「天職一芸~あの日のPoem 167」

今日の「天職人」は、岐阜県本巣市の「菊花石(きっかせき)研磨師」。(平成十七年十一月二十九日毎日新聞掲載)

川面に浮かぶ浮眺め ついに入日も釣瓶落ち        父の溜め息空の魚篭(びく) 母の小言が目に浮かぶ    茜陽浴びて光る石 せめて母への手土産と         家に帰って大騒ぎ 天下の輝石菊花石

岐阜県本巣市神海(こうみ)、天然記念物菊花石の研磨師、根尾谷観石園の二代目、小沢睦(ちから)さんを訪ねた。

写真は参考

たかが石ころ。されど、ためつすがめつ石を眺め、数億年と言う途方も無い時代に想いを馳せ、何とも愉しそうに語らう親子三代と出逢ったのは初めてのことだ。

石の持論を説く傍らで、妻が要所を補う。すかさず店の奥から、長男が新説を交えた。

「まあ諸説いろいろなんやて」。睦さんが煙に巻く。

「そんな何億年も前の事、誰も見たわけやないし」。妻が助け舟。

睦さんは昭和二十(1945)年九月、満州で印刷会社を営んだ根尾村出身の父の元、五人兄弟の三男として誕生。しかし夢の国満州は、第二次世界大戦の幕引きで幻と消えた。

昭和二十二(1947)年、一家は命からがら実家へと引揚げ、それから十五年の年月が流れた。

「空前の石ブームやったんやて」。

炭焼きに出掛けた祖父母の、斧を研ぐ砥石が石に当り、割れて中から色の付いた部分が現れた。

それを砥石で磨き、台座に載せた五色石は飛ぶような売れ行きに。

「川沿いに十軒ほどが軒を並べ、五色石を売っとったんやで」と妻。

「ぼくが高校の頃は、原石その物で売れたんやで」とは長男。

睦さんは、大学を出ると印刷会社に職を得た。「田舎の事やで、大学出とると、皆がホーホー言うんやて」。将来の幹部と期待されながら、半年で退職。

「サラリーマンが向いとらんかったんやて。土日で親父の手伝いしとった方が、面白いし金になるし」。 睦さんは退職金代わりに、職場から一年先輩の恵美子さんを口説き落とした。

「当時の流行語『家付きカー付き、ババア無し』の、『ババア無し』が私は嫌やったでね。ここは両親も同居やったし。初めて家に来た時、義父が『笑う門には福来ると言う様に、一生笑っとる自信があったら嫁に来い』って」。妻は思い出し笑い。二人の男子と娘を授かった。

「ブームで終わると先細りになるで、高級品で手に入りにくい菊花石に眼を付けたんやて。採掘の許可を得て」。掘り出された菊花石の母岩を仕入れ、永年培った眼で見据え、花の在り処を人工ダイヤのグラインダーで探りながら磨き込む。

「この石に花が付きそうや」と、勘だけが頼り。

菊花石は方解石の結晶とも言われる。母岩は玄武岩が多いとか。花の色は薄墨色から、磨き込むほど白さを増す。

「でも磨き過ぎると、花が萎む。石の硬さも全部違うし、花の咲き加減の見切りが肝心。どれも溶岩の悪戯やでね」。

写真は参考

この土地は、神の海と書いて、神海。数億年の昔、海底火山が隆起したとも。

地球が大地に咲かせた石の花。

研磨師の眼力は、己の勘だけを頼りに、数億年彼方で自然が織り成した美を、現(うつつ)の世に深い眠りから目覚めさせる。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 166」

今日の「天職人」は、愛知県西尾市の「雲母鈴(きららすず)職人」。(平成十七年十一月二十二日毎日新聞掲載)

父に引かれて初詣 晴れ着でめかしイソイソと       お参り後の楽しみは 御神籤破魔矢雲母鈴         父に引かれて帰り道 カランコロンと鈴が鳴る       荒れた大きな父の手の 温もり今も忘られぬ

愛知県西尾市で雲母鈴を作り続ける、松田民芸店八ッ面焼(やつおもてやき)窯元の二代目松田克己さんを訪ねた。

窓際のトランジスタラジオから、歪んだ声が上がる。

長閑な秋の陽が差し込み、背を丸めた寡黙な男は、掌の土を捏ね続けた。

「まあ今は、昔の五分の一。一日十個ほどだわ」。克己さんは、窓を背に振り向いた。

克己さんは昭和十五(1940)年、農家の三男として誕生。

十歳の年、折からの民芸品ブームに乗り、父が途絶えていた「雲母鈴」の復活を図った。

克己さんは中学を上がると東京へ。

「貧乏だもんで、口減らしで東京へほかられて。丁稚奉公の最後の時代だったで」。酒屋での住込み生活が始まった。

昭和三十五(1960)年、所得倍増計画が叫ばれ、東京五輪を間近に控えた都心には、昼夜を問わず槌音が響き渡る。

「都内のどこを歩いとっても、鉄板だらけ。独立して店を持とうにも、土地が高騰してどうにもならんだぁ」。

二十一歳の終わりに酒屋を辞し、しばらく土地を探し歩き、やっとのことで小さな物件を見つけた。

「家に帰って相談したら『そんな金あるわけない!』の一言で終(しま)いだわ」。

儚く夢は潰(つい)え、父の雲母鈴作りを手伝いながら免許を取得し、タクシー会社に入社。

「当時タクシーの給料は二~三万。非番に作る鈴が、月に四~五万儲かって。どっちが本業だかわからんかっただぁ」。

文字通り、所得倍増が叶えられた。

二年後には、職場で見初めた禮子さんを妻に迎え、三人の娘が誕生。

「手近にアレしかおらなんだで」。隣の部屋から妻が咳払い。

昭和四十(1965)年にはタクシーを降り、雲母鈴作りに専念。観光ブームに沸き、周辺各地の施設で土産物として好調な売れ行きが続いた。

「そんでもオイルショック以降さっぱりだて。知らんどったら何時の間にか、給料はサラリーマンの方が、上へ行っとっただぁ」。

八ッ面山の雲母は良質で、続日本紀によれば朝廷にも献上された逸品とか。

「今では白雲母(はくうんぼ)と呼ばれ貴重だけど、子供の頃は大きな塊の『千枚めくり』がゴロゴロあっただて」。

克己さんは大きな缶の中から、千枚めくりの塊を取り出した。

雲母鈴には、安城市で産出される瓦粘土の赤土が用いられる。

まず粘土を掌にすっぽり収まる大きさに丸め、親指で押し込んで茶碗型から壺型に形成。

次に鈴型に口をすぼめ、小さな丸い球を入れ、表面に細かく砕いた雲母を飾り、一昼夜窯で焼き上げれば直径八㎝ほどの雲母鈴が完成。

「日本一涼しい音がするらぁ」。

窯の温度が高く、鈴の肉が厚いほど、音色は高く美しさも際立つ。

カランコロン。

土鈴特有の鈍い音ではない。金属を感じさせる切れ味の良い余韻を残し、鈴の音が響く。

窓からの陽射しを浴び、鈴はキラキラと、高貴な光の衣(ころも)をまとった。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「夏花火」

花火大会も盆踊りも無い夏は、正直初めてです。

幸いにも平和な世に生まれ、平和な世が当たり前だとついつい思い、改めて今更平和な世に感謝することも無いまま、この年までのらりくらりとやってこれた気がします。

少なくともぼくの両親は、バリバリの戦中派でしたから、その人生の前半は人が人を殺め合うという、戦争の渦中で過ごしたわけです。

だからきっと、ぼくなんかの何万倍も、平和な世の尊さを身をもって感じられたことでしょう。

ところがどうでしょう!

人が人を殺め合う戦争ではないものの、見たことも無く、肉眼でその姿を捉えることも出来ぬ、小さな小さな新型コロナウイルスが、突如として全人類に牙を向けてこようとは!

目に見えぬ敵に、どう立ち向かえばいいのか!

それと同時に、環境破壊がもたらす異常気象に伴う自然災害の猛威に、なすすべもなくうろたえるばかりです!

そんな一気にどっと押し寄せた社会不安に対し、人々の心は益々疑心暗鬼になるばかりで、人が人を思いやる心も薄れゆく一方なのではないでしょうか?

メディアが報じる新型コロナに対する若者たちの言動を耳にすると、「どうにでもなれ!」とでも言わんばかりな自暴自棄的な発言に、ただただ愕然とするばかりです。

これが21世紀を夢見た「明日」なのでしょうか?

少なくとも昭和半ばの貧しき時代に生まれたぼくなんぞは、もっと違う「明日」を見ていた気がします。

物質的な豊かさよりも、恙無く一日元気で生きていられる、そんな安寧こそが、最も大切でかけがえのない物だったのではないでしょうか?

コロナで失ってしまった、あの穏やかだった日々の営みが、堪らなく愛おしく思えるばかりです。

こうなったら一日も早く、コロナを制圧するというよりも、未知なるウイルスとの共存の道を探り出し、少しでも昔のようないつもの穏やかな日々が再び訪れてくれることを願うばかりです。

やっぱりこんな夏は、浴衣姿で夜空を焦がす花火を見上げながら、よく冷やしたキリン一番搾りをのんびりと煽りたいものです。

今年は線香花火なんぞを買って、迎え火と送り火の日にでも、ベランダでこじんまりと花火大会でもしようかなって思っています。

今夜は「夏花火」聴いてください!

「夏花火」

詩・曲・唄/オカダ ミノル

盥に浮かぶ打ち上げ花火 スイカ冷やした夏の宵

髪を束ねた浴衣姿の 君のうなじがいとしくて

 夏よ二人の時間(とき)を止めて 今のまま君を閉じ込めたい

 輝き放ち一瞬(ひととき)で散る 花のように短い夏花火

縁に腰掛け団扇で君が 燻らす煙の蚊遣り豚

そんな仕草の一つ一つに ぼくの心は震え出すよ

 夏よこのまま時間を止めて 今のこの君を忘れたくない

 輝いただけ儚くも散る 人の世の定めと夏花火

 夏よこのまま時間を止めて 記憶に君を焼き付けたい

 輝き放ち一瞬で散る 花のように短い夏花火

続いては、長良川国際会議場大ホールでのLive音源から「夏花火」お聴きいただきましょう。前半はちょっとジャズっぽいアレンジです。

そしてCD収録分のオリジナル「夏花火」、どうぞお聴き比べください。

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、逸品ではありませんが「色褪せた昭和の花火の思い出!」。ぼくが子どもの頃は、一文菓子屋のトシくん家で、バラ売りの花火をお母ちゃんからせしめた50円か100円分、あれにしようかこれにしようか、それこそ1時間もかけて品定めしたものでした。

ぼくが好きだったのは、火を付ける時がメッチャ怖かったねずみ花火でしたねぇ。確かお父ちゃんに火を付けてもらってましたねぇ。

でもそれから2~3年もするとちょっと知恵がつき、花火を一緒にやる近所の友達と花火の買い出しに行き、互いの花火が被らないように、より多くの種類を手に入れようとしたものです。

今のような花火セットなんて、小学生の頃なんて無かったきがしますねぇ。

皆さんはどんな種類の花火がお好きでしたか?

今回は、そんな皆様の「色褪せた昭和の花火の思い出!」をお聞かせください。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

クイズ!2020.07.28「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

今回は、残り物を使って、こんなフィンガーフーズにチャレンジしてみましたぁ!

でも実は、この作品、ちょっと前に作ったもので、2種類はなんだったか覚えているのですが、ちょっと色の黒いのが何だったのか、さっぱり思い出せないんです!

そこで観察眼の鋭い皆様からのお答えを参考に、思い出せるだろうかと、1種類の中身が思い出せないまま、ちょっと無責任な残り物クッキングクイズを出題させていただきました。

どうか皆様、寛容なお心でご覧いただければ幸いです!

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 165」

今日の「天職人」は、三重県桑名市の「町角の面打師(めんうちし)」。(平成十七年十一月十五日毎日新聞掲載)

秋風孕(はら)む篝火が 肌を突き刺す夜気払う      能管(のうかん)の音に舞う翁(おきな) 在りし日父の影揺れる                          苦楽浮かべる翁面(おきなめん) 月の明りに影法師    憤怒(ふんぬ)露(あらわ)の般若面 情も仇(あだ)なす人の世か

三重県桑名市の「益生新楽堂」、町角の面打師の鈴木亨さんを訪ねた。

写真は参考

どこからどう見ても、紛れも無く年季の入った薬局である。能の面を打つ職人を「新楽堂」に尋ねたはずだ。しかし店先には、時代と共に色褪せた、製薬会社のマスコット人形と、「新薬堂」の看板。「楽」と「薬」を間違えたかと思っていると、「いらっしゃい」の声。老眼鏡をずらし、上目遣いに穏かな老人が迎えた。

「ある時、地図に新楽堂と間違われて書かれてもうてな。まぁ、それもええ名やと思って、能面の仕事の屋号にしたんやさ」。

亨さんの旧姓は田中。桑名市出身で国鉄技師であった父の下、長野県で五人兄弟の三男として誕生。父の転勤で各地を巡った。

しかし小学六年となった昭和二十一(1946)年、戦中から北ボルネオ島で鉄道開発に従事していた父が急死。

間も無く、亨さんの実家の一部であった現在地に、「新薬堂」の鈴木夫婦が幼い娘を連れて店を移転して来た。

亨さんは、中学高校と演劇に入れ込んだ。「高二の頃からは、演出や裏方に興味が湧いて」。

進路が問われる高校三年の年、鈴木薬局の長女、当時十三歳のとし子さんとの養子縁組が交わされた。

亨さんは急遽志望校を変更し、東京の薬科大へと進学。しかし三年後、鈴木家の事業の不振で中退し、ブラシやハケの製造販売会社に勤務した。

昭和三十四(1959)年、高校を卒業したばかりの、妻とし子さんが上京。

晴れて新婚生活が始まった。「だから結婚記念日がないんやさ」。三人の男の子を授かり、昭和四十一(1966)年から名古屋に引越し、医療事務の仕事に従事した。

「子どものカブスカウト活動の手伝いで、木彫を始めるようになって」。ロープタイやブローチといった小物から、やがては仏像へと、木彫の魅力に取り憑かれていった。

そして昭和六十二(1987)年、能面作りを趣味とする人物と出逢い、教室通いへ。

写真は参考

能の面打は、半世紀近く寝かせた檜を、鑿(のみ)で粗彫りすることから始まる。

次に彫刻刀に持ち替え、中彫りから仕上げ彫りへ。そして紙やすりで磨き、檜の含む樹脂を抜き取る為、メタノールに一週間ほど浸け込む。

次にそれを取り出し熱湯に潜らせ、表面に浮き出た樹脂を洗い落とし、二週間ほど陰干しし、再び紙やすりをかける。

そして七百年前の能面の風合いを出すために、カマンガン酸カリの水溶液を塗って下地を焼き上げる。いわゆるエイジングの手法だ。

写真は参考

「最初は真っ紫になって、十秒程で今度は真っ茶色に変わる」。

下塗りでは、貝殻を粉砕した、胡粉(ごふん)と呼ばれる白い粉を、膠(にかわ)液に溶いて三~四回塗り、乾いたところを紙やすりで磨く。

この下塗りを二~三回繰り返し、中塗り上塗りと粒子の細かな胡粉に変えながら、全工程二十回ほどの塗りを重ねる。

仕上げは松煙(しょうえん)で眉と髪を毛描きし、小面(こおもて)の表情を決める紅を差す。

「いつも同時に最低三個ずつ、同じように彫るんやけど、三つともちょっとずつ違ごてくるんやさ」。

斑(むら)を出し、わざと汚して古さを醸し出す。

「唇の両端の上げ下げ一つで、年齢も大きく変わる」。

写真は参考

手掛ける小面は、五つ。いずれも未完成だ。

「究極の能面やでなあ。彫らんでも、毎日話し掛けたるんさ」。

能の面打に分業は無い。一から十まで、一人の面打師の手業一つの物種。

町角の老面打師は、両切りピースに火を灯した。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 164」

今日の「天職人」は、岐阜県北方町の「茗荷(みょうが)ぼち職人」。(平成十七年十一月八日毎日新聞掲載)

シュワシュワシュワと湯気上り 蒸し器の蓋もガタゴトと  待ち遠しくて童らも 茗荷葉(みょうがば)広げお手伝い  初夏の我が家の名物は 盥(たらい)に浸けた麦の茶と   深い緑にくるまれた 仄かな薫り茗荷ぼち

岐阜県北方町で「みょうがぼち」を作り続ける恵比須屋。三代目の生菓子職人、河村正彦さんを訪ねた。

「『お前とこには、売るほどあるやろが』って、夏の初めになると大婆さんの家から、みょうがぼち持って来てくれるんやて」。正彦さんが、大きく笑った。

「昔は田植えも終わり野休みになると、空豆の餡を包み茗荷葉で巻いて、各々の家々でよう作ったもんやて」。

正彦さんは真正町の農家で、昭和十(1935)年に林家の二男として誕生。中学を出ると、岐阜市の生菓子屋で、七年半の修業を積んだ。

「在所の父が、ここへようお菓子を買いに来とったんやて」。そんな縁から、跡取り娘との縁組へ。

昭和三十四(1959)年、河村家へ婿入りし恵美子さんと結ばれ、三人の子どもを授かった。

「昔の菓子屋は、夏場が暇で暇で、さっぱり売れんのやて。義父は『夏はゆっくり休めばいい』って言うもんの、遊んどってええんやろかと。何かせんとと思っとったんやて」。

時代は高度成長期へと。減反政策で専業農家が減少し、若者は職を求め大都会を目指した。兼業農家が増加し、農閑期を過す郷土の風習もいつしか廃(すた)れ往く。

「最初は『みょうがぼち』なんてありきたりの菓子が、売れるんやろかと半信半疑だったんやて。ところが店に並べて見たら、飛ぶ様な売り行きで。もう農家でも作らんようになってしまっとったんやて」。

最盛期には、一日二千個が売れた。毎年茗荷の葉が出る、五月の二十日頃になると、垂井町や大垣市、果ては東北からも注文の電話が鳴り止まぬ。

「みょうがぼち」の「ぼち」とは、餅ではなく小麦粉を使った蒸し菓子を指し、「餅」とは呼べず「ぼち」と呼んだ方言とか。

作り方は、小麦粉と米粉に砂糖を練り合わせ、空豆の餡を詰め込み蒸し上げる。別に二分ほどサッと蒸した茗荷の葉に包めば出来上がり。

「毎年四人がかりで、空豆の皮をむかんならんで大変やて。でも手間隙惜しんだらかん。中には機械で空豆の皮を削ったのもあるけど、やっぱり味が違うんやて。手塩にかけた餡の美味さは」。

冷蔵庫で冷やしても、餅と違って硬くはならない。

茹だるような夏の昼下がり。団扇片手にみょうがぼちを頬張る。汗をかいたコップの麦茶を一息に飲み干せば、透き通るような茗荷葉の香りが、仄かに涼を呼び来たる。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

7/21の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「メカジキのソテーとファルファッレのトマトクリームソース with 夏野菜オリーブオイルソテー」

これまたスーパーの特売で買い置いていた、冷凍メカジキを使って、白ワインにピッタリなパスタディナーを作って見ました。

ちょうど郡上から、もぎたてのミニトマトと茄子、それとちょっと面長なピーマンをどっさりお送りいただいていたので、それをせっせと使って見ました。

皆々様のお答えは実に見事な観察眼で、概ね正解の方が続出でしたものねぇ!

この「メカジキのソテーとファルファッレのトマトクリームソース with 夏野菜オリーブオイルソテー」は、既に皆様もお分かりの通り、超簡単な時短クッキングでした。

まず解凍したメカジキをジップロックの中に入れて、白ワインとハーブミックスをパラパラッと振り掛けて、冷蔵庫の中で寝かせておきます。

そして一時間ほどメカジキを寝かせたら、ジップロックから取り出し、キッチンペーパーでワインを拭き取り、フライパンにオリーブオイルをたっぷりひき、ニンニクの微塵切りで香りを立ててから、メカジキを投入し塩コショウと白ワインを振り掛け、多少焦げ目が付くまでソテーし、皿に盛り付けます。

またファルファッレを程よく茹で上げ、よく湯切りしてオリーブオイルと和えて皿に盛り付けます。

次に小鍋にカットトマト缶を投入し、鶏ガラスープと白ワイン、そしてブラックペッパーと、NZ産のマーマイトと生クリームで味を調え、ファルファッレの上から流しかけます。

去年のNZロケで買った、野菜のエキスで出来た、酵素の塊のマーマイトがありましたので、ぼくはコクを出そうと使って見ましたが、マーマイトが無くたって全然大丈夫です!

さらにミニトマト、面長なピーマン、茄子をオリーブオイルでソテーし、塩コショウしたものを彩で皿に盛り付け、最後にクラッシュしたミックスナッツを振り掛ければ完了です。

洗い物もたったの一枚で、何とも手間いらずなディナーとなり、白ワインがグビグビと進んでしまいました。

夏野菜も一度にドッと採れるので、一工夫しながら味わいたいものですね!

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 163」

今日の「天職人」は、愛知県岡崎市の「琴調弦師」。(平成十七年十一月一日毎日新聞掲載)

木々も色付くお社に 大輪の華野点傘           琴の調べも艶(あで)やかに 酒盃に揺れる紅葉(くれないば)                          重を開ければたけなわの 秋を寿ぐ幸尽(さちづ)くし   木洩れ日の中膝枕 眠りを誘う十三(とみ)の弦

愛知県岡崎市の吉田屋琴三味線店、店主の中木邦雄さんを訪ねた。

写真は参考

「『とにかくバス通りに店を出さなかん』って、寝ても覚めてもそればっか」。邦雄さんは、立てかけられた琴の前に座し、昔話を懐かしむように目を細めた。

邦雄さんは昭和十一(1936)年、名古屋で三人兄弟の長男として誕生。

父の転勤に伴い、小学一年の年に岡山県へ。そして終戦。

昭和二十四(1949)年、父は鶏舎を建て配合飼料の製造に着手。しかし僅か半年足らずで統制は解除。忽ち売れ行きが悪化した。

二年後、邦雄さんの中学卒業を待ち、親類を頼り一家で静岡県浜松市へ。

両親は小さな食堂を開業し、邦雄さんは叔父が営む三味線店に、見習い小僧として奉公に上がった。

「それが難しすぎて、三ヶ月で逃げ出して」。

今度は車の修理工場へ。「ここもやっぱり三ヶ月しか勤まらんかった」。

家に戻って食堂を手伝っていると、再び三味線屋の叔父から「もう一度、戻って来い」と情けがかけられた。

「何処へ行っても使い物にならんで、我慢せんとかん」と、邦雄さんは自分を戒め、和楽器の道へ。叔父である親方に付き、三味線の革張りや修理、琴の糸締めから調弦を学んだ。

写真は参考

それから九年半が過ぎた昭和三十五(1960)年も暮れ。「それまで六千円の給料やって、『一万円に上げてくれんと喰うてけん』って直談判したら『気に入らな出て行け』と」。

捨てる神あらば、拾う神り。

親方の弟であるもう一人の叔父から、「道具も揃えたるで、独立してみろ」と促され、昭和三十六(1961)年にJR岡崎駅前に間借りして独立開業。

翌年には浜松市から妻を得、三人の子供に恵まれた。

しかし「何としても売れんだぁ。何度辞めようと思ったか」。

近隣の温泉街や花柳界を訪ね、必死に売り歩いた。そんな邦雄さんに時代は、高度経済成長という追い風を与えた。

家庭のラジオやテレビからは、連日民謡の歌声や三味の音が響く。

写真は参考

邦雄さんの努力が報われ、昭和四十六(1971)年には、バス通りに移転し悲願を達成した。

邦雄さんは遠い昔の出来事を、正確な年月日で澱みなくスラスラと答える。何故かと問うて見た。

「何処の地で生きるのもみんな苦しかった。苦しんだ分だけ、想い出となって鮮明に記憶されとるだぁ」。

苦労を誉れに挿げ替えて、激動の昭和を生き抜いた老調弦師。

まるで裏連奏法の「サ~ア~ラリン」と、穏やかな風のように。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 162」

今日の「天職人」は、三重県四日市市の「ロバのパン屋」。(平成十七年十月二十五日毎日新聞掲載)

横丁曲がりやって来る ロバのパン屋のおっちゃんが    母に縋って駄々捏(こ)ねて 十円握り駆け出した     ロバパンの歌口ずさみ どれにしよかと品定め       ジャムにチョコパン結局は 母の好物餡子(あんこ)入り

三重県四日市市で、今尚ロバのパン屋を営む松田俊彦さんを訪ねた。

写真は参考

♪ロバのおじさんチンカラリン♪チンカラリンロンやって来る♪

「昔は売れて売れてかなんだもんやて。一日に千五百個も売れよったんやで」。言葉の端に、三重と岐阜の訛りが混じる。 俊彦さんは、軽のワゴンの運転席から顔を出し、人懐こそうな笑顔を向けた。

写真は参考

俊彦さんは昭和十九(1944)年、岐阜県で産声を上げた。

地元の中学を出ると名古屋の段ボール工場に就職。四年後、姉夫婦と共に四日市に移り住み、一念奮起でロバのパン屋を開業した。

「あの頃は各市に一つで、チェーンの本部から営業する場所を決められるんやて。それでわしらは四日市へ流れ着いたんやさ」。

ロバのパン屋でパート勤めをする姉から、製造技術を学んだ。「一年ほどあかなんだわ。作ってはパーにして、また作っての繰り返しやて」。

どうにかロバパンの特徴である、パックリと頭の表面が割れ、中身が見えそうな技術を取得。

翌昭和三十九(1964)年、日本中が五輪ムードに沸き返る中、軽のワゴンにロバパンを満載し各地を流し歩いた。

「へそくり奮発して軽自動車買うて。さあ、これから稼ぐぞ!って。でもそれが売れやんで、往生したもんやて」。

写真は参考

記録によればロバパンの最盛期は、昭和三十五(1960)年頃から四年ほどがピークだったとか。俊彦さんの参入は、ほとんど峠を過ぎた頃であった。

しかし、今更後戻りは出来ぬ。「パン売りのロバさん」の音楽と共に、各地を巡った。その甲斐あって、やがて一個十円のパンが、飛ぶような売れ行きに。

「子供らが学校帰りに飛んで来るようんなってさ。中には『家まで乗っけてって』と。『アホ言え。オッチャン、スクールバスとちゃうで!』って。中には買ってもらえやんと、泣いて泣いて地団駄踏んどんのもおったほどやて」。

写真は参考

昭和四十八(1973)年、兄の世話で同郷から房枝さんを妻に迎え、二人の子供を育て上げた。

今でも毎朝三時にはパンを焼き始め、明け方には積み込みを終える。

しかし六年前、脳梗塞に倒れた。だが「ロバパンのオッチャン」を待つ、子供らに支えられ復帰した。

「好きで始めた商売やでな」。

運転席で麻痺の残る左足を擦り、オッチャンは照れ臭げに笑った。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「久方ぶりの高山だぁ!あれれ?ええっ???」

よんどころない事情で、新型コロナ騒動のさなかではありましたが、久方ぶりに高山にほんの1時間ほど立ち寄ることとなりました。

しかーし!

御覧ください!これが7月21日火曜日のお昼前の11時過ぎの乗鞍口です!

人っ子一人いないじゃないですか!

昨年の今頃なら、観光客やインバウンドの外国人の旅行客で大変な騒ぎだったのに!

高山の中心部もバスの車中から眺めましたが、本当に閑散とした状態でした。

益々持って、コロナを恨めしく思ったほどです。

ワイドビューもガラッガラで、高速バスもガラッガラ!

今しばらくこんな状態と向き合わねばならないのでしょうね。

それはそうと、こんな可愛らしい、高山っぽいバスを見かけました。

闘鶏楽が描かれた街中巡りのバスのようです。

コロナが鎮静化したら、こんなバスで高山をグルリと巡って見たいものです。

それと高速バス乗り場に、桜山八幡宮の疫病退散の護符の貼り紙が!

どうか桜山の八幡様、疫病コロナから皆様をお守りあれ!

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。