9/22の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「お焦げ風揚げ餅 on 冷蔵庫一掃の八宝菜」

天気が悪いと、中々買い物に出るのも億劫な物です。

そんな時こそ、溜まりに溜まった冷凍庫や野菜室内で、登板の機会を今か今かと待ち侘びつつ、日に日に萎れてきたり、オヤジ臭ならぬ冷凍臭が染み付いてしまいそうな、そんな材料を一絡げに調理台に放り出し、あれやこれやと頭を捻った結果がこの「お焦げ風揚げ餅 on 冷蔵庫一掃の八宝菜」でした。

ざっと冷凍庫と野菜室に残っていた材料は、Honey Babeのうで肉スライス、餅(白・蓬)、乾燥貝柱、チンゲン菜、ピーマン、ニンジン、コンニャクでした。

まずは乾燥貝柱を水で戻し、貝柱は水を切っておき、戻し汁はスープ用としてボールに残しておきます。

次に白と蓬の餅を賽の目切りにし、油でこんがりと揚げておきます。しかし残念ながらぼくの場合は、せっかく賽の目切りにしたにも関わらず、油を切っている間に互いにくっ付いてしまいました。

そして中華鍋にサラダ油とごま油をたっぷり注ぎ、八宝菜の具材を炒め、貝柱の戻し汁を注ぎ入れ、鶏がらスープの素、塩、ブラックペッパー、紹興酒で味を調え、水溶き片栗粉で餡にし揚げ餅にたっぷり掛ければ完了です。

紹興酒のオンザロックにレモンを絞り、それはそれは腹一杯になるまで、ペロリといただいてしまいましたぁ!

今回も皆々様の、目を見張るような推理力に驚き桃の木山椒の木でした。

ありがとうございました。

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「天職一芸~あの日のPoem 221」

今日の「天職人」は、名古屋市中村区の「庭飾り師」。(平成十九年二月二十日毎日新聞掲載)

寺の山門日も暮れて 屋形提灯火が燈る         ぼんやり家紋浮かび出で 母の在りし日偲ぶ通夜     僧侶の経に甦る 母のいつもの口癖が         「人を嫉(ねた)むな羨(うらや)むな 常に謙虚に世を渡れ」

名古屋市中村区、ツノダ花重中村の角田好一さんを訪ねた。

どこからどう見たところで、世辞にも花屋には見えぬ佇まい。

「だいたい花屋だって一口に言ったって、お祝いもありゃあお弔いもあるんだで。そんなもんどっちが多いかで、店の色合いなんて決まってまうわぁ」。

好一さんは弔事の際、屋形提灯下に、弔問客を迎える庭飾りを手掛ける。

写真は参考

好一さんは昭和八(1933)年に、七人兄弟の末子として誕生。

「若い頃親父は、近衛兵のエリート。俺が生まれた時は退役して、近所の娘相手に生け花を教えとったんだわ。その娘んたあがまんだ生きとりゃあ、まあいっつか百歳ぐらいだわさ」。

華道師範も務めた父は、自宅で芝居を上演させるほどの粋人。

だが好一さんがわずか五歳の年に他界した。

昭和二十四(1949)年、新制中学を卒業。

しかし職に就くわけでもなく、大好きな野球三昧に呆けた。

「百姓しもって、二~三チーム掛け持ちで野球ばっかだて」。

その三ヵ月後。「田植えで『ああ腰が痛ってぇ』って伸びしとったら、一番上の兄貴が向こうから『お前、明日から今池の花屋行け』って言わっせるもんだで」。

翌日から今池の花屋まで、自転車に跨り一時間かけて通い続けた。

「雨降りの日が唯一の休みだわ。癪だけんど、なっかなか雨が降りやがらんだ」。

それでも毎朝、中区大須の花市場に立ち寄っては花を仕入れ、自転車に積み込んだ。

「やっと給料もらって兄貴に見せたら、『多すぎるわ』って言って返しに行ってまうでかんわ。そんなもん無茶だって」。

またもや三ヶ月後。

「いつまでも人の銭儲け手伝うことないで」。

わずか十六歳の秋に、長兄の出資で独立開業。

「兄貴に店番してまって、俺が仕入れから配達まで外回りだあさ」。

十六歳の少年社長が誕生した。

歯に衣着せぬ下町の名古屋弁で、年配者から「コーチャ・コーチヤ」と親しまれ可愛がられた。

それから十年。

やんちゃな少年も、いつしか青年へ。

「母親がそろそろ嫁を貰えって。俺、結納金なんてあれせんで、母親の言うなりだあさ」。

昭和三十四(1959)年、安子さんと結ばれ、二男に恵まれた。

「俺もそんな昔の親父の話なんて、初めて聞いたわぁ」。傍らで二代目を継ぐ、長男の都司之(としゆき)さんも呆れ顔。

その三年後、甥に店を託し再び独立。

公設市場の花屋として小売に専念し、一家を支えた。

「長男が中学三年の年に、やがては花屋継ぐって言うもんだで。このまんまんではかん。なんとかせんとって」。事業拡大を思案。

その行き着いた先が、葬儀の屋形提灯下への庭飾り。

写真は参考

「屋形が風でよう倒れるんだわ。だったら屋形の足を押さえて倒れんようにしてまって、弔問客を迎える庭飾ったりゃあええがやって」。

幅約一.二㍍、奥行き約九十㌢の台で屋形の足を押さえ、背面に矢来垣、外側に光悦垣を配し、杉や黄楊の木と盛り花、蹲(つくばい)、立石で小さな庭を描き出した。

昭和五十三(1978)年、大手葬儀社の屋形下に庭飾りを開始。

「まあ全国で一番最初だったって。それでもかんわ。一ヵ月もしたら他所もみーんな物真似始めてまうで」。

だが自宅飾りから葬儀ホールの時代を迎える昭和の終わりまで、「コーチャの庭飾り」は、愛知県内約五万軒以上の仏を彼岸の岸へと見送り続けた。

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「天職一芸~あの日のPoem 220」

今日の「天職人」は、三重県四日市市の「バーマダム」。(平成十九年二月六日毎日新聞掲載)

紫煙が燻(くゆ)る止まり木は 儚い恋を幾つ知る    今宵も扉軋ませて 傷心者がまた一人          頬杖付いて物憂げに 男はジンを飲み干した       マダムの酌に酔い痴れて 砕けた恋の傷癒す

三重県四日市市のバー、舶来居酒屋「エルザ」。マダムの浜田横子(ようこ/仮名)さんを訪ねた。

店先の看板に柔らかな灯りが燈る。

重たい木製ドアを開けると、一直線にバーカウンターが続く。

ハイチェアーは背もたれに糊の効いた純白のカバーを纏(まと)い、客の来店を待ち構えるよう入口に座席を向け整然と居並ぶ。

「椅子が『いらっしゃいませ』って、言ってるようでしょう」。少女のように愉しげに、老婆はコトリと笑った。

横子さんは昭和四(1929)年に横浜で誕生。

激化する戦火を避け、父親の海軍工廠(こうしょう)赴任に合わせ、三重県津市へと疎開。

女学校の高等科に学び、和裁にも打ち込み終戦を迎えた。

「和裁の先生が好きでして、ご夫婦が東京へ引っ越されちゃったの。だからしばらくして私も追うように上京しちゃったの」。

しかしそれが人生の転機に。

和裁の先生が縁談話を持ち込んだ。

「戦後間も無い頃だから、男性がいなくってね。必死で探したって八つや十は離れてるわけよ。その中でも一番若かったのが主人だったわけ」。

昭和二十四(1949)年、万平さん(仮名)と結ばれ、二人の子供を授かった。

「サラリーマンの夫が希望だったの」。しばらくは横浜で平穏に、親子水入らずの暮らしが続いた。

昭和三十(1955)年代に入ると、高度成長経済期へ。

そんな頃、万平さんに名古屋への転勤が命ぜられた。

「兄夫婦が四日市にいましてね。しばらくすると、兄嫁と私と妹の三人で、バーを開こうって話になりまして」。

とは言え、誰もが素人。名古屋の人気バーから、バーテンダー三名を引き抜き、昭和三十三(1958)年に開店。

「最初は『カトレヤ』って名前で、マッチも名入りで作って案内状も印刷して。開店一週間前って時に、すぐご近所に『カトレヤ』って店名のタバコ屋さんがオープンしちゃってね。慌てて店の名前を変えたわけ」。

四日市一お洒落な店の誕生に、店は大賑わい。

ところがその半年後、兄夫婦が離婚。店から兄嫁が去った。

それから程なく、今度は妹が結婚で退職。

「私はおしぼり巻きとか、下働き専門の約束だったのよ。カウンターの中が苦手で、いつも隅っこに隠れてたわ」。二人のパートナーが去り、ついに横子さん一人っきりに。

「それで困り果ててたら、主人が退職してこの世界に飛び込んで来てくれたの」。

現在も店内は開店当初そのまま。

柱は磨き上げられた、無垢のラワン材。

デコラ貼りのカウンターも椅子も。

中でもカウンターと椅子高のバランスは絶妙。故に不思議なほど落ち着く。

だから未だに半世紀通い続ける客や、三代目に世代交代した客が訪れる。

「酒は売るけど、媚は売りませんから。それが私の信条。だから一滴たりとも飲みません」。ともすれば容易に、どこまでも流されかねぬネオン瞬く世界。マダムは厳しく己を戒め、半世紀を生き抜いた。

「来年九月で満五十年ですから、皆でお祝いをしましょうって愉しみにしてたの。でも二年前に主人が他界して」。目を細め、カウンターの一箇所を見つめた。

恐らくそこがマスターの立ち位置だったのだろう。

「だから私は、少女からいきなり老女になっちゃったのよ」。

乙女から妻として生きた半世紀の記憶は、最愛の伴侶の死をもって永遠に封印された。

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「天職一芸~あの日のPoem 219」

今日の「天職人」は、岐阜市加納栄町通りの「パン職人」。(平成十九年一月三十日毎日新聞掲載)

棚に並んだ菓子パンは まるでぼくらの玉手箱      餡にジャムパンコッペパン あれこれ思案品定め     パン屋親父は呆れ果て 貧乏揺すり床軋(きし)む    悩んだ末に神頼み 人差し指の言うとおり

岐阜市加納栄町通りのサカエパン。二代目パン職人の高木康雄さんを訪ねた。

JR岐阜駅から南へわずか。主婦用自転車が引きも切らず、入れ替わり立ち代りやって来る繁盛店。

昭和の風情が色濃く残る引き戸を開ければ、焼き立てパンのやさしい香りにたちまち包み込まれる。

「戦後は四十軒ほどあったけど、今じゃあもうたったの三~四軒やろなぁ」。康雄さんは、品定めに夢中の客を眺め渡しながらつぶやいた。

康雄さんは昭和十三(1938)年に七人兄弟の長男として誕生。

「子供のころ父は、菓子やゲンコツ飴に、野菜や果物をリヤカーに山盛り積んで、犬に曳(ひ)かせて売り歩いとったんやて」。

しかしやがて軍事色も深まり敗戦へ。

サカエパンは昭和二十二(1947)年に、サカエパン食品工業として創業された。

「戦後の混乱で物資の手に入らん時代やったで。父は仕入れルートを作るために、材料問屋の人と一緒に会社を興したんやて。パンの作り方も知らんで、どっからか職人を三~四人ほど連れて来て。機械は名古屋からの中古品。見よう見真似で始めたらしいわ」。  

康雄さんは高校を出るとすぐ、父の元でパン職人を目指した。

昭和三十一(1956)年、敗戦の傷も少しずつ癒え、この国の民にも明るさが兆し始めて行った。

「ところが今度は、東京や名古屋から大手の製パン会社が乗り込んで来て。俺らぁみたいな小さなパン屋はコテンパンにやられてまうんやて」。昭和三十年代の急速な復興期は、パン屋が生き残りをかけた戦国時代でもあった。

「これではあかんと思っとったら、宅配で売らせてくれって業者がやって来て。ロバパンみたいなもんで、販売専門の業者やわ。それで何とか、バブル崩壊までは息を繋いだって」。

昭和三十七(1962)年、紀子さんを妻に迎え、一男二女を授かった。

「結婚したら直ぐに出来てまったんやて」。康雄さんは照れくさそうに、傍らで忙しそうに立ち働く三代目の芳継さんを盗み見た。

その後バブル経済の破綻により、宅配が低迷し売り上げは半減。

「その前から店頭売りをしたいなぁって、頭ん中で考えとったんやて。宅配の業者が、いろんな余所のパンを持ってきて『次はこういうの作れんか?』って。それで研究しとったでなぁ」。

平成六(1994)年、工場の店先で店頭売りを開始。

最初は一日に、五百個も売れればと半信半疑だった。

「そしたらTVの取材はやって来るし、お客さんは倍作れって言うし」。わずか三年ほどで、店頭売りの焼き立てパン一本へ。

今では平均三千個。多い時は四~五千個にも及ぶ。

毎朝四時からの仕込み作業。

基本のあんパン作りは、準強力粉に砂糖・卵・塩・イースト・粉乳・マーガリン等に水を混ぜ合わせることに始まる。

それを一時間発酵させ、生地を分割して丸め置き、次に成形し餡を入れ胡麻を付け再び焙炉(ほいろ)で発酵。

「ほてから卵黄を塗って、へてからオーブンで焼き上げるんやわ」。

こうして天下一のアンパンが、えも言われぬ香りを発し焼きあがる。

何ともパンのように柔らかそうな手である。

「毎日マーガリンで、生地捏(こ)ねとるでやろなぁ」。

半世紀をパン作りに捧げた老職人は、照れくさそうに柔らかな手を揉み合わせた。

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「天職一芸~あの日のPoem 218」

今日の「天職人」は、名古屋市中村区の「甘味茶寮女将」。(平成十九年一月二十三日毎日新聞掲載)

小豆の香り袖を引く 観音様の帰り道         ちょっと一杯善哉(ぜんざい)を お腹の虫が大騒ぎ   椀に浮かべた焼き餅を 先に食べよか啜(すす)ろうか  身も溶けそうな甘さゆえ 小梅一つで口直し

名古屋市中村区名駅で、大正十一(1922)年創業の御菓子司養老軒。三代目女将の西脇千穂さんを訪ねた。

「周りが高層ビルばっかりでしょう。だから最初ここに来た時、下から見上げるとビルが傾いて見えて、今にも倒れて来そうな気がして、両手を頬に当てたままボーッとしてたもんよ」。千穂さんは、通りを眺め懐かしそうに笑った。

千穂さんは昭和二十八(1953)年に、岐阜県郡上八幡町で金物工場を営む清水家の三女として誕生。

「毎日野山を駆け巡って筋肉モリモリ、おまけに日焼けで真っ黒。冬はスキー、夏は川で魚を突いて」。豊富な自然を相手に少女時代を送った。

やがて千穂さんも中学生になった夏休み。隣の家に名古屋から高校生の男子五人が避暑に訪れ、泊り込みで受験勉強に励んでいた。

「都会に憧れてたから、興味を持ってたのかしら」。いつしか男子高校生とも打ち解け川遊びに高じた。

「専門学校に通ってインテリアデザイナーになりたかったの。でも卒業間近に今の主人がやって来て、両親を説得して名古屋に連れて来られちゃったの」。ご主人の隆夫さんは、名古屋から避暑に訪れていた男子高校生の一人だった。

「本屋に住み込まされて。夕方五時になると主人が迎えに来て、毎日デートなの。それも今思えば、洋裁やらお茶のお稽古、それに料理教室。毎日門限の八時半までビッシリ」。そんな軟禁状態のような花嫁修業は、二十一歳で結婚するまで続いた。

プロポーズの言葉は、「バスや地下鉄の乗り方すらわからんのだから、もう嫁に来るしかないだろう」だったとか。やがて一男一女に恵まれた。

子育ても一段落した昭和六十一(1986)年、老舗の隣に茶寮を開店。

「甘味処の商売とか、何にも知らないから、京都に出かけて勉強して。私は餡蜜(あんみつ)の寒天がどうにも苦手で。だから家の餡蜜は寒天じゃなくって、蕨(わらび)粉と葛(くず)粉で作った京都風なの」。

いかに菓子作りは専門と言えども、茶寮の営業とは異なる。

「開店から一~二年は、皆でトランプしたり五目並べの毎日」。

しかしテレビのグルメ番組に取り上げられると、それが追い風となり雑誌にも紹介されるほどに。

「OLや女子高生で一杯。ちょうどバブル時代の幕開けだったから、女子高生がタクシー横付けでやって来るんだから」。夏場はかき氷目当ての客が、ズラリと表通りに並ぶ状態が続いた。

「すべて私の口に合わないと駄目。私は餡子の豆がだめだから、お饅頭も嫌いなの。だから家の商品はどれも甘さ控えめ」。品書きを指差しあっけらかんと笑った。

「ずっと世間知らずの箱入り女将だったでしょう。だから今、青春を取り戻したって感じ。昔はディスコもバイトの子たちに連れてってもらったほどなんだから。だから今でも世間のことは、み~んなバイトの子に教えてもらうの」。

善哉は、仏典によれば仏が弟子の言葉に賛意して褒める言葉とか。

「善哉善哉!何はともあれ、箱入り女将は今が青旬(せいしゅん)」。

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「天職一芸~あの日のPoem 217」

今日の「天職人」は、三重県桑名市の「安永餅職人」。(平成十九年一月十六日毎日新聞掲載)

七里の渡し桑名宿 茶屋で一服永餅屋          家族四人で顔寄せて 搗(つ)きたて餅を千切り取る   小豆を詰めて引き伸ばし 炭火で焙(あぶ)る香ばしさ 「親父 も一つ永餅を」 伊勢路初春旅の空

三重県桑名市、安永餅の柏屋。七代目主人の森勝昭さんを訪ねた。

「この家は、わしで婿養子が四代続いとんやで」。勝昭さんは、椅子に座したまま傍らの妻を横目で流し見た。

安永餅は町屋川辺(ほとり)の安永地区で、旅人相手の茶店が餅を焼いて振舞ったことに始まるとか。

その後、関西線の開通で、桑名駅前へと移転した。安永餅同様、細長い形状をした餅は、四日市に渡ると日永餅と称される。

勝昭さんは昭和十三(1938)年、四日市で鉄工所を営む佐野家に、五人兄弟の四番目として誕生。

大学を出ると、自動車販売会社へ就職した。

それから三年。「世話焼きの古道具屋が、縁談話を持ち込んで来たんやさ」。

二十六歳で自動車販売会社を辞し、柏屋へ一年通い和菓子作りの婿入り修業。

昭和四十(1965)年、森家と養子縁組し佐貴子さんと結ばれた。

「あの頃は、店ん中に婿養子三代が顔突き合わせて、チョコレートやチューインガムに駄菓子を売っとる傍らで永餅焼いとったんやさ」。

当時の永餅は、一本十三円。

「明治大正の頃は、『牛の舌餅』って呼ばれとったんやさ。まあここらの人にとっちゃあ、おやつ代わりみたいなもんやで。美味いのんは当たり前で、安ないと売れやんし」。

昭和四十二(1967)年には、八代目を継ぐ長男昭雄さんが誕生。

「ようやっと直系男子の誕生やで。わしの任務は完了やさ」。続いて三人の女子にも恵まれた。

昭和四十五(1970)年、桑名駅前にショッピングセンターが完成。

日本国中が大阪万博に沸き、国鉄ディスカバージャパンの誘い文句に乗り、国内旅行ブームが到来。

「その頃からやろな。安永餅が土産物に格上げされたんわ」。

安永餅の製造は、東北産の餅米を蒸して機械で搗き、腰が強くなるようにさらに手で搗き返す。

メン台を四人程で取り囲み、餅が冷めぬうちに手で千切り取る。

次に十勝産小豆を煮た餡を入れ、台の上を掌で転がしながら長く伸ばす。

そして表面にほんのりと焦げ目が付くまで、焼き上げれば出来上がり。

「家の永餅は、店頭売りが主体ですんで、無添加の手焼き一本です。だから賞味期限も三日。夏場は二日です」。父親の顔と瓜二つの八代目が、自信たっぷりにつぶやいた。

今では盆と正月に、一日一万本を作っては売る盛況ぶり。

一臼約二.三升の餅を十五分で仕上げ、それを三十五臼分も繰り返すほど。

「まあ今では隠居の身やで」。勝昭さんは平成三(1991)年に脳卒中で倒れた。

「甘い方もいける口やけど、こっちの方がもっと好きやったんさ。それが祟(たた)ったんやわ」。左手で杯を煽る真似をして、照れくさそうに笑った。

当時京都の和菓子屋で修業中であった昭雄さんが、急遽帰省し障害の残る父に代わり八代目を受け継いだ。

かつては牛の舌と称された、ダラリと長い安永餅。

真っ白な餅肌には、一本一本異なる焦げ目の紋様。

手焼き一筋を誇りとする頑固職人の、まるで刻印さながらに。

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「修学旅行レポートのテーマ」

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今年はコロナの影響で、修学旅行もこれまで通りとは行かないのでしょうか?

みんな生徒たちは、きっと楽しみにいたでしょうに!

皆さんはどんな修学旅行でしたか?

ぼくは残念ながら高校2年の時の修学旅行には、行けず仕舞いでした。本来であれば、広島原爆ドームの見学や、安芸の宮島がコースだったと思います。

ですから恥ずかしい話、未だに安芸の宮島には伺ったことがありません。

従ってこの「修学旅行レポートのテーマ」を作った時の最初の歌詞には、「安芸の宮島」ではなく「秋の宮島」と書いていた気がいたします。修学旅行に行けなかったぼくの中では、「安芸の宮島」ではなく、修学旅行が秋の行事だったせいもあり、すっかり「秋の宮島」と勘違いしていたほどで、当時のディレクターさんに漢字の間違いなのか、「安芸」ではなくわざと「秋」にしたのかと問われ、そこで初めて「秋の宮島」ではなく「安芸の宮島」なのだと気付いたほどでした(汗)

それがぼくの20歳か21歳の頃です。

当時CBCラジオの人気番組だった、今なお人気者のつボイノリオさんとゴンちゃんこと権田増美さんがパーソナリティーを務めておられた、「星空ワイド 今夜もシャララ」と言う番組の中に、「修学旅行レポート」というコーナーがあり、ゴンちゃんとぼくが掛け合いデュエットをする形の「修学旅行レポートのテーマ」という曲を作らせていただき、当時の広小路通りに面したレインボースタジオで録音し、毎週番組内でOn Airしていただいていた曲です。

以前ぼくのラジオの深夜番組でも、「多治見のホンモノノ高木ともふみ」さんからのリクエストにお応えして、思い出しだし弾き語りで歌ったことがありましたねぇ。

でも譜面を読めない書けないぼくですから、40年近くの時を経て歌詞をすっかり忘れ果てておりました。

ところがリスナー様のどなたかが、youtubeで「修学旅行レポートのテーマ」が聞けることを教えてくださり、それを聴きながら歌詞を書き写し歌わせていただいたと記憶しております。

よくぞ40年近く前の曲を保存していて下さり、youtubeにアップして下さったものだと、ぼく自身大変感動したものでした。

そのyoutubeは↓コチラ!

今夜は、40年後の「修学旅行レポートのテーマ」を、ソロの弾き語りでお聴きいただきます。

「修学旅行レポートのテーマ」

詩・曲・唄/オカダ ミノル

「学生服の詰襟を 小粋に外したあなたの写真」

「修学旅行安芸の宮島 初めて君に話しかけた時の物」

 「ねぇあなた 今日は少しだけ アルバムのページに合わせて 思い出を語りましょう」

 「う~んいいさ 野球も終わったし ビールをもう一本だけ 飲ませてくれたら聞いてあげる」

「教科書の陰から あなたの鼾 いつも隣で 助けてあげたもの」

「そうかそんな こともあったね それにしても よく覚えてるね君は」

 「ねぇあなた それからこうして  まだまだこんなこともあったものよ」

 「どうでもいいけど 奥様この辺で 終わりにしませんか ほら子どもも泣き出したし」

いやーっしかし40年の歳月ってぇのは、生半な感じですよねぇ。まったくもって照れ臭い限りです。

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、逸品ではありませんが、「貴方の修学旅行思い出のレポート」。

ぼくは小中学校の修学旅行の思い出しかありませんが、やっぱり小学校の時の枕投げは今でもよく記憶しています。

しかしよく考えて見ても、枕ぶっつけって何がそんなに楽しくって、何がそんなに面白かったのでしょうか???それって男子だけですか?

修学旅行専門の旅館は、枕投げは想定内の行事として、おおらかに受け止めてくれていたのでしょうね!

何かにつけ、平成令和と世知辛くなる一方の世より、昭和は緩やかな時代だったと、昭和の時代の真っただ中で生まれて来れたことを、両親に感謝するばかりです。

今回は、そんな、「貴方の修学旅行思い出のレポート」。皆様の思い出話を、ぜひお聞かせください。

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クイズ!2020.09.22「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

今回は、冷蔵庫と冷凍庫のオールスターの残り物を総動員した、そんな作品です。

野菜室の残り物、なぁ~んて言うと、「ええっ」といささか食傷気味になるかも知れませんが、そこはソレ!

どこぞかお近くの国の「八宝〇」なぁ~んて便利な言葉に置き換えたら、「あらまぁ!」とても野菜室の残り物と言う表現とは異なり、如何にも美味しそうなネーミングに早変わりです。

それに冷凍庫で眠っていた物を使って、ワンディッシュに仕上げたお手軽ランチとなりました。

さあ、観察眼の鋭い皆々様には、今回はどのような作品と、食材に映ることでしょうか?

皆様からのご回答をお待ちいたしております。

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「天職一芸~あの日のPoem 216」

今日の「天職人」は、岐阜県関市の「包丁職人」。(平成十九年一月九日毎日新聞掲載)

トントントンと菜を刻む まな板の音に朝が来る     母は台所(だいどこ)割烹着 ボワッと鍋が湯気上げる  肌蹴た浴衣そのままに 父は布団をたたみ上げ      卓袱台広げ座に着けば 一汁一菜朝ご飯

岐阜県関市、長尾庖丁製作所の庖丁職人、長尾太さんを訪ねた。

写真は参考

「『主人を儲けさせんと、おみゃあには返ってこんぞ!えかっ!』って、そう親父に言われたもんやわ」。

太さんは昭和十二(1937)年、七宗町の農家で八人兄弟の末子として誕生。

「田舎の山猿やて」。

身体の弱かった太さんは、学校も欠席がち。

新制中学を出ると、母が言った。

「お前は身体が弱いんやで、腕に職を付けよ」と。

美濃加茂市職業訓練所の木工科へ。基礎と実技を学び、翌年名古屋市中川区の木工所に職を得た。

「当時は子供が多かったもんで、小学校の椅子の製造に大忙しやったて」。昭和三十四(1959)年には、関市の箪笥店に職場を替え、三年後の昭和三十七(1962)年に真寿美さんを妻に迎えた。

やっと子宝に恵まれ、妻のお腹が日増しに大きくなり始めた昭和四十(1965)年、太さんは一念奮起で職替えの決意を。

「刃物は関の地場産業やで、当時は景気が良かったし」。

木工から庖丁製造へと転身。

しかし全く経験も知識もない太さんは、多難な前途に待ち受けられた。

「まんだ家内の実家が百姓やったもんで、米は貰えたけど仕事も収入も全くなし。長男が誕生しても病院に駆けつけることも出来んと、名前付けるのも女房任せやったわ」。

畑違いの世界に飛び込み、ひたすら我流の庖丁造り。試行錯誤の連夜が続いた。

「どっこい、その時の苦しさが良かったんやて」。太さんは目を細めた。

庖丁製造は、鋼材をプレス機で庖丁型に抜くところから始まる。

次に焼きを入れ機械研磨で刃を付ける。

そして水砥(みずと)で磨き、さらに羽布(ばふ)で磨き上げる。

次に木柄(もくえ)を取り付け、本刃付けをして仕上げの磨きにかけ完成。

「ずうっと試行錯誤の連続やったって」。

材料もセラミック、チタン、ニッケル合金と、新たな製品へ新たな製品へと模索を続けた。

「切れ味よりも、デザイン性が先行した時代もあったんやて」。

誰もが時代に翻弄されたバブル経済の崩壊とともに、太さんの庖丁造りにも転機が。

「日本の庖丁は、関の孫六七百八十年の歴史に裏付けられた、世界一の切れ味なんやで。それを忘れて見てくれの美しさばっかに気い取られて、売れりゃあ良しで庖丁造っとったらかんと気づいたんやわ。刃物なんて、切れて何ぼのもんなんやで」。

今ではその数、百種類。

月に三万丁を製造する。

「これが自慢の商品やわ。バブル時代の末期に旅先で、刀の本を読んどったんやて。そしたらそこに『天命寿楽』って刀が載っとったんで、それをヒントに名付けたんやて。天から授かった味を、寿(ことほ)いで楽しんでもらおうと」。

『天味(てんみ)寿楽(じゅらく)』と銘打たれた、青紙(あおがみ)スーパー鋼を使用した三徳庖丁。

関の孫六の特徴である、波のような刃紋が鮮やかに浮かび上がる。

「この刃紋を出すために、刷毛で泥を塗って高度な焼きで赤め、一気に冷やすんやわ。それが秘伝の切れ味の秘訣。庖丁の切れ味がいいと、料理作るのんも楽しいなるで」。

天命と天味。

人の命を絶つための人斬り庖丁の歴史は、いつしかその役目を終え、天が与えた素材の味を引き立たせるための調理道具へ。

末代までも切れ味という、匠の技を纏う。

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「天職一芸~あの日のPoem 215」

今日の「天職人」は、名古屋市中村区の「太物屋」。(平成十八年十二月十九日毎日新聞掲載)

父は市場の剣豪と 八百屋のオヤジ笑うけど       鮪相手に気合込め 太刀筋キラリ胴を割く        母がこそいだ中落ちを 炊き立て飯の上に乗せ      生醤油落しかぶりつく 欠けた丼朝ご飯

名古屋駅前、柳橋市場の一角。鮪の太物を専門とする、魚勝商店二代目の犬飼清和さんを訪ねた。

あの巌流島の戦いで、武蔵と相対した燕返しの剣豪。

あの小次郎の長太刀を思わせる、恐ろしいほどの長さをした卸し庖丁。

前掛け姿の男達は、丸々と太った鮪を相手に長身(ながみ)の庖丁を巧みに操る。

「まあじき正月だで、一年でも一番忙しなる季節だわさ」。

「親父が勝って名前だったで、屋号も魚勝だて」。

元々中川区下之一色の漁師町に生まれた父は、叔父の魚屋で修業を積み、昭和二十七(1952)年に独立し、柳橋市場に店を構えた。

清和さんは昭和三十(1955)年、この家の長男として誕生。

「この子が小さい頃は、鮪も生ばっかだったて」。中落ちを指先で器用にこそぎ落としながら、母和子さんが大仰に笑った。

「そんでも昭和三十四(1959)年頃からかなあ。技術が進んで冷凍物が入るようになって来たんわ。カチンコチンに凍った鮪を、斧(よき)で丸太みたいに卸とったもんだわ」。母は懐かしげにつぶやいた。

「まあ今は、丸太を製材する電鋸で解体してまうけどなぁ」。清和さんが母の言葉を引き継いだ。

下之一色に生を受けた男の務め。いや、心意気とでも言うべきか。清和さんも子供の頃から、太物屋を生業(なりわい)とする両親の背中を見て育ち、当然の事の様に家業を手伝った。

「商売って現金が飛交うもんだで、それが子供ながらに興奮してまうんだって」。毎日がサザビーズのオークションさながらだった。

清和さんは東京の大学へと進学。

飛騨金山出身で音大に通う一つ年下の妻、裕子さんと巡り会う事に。

二人は昭和五十七(1982)に結ばれ、翌年三代目として店を支える長男武志さんが誕生した。

清和さんは、早朝三時に起床し中央卸売市場へと向かう。

まずは競りを前に鮪の下見。

「尻尾が切ってめっくったるで、生の鮪はナイフで切って食感や身の質を確かめたるんだわ」。

五時からの競りで仕入れ、六時には店へ。

仕入れた鮪を、その日の客の注文に応じて卸す。

親子三代の作業は、午後二時頃まで続く。

「そのかし夜の九時には、もう寝とるって」。清和さんは笑い飛ばした。

スリランカ・バリ・グアム・パナマ・台湾から、鮪は日本の食卓を目指す。

「昔は鮪を食べるのは、日本人だけだったって。そんでも最近では、世界各国でも鮪の美味さに目覚めてまったし、捕獲量も規制されるで大変だて」。

大間の黒鮪にインド産の南黒鮪、そして一般的な赤身の黄肌鮪。

一日に多い時は、冷凍物六本に生五本の鮪が、腹の上下、背の上下と四ツ割りに捌かれる。

写真は参考

「一流の鮨屋とか料亭は、一番相場の高級品を値段も聞かんと買い付けてくんだで。永年の信用だて」。

既にこの道三十年。

だが、冷凍物の競りでは、未だに当たり外れもあるとか。

「鮪なんて一本一本違うんだで、安く競り落としたもんでも大当たりが出ることもあるんだで」。

太物屋の大将は、何とも太っ腹な笑い声を響かせた。

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