「天職一芸~あの日のPoem 214」

今日の「天職人」は、名古屋市中村区椿町の「庭石屋」。(平成十八年十二月十二日毎日新聞掲載)

紅葉浮かべた蹲(つくばい)に カンと一打ち獅子脅し  木洩れ日さえも眩しげな 小さな庭を染める苔      父の自慢は侘びと寂び ネコの額の庭弄(いじ)り    赤味を帯びた庭石に 遥か故郷の山を見る

名古屋駅西口の目と鼻の先。

高層ビルに埋もれるように、ここが地表だと言わんばかりに、古びた庭石や雨に打たれて風合いの出た、石灯篭が立ち並ぶ庭石屋。

名古屋市中村区椿町、昭和始めに創業した石義庭石店、三代目店主の金岩幸三さんを訪ねた。

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「まあ、時代遅れと言うだか。お爺さんとらあが造った庭を壊してまって、駐車場にしてまうんだで。庭を造って風情を愉しむなんてもう無いわなあ。そりゃあ庭木は育てば姿形も変わってくけどが、石じゃあ備え付けたらそのまんまで変化もなあんもあれせんでかん。だいたい売る本人がそんなもんだで、買いに来る人なんてあらせんわ。まあ休業しとるようなもんだて。せいぜい年に一人か二人だわさ」。 幸三さんは一気に捲(まく)し立てた。

幸三さんは昭和五(1930)年に、四人兄弟の三男として誕生。

だがその三年後に父が他界し、やがて戦争の激化で止む無く休業へ。

終戦を翌年に控えた昭和十九(1944)年、勤労学徒として名古屋造船の工場で作業中、クレーンのレールで誤って右手の五指を切断。

「そんなもん戦時中だで、まともな治療なんて出来いへんて」。利き腕の手首から先を失った。

その後は日増しに空襲が激化。

「だけど石屋の商品は丈夫いって。焼夷弾受けて石は割れても、燃えへんでなぁ」。一面を焦土と化した駅裏にあって、石置き場は被害を免れた。

だが終戦と同時に闇市が建ち並び、石置き場の石の上で店開きするものも現われる始末。

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「だいてゃあこんなでっかい石、そうそう動かせんで誰あれも持ってけえせんけどなぁ」。

父の元で修業を続けていた母の弟が、やがて二代目を継ぎ義父となった。

幸三さんは石置き場の片隅に店を構え、玩具屋を創業。

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「そんなもんどえらけない人だかりだもん。明道町で仕入れた玩具を、店先に置いときゃあ売れてってまったんだで」。

その後、昭和三十(1955)年に、旧清洲町出身の郁子さんを妻に迎え、一男二女を授かった。

時代は東京五輪を契機に高度経済成長期へとまっしぐら。

昭和四十二(1967)年、義父が他界。

「それからだわさ。わしが見よう見真似で、玩具屋の片手間に石屋を継いだんわ」。

四国、揖斐、天竜、高野山と、天下に名だたる名石。

「だいてゃあ原価はただみたいなもんだで、値段なんて滅相。みいんな人件費や運搬費だけだって。そんでも餌代いらんだけが取り柄だわさ」。

形と色、何十万年という気の遠くなる年月を費やし、大自然の彫刻家が刻み込んだ石相。

それぞれに表情が異なり、どれ一つとして同じ形など何処にも無い。

「まあ庭を見て愉しむ人も、庭自体も減ってまったで。庭に気のある人じゃないと、庭石の良さなんてわっかあへんって」。

幸三さんは五年前に玩具屋を廃業。

今は気楽な隠居の身。

庭石を見初める人の訪れを、今日も気長に待ち続ける。

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「どなたですか?『あっ、お猿さんのオ●ンチンだ!』なぁ~んて仰るのは!!!」

ついに待ちに待った小さな小鉢で育った南蛮の実が、大きく育って真っ赤に色付いてまいりました!

いよいよ収穫祭も間近のようです!

とても可愛らしいもので、このままにしておいてあげたいほどです。

まだまだこれから次々に色付いてゆくかと思うと、これまた楽しみでなりません!

また、途中経過をご報告いたしますね。

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「天職一芸~あの日のPoem 213」

今日の「天職人」は、名古屋市中村区椿町の「帽子屋」。(平成十八年十一月二十八日毎日新聞掲載)

洋画のシーン切り取った 駅前ビルの大看板      ダークスーツのマフィアたち ボルサリーノで伊達姿   子供ながらに憧れて 父の洋服ダンスから        ブカブカスーツ取り出して 中折れ帽を斜に被る

名古屋駅、笹島ガードの西側。中村区椿町のボウシ館イシダ、二代目店主の石田明芳さんを訪ねた。

「本当にいい帽子は、何にでも合わせてくれるでねぇ」。明芳さんは、中折れ帽のクラウン(帽子のトップ)の窪(くぼ)みを摘(つ)まんで頭に載せた。

「ぼくは頬骨と鰓(えら)が張った古い日本人顔だで、少しでも細く見せるためにクラウンの幅を広くせんとかんのだわね」。

シルクハットに山高帽、それに昭和天皇が愛用された、トップが半球状になったボーラー。いずれも西洋人の頭の形に合わせて誕生した。

「西洋人は顔の表面積が細く、面長に見えるんだけど逆に後頭部までが長いんだわ。だから帽子は、横顔で見るのが一番綺麗なんだって」。

ボウシ館は、終戦後に父が創業。

明芳さんは昭和二十七(1952)年に四人兄弟の末子として誕生した。

大学を出ると、学生時代にアルバイトをしていた商亊会社へ入社。

社内を隈なく探しても、アルバイト時代に見かけた女子社員の姿がどこにもない。

「入れ違いに会社を辞めて、実家の鹿児島に帰るとこだったの」。傍らで妻の美保子さんが懐かし気に照れ笑い。

「鹿児島に帰る直前、中村警察署の前で道に迷っちゃって。ここがこの人の家だなんて知らないから。そしたら店の前でバッタリ再会。駅まで見送ってもらって」。

やがて二人は遠距離恋愛の末、昭和五十一(1976)年に結婚。一人娘を授かった。

「長距離電話代がかさみ過ぎるで、早よ結婚しろって」。

商事会社では、スプーンから鍋やクーラーまで、幅広い取扱商品を扱う営業として得意先を駆け回った。

平成四(1992)年、父が脳梗塞に。

それを機に、四十歳まで勤め上げた会社を辞し家業へ。

「親父に継げとは言われんかった。百八十度違う世界だったけど、小さい頃から帽子ばっか見とったで。まあ鍋もひっくり返したら帽子みたいなもんだし」。明芳さんは大笑い。

「頭はみんな一つしかないんだで、一年にそうも買えへんだろうと思っとった」。

しかし店先からこっそり眺めているような客が、目を奪われた帽子に恐る恐る手を伸ばし、一旦被ったらたちまち虜に。

「半信半疑でソフト帽を買った人が、どうにも入れ込んで、あげくに専用の棚まで作ったほど」。

自然な光沢を宿す帽子の生地は、ビーバーやウサギの毛に蒸気を掛けながら圧縮したもの。

「紫外線を百%カットするし、夏でも蒸れずに涼しい」。

確かにいずれも驚くほどの軽さだ。

「このイタリア製のボルサリーノは、アランドロンが映画『ボルサリーノ』で被った名店の逸品。帽子店の店名が映画のタイトルになっちゃうんだでねぇ」。

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黒色のボルサリーノをひっくり返した。 頭の天辺があたる部分に、ボルサリーノと白の刻印。

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「ホテルのクロークとかに預けると、型崩れせんように帽子をひっくり返して保管するんだわ。『ブランド名見ただけでホテルマンの扱いが変わった』ってお客さんも言っとったなぁ」。  

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ちょっと小粋に中折れソフト。

帽子を取って軽い会釈。

気高さに気品を添え、ジェントルマンは凛々しさを纏う。

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「天職一芸~あの日のPoem 212」

今日の「天職人」は、名古屋市中村区椿町の「刺子師」。(平成十八年十一月二十一日毎日新聞掲載)

ズボンの膝の綻びは 野球小僧の勲章だ         母は端布(はぎれ)で一工夫 ボール模るアップリケ   チームのSの頭文字  「帽子に刺繍してして」と     母に夜鍋をせがんだら  文字が反転大騒ぎ

名古屋駅をわずかに西に入った椿町。昭和十一(1936)年創業の寺崎刺繍店。二代目刺子師の寺崎勇さんを訪ねた。

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南に向いた窓から、晩秋の陽が差し込む。

刺子師は陽射しを背負い、寡黙に指先で針を運ぶ。

金色の絹糸が陽射しを跳ね返し煌めいた。

「金や銀の糸で光が乱反射するもんだで、眼が悪なるんだわ。まんだ背中越しの自然光はええけど、蛍光灯の明かりだとかん。だで夜の作業は、肩越しに裸電球を照らしてやるんだて」。勇さんは眩しそうに目を細めた。

昭和十五(1940)年、九人兄弟の三男として誕生。

中学を出ると、木材工業新聞社に入社。広告取りから記事の取材まで、多忙な毎日が続いた。だが昭和三十九(1964)年、出火で新聞社は全焼。

「親父も年だし、眼が悪くなってきたで」。二十四歳で家業を継ぐことに。

「上二人の兄貴らは、刺繍なんてまったく興味もあれせんかった」。

最初はもっぱら、使い走りの表周り。

「親父が若い頃は、半衿に家紋の刺繍とかが中心。でもそれからは、校旗や講堂の緞帳や袖幕に『○○百貨店贈』とかって、文字とか校章を刺繍する大物の時代だわさ」。

家業に戻ったその年、紀伊長島出身の栄子さんと結婚。二男一女を授かった。

「新聞社時代に通っとった喫茶店に勤めとったんだわ。毎朝取材に行く前に、必ずその店でコーヒー飲んどったで」。勇さんは、懐かしそうに照れ笑い。

「小っさい頃から親父の仕事見とったでなぁ。一ヵ月もかかって、お寺の本堂借りて御園座やCBCホールの緞帳に刺繍しとったわ。そんなもん一生もんだで、刺子師にとっちゃあ、こけら落しが晴れ舞台だわさ」。

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ベッチンやフエルトにパルコといった布地に障子紙で裏打ちし、金糸を裏から表へ。表面は真っ直ぐに縫い上げるが、裏側はジグザグ。金糸は表裏で、行きつ戻りつを果てしなく繰り返す。

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「まあとにかく根気だけだわさ。一針一針に魂を宿すように」。

左手の中指、第一関節にはめた指皮で、針を一気に押し込んだ。

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「丸金は艶がええけど細っそいもんで、真っ直ぐに縫うのが難しい。それに比べ、金糸を縒(よ)った縒り金は、丸金よりも太っといで誤魔化しが利くんだわ」。

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馬と呼ぶ木枠だけの刺繍台。生地を張った中枠を乗せ、針先の運びに合わせて自由に向きを変える。

生地の上の四角い糸巻きは、むやみに転がることもなく、運針の進みに身を委ねる。  

上がり富士を縫い上げた家紋の刺繍。

よく見れば金糸の縦糸と交わる様に、所々に細い赤糸が横たわる。

「ぜんざいの塩みたいなもんだって。赤の横糸で金糸を押えたると、ええ翳りが出るんだわ」。遠目にはまったく気付かぬ赤糸。何百本と縫いこまれた金糸の川を、まるで堰き止めでもするかのように、金糸の起伏を波立たせる。

「年数なんてキリにゃあって。一人前になるまでには、眼が悪なってまうで」。

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老刺子師は筆を針に持ち替え、金糸を墨に晴れの日の舞台を彩る。

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「天職一芸~あの日のPoem 211」

今日の「天職人」は、名古屋市中村区椿町の「自転車修理工」。(平成十八年十一月十四日毎日新聞掲載)

西に傾く夕陽追い 自転車漕いで家路へと        父の小さな楽しみは 一本きりの瓶ビール        何処へ行くにも自転車で 父の背中にしがみ付く     ガタゴト揺れる砂利道と モクモク昇る土埃

名古屋市中村区椿町の青井自転車店、三代目自転車修理工の青井幸與(ゆきよ)さんを訪ねた。

「もう五十年以上自転車屋やっとるけど、未だに新車なんてのったことないもんなぁ」。男は油の染み込んだ指先で、煙草の火を揉み消した。通称駅裏。名古屋駅西口のさらに一本西。

青井自転車店は、大正時代の後期に祖父が中区大須で創業。

「昔は鶴舞公園で草競輪があって、祖父は自転車修理の仕事かたがた競輪にも出場しとったらしいわ」。

そして昭和初期に現在地へと移転。

幸與さんは昭和十一(1936)年、熱田区の加藤家で七人兄弟の下から二番目として誕生。

中学を出た昭和二十六(1951)年、青井自転車店へ住み込みの見習修業に入った。

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「青井のお爺ちゃんと、家の親父が大須で知り合って、それが縁でな」。

統制経済が徐々に解除され始めたと言っても、駅裏にはまだまだ闇市の名残が色濃く影を落としていた。

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「『バカヤロー!』とか物騒な言葉がしょっちゅう飛び交って、最初はビビッタって。とても入ってけんような、怪しい路地はあるし」。怖さと面白さが混在していた。

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「修理終わって届けにくと、オヤッサンが一斗缶の上から。『おい坊!なんぼや?』って。おもむろに立ち上がると、一斗缶から金掴み出すんだで」。

ちょうど幸與さんが修業に入った年、青井家の一人娘が小学校に上がった。

「二代目を継いだ父が、私の生まれる三ヶ月前に戦死して。だから父親の顔も見たことないの」。傍らで妻の澄子さんがつぶやいた。

見よう見真似の修業が三年続き、修理工としての技を一通り学び取った。

パンク修理にブレーキ調整。チェーンの張りや、シャフトの締め調整。すべて勘だけが頼り。

十年勤め上げ、一年間のお礼奉公。

昭和三十八(1963)、独立を視野に同業者の元でバイク修理を学んだ。

「オートバイなぶりたかったんだわ。そしたら半年後に、青井のお爺ちゃんが呼び戻しに来たんだって」。

近所の誰もが、幸與さんに跡を継がせるものと信じきっていたからだ。

「これが小学校へ上がった年に、修業に来たんだで。妹みたいだわさ。それがいきなりお爺ちゃんから『一緒になれ』と言われたって、ピンと来るわけないって」。

やがて兄妹から夫婦へ。

二男一女を授かった。

「他で直らんって聞くと『そんならいっぺんやったろか』って、ついつい腕が鳴ってまうでかんわ」。

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幸與さんは祖父の代から伝わる、スパナを取り出した。

「家は修理中心。他所より高いかも知れんけど、汚れ落として磨いたるんだわ。『おーっ、綺麗になったなあ』って言われると嬉しいで」。

しかし二人の息子は会社勤めを選び、三代続いた店も幸與さん限り。

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「こんなもん下(げ)の仕事だし、汚いわりに利益が少ないで、もう終いだわさ。でも贅沢しな、ちゃあんとやってけるんだて。よう子供らに言ったもんだわ。『家は財産なんてない。お前ら三人が財産だ』って」。

兄妹のように連れ添った夫婦が、倹(つま)しい生活を旨とし築き上げた子宝という名の至宝。

天晴れ、下町夫婦の心意気。

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往く夏を惜しむ「夏花火」と「八幡様のお百度」

今週の土曜日の9月19日は、秋の彼岸の入りでございます。

暑さ寒さも彼岸までとは良く言ったもので、暑さにも少しずつ変化が感じられるようになった気がいたします。

それにしても今年の夏は、って冬の終わりも春もでしたが、産まれてこの方経験したことのない歳時記を過ごすことになろうとは、改めて肉眼ではその姿も見つけられない、ちっぽけなコロナウイルスながらその猛威に、ただただ愕然とするばかりです。

夏の花火も見上げられず、御坊様の盆踊りさえも中止となり、ささやかな楽しみの一つであった、屋台の串カツで缶ビールをプッハァとも参りませんでした。

とは言え、盆踊りが仮に中止にならなかったにせよ、踊りのセンスの全くないぼくは、踊りの輪の外側で缶ビールを傾け、浴衣姿の踊り上手の方々を、酒の肴に眺めるだけでしょうが。

しかしやっぱり、燃え尽きることなく、燻ぶったまま終わってしまった夏に、一抹の寂しさを感じてしまうものです。

昨年秋からyoutubeで週に一曲ずつ、ぼくのオリジナル曲を拙い弾き語りでお聴きいただいてまいりましたが、これで概ね一巡してしまいました。

そこでこれからは、その時々のぼくの気の向くままに、唄いたい歌を弾き語らせていただこうと思っています。

そこで今日は、彼岸の入りまではまだ夏の名残が留まっていると、そう考えコロナとの戦いでとてもやるせなかった夏を今一度偲びたく、「夏花火」と「八幡様のお百度」、2曲続けてお聴き願います。

続いては、CD音源から「夏花火」「八幡様のお百度」お聴きください。

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「春のボタ餅も秋のオハギも、どっからどう見たって同じに見えるのに???不思議でならなかった思い出」。

ぼくだけでしょうかねぇ。春と秋のお彼岸に、お供えとして必ずお母ちゃんが拵えてくれた、「春のボタ餅」「秋のオハギ」。どちらもぼくには同じに見えて仕方なくって、どこがどう違っているのか、悩みの種でした。

父も母も餡子にゃあ目が無くって、「やっぱり春のボタ餅は最高やなぁ」と父が言えば、秋になると「秋のお彼岸のオハギは、美味しくってどんだけでも食べれちゃうわ」と母。どこがどう違うのか、さっぱり分からないままのぼくには、ますます不思議でならなかったものです。

たぶんお父ちゃんやお母ちゃんにたずねたことがあった記憶もありますが、なんだか中途半端でとても納得いく回答を与えてはくれなかった気がいたします。「そんなもん、春のお彼岸はボタ餅で、秋にはオハギって昔から決まったるんや」とかなんとか・・・。

たいがい大人になってから、ボタ餅とオハギの真相を知り、「なんてこった~っ」って感じでした。

まあ、どちらも変わらぬ美味しさですものねぇ。

皆様は子どもの頃から、その違いをご存知でしたか?

今回は、そんな、「春のボタ餅も秋のオハギも、どっからどう見たって同じに見えるのに???不思議でならなかった思い出」。皆様の思い出話を、ぜひお聞かせください。

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クイズ!2020.09.15「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

今回の残り物クッキングクイズはこちらです。

両脇に乗った丸の1/4の大きさのフライの中身が、究極の残り物なんです。

でもフライの衣をまとっているため、何なのか分かりませんよねぇ。

そこでヒントです。

元々はピザのように丸く大きなものが原型です。まあ、この庶民的な食べ物は、どなたもお好きなもので、子どもの頃から慣れ親しんでいると思われます。

特に関西や広島なんかじゃあ、有名ですよねぇ。ところが東京の下町へ行くと、ぐちゃぐちゃのものを小さなヘラで掬って食べちゃうわけで、ところ変われば品変わるですよねぇ。

こんなぼくでもたまぁ~に無性に食べたくなります。先日もオタフクソースが出しているこの食べ物の材料を購入してしまいました。ところが4人分。仕方なく一度に4人分も作らざるを得ず、食べきれなかったモノは、丸いまま冷蔵庫で保存しておいたのです。

かといってレンジでチンしてみても、最初に作った時とは大違いの味と食感になってしまうため、色々考えを巡らせて、こんな揚げ物にして、なぁ~んちゃって〇かけソースを手作りしていただいて見ました。

ところが片栗粉が多すぎて、ソースがとろ~りを通り越し、だまになってしまったのが心残りでなりませんでした。

さて、観察眼の鋭い皆様の創造力や如何に!

皆様からのご回答を楽しみにしております。

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「天職一芸~あの日のPoem 210」

今日の「天職人」は、名古屋市中村区椿町の「ラジオ屋」。(平成十八年十一月七日毎日新聞掲載)

摘(つま)み捻ればピーガーと 小さな箱が唸り出す   試験勉強そっちのけ 異国の曲に首っ丈         部屋の明かりを全て消し ラジオの声に耳傾げ      何処の国かと想い馳せ 深夜一人の世界旅行

名古屋市中村区椿町、徳田ラジオ商会二代目店主の徳田一博さんを訪ねた。

「昭和前半はラジオの時代だったでねぇ。二二六事件はNHKの深夜放送から。日本中がラジオの前に平伏(ひれふ)した玉音放送や、伊勢湾台風の災害放送」。昭和の生き証人が、とつとつと語り続ける。

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一博さんは大正十四(1925)年に誕生。

翌年十月、海軍を除隊した父が、当時の先端事業であった組み立て式鉱石ラジオの販売を開始。

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「丁度まんだ半年ほど前に、NHKの名古屋放送局が放送を開始したばっかだったでねぇ。当時はえらい持て囃されたて。命預かるお医者さんの次ぐらいに。だって最先端の技術屋さんだったで」。

この年の暮れ十二月二十五日に大正十五年は幕を閉じ、激動の昭和が産声を上げた。

「昭和の十(1935)年頃からは、ラジオ部品の卸をやりかけてねぇ」。

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一博さんも旧制中学時代に、電気磁気概論を学んだ。

「後継がなかんって言われて、ラジオの勉強したんだわさ」。

日に日に昭和は、戦争に色濃く蝕まれていった。

「中学五年の卒業を翌年に控え、日米開戦で四ヵ月も前倒し。急遽卒業だわ」。

時代は確実に、破滅に向かってまっしぐらに転がり始めていった。

「当時皆は軍需工場の徴用へ。でも徴用行かんと家で修理の修業しとったんは、俺ぐらいかなあ。商売屋はどこも休業状態。それでも軍は、ラジオで情報流さんなんで力を入れとったんだろうなぁ」。

しかし敗戦色が深まる昭和十九(1944)年十一月、ついに一博さんにも召集令状が。

陸軍に入隊したが、戦地に送り込まれることも無く終戦を迎えた。

「帰って見たら空襲で焼け野原だって」。

疎開先から戻ってみると、かつての創業地にはよそ者が居座り、役所の登記書類も何もかもが焼け果て、渋々泣き寝入り。

それでも昭和二十二(1947)年に家業を再興。ラジオ部品の販売に着手した。

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やがて戦後の復興は、驚異的な速度でこの国と民を凌駕していった。

三種の神器に始まり、マイカーブームへと。その欲望は留まることを知らぬ勢いだった。

「テレビからステレオへ。家もそんな頃は、売れるもんなら何でも取り扱ったもんだわ」。

昭和三十(1955)年、見合いで田鶴枝さんと結婚。だが残念ながら、子宝には恵まれなかった。

「まあ所詮家電品なんて、昭和の初めから安売り商売だで。結局自分で自分の首締めるようなもん。今じゃ流通が変わったから、家が仕入れるよりも量販店の方が安っす売っとるんだで」。

一博さんは広小路へと続く表通りを眺めた。

「でも嬉しいって。『あんたとこで買うやつは壊れんで』って言われると。売るばっかの、こんな使い捨ての時代に」。

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昭和を見届けたラジオ職人。

『ピーガーッ』。

電波の波音を掻き分け、指先でチューニング。

周波帯を探り当てれば、あの頃の素敵な時代が蘇(よみがえ)る。

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「天職一芸~あの日のPoem 209」

今日の「天職人」は、名古屋市中村区名駅の「食器屋主人」。(平成十八年十月三十一日毎日新聞掲載)

欠けた茶碗のお下がりに 泥の団子を盛り付けて     蜜柑の箱を卓袱台に 女房気取りのオマセさん      「お風呂それともビールがいい」 女房の声に振り向けば 湯浴みの髪を片方に 垂らすあの日のオマセさん

名古屋市中村区名駅、食器の三輪。二代目店主の高岡勇次さんを訪ねた。

「ごっつおさん!」「また明日な!」。

店先に気さくな声が飛び交う。

ソファーを我が物顔で占拠していた、先代からの馴染み客が席を立ちつぶやいた。「毎朝寄らんと、気い悪なるでな」。

午前八時三十分。名古屋駅前、柳橋市場の朝に一息吐く瞬間が訪れる。

店先に渦高く積まれた瀬戸物。

軒先には、暖簾代わりの急須が垂れ下がる。

「市場に仕入れに来る皆の、茶飲み場みたいなもんやろ」。勇次さんは、手馴れた手付きでインスタントコーヒーに湯を注いだ。

勇次さんは昭和三十四(1959)年、店の創業と同時に瀬戸市で産声を上げた。

「親父は土建屋を辞め、仲間三人と店始めたらしい。三人の輪という意味を込め、食器の三輪らしいわ」。

やがて店の切り盛りは、先代夫婦に委ねられた。

高校を卒業すると同時に、東京は築地市場の場外で、漆器と陶器の販売を学んだ。

「まあ一遍、他所飯食って来いってことだわ」。

修業という大義名分を背に、仕事を終えると赤阪のディスコへと繰り出し、大音量で流れるソウルトレインの曲に合わせて青春を謳歌した。

昭和五十五(1980)年、母の発病で急ぎ帰郷。

「小さい頃から、家を継げ継げって言われとったでな」。

実家の瀬戸で焼き物を仕入れ、毎朝まるで朝陽に追われるように、父と二人柳橋市場へ。やがて母も病が平癒すると、再び店に立った。

「あの頃は親子で愉しかったわ。そりゃあ喧嘩もしょっちゅうやったけど。四六時中一緒におるんやで」。

何時かは訪れる別離を知ってか知らずか。

昭和五十九(1984)年、春日井市出身の真奈美さんを妻に迎えた。

「友達と越前へ海水浴に行って、そいで女房に見初められちゃった」。勇次さんは照れ笑い。どうにも嘘が下手な証だ。

夫婦は一男二女を授かった。

結婚の翌年には、名古屋市北部市場にも店を広げ、勇次さん夫婦が担当し何もかもが順風満帆に。

しかしそれもわずか一年半で、店を畳む憂目に見舞われた。

「母の癌が再発してまって」。そのまま六十歳の若さで還らぬ人に。

昭和を色濃く引きずる、柳橋市場の通路。

両脇には種々雑多な店が建ち並び、まるで小さな町のよう。

「商品の数なんてわっからへんて」。勇次さんの言葉通り、足元から天井までビッシリの商品。

鮨屋用の湯呑から刺身・焼き物・天麩羅用の盛り付け皿、それに茶碗蒸器や土鍋と小鉢に抹茶茶碗まで。

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「まあ一般の方のチョコチョコ買いから業務用までやで、何が売れるか千差万別でさっぱりわからん。だで、高級品ばっか置いとってもかんし、安物ばっかでもかん」。

まるでここは、小さな瀬戸の町。

ついそんな錯覚に陥る。

時を忘れ隈なく覗き込む。

想わぬ掘り出し物への期待に、胸が高鳴る。

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9/08の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「出汁殻昆布の薄味佃煮と海老のクリームパスタ」

先週の続きのようではありますが、今回も食品ロスを減らす残り物クッキングです。

今回取り寄せた出汁昆布は、いつもの昆布とは異なり、全体的にずいぶん柔らかな昆布でしたので、出汁を取った後、薄味で山椒粉をたっぷり利かせ佃煮風に味付けて保存しておりました。

とは言え、毎日毎日明けても暮れても昆布の佃煮ばかり食べるのも・・・。

でも一度に沢山出来てしまうため、あの手この手で少しずつ減らさねばなりません。

そこで今回思い付いたのが、この「出汁殻昆布の薄味佃煮と海老のクリームパスタ」です。

まず小鍋に出汁殻昆布の薄味佃煮と生クリーム、そして日本酒を入れ弱火に掛けておきます。

次にバターをたっぷり溶かしたフライパンに、ニンニクの微塵切りで香りを立て、強火のまま海老をソテーし、フライパンに溶け出したバターと共に海老も、クリームソースの小鍋に移し一煮立ちさせ、茹で上げたパスタに添えれば完了です。

今回は、出汁殻昆布の薄味佃煮自体の醤油味と、海老をソテーしたバターの塩味だけで、十分な旨味が引き出せ、意外なほどあっさりとした味わいで、ペロリと平らげてしまいました。

これがまた真昼間の白ワインにドンピシャで、ご機嫌なランチとなりました。

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