今日の「天職人」は、愛知県岡崎市の「鋸目立て職人」。(平成十九年四月二十四日毎日新聞掲載)
シャカシャカシャカと庭先で 大工の棟梁鋸を引く メリヤス一丁地下足袋で 首に手拭い鯔背だね シャカシャカシャキン次々と 同じ長さに材を切る そよ風吹いて大鋸粉(おがこ)舞い 春の陽浴びてキラキラリ
愛知県岡崎市、今泉鋸目立の今泉幸人さんを訪ねた。

「鋸の目が落ちて『洗濯板』になると、引き肌が荒れて電鋸の音も変わって来るだぁ。目立てを済ませたばっかだと、おとなしく『シーン』と回っとるだで。それと目に木垢(きあか/脂)が付いてまうと『カッスカッス』と鳴くだぁ。まあ半世紀もこの仕事しとるで、鋸の音聞くだけで目の具合も手に取るようにわかってまうだわ」。幸人さんは、輪になった長さ七~八㍍の製材用大型鋸刃を撓(しな)らせた。

幸人さんは昭和十六(1941)年、鳳来町の農家で五人兄弟の二男として誕生。
中学を出ると材木屋を営む叔父から、「手に職を付ければ食いっぱぐれも無いで、目立て職人になれ」と。
「当時、豊橋は材木の町で、ようけ加工場があったじゃんね」。
昭和三十一(1956)年、夜具と衣類を持って製材所へ住み込み修業に入った。
「毎日、親方の自宅の掃き拭き掃除ばっかりだわ。見習いだもんで、給料なんか一銭も貰えんだで」。
それから半年。目立て職人の師匠が退職。
近所の鋸加工所へと移り、幸人さんも師匠に付き従った。
そこでも一年半は無給のまま。
「来る日も来る日も自転車の荷台に、輪になった長さ七~八㍍・幅二十㌢の刃を折り畳み、十枚ほど積んで三軒ほど製材所へ配達するだぁ。毎日十~十五㎞も自転車漕いで」。
夜七時に工場へ戻ると、兄弟子たちの使い走りが待ち受けていた。
「配達の途中でクリーニング屋の小僧とすれ違うだぁ。あいつらはいいだぁ。糊の効いたパリッとしたYシャツ着て。わしらぁ、黒ずんだ作業服でよれよれなんだで。わかるらぁ」。
無給の見習い修業から二年が過ぎた。
「やっとひと月に五百円貰えるようになっただぁ」。
しばらく後、同級生らと再会した。
「あいつら月に一万九千円も貰っとんだて。だもんでピシッとした背広着て、吊りバンドに白黒コンビの革靴履いて颯爽としとんだわ。恥ずかしいでわしは、裏返しにジャンパー着とったって」。
目立ては手鋸と、製材所の電動用帯鋸に分かれ、幸人さんは帯鋸専門の目立てを学んだ。

「まずは、刃先の広がり具合を整える『アサリ出し』を学んで、切り出す材に応じた刃と刃のピッチを覚えるだぁ。杉や檜は刃のピッチが細かい方がええし。一端になってやっと、刃の抜き型のコマで帯鋸の鋼を打ち抜いて目を立てるだぁ」。
昭和三十六(1961)年。それでも二十歳の頃には一端の目立て職人に成長。他所の鋸目立て加工所が、職工として引き抜いた。
「昔は製材所が、それぞれ目立て職人を抱えとっただ。でも徐々に合理化とかで、職人を置かんようになってまった」。
昭和四十四(1969)年、三重県尾鷲市出身の節子さんを妻に迎え、一男二女をもうけた。
その翌年に独立、現在も得意先の製材所の目立てを請け負う。
「鋼の腰が悪いと『ゼコゼコ』言うし、黒檀や欅みたいな堅い木だと『キャンキャン』と鳴くだぁ。まあええかげん年だし、身体はいっつか定年だて」。

目立て一筋、早や半世紀。
幸人さんは鋸が発する鳴き声一つで、刃の状態を誰よりも正確に読み取る。
天晴れ耳が命の目立て職人!
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