線の開通と、高度経済成長時代が幕を開けた。

昭和四十三(1968)年、洋裁学校に通う姉の紹介で、同県一色町からはな江さんを妻に迎え、男女三人の子を授かった。

それから二年後。遠縁が現在地に、乗馬クラブを開業。

「当時は冒険心が旺盛で、会社勤めじゃなしに、何か人と違うことをやりたかっただ」。 静男さんは会社を退社し、乗馬クラブに出資。馬の世話から乗馬クラブの運営を、一から学んだ。

「最初は触るのも怖かったって。馬の習性を知らんだで、ハエを追おうとした後足で、蹴っとばされたこともあっただあ」。 ようやく馬の世話にも、慣れ始めた頃のことだった。遠縁の経営者が、乗馬クラブを担保に、高利の借金をしていたことが判明。返済の代わりにクラブを差し出すか、それとも?

余儀なく選択が迫られた。

「こいつらどうなってしまうんだろう?」。静男さんの心労など窺い知る由もない馬たちは、真っ黒な澱みの無い眼差しを向けた。

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若干二十七歳の静男さんは、借金返済のために自らが借金を組み直し、マイナスからの再出発を決めた。

それから早、三十三年。現在は、サラブレッドとアングロ・アラブ種の十一頭を擁する。

「七~八歳(人間では二十五~二十六歳)で競走馬を引退し、家へやって来て第ニの人生が始まるだあ」。二十年近くの余生を、静男さん夫婦と共に過ごす。

「家みたいな所に来る馬は、幸せもんだあ」。競走馬時代に、故障した馬の末路は短いとか。

厩での静男さんの一日は、毎朝六時半の餌やりに始まり、夜八時半の餌やりで終わる。餌は、飼葉・麦・麬に塩。途中で間食として、新鮮な青葉が与えられる。

「あんたら見たことあるか?馬が糞を舐める姿」。馬が自ら、不足する塩分を補うためだとか。

「前にお客さんが、栄養付けたろうって、ニンニクのみじん切りを混ぜたったらしい。でも食べ終わったら、ニンニクだけ全部残してあったんだわ。小石やビニールとか、針金なんて絶対口にせん。自分の食べていい物と、食べちゃいかん物をよう知っとるだで」。

ここで二十年近くを過ごした馬たちは、人間になおせば八十~九十歳とか。

だが体重は、四百五十~五百Kgという巨漢だ。

「年老いて腰が弱くなると、馬はもう終い。でも家族の一員だで、息引き取るまで看取ってやりたいけど、自分で起きれんとクレーンで持ち上げるしかないだで。第ニの人生を見切るのが、一番難しいわ。情が移るでなあ」。

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静男さん夫婦が世話した馬は、二百頭にも及ぶ。

「最近よう思うんだけど、馬が明日からおらんようになったら、一日何して過ごそうって」。

現代の厩舎人(うまやのとねり)は、居並ぶ十一頭の大きな子供たちを、慈しむように眺め回した。

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「天職一芸~あの日のPoem 156」

今日の「天職人」は、三重県桑名市の「組木細工師」。(平成十七年九月六日毎日新聞掲載)

齢(よわい)重ねる父の背は 日毎縮んで丸くなる     虚ろに翳(かす)む眼差しで 幸せな日々懐かしむ     子供返りよ留(とど)まれと 組木細工を差し出せば    日がな一日縁側で 謎に挑んで無我夢中

三重県桑名市の組木細工師、片岡由治さんを訪ねた。

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「これ、あんたらのやろ。去年新聞に本が出たって載っとったで、直ぐに取り寄せてもうたんさ」。老人の手には、見覚えのある一冊の本、「百人の天職一芸(風媒社刊)」が握り締められていた。

「まさかこれ書いたあんたらが、訪(たん)ねて来るとは、思いもよらんだわ」。由治さんは組木を弄びながら笑った。

由治さんは同県多度町で昭和四(1929)年、農家の末子として誕生。年々軍事色が深まる中、終戦の年に旧制中学を卒業。その後は学徒動員で徴用された鋳物工場で、そのまま迫撃砲弾の製造に終われ終戦。

「他になんも仕事もあらへんし、家でポヤッとしとったんさ」。

近所の棟梁について、翌月から小僧見習を開始。昭和十九(1944)年十二月七日に発生した東南海地震と、翌一月十三日の三河大地震、それに度重なる大空襲で、東海地方は壊滅的な被害を被った。

「あの当時、大工は皆(みな)忙しいてなあ。多度のあたりは液状化で地盤も悪て、寺の釣鐘堂が皆ひしゃげてもうとったんやで」。由治さんは六年間、家大工(やだいく)としての技を身に付け、二十二歳の年に自ら棟梁となって実家を建築。

これが独立仕事となった。「多度は親方の地盤やで、同じとこで開業して荒びるわけにいかん」。師へのけじめを優先し、同県長島町で大工になっていた同級生の元に職を求めた。

二年後に父が、翌年には母が後を追う様に、由治さんの建てた新居で息を引き取った。

「飯炊きがいるぞいうて、兄嫁の妹と一緒んなったんやさ」。昭和二十八(1953)年、多度町出身の妻を得、桑名市の現在地に新居を構え、一男一女を設けた。

結婚から六年、伊勢湾台風が東海地方に猛威を振るい、今度は水害の大きな爪痕を残した。

「それから桑名に戻って、田舎の本家造りに精出して、これまで過ごして来たんやさ」。

徐々に人々の心の中から、戦争や災害の記憶が薄れ、繁栄を謳歌する時代へ。

激動の昭和もその役割を終え、後数年で幕を閉じようとしていた頃だった。「二十年程前やったかなあ。歯医者の待合で組木のパズルと出逢(でお)たんさ」。それが組木細工の虜になるきっかけだったとか。

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「嫁に行った娘が、孫のためにって、毎月通販で木製のパズルを買(こ)うとったんやさ。それ見とると『なんやこんなん直ぐに出来るわ』って、腕がうずうずしてきよって」。以来、百種類以上の組木細工を、設計図も説明書も無いまま、過去の経験と職人としての勘だけを頼りに作り上げた。

「これは実用品の組木細工やろな。飛騨の匠の手による、高山の千鳥格子やさ」。縦五本横五本の欅(けやき)の角材が、竹篭のように互い違いに編みこまれている錯覚に陥る。まるで欅の角材が、一瞬だけ柔らかくなったようだ。しかし残念ながら、そんな魔法など何処にも無い。

「こうして少しずつ、縦横の木が組み合っとる切り欠けを、ずらすように動かしたるんさ。ほれっ」。 規則正しい格子が僅かに歪み、手品のように縦目の格子から横棒がスルッと抜け出た。縦横を編むように組み合わせる角材には、切り欠けの幅と深さだけにしか違いが見当たらぬ。それ以外、小細工一つない。

天晴れ飛騨の匠、先達の技。

そして何の手解きも無いまま、千鳥格子の写真から、隠れた技を紐(ひも)解く由治さん。ただただお見事としか、言いようがない。

「風呂出てから、寝る前の落ち着いた時に、フッと答えが浮かぶんやさ。その瞬間が一番愉しいんやで」。まるで子供のように、得意げに笑った。

組木に秘められた謎解きと、細工に仕込む謎のからくり。

老いてなお童心と戯れる、細工師魂かな。

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「天職一芸~あの日のPoem 155」

今日の「天職人」は、岐阜市金町の「西洋洗濯女」。(平成十七年八月三十日毎日新聞掲載)

帰省列車に一張羅(いっちょうら) 初めて向かう母の郷  精一杯のおめかしも 郷への土産母の見栄         呑めや唄えの盂蘭盆会 従兄弟と共に悪ふざけ       遊び疲れて気が付けば シャツに大きなスイカ染み

岐阜市金町(こがねまち)で明治四十三(1910)年に創業された、杉山クリーニング店の三代目女主人、杉山由紀さんを訪ねた。

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「ポケットの中には、人それぞれのドラマが詰め込まれとるんやて」。由紀さんは、暖簾のように吊り下がる洗濯物を掻き分け、大きな丸い眼を子供のように輝かせた。

「西洋洗濯&プレッシング」と書かれた創業当時の看板。「クリーニングと言う言葉さえ、まだまだ一般的ではなかった。

創業者の祖父自身であったか、或いは親類のいずれかが、外洋船の寄港地として賑う函館で、クリーニングの技術を取得し、開業に至ったものだとか。

「家の西側が、昔の金津の遊郭やったんやて。祖母が大八車引いては、お女郎さんの着物から長襦袢まで集めて回っとったらしい」。

由紀さんは、三人娘の長女として昭和二十五(1950)年に誕生。短大卒業後、一年間だけ家業を手伝い、東京でテキスタイルの専門学校へ入学。

「二年目に父が肝硬変で倒れて、医者から後五年の命だって宣告されたんやて」。

長女に生まれた定めは、学業への志と淡い夢を打ち砕いた。

帰郷後は、母と三人姉妹が家業の窮地に立ち向い一致団結。父は一命を取り留めたものの、養生と闘病の日々が続いた。

「私の生まれる前からいた番頭さんが、よう間に合う人やって助かったんやて」。

由紀さんが二十七歳を迎えた元旦。医者から宣告された余命を一年残し、父は脳梗塞で倒れ還らぬ人に。いよいよ持って、跡取りの自覚と、二人の妹を持つ姉としての重圧が、由紀さんの肩に圧し掛かった。

「気晴らしに出かけるスナックに、バスケのチームがあって、そのメンバーになったんやて」。仕事を終えると、仲間たちと夢中でボールを追いかけた。その中の一人の男が、いつしか由紀さんの送り迎えをするように。「アッシー君やて」。由紀さんは笑った。

三年近くの交際を経て、男は杉山家に婿入り。「一番下の妹を、先に嫁がせんとって、そればっかり気にして」。己の幸せよりも、末の妹の幸せを優先し、由紀さんは三十二歳になって、白無垢に袖を通した。やがて二人の男子に恵まれ、クリーニングの裏方を夫に委ね、由紀さんは今日も近隣の得意先へと集荷に駆け回る。

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「『ワイシャツ一枚のクリーニング代は、コーヒー一杯分や』って言うのが、父の口癖。家は、今もそれを守り通しとるで、他所の倍近い料金なんやて」。

それでも羽島市や下呂町の遠方からでも、わざわざ「良い物だけは」と客が訪れる。

クリーニングで気を使う作業は、取れそうな釦とポケットの確認。

「家のお客さんは、貝釦が多いんやて」。欠けていれば、買い置きの釦と無料で付け替える。

ある時持ち込まれた、高級ブランドの女性用スーツ。恐らく初めから、釦は取れていたという。

「直ぐにデパートへ飛んで行って、ブランド物のボタンを取り寄せたんやて。お得意さんやで、また無くすといかんし、もう一つ余分に取り寄せてね」。

それともう一つは、ポケットの中身の確認と掃除。時には、糸屑や埃に混じって思わぬものも現れる。ラブレターや給料明細だ。背広の内ポケットからは、イヤリングまで。

「普通ポケットの中のものは、封筒に入れてお返しするんやけど、さすがにラブレターはねぇ。奥さんに見つかったらコトやて」。全てを杓子定規に捉えて、持ち主に返すばかりがサービスではないとか。「お客さんの身になって判断せんと」。

店番をしている、妹の隆子さんに向かって、優しく笑った。

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秘密の隠れ家、内ポケット。

そっと仕舞いこんでおきたい、喜びや哀しみの欠片(かけら)。

誰にだってきっと、一つや二つはあるものだ。

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