今日の「天職人」は、岐阜県大垣市の「鮒味噌職人」。(平成十七年四月十九日毎日新聞掲載)
すいすい川面滑るよに アメンボたちも愉しそう 小川の辺(ほとり)爛漫と 儚き花も競い合う 川面に揺れる浮眺め 父と二人の鮒釣は 釣果(ちょうか)の神に見放され 魚篭(びく)に山盛りどて土筆
岐阜県大垣市、うなぎの川貞(かわてい)商店東前店の三代目、鮒味噌(ふなみそ)職人の古川定唈(さだお)さんを訪ねた。

「何でもそうやて。手数をかけたったら、その分だけええ味が出るんやで」。定唈さんは、初代伊之助の言葉をつぶやいた。
揖斐長良の大河が、河口へと向かい、一つに寄り添うように蛇行する。水郷地帯を南に擁(よう)する大垣では、古くから川魚の恩恵に貴重な蛋白源がもたらされた。
夏は鰻、冬は鮒やもろこはえに、川海老と鯰。それゆえ、臭みのある川魚に、独特の調理法が編み出された。
「この辺は、湿地帯やったで、あちこちに池があったんやて。だで昔は、田植えや稲刈りも、舟に乗ってやっとったんだわ」。
定唈さんは昭和十八(1943)年、本店のある大垣市郭町(くるわまち)で三人兄弟の長男として誕生。大学から親許を離れた。
「子供の頃から、焼きばっかり手伝わされとったで、土用丑の時は、一人で焼いとったほどやて」。

鰻の修業は普通、脇方三年、割き三年、串打ち四年に焼き一生とか。
定唈さんの修業は、跡取りゆえに即戦力が求められ、一生もんの焼から始まった。「大学時代は、夏休みが終わるまで、鰻焼かされとったんやて。だで、指の付け根で焼けた金串挟むもんやで、水脹れになって、夏の終わりにはタコができるほどやった」。懐かしそうに掌を見つめた。
先祖が高須松平家の武士であり、腹開きは切腹に通じると、この地では珍しい背開きを今も続ける。
中でも、最も技術が要求されるのは、串打ち。一本なりの鰻に四~五本の串が、皮と身の間を縫うように打たれる。焼き上げるまでの身の縮み具合と、焼かれて反り返る身の歪みを想定しながら。
「まあこれ、冷めたったけど、一口食べてみたって」。そう促されて一口味見。冷めたとは言え、もっちりふっくらとして、鰻の油がじゅわっと口中に広がった。
定唈さんは大学卒業後二年間、瑞浪のゴルフ場でレストランの厨房に勤務。昭和四十三(1968)年に本店へと戻って、再び修業を開始。その二年後、瑞浪時代に知りあった能登半島出身のミホさんを妻に迎えた。「鰻が大好きやで、たぶん俺と結婚したんやて」。不思議にも、他の川魚は未だ苦手だとか。二人は子宝に恵まれ、現在長男が四代目として厨房を預かる。
「ここらでは、お正月のおせちに欠かせないのが、鮒の味噌煮ともろこの甘露煮やて」。十月、鮒の解禁を待ち、味噌煮造りが開始される。
「鮒は泥臭いで、井戸水の生簀(いけす)に放して、一週間かけて臭みを抜くんやて」。次に鱗を落とし腸(はらわた)を取り出す。そして二升釜に経木(きょうぎ)を敷いては、鮒を乗せ、一度に約五十匹、七輪に藁灰(わらばい)を入れ、ことことと丸二日間水炊きを続ける。
「姿を壊さんように、骨まで柔らかくせんと」。 そこに今度は、八丁味噌と味醂に、最高級の砂糖を加え、再び一時間、味が染み込むまで炊き上げれば、水郷地帯ならではの郷土料理「鮒味噌姿造り」の完成だ。

眼の前に供された鮒味噌の姿造り。箸をそっと添えて見た。まるで箸の自重だけで、いともた易く身が解れる。口の中に、在りし日の母のような、やさしい甘さが広がった。臭みは何処にも感じられない。八丁味噌に染まった、あっさりとした鮒の柔らかな身と味わい。
水の都に相応しい逸品。 惜しみなく注がれた職人の手数が、素材の旨味を見事に引き出し、複雑に絡み合い、美味なる和音を奏で上げる。
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