「天職一芸~あの日のPoem 174」

今日の「天職人」は、三重県木曽崎町の「山車宮大工」。(平成十八年一月二十四日毎日新聞掲載)

田植えの前の春祭り 山車蔵開き飾り付け         幾百年の昔から 村を見守る破風(はふ)の反り      修繕終えた宮大工 山車の甍(いらか)を仰ぎ見た     咥え煙草で腕を組み したり顔して満足気

三重県木曽岬町の山車を手掛ける宮大工、竹内建設二代目の竹内源一さんを訪ねた。

「こんなん設計図も組立図もありませんさ。みんなここん中に仕舞(しも)たるで」。 源一さんは、毬栗頭を指先で小突いた。

源一さんは昭和六(1931)年、宮大工の父の元で四人兄弟の長男として誕生。やがて尋常高等小学校へと進んだ。

軍事色が日毎深まる昭和十八(1943)年、父は海軍軍属として徴兵され、幼い妹達を遺し南方方面へと出征。

しかし終戦を目の前にしながら、昭和二十(1945)年一月四十一歳の若さで南方沖に散った。

終戦の翌年十五歳になった源一さんは、父方の本家でやはり宮大工であった叔父の元で修業に就いた。

「普通の大工で五年、宮大工やとさらに三年は修業せんと」。

先輩職人の使い走りから、道具を研いだり鋸の目立てや手入れに明け暮れた。

一角(ひとかど)の修業を積み、二十二歳の若さで棟梁へ。

「最初っからは、そんな大仕事なんてあらせんわさ。みんな空襲で家焼かれてもうて、まずは住む所(とこ)が先やったでな」。

誰もが食うが先の時代を経て、次に住みかを確保し、衣を求めた。

「せやでみんなが落ち着いてからやさ。神社仏閣の再建は」。

昭和三十(1955)年、四日市出身の敏子さんを仕事先で見初めて求婚。

「四日市で立派な御殿の解体しとったんさ。そこへ日曜毎に花嫁修業兼ねて手伝(てった)いに来とったもんで」。しばらく後、長女が誕生。

だが昭和三十四(1959)年九月、未曾有の被害をもたらした伊勢湾台風が直撃。

「娘引っ担いで、そりゃあもう必死で逃げましたんさ。家はどうにか建ってましたが、畳から箪笥までみな流されてもうて」。

翌年には長男も誕生し、水害復興の特需に追われた。

その後は、驚異的な成長を続けた時代の波に乗り、百棟以上もの神社仏閣を手掛け、宮大工の本領を発揮。

「十年ほど前からやろか。山車の修理が持ち込まれるようになったんわ」。

写真は参考

氏神様のお社の修復を終え、やっと奉納する祭礼へと豊かさが巡った。

「先ずは土台から順に全部一旦ばらして、折れたり割れたりして、朽ちとる部材を取り替えるんさ」。

桑名地方の石取祭に見られる三輪の土台から、登り高蘭(こうらん)、台座、台輪、柱、唐破風、欄間へと。

塗師(ぬし)、彫金師、箔押(はくおし)、木彫師など、十種類以上の熟練職人が、宮大工の采配に技を揮う。

「まあざっと五十種類は、細工の仕事(しぐち)があるでな」。

約半年の修繕作業を経て、頭の中の組立図を基に細工組が完了する。

山車に平成の世の職人技が注ぎ込まれ、新たな息吹を宿す。

写真は参考

「屋根裏の見えやん所に、建立時の年月と、棟梁の名が墨書されとるんだわ。天保何年とかって」。

屋根裏にひっそり認(したた)められる修復の足跡。

棟梁源一の銘が次に明かされるのは、何時の世だろう。

「まともな指は、もうありませんわ」。昭和の宮大工は、両手を広げた。

皺に紛れた無数の傷跡が、棟上(むねあげ)の数を刻む。

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「天職一芸~あの日のPoem 173」

今日の「天職人」は、岐阜市大宝町の「有平糖(あるへいとう)引き飴職人」。(平成十八年一月十七日毎日新聞掲載)

風邪引きさんのお見舞いと 隣の席のマアくんが      ランドセルから取り出した 丸めた答案藁半紙       中を開けば有平糖 キラキラ光り夢のよう         一つ手に取るその度に 赤いインクのバツ印

岐阜市大宝町の柴田飴本舗、二代目引き飴職人の柴田忠夫さんを訪ねた。

「この透明感を出すのんが、引き飴職人の腕の見せ所なんやて。もたもたしとると、直ぐに糖化して久作(きゅうすけ/半端物の意)ばっかになってまうで」。

柴田飴本舗は昭和六(1931)年に、初代が修業した名古屋市昭和区で創業。

その二年後、忠夫さんは産声を上げた。

真珠湾攻撃以降、戦局が悪化。食料統制で物資も不足し、一家は故郷の岐阜市へと引揚げた。

「戦後も各務原の飛行場を横切って、闇で芋飴の材料を仕入れに行くんやて。砂糖なんて手に入らんで、サツマイモの黒色した絞り汁を」。

忠夫さんは新制中学を出た昭和二十三(1948)年、名古屋市昭和区の飴屋へ住込み修業に。

わずか一年足らずの修業もそこそこに、家へ戻って父と飴を引いた。「当時、穂積の柳行李(やなぎごうり)作りが盛んやったもんで、柳の小枝を貰ってきては、そいつを串にして『串飴』を作ったんやて。砂糖も不足して十分な水飴も出来せんで、きな粉混ぜたような飴を。でも柄には、色取り取りの美濃和紙を飾りに巻いて。よう売れたわ。食べるもんもない時代やったでなあ。飴作って問屋へ持ってくと、小売屋が待ち構えとって、直ぐに担いでくんやで」。

昭和三十三(1958)年、秋田県出身の千代さんを妻に迎え、四人の子を生した。

「長男は生後直ぐに亡くなって、残った三人兄弟のぼくは三男です」。三代目を継ぐ幸芳さんが、両親の傍らに腰掛けた。

幸芳さんは、名古屋の専門学校を卒業し、デザイン会社に勤務。

二男の病死を機に、十年前家業へと身を転じた。

「依頼を請負ってデザインすると、自分の意思とは裏腹に、どんなに自信がある作品でも、ボツになることもあるでしょ。丁度そんなことに矛盾を感じてたんです。だったら飴屋で、自分が作る商品を自分でデザインして、世に出してやろうって。妻も同じデザイナーでしたから、二人でそう話し合って」。

妻との二人三脚で産み出したその代表作が、「信長有平糖」。語源は、ポルトガル語のalfeloa=アルフェロア(砂糖菓子の意)。

ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが、織田信長に献上したのが始まりとか。

「飴屋が作る有平糖と、信長が食べたであろう有平糖とは、砂糖の比率が違うんです」。 普通の飴は、砂糖と水飴が一対一。ところが有平糖は、砂糖七~八割に水飴が三~二割。砂糖と水飴を水で溶かし、百五十℃の高温で二十分ほど煮詰める。

それを冷却板に流し、香料で味付けして天然色素で色付け。

伝来当時そのままの素朴な風合いの純糖、そして空気を含ませるように何度も引き飴したハッカ、それにこくのある黒糖の三種類。

直径一㎝、長さ二㎝ほどの円柱状に切り落せば、南蛮渡来の有平糖が、四百年の深い眠りから今目覚める。

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「Marionette」

マリオネットって、なぜかもの悲しげだとは思われませんか?

それは紐で手枷足枷を強いられ、ただ人間の思いのままに、操られているからだけでしょうか?

マリオネツトは、童話や寓話の世界とは異なり、意思も感情も言葉すら持ち合わせていません。

だからマリオネツトを操る人間の意志だけで、マリオネットはぎこちない動きで、人間の姿態を演ずるしかないのです。

でもマリオネットの動きを見ている観客の目には、人になり切れないぎこちないマリオネットの動きが、時にはどこか可笑しく映ったり、はたまた物憂げに映るものなのではないでしょうか?

しかしよくよく考えて見れば、マリオネットは紐で操られますが、マリオネットとは違い自分の意思も感情も、そして自らの言葉を発することだって出来るぼくらだって、目に見えぬ何者かに操られている事があるように思える時があります。

それは複雑に絡み合う人間関係だったり、会社や社会の上下関係であったり、もちろん両親であったりもするでしょうし、或いは恋人や夫婦の相方だったり、子どもたちだったりと。

ともかくこの世においては、「袖すり合うも多生の縁」とやらで、神や仏や身の回りの人間関係に操られ、苦悶しながらこの世の修業を積まねばならぬという、厄介なマリオネットが自分自身でもあるように思える時があります。

皆様はそんなお気持ちを抱かれたことはありませんか?

しかしともかく、邪な心の持ち主に操られるのだけは、ご遠慮願いたいものです。

今夜は、「Marionette」を弾き語りでお聴きください。

「Marionette」

詩・曲・歌/オカダ ミノル

この胸のときめきも すべてあなたの仕業

もどかしくもあなたの周りで 踊るわたしはマリオネット

着飾り紅の色も すべてあなたの好み

思い通り操られるまま そうよわたしはマリオネット

 サテンドレスに銀の指輪 あなたしだい光を纏うの

 踊れマリオネット今夜の舞踏会 きっとあなたは釘付け

口説き上手なあなた 悪い人ねとウィンク

振り向きざま唇奪われ わたしはあなたのマリオネット

うぶな女じゃないわ 誘いに乗るような

でも身体は操られるまま 妖しく燃えるマリオネット

 サテンドレスに銀の指輪 見つめられて光を纏うの

 踊れマリオネット今夜の舞踏会 きっとあなたを釘付けにするわ

 踊れマリオネット燃え尽きそうな夜 きっとあなたを釘付けにするの

 踊れマリオネット夜が明けるまで きっとあなたは釘付け

★東京にお住いのゆっぴーさんが、明日8月5日にお誕生日を迎えられるそうで、いつものようにささやかな「Happy Birthday」の歌と、ぼくの「君が生まれた夜は」でお祝いをさせていただきます。

ゆっぴーさん、お誕生日おめでとうございます!

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「蚊に喰われながらの屋外映画大会の思い出!」。ぼくが子どもの頃、近所の公園に大きなスクリーンが樽木で張られ、屋外映画大会なるものが、子ども会の主催で行われていました。どんな映画の作品が上映されたか、すっかり忘れてしまいましたが、蚊遣り豚の蚊取り線香を足元でくゆらせながら、子ども同士で映画なんてそっちのけで、ふざけ合ってばかりいた記憶があります。

あっちもこっちも蚊に刺されながら!

でも公然と夜に友達と一緒に遊べるのが楽しくって仕方なかったものです。

それとクラスのマドンナが風呂上がりの浴衣姿で現れると、みんな呆然と見とれたものでした。夜風に乗って石鹸の匂いがしたのを覚えています。

今回は、そんな「蚊に喰われながらの屋外映画大会の思い出!」をぜひお聞かせください。

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クイズ!2020.08.04「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

今回もこりゃあもう、ノーヒントでお答えいただきましょうか?

きっと麺の種類で、皆様悩まれてしまうかも?

小麦粉ではなく、アレですよ、アレ!

随分前にロケで出掛けた、あの国で自分用の土産に買った乾麺が、使いきれずにそのまま残っていたものを、食品ロス追放とばかりに、えいやーっと挑んで見ました。

さて、観察力の高い皆様のお答えや如何に!

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「天職一芸~あの日のPoem 172」

今日の「天職人」は、名古屋市西区の「大判焼親爺」。(平成十八年一月十日毎日新聞掲載)

母に貰ったお年玉 後生大事に腹巻へ           初売りに沸くアーケード 何を買おうか品定め       所詮子供のお年玉 どれも高嶺の花ばかり         手の出る物は焼き立ての 大判焼を家族分

名古屋市西区、大判焼の富久屋(ふくや)。店主の家田擴資(ひろし)さんを訪ねた。

「大判焼みたい、餡も皮も何処も一緒だて!違うのは、わしの腕一つ!」。家田さんは、鉄板に手を翳しながら笑った。

写真は参考

家田さんは、愛知県一宮市で撚糸を営む兼業農家の二男として、大正八(1919)年に誕生。

尋常高等小学校を上がると、名古屋へ出て洋服の製造に就いた。そして四年後、大阪の繊維卸問屋へ。「商売を覚えようと思ってな。営業したり裁断したり」。

元々あまり身体が丈夫な方ではなく、徴兵検査ではギリギリの丙種合格。

「これで兵隊行かんでもええぞって、喜んどった」。 しかし糠喜びも束の間。

昭和十九(1944)年に召集令状が届いた。

「俺んたぁが戦争行かされるんだで、負けるに決っとるわさ」。陸軍歩兵部隊に配属され、そのまま中国中支(現、華中)の激戦地へ。

「こりゃかんって弾の下潜って、逃げて歩いとったって」。

予言は見事的中し、やがて敗戦。

昭和二十一(1946)年に復員すると、再び大阪の繊維会社に勤務した。

それから四年後、三十一歳を迎えた家田さんは、西区那古野の円頓寺商店街に、小さな紳士服小売店「富久屋」を開業。

だがその五年後には、婦人服へと転じた。

「男なんかいっぺん売ったら、まあ買えへんでかんわさ」。

やがて戦後の復興期を経て、朝鮮特需へ。庶民の暮らし振りにも明るさが兆し始めた。

ようやく商売も軌道に乗り出し、昭和三十三(1958)に、知人の世話で貴代さんと結婚。

順風満帆と見えた新婚間もない夫婦の航路を、伊勢湾台風が遮った。「水に浸かった物なんて売れせんで、近所の人等に持ってってもらったり、被害の多かった南の方の方に分けたった」。 損害金額は百万円に上り、全てが借金として残された。

「まあこれからは、在庫持ったらかん。食うもんにしよっ」。家田さんは見よう見真似で、大判焼屋に転業。

「どやって作るかもわからんし、近所の十人が十人とも『こやってせえ』って口出すもんでかんわ」。 商店街の仲間達が、夫婦を支えた。

写真は参考

翌年、長男が産声を上げ、続けざまに二人の男子も誕生。

貴代さんと二人で子供を背負い、大判焼にみたらし団子、それとたこ焼きを夢中で焼き続けた。

「昭和三十六~三十七(1961~62)年頃は、店開けようとやって来ると、ズラ~ッとお客が並んどるんだて。何かあったんかとビックリするほどだったて」。

しかし昭和三十九(1964)の東京五輪を境に、大判焼に群がった長蛇の列も、徐々に消え始めた。

「あの頃は各地から『大判焼の作り方、教えてくれ』って乞われたもんだけど」。

真丸な窪みが幾つも並ぶ鉄板は、水溶き粉を注ぎ込むと『チュッ』と小さな鳴き声を上げた。

やがてプクプクと気泡が現れ餡を抱(いだ)く。

「ひゃあ、孫を連れてくる客もおるでなあ。またそれがよう似とるんだて」。

写真は参考

創業当時の大判焼は、一個五円。

庶民の小腹を満たし早四十六年。

今も親爺は鉄板を前に、大判焼を値千金の旨さに焼き上げる。

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7/28の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

~フィンガースナック3種盛り!~『ペンネと蕎麦のアラビアータ』『海老とサーモンとアボカドのバルサミコマリネ』『結局思い出せない何か(トホホ)』

ペンネのアラビアータとざる蕎麦の残り物が冷蔵庫に鎮座しておりましたので、ペンネの残り物にアラビアータソースを追加し、ざる蕎麦の残り物を一緒に炒め、レンジで温めたタルトの生地に乗せたものが、トマト色のものです。

そしてちょっと黒ずんだ緑色の物は、ボイルして冷水で冷やした海老と、サーモンの賽の目切り、それにアボカドをバルサミコで和えたマリネです。しかしやっぱりバルサミコで和えると、残念な色合いになってしまったのが残念です。

同じように温めたタルト生地に乗せて見ました。

そして黒っぽくって納豆の糸のようにも見えるものは、・・・・・どれだけ必死になっても思い出せませんでした。でも間違いなく、納豆ではありません。一体全体なんだったんでしょうか?

ついに日々刻々と着実に老化が始まっているのでしょうねぇ。

タルトの生地はスーパーで見つけた出来合いの物で、何か工夫してみたいと買い置いてあったものです。

しかし!甘っちょろいタルトの生地なんかで、料理に合うのかとお思いになられるかもしれませんが、これまたどうして、なかなかドッコイなお味でしたよ!

普段料理に甘みをほとんど加えませんので、意外な隠し味と風味が楽しめ、けっこう白ワインとの相性もよかったですねぇ。

今回は、正解のないクイズとなってしまい、誠に申し訳ありませんでした。

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「天職一芸~あの日のPoem 171」

今日の「天職人」は、三重県勢和村の「茶屋女将」。(平成十七年十二月二十七日毎日新聞掲載)

息急(いきせき)白む峠越え ぐずる妹なだめつつ     隣の町にお遣いへ 僅かな駄賃引替えに          峠の茶屋で一休み 泣いた烏も甘酒と           餅を片手にもう笑ろた 街道一のおきん茶屋

三重県勢和村の東外れで天保三(1832)年から続く、峠の頂にあるおきん茶屋に、四代目の永井幸夫さんを訪ねた。

バス停も「おきん茶屋」
昔の佇まい

「家は代々女子(おなご)主人やでな」と、幸夫さんは白衣姿で笑った。

江戸の末期、初代おきん婆さんは、街道を行き交う旅人を相手に、手製の蓬餅でもてなした。

誰が名付けたか、いつしか「おきん餅」と呼ばれ、街道一の名物として今に受け継がれる。

幸夫さんは昭和四(1929)年、七人兄弟の長男として誕生。

尋常高等小学校を出た翌年、終戦を迎えた。「物資もあらせんし、百姓したり、さつまいも茹(う)でて売ったり」。

伝統のおきん餅も、戦中戦後の統制が解けるまでは、代用品を利用し細々と製造が続けられた。

昭和三十二(1957)年、従姉妹のたけさんを嫁に得た。

「父同士が兄弟やってさ、嫌々貰(もう)てな」。 幸夫さんが照れ笑い。

「今はそう言うてますがな、それは私の方でしたんさ。『電気も来とらんような所(とこ)、行きとない』言(ゆ)うて。あんな当時、十km四方に家もたったの四軒。そりゃあ寂しい所(とこ)やったんさ」。四代目女将のたけさんは、暮れ行く峠の街道を見つめた。

その後、三女一男が誕生。「電気も点かん暗がりやったで。他にやることあらへんしなぁ」。幸雄さんがまたしても照れ笑い。

昭和三十八(1926)年に念願の電気が通電し、翌年には国道四十二号線が開通。

「馬車や自転車、牛の姿が消え、土埃を上げてトラックがやって来るようんなって。駐車場がトラックの物置みたいやったんさ」。

その頃から本格的におきん餅が復刻し、昭和四十〇(1965)年代に入ると、土産物として評判を博した。

「那智勝浦へ向かう観光バスが、数珠繋ぎになるほどで、どんどん売れそめて。バスまで運んでっては、売りよったんさ」。多い日は、一日千箱が飛ぶように売れた。

江戸末期の最初のおきん餅は、『しらいと』と呼ばれた。

米粉を練って蓬を入れ、餡をつけてまぶしたもの。

それが三代目のちよ婆さんの代で『さわ餅』と呼ぶ四角いものへ。

そして現在では、大福餅の形に。

「昔から家のおきん餅は、ちょっと他所より高(たこ)てな。他所が十円なら、家は三十円ってな調子で」。それでも取材中、引っ切り無しに客が訪れる。

「今ではブラジルやアメリカへ送ったり。海外の家族に送られる方もおいでんなって」。 五代目を継ぐ良浩さんが、言葉を添えた。

良浩さんは、大阪の料亭で六年の修業を積み、幸夫さんの大病を機に家業を継いだ。

こちらが現在の佇まい

跡取りも決って円満ですねと水を向けると「それがなぁ、まだ一つ足りませんのやさ。私の跡目、五代目おきん婆さんとなる、嫁の来てがないもんやで」。

四代目おきん婆さんこと、たけ婆さんは、自慢の息子を案じながらも、『何とかなるやろ』とでも言わんばかりに、屈託無く笑った。

釣瓶落しの夕闇が迫る。

峠の茶屋から暖かな明りと、飾らぬ親子の笑い声がこぼれ来たる。

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「天職一芸~あの日のPoem 170」

今日の「天職人」は、岐阜県本巣市の「真桑瓜(まくわうり)農婦」。(平成十七年十二月二十日毎日新聞掲載)

広間彩る盆提灯 回る影絵の走馬灯            母の好物真桑瓜 供えて燈す松明(たいまつ)を      御下り子らは待ち切れず 早く早くと急かしたて      妻は包丁持ち来たる 年に一度の真桑瓜

岐阜県本巣市上真桑で代々真桑瓜を作り続ける農家。二十代当主の小川与司彦さんと、妻の満佐子さんを訪ねた。

写真は参考

「ちょっと大袈裟ですが、江戸時代に街道を行き来した旅人たちの間で『真桑瓜の放つ涼やかな甘い香りが、中仙道の美江寺宿まで届いた』と言われたらしい」。与司彦さんが、郷土をこよなく愛する学者のように、穏かな口調で語り出した。「でも作り手は、代々女系やで」。茶を入れる傍らの妻を見つめた。

満佐子さんは昭和二十一(1946)年、隣の大野町で加納家の長女として誕生。

高校を上がると岐阜市の会社に就職し、事務員を務めた。

三年後、二十一歳の若さで小川家に嫁入り。「この座敷の、丁度そこに座って三々九度して。巫女の代わりが義姉の幼子で、主人の従兄弟が高砂の謡(うたい)をやってくれたんやて」。

豪農旧家の祝言は、昼夜の二回戦。昼は親類、夜はご近所衆が集まり、飲めや歌えのお目出度三昧。やがて二男一女を授かり、四世代同居の暮らしが始まった。

真桑瓜の栽培は、毎年五月末から六月初旬の種蒔きから。双葉から本葉へと五~六枚の芽が出たところで芯を摘み取り、親蔓から実を成らせる孫蔓へと枝分け。畳八畳程の畑に三株が目安。七月下旬頃になると黄色い花を付け、それから二週間程で長さ十五㌢、太さ十二㌢程に生長。

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黄色に黄緑色の縦縞模様、俵型した真桑瓜は、まるで頃合を知ってか知らずか、蔓から首がポンッと落ち、大地に実を横たえる。

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「落ち瓜系やで。それを拾って収穫するだけ」。何とも手間要らずな潔さ。

切り溜箱と呼ばれる木箱五段に納められ、ひと夏約百個を収穫する。

「二~三日置いて箱の蓋を開けると、何とも甘い香りが部屋中に立ち込めるんやて」。

嫁いで以来、この道三十八年の満佐子さんは、香りを思い出すかのように眼を閉じた。

「お婆ちゃんがよう言うとったんやて。『大きな花柄で、お尻もしっかりした俵型がいい種を残す』って。皮を剥いた時、果肉が黄緑色しとるのが、美味しい瓜の種を取る秘訣なんやて」。

小川家の女たちは、先祖が長い年月をかけ改良に改良を重ねた、真桑瓜原種の種子を守り続ける。

「真桑の土地の気候と風土が、この瓜作りに適しとったんやて」。

夫は郷土史を広げた。「真桑瓜の名で文献に初めて登場するのは、織田信長の時代の頃」。

以来、真桑瓜は、真夏に涼を呼ぶ水物の王として、時の権力者たちの元へと献上され続けた。

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「昔は、他に甘い果物が少なかったんやて。今は糖度の高い果物が多く出回とるもんやで、真桑瓜も甘く感じられんようになったんやろな」。妻が広げた今年の種を見詰め、夫はそうつぶやいた。

「でもこの自然の甘さが本物。昔ながらの真桑瓜の甘さなんやで」。妻は愛(いとお)しむように種を掌に載せた。

米粒よりもわずかに小さな種。真桑の女たちは、天然の甘さを宿す種を、子々孫々へと守り伝えて行くことだろう。

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「天職一芸~あの日のPoem 169」

今日の「天職人」は、名古屋市中区の「革長靴(かわちょうか)職人」。(平成十七年十二月十三日毎日新聞掲載)

枯葉舞い散る林抜け 愛馬を駆って丘を越え        長靴の先で右左 胴に伝えて風を切る           風に追い着き追い越され 鬣靡(たてがみなび)く夕映えに 星降るまでに帰ろうか 長靴の踵胴に入れ

名古屋市中区の堤乗馬靴店、三代目の革長靴職人、堤昭夫さんを訪ねた。

「何でもっと若い頃、馬に乗らなんだろう」。 昭夫さんがボソッと呟いた。

祖父が明治四十(1907)年に創業。「昔は陸軍将校の長靴と、乗馬専門だわ」。

昭夫さんは昭和二(1927)年に、この家の三男として誕生。

旧制中学を卒業すると、父の下で修業を始めた。 「もうあの頃は、長靴も少なかったでねぇ」。

日毎敗戦色が深まり、乗馬を愉しむような悠長な時代ではなくなっていた。

「それでも終戦後は、駐留軍の連中が、ライディング・ブーツを求めてやって来たでね」。

とは言え、敗戦国の民にとっては、誰もが食うだけで精一杯。乗馬に勤(いそし)しむ事など、よほどの者にしか許されぬ。「苦難の時代は、昭和の三十(1955)年頃まで続いたねぇ」。

戦後の復興期から高度成長期へ、僅かながら明るさが兆し始めた。

昭和三十五(1960)年、長野県から親類の紹介で、妻の佐知子さんを妻に迎え、三人の息子を授かった。「じゃあ、跡取りの心配は無用ですね」と問えば、「やるだか、やらんだかわからん」と。昭夫さんは、少し寂し気に顔を曇らせた。

堤家伝来の長靴は、左右の足のサイズを採寸し、一つ一つ仕上げるオーダーメイド。

まず注文主が広げた紙の上に裸足を乗せ、外周を鉛筆でなぞる。次に甲高、甲幅、足道、踵と踵の曲がり首の高さ。さらに立った状態で、脹脛(ふくらはぎ)の周囲と踵からの高さ、それに膝骨の下の周囲を、左右それぞれに採寸。

「みんな右左で違う。甲の高さがピッタリ合わんと、踵が浮いて馬に乗り難いんだわ」。

次に新聞紙で型紙を作り、実寸より細めに革を裁断し、筒の部分と甲革を縫製。

「木型を二本入れて、真ん中に楔(くさび)を打ち込んで、筒の部分の革を伸ばすんだわね」。

水で湿らせた革は、天日で乾燥。仕上げは、中底と甲革とウェルト(足の外周を巻く細い革)を縫い上げ、さらにウェルトと靴底を縫い合わす。このスタイルは、グッドイヤーウェルド式。

松脂(まつやに)を十分に吸った太い丈夫な糸を使い、強力な専用ミシンで機械縫いする手法だ。

丸二日が費やされ、百年の歴史に裏打ちされた革長靴は、黒く鈍い光を放つ。

写真は参考

「鐙(あぶみ)を踏む、親指の付け根で馬にサインを送るんだでね。足のサイズにピッタリしとると、馬への伝達も良くて乗り易い。ここ二~三年かなあ。やっと納得いく靴が仕上げられるようになったのは」。

革長靴職人は、全国でも六~七人。

「お~いっ」。昭夫さんが奥に声を掛けた。

奥からエプロン姿の老職人が現れ、靴墨をブラシで伸ばし始めた。「錦さんって言う、同い年の職人さん。もう一緒に底作りやって五十五年だわ」。昭夫さんが悪戯っぽく笑った。錦さんは、我関せずを決め込む。

竹馬の友は、半世紀以上に渡り、いつしか本物の馬の革長靴を作り続ける、職人仲間となった。

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「天職一芸~あの日のPoem 168」

今日の「天職人」は、三重県津市の「茄子団扇(なすびうちわ)職人」。(平成十七年十二月六日毎日新聞掲載)

湯浴みの後の酔い覚まし 盥の西瓜プカプカリ       蚊取り線香燻(くゆ)らせて 茄子団扇で戯(たわむ)れる 濡れた黒髪束ね結い 浴衣姿で横座り           君が団扇を煽(あお)るたび 仄かにシャボン薫り立つ

三重県津市の賀来商店。二代目の茄子団扇職人、賀来智子さんを訪ねた。

「この前も主人と二人で、扇面(せんめん)に貼る伊勢和紙を探しに行ったり、柄の先に取り付ける伊賀の組紐を見に出かけたり」。智子さんは、いきなり惚気(のろけ)出した。

智子さんは昭和三十六(1961)年に名古屋で誕生。

短大を出ると、デザイン関係の仕事に就いた。

二十七歳を迎えた年、津市出身の母の知り合いから、見合い話が持ち込まれた。そのお相手が、夫の隆さん。

見合いを終えた帰り際、仲介人が智子さんに言った。「今度貰いにいくから。それと式は○月○日ね。もう私、この日しか空いてないから」。有無を言わさぬ強引さに両家は押し切られ、平成二(1990)年に賀来家へと嫁入り。

賀来商店は明治二十四(1891)年の創業。空襲で工場が焼けるまでは、マッチ箱の経木製造を専門とした。

その後は時代の変遷に業態を転じ、広告宣伝用品の卸へと。

「父が六十歳を過ぎた頃やったろか。商工会で、津の土産物は、菓子の他に何かないやろかとなってさ。江戸時代から続いとったのに、昭和四十(1965)年頃に途絶えた茄子団扇を、復元しようってことんなって。団扇メーカーに頼んでも、手間やで相手にしてくれやん。そんならしゃあないって、自分が作ることに」。 隆さんは、壁に掛けられた父の遺作を見やった。

とは言え全くの素人。茄子団扇を剥(は)いでは分解し、構造を調べる日々が続いた。

「材料探して何度も京都に出かけて。今思たらそれも父の愉しみやったんやろかなあ」。

見よう見まねで始めた団扇作りも、足掛け十年を数えた。その二年前には智子さんが嫁ぎ、長女も誕生。家業を隆さんに託し、やっとこれで団扇作りに没頭出きると思った半年後、癌を発病。

五年間で六回に及ぶ手術を繰り返し、生死の狭間を彷徨い続けた。

「亡くなる三ヶ月前に、義父が団扇作りの手解きを始めて」。完全に引き継げないまま、先代は平成九(1997)年に他界。茄子団扇もこれで終わったと、誰もが感じた。

「たまに電話があったんです。『茄子団扇ありますか?』って。『ええ…まあ・・・』と。慌てて義父の遺した作り掛けを仕上げたほど。二年程は騙し騙しでした」。

茄子団扇の特徴は、扇面に柄を挿し込む形状のため、炭を熾(おこ)す激しい煽ぎ方には不向き。

優雅に上品に、ゆっくりと煽がねばならない。

作業はまず、杉の柄に鎌穴を開け焼き目を入れる。鎌と呼ぶ太目の竹籤(ひご)の両端を削り、蒸気を当て半円状に。続いて扇面を模(かたど)る極細の竹骨を均等に広げ、付け根を要紙(かなめし)で補強。

次に四十五~四十七本の竹骨を、木綿糸で編み込みながら糸掛け。そして扇面に伊勢和紙を貼って漆を塗り、周りに飛び出した骨を截(た)ち、周囲に縁紙を貼って完了。

気も遠退く細かな作業の全てを、智子さんただ独りでこなす。

「精々、年に三十~四十本かなあ」。智子さんが夫を見つめた。

「休みに夫婦で紙探しに行ったり。結構愉しいもんやさ」。

十七世紀初頭に溯る茄子団扇の歴史。

消えかけた伝統の灯は、秋茄子を食わすなとまで惜しまれた、か細い嫁の手と、それを支える夫の優しさで守り抜かれていた。

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