「天職一芸~あの日のPoem 145」

今日の「天職人」は、三重県鈴鹿市の「伊勢型紙彫師」。(平成十七年六月七日毎日新聞掲載)

コツコツコツと音たてて 伊勢型紙を彫り上げる      父の背中も丸くなり 蝉の抜け殻夏が行く         細かい柄を透かし彫り 眼鏡をずらし陽に翳(かざ)す   軒先揺れる風鈴が チリリトと鳴りて涼を呼ぶ

三重県鈴鹿市寺家(じけ)。江戸時代から続く、六代目伊勢型紙彫師の大杉石美(いしみ)さんを訪ねた。

写真は参考

「『出逢いもんがあるさかい』って、釣仲間に見合いをすすめられてなあ。鈴鹿の表具師っさんの娘貰(も)うて」。男は照れ隠しか、妻との出逢いをそう嘯(うそぶ)いた。

石美の名は、石積神社から拝命したとか。

俗に伊勢型紙の創始者は、江戸時代前期の型屋久太夫(かたやきゅうだゆう)とか。寺家の子安観音境内で、年がら年中咲く不断桜を眺め、虫食い葉から伊勢型紙の技法を思いついたのが、その発祥と伝えられる。

写真は参考

石美さんは昭和十一(1936)年、親兄弟全てが伊勢型紙に関わる家に、五人兄弟の末っ子として誕生。新制中学を卒業すると同時に、それが寺家に生まれし者の務めであるかのように、家業の修業を始めた。

先ずは、小刀砥ぎ。「刀(とう)が切れやんと、仕事んならんでなあ」。丸一年かけて砥ぎを身に着ける。この間、白紙の美濃和紙に穴を開ける「丁稚彫(でっちぼ)り」で練習を重ね、古本から図案を写し、彫り修業は進む。

写真は参考

やがて砥ぎの技術が上がり、刀が切れるようになると、八~十枚の型紙を重ねて彫る「突き彫り」へ。上から刀を直角に突き刺し、刃を上下させながら前へと彫り進む。突き彫りが一端と認められるまでに、凡(およ)そ三年。

ちなみに、型紙一枚だけを彫る作業は「引き彫り」と呼ばれる。

さらに五年近くの年月をかけ、厚重ねの突き彫りへと技を極め、その後(のち)一年のお礼奉公を務め上げ一端の彫師となって一本立ちへ。

昭和四十二(1967)年、冒頭の釣仲間の紹介で嫁を得、翌年一人娘が誕生。まだ当時の寺家のあちこちからは、彫師の繰り出す刀が、型紙を穿(うが)ち穴板に当って発する、コツコツコツと規則正しく刻まれる、小さな音が聞こえた。

往時の寺家は、全戸数の九十五%が型紙産業。紙屋、絵師、彫師、それに型紙に紗(しゃ)の網を漆で裏張りする紗職人が、軒を連ねるように技を競い合った。

一枚の着物に、柄を彫り抜く型紙は、前身頃(まえみごろ)、衽(おくみ)、襟(えり)、肩山(かたやま)と最低でも十六~二十枚が必要。

粋筋の江戸小紋ともなれば、色数によっては二百~三百枚の型紙を必要とする。

柄も様々。一つとて同じ柄ばかりを彫り続けることなどない。毎日新たな柄と、彫師の細かな指先の格闘が続く。

「夕食を八時頃に食べたら、それから明け方まで八時間ぶっ通し。夜型なんやなあ」。丸一日十二時間座りっぱなしでも、苦痛ではないとか。

写真は参考

「これ見てえな」。石美さんが取り出した一枚の型紙。陽に翳(かざ)してみると、細かい穴がびっしりと穿たれている。

「通し柄ゆうて、小さな丸い穴と穴の間が、髪の毛一本分も無いほどなんさ」。僅か一寸(三.0三㎝)角の中に、針の先程の穴が約八百個。ミクロの世界に迷い込んだかの錯覚に陥る。

しかし江戸時代から続いた寺家の反映にも、昭和も四十(1965)年代後半に差し掛かると、大きな陰りが生じた。

「思い切って、足袋から靴下へ履き替えて見ようかと」。

昭和五十一(1967)年、石美さんは着物の型紙から、暖簾や風呂敷にインテリア小物へと、彫師の技術を転用した。

「もう今し、寺家の型紙産業は、最盛期の十分の一程度になってもうて。ご先祖が護り抜いてきた技術も、やがて消え入ってしまうんやろなあ」。 石美さんは、段ボール箱に無造作に詰め込んだ、止め柄の型紙を引きずり出して陽に翳した。

「失のうてまうんは、簡単なこっちゃ。せやけど、伝え遺してくんはしんどいことやさ」。

南に向いた窓。窓辺から手前に傾く、畳一枚ほどの作業台。彫師が畳に座し、小刀に体重を預けて彫り進むに、都合の良い高さが保たれている。

昭和という時代を、伊勢型紙に刻み続けた老彫師は、窓辺を染める夕陽を眺め、作業台の傷の跡に指先を這(は)わせた。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「ななな、なんたるこっちゃあああ!!!」

一昨日ゴッド君が走り回ってやっと手に入れてくれた山椒の葉も、昨日の朝クール宅急便で届いた、郡上の知人の隣家の山椒の葉で、わが家は山椒農園のような有様。

「こうなったら、どんだけ食べてもいいからね!」と、サナギになりかけている一匹を除いた二匹を、山盛りの山椒の葉の上に乗せてやったものの、あらら???

いったいあの食い気はどこへやら・・・。

あまり口を動かさず、じっとしてばかり。

いささか気にはなりながらも、所用で出かけ深夜帰宅してビックリ!

ぼくの道具箱に引っ付いていた緑色だった幼虫君は、まるでミノムシのように変色してしまっているじゃありませんか!

ややや、もしやして???そう思って山椒の葉の中から、あとの二匹を探してもどこにも見当たりません。

こりゃあとの二匹たちもどこぞかで、サナギになる準備を始めたかと、部屋中探し回りました。

すると!

一匹は天井に!

もう一匹は、箪笥の奥の壁にへばり付いちゃってるじゃないですか!

でももう触って動かすことも出来ません!

後はこの三匹たちが無事に羽化して、大空を舞う日だけ夢見て、見守ってやるつもりです!

ああ!それにしても、皆さんの善意でやっとこさ手に入れた山椒の葉!どうすりゃあいいのよ!

なんなら、落ち武者殿!召し上がりますか?

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「やっとやっと手に入れた山椒の葉なのに~ぃ・・・」

協賛/松風苑

電車で国府宮へと向かい、夕方ゴッド君家へたどり着きました。

と言っても、矢合観音でバスを降りてから道に迷い、ゴッド君に迎えに来てもらう羽目になってしまったのですが・・・。

ゴッド君はこのように立派な、山椒の木を二鉢分も探し出してきてくれていたのです。

「ところであんた、どうやって持って帰るの?」とゴッド君に問われ、あまりの立派さに答えに窮してしまったほどです。

さすがにこんな立派で大きな木を、二本もエコバッグに詰めて帰宅時間に重なる夕方の電車に乗るのも憚られ、葉がよく茂った一鉢分の枝を持ち帰ることにしたのです。

さすがに満員電車の中で、山椒の枝の棘がどなたかに刺さっても、そりゃあ大変ですもの。

さぞや腹を空かしてぼくの帰りを待っているだろうと、急ぎ足で家路を急いでみると!

一番身体がまだ小さく、お腹を空かせて右往左往していた幼虫が、ぼくの道具箱に張り付いてじっとしているじゃないですか?

ええっ?????

よく見ると体から糸を出し、ぼくの道具箱に張り付いてサナギになろうとしているようです。

とは言え、まだお腹がすいているのではと、新鮮な山椒の葉を口元に運んでやると、オレンジの角を出して、もういらないとでもいうような素振りです。

あとの二匹の幼虫も、随分動きが緩慢になり、食欲もグンと落ちているようです。

後の二匹も間もなくサナギになるのでしょうね。

何ともお騒がせな一日でした。

ゴッド君、ありがとう!

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「えらいこっちゃー②!またしても緊急事態勃発!!!」

昨日の朝は、花屋さんやホームセンターに電話をかけまくり、やっと堀田にあるホームセンターに山椒の苗木の売れ残りが2鉢あると探し当て、取り置いていただき電車を乗り継ぎ、写真の手前に写っている2鉢を手に入れました。

しかしアゲハ?三兄妹のすこぶる旺盛な食欲に、いささかこれじゃあ足りないのではと、不安がよぎったものです。

でもさっそく山椒の苗木を与えると、もうご覧のような食べっぷり!

これにゃあさすがのヒロちゃんでも敵いませんか?

そしてそれなりに胸を撫で下ろし、眠りに就いて今朝起きたらまたもやビックリ!

一抹の不安が見事に当たってしまったのです!

昨日追加した山椒の苗木も見事に丸坊主!

ヒロちゃんのコメントにキャベツでもとあり、与えてはみたものの、キンカンの葉はおろかキャベツに見向きもせず、丸坊主になった山椒の枝に未練たらしくつかまっているじゃありませんか!

そこでコーヒーを一杯飲んだその足で、松原の花市場を巡って山椒の木を探しました。

しかし花問屋の方にお尋ねしても、虫が付くから扱ってないとか、2月頃には並んでいたけど、もう何処にもないねぇと・・・。

そこで奥の手だ!と、あのゴッド君に電話を入れ、緊急事態を告げ、どこぞかに山椒の葉が茂った木が無いかと問うてみました。

ゴッド君も仕事の前の忙しい時であったでしょうが、親身になって聞いて下さり、お仲間の方に聞いてやるとのこと。随分救われた思いがしたものです。

とは言え、ゴッド君をあまり当てにしてばかりいて負担をかけてはいけないと思い、いつも野菜やお米、それに山菜などを送ってくださる、郡上の知人に電話を入れて見ました。

すると奥方がちょっと探して見るからと、何とも期待の持てるご返事が!

それからしばらくすると、隣の家に山椒の木があったから、葉の良く茂った枝を分けてもらったから、宅急便で早速送ってやると!

なんとなんと、嬉しい限りです。

こうなったら何が何でも見事に羽化させてやって、大空に放してやらねばなりません!

皆々様の心温まる姿にただただ感謝です!

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 144」

今日の「天職人」は、愛知県額田郡の「石窯職人」。(平成十七年六月十四日毎日新聞掲載)

木立ちの中の煉瓦小屋 薪がパチパチ熾(おこ)り出す   胡桃を練った生地丸め 石窯パンを焼き上げる       頑固パン屋にお似合いの 飾り気の無い丸いパン      見場は兎も角頬張れば 素朴な風味舌鼓

愛知県額田町のエトセ工房、石窯職人の磯貝安道さんを訪ねた。

「石窯で焼いたパンに、二つと同じ焼き上がりなんてないらぁ。それくらい窯に騙されるだよ。だから奥が深くて面白いだぁ」。新緑の森の営み、鳥たちの歌声と風に戯れる梢の若葉。 安道さんは、石窯を背に振り返った。

安道さんは、昭和二十四(1949)年に愛知県高浜市で陶器瓦製造業を営む家の、八人兄弟の末っ子として誕生。高校を出ると直ぐ家業に入った。

「黙々と働くばっか。お金使うとこもないし、直ぐに貯金も百万円ほどに」。

独学で英語を学び、二十二歳の年に船便で、ハバロフスクからシベリア横断鉄道でヨーロッパへと向かった。半年に渡り欧州各国を巡り歩き帰国、再び家業へ。

「いつまでこんな仕事、続けるんだろうって」。じっとしては居られぬ衝動が、日々心の中で増殖した。関東には兄弟も多く、頼ってはならぬと、敢えて見ず知らずの大阪へ。若干二十四歳の新たな旅立ちだった。

「絵を描くのが好きで、画廊勤めを始めたんだけど」。明けても暮れても営業ばかりの毎日に、『何かが違う!』と半年で辞し、今度はネオンの瞬くクラブで、バーテンダーの職に就いた。

シェーカーが描く八の字振りが様になり始めた一年後、幼馴染と再会。外国貨物船の船員であった、幼馴染の話にすっかり夢中。直ぐに海運会社に職を求め、タンカーの賄夫(まかないふ)として乗り込んだ。

「自分への投資の時代だと決めていたんでね」。

二十七歳の年に再び実家へ舞い戻った。明治生まれの老いた両親が、定職も持たぬ息子の行く末を思案。両親の援助で、コーヒーと紅茶の専門店を開業。翌年には同級生の妻を得、二人の娘を授かった。

子供の成長に合わせ、安道さんの考えと生き方に変化が生じた。喫茶店開業から七年目、店を譲り渡して岡崎市内に木工製品の店「エトセ」を開店。木製品の手作り玩具から家具まで。まるで娘の成長に、歩調を合わせるかのように。いつしか『何かか違う』の台詞は消えていた。

天職を求め続けた流転の旅は、いつしか家族の絆に堰き止められた。 しかし興味は尽きない。販売だけで物足らず、見よう見真似で製造へ。とは言え、ずぶの素人。大工・木型屋・建具屋を巡り、材の選定からイロハを学んだ。

「今の三~四倍の労力費やしても、出来は今より数段劣った」。

やがて長女も小学校へ。「もっと自然豊富な環境で、子供たちを育てたい」。そんな思いで現在地へ。本格的な創作活動が始まった。家具作りから部屋作り、やがては建物のデザインまで。

「女房がパン好きで」。十年ほど前に山梨県のレストラン脇で、石窯焼きの武骨なパンと出逢った。

「石窯見とったら、出来そうな気がしてきて。だって子供作って育てるのに比べたら、何だって出来るらぁ」。妻は、石窯を欲しいとせがんだ。

ヨーロッパの文献を漁り、半年後、工房脇に煉瓦組の石窯を造り上げた。

「出来たぞ!って女房に言ったら、『何で自宅の脇じゃないのよ』って。だから石窯パンは、今もぼくが焼いてるじゃんね」。

総重量十tを越える石窯。約二m四方で、高さも約二m。まず地盤を六十㎝程掘り、鉄筋を入れステコンを流し込んで固める。次に赤煉瓦を腰高まで積み上げ、中に残土を詰めて搗き固め、鉄製窯を設置。

半球体の鉄製窯の直径は一.一m。片方にだけ四十㎝の口が開き、薪の出し入れや、パンの出し入れに使用。石窯の保温性を高めるため、窯の上に川砂や、火に当っても割れないと言われる雌石(めいし)で覆って蓄熱率を高める。

半球の奥半分で薪を燃やし、熾きを掻き出してから手前半分にパン生地を入れ、熱せられた窯の余熱だけでパンを焼き上げる。だから薪の量や季節、そして石窯全体が前の日に焼いた余熱を残しているかが鍵となる。温度計の数値は同じでも、パンの焼きあがりは別。それが冒頭の「窯に騙される」由縁とか。

 分け隔てなく育てた筈の子供も、例え同胞と言えど性格は異なる。パンも然り。パン焼きが商売なら、異なる焼き加減に苛立つ。

されど、「さて、今日の出来栄えは?」と、子供の成長を見つめる心境で愉しめば、そのすべてが愛しい筈。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「えらいこっちゃー!緊急事態勃発!!!」

まずはこちらをご覧あれ!

今朝見てビックリ!

山椒の葉がすっかり、落ち武者殿以上に丸坊主じゃないですか!

おかげでアゲハ?三兄妹はスクスクお育ちなんですが、これじゃあ餌の葉が足りないかもしれません。

ぼくはこれから、何はともあれ、山椒の苗木を探して、花屋さんや種苗店、そしてホームセンターを巡って、三兄妹の餌の買い出しに行ってまいります!!!

それまで頑張れよ!アゲハ?三兄妹よ!

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 143」

今日の「天職人」は、岐阜県笠松町の「志古羅(しこら)ん職人」。(平成十七年五月三十一日毎日新聞掲載)

卓袱台の上菓子折りは 誰が手向けた物やろか       蓋をずらせば肉桂(にっき)の香 そこはかとなく匂い立つ 父の帰りを待ち侘びて 蓋をずらして一つまみ       あれあれ別の手が伸びて 母もちゃっかり茶を啜る

一年前の夜。「もう在庫も無いで、明日は志古羅ん作らんなんで、早よ起きるわ」。

岐阜県笠松町で永禄五(1562)年創業の笠松志古羅ん、十六代当主、若き太田屋半右衛門(本名/高橋裕治)は、妻にそう告げると早めに床を取った。生後五ヶ月の愛娘に、風邪を移すまいと。

しかしそれが今生の別れの言葉となった。

享年三十八歳。早すぎて酷すぎる、突然の死であった。

「いつもなら朝五時半には、もう仕事を始めてる筈やのに、おかしいなあと思って。そしたら布団の中で冷たくなってしまって」。妻、真紀子さんは、伏目がちにつぶやき、込み上げる無念の涙を悟られまいと、一歳七ヶ月の未朋(みほ)ちゃんを抱き上げた。

夫の死から一週間。不幸があったことなど知らぬ遠来の客が、志古羅んを求めて訪れた。

「もう在庫も底を付いて。けど誰一人、作り方も知らんし。わしがいっぺんやってみよかって」。故・裕治さんの父勝一さんが、家業の危機を見かね腰を上げた。

元々、十四代太田屋半右衛門に子は無く、姪の故・洋子さん(後の十五代目女将)を養子に迎え家業を託した。

志古羅んの由来は、戦国の世に溯る。

時の太閤、豊臣秀吉が上洛の途中、木曽川堤で憩うた折り、家伝の米菓子を献上。「風味豊で、蘭の香気が鼻を打つ」と愛(め)で、その形が兜の錣(しころ)に似ていることから「しこらん」と名付けられたとか。

一方勝一さんは、愛知県木曽川町で誕生。中学を卒業すると、和菓子職人を目指した。しかし隣の一宮から聞こえる、ガチャマン景気に沸く声に誘われ、姉の家の毛織工場へと職替え。その後、叔母の世話で二十六歳の年に、高橋家へと婿に入った。

「家内が細々と、暖簾を守っとっただけやて」。

三男一女を授かり、六十三歳で毛織工場を退職。 既にその頃には、大学卒業後京都に上り、五年に及ぶ和菓子職人の修業を終えた、故・裕治さんが実家に戻って十六代太田屋半右衛門を名乗り、志古羅ん作りに励んでいた。

平成十三(2001)年、友人として付き合いのあった、岐阜市出身の真紀子さんが嫁ぎ、何もかもが順風満帆に見えた。

しかしそれから僅か一ヵ月後。息子に家伝を引き継ぎ、まるで安堵したかのように、十五代洋子さんは他界。先代を亡くした悲しみに暮れる暇も無く、裕治さんは創作和菓子の通販へも乗り出し、寝る間を惜しんで菓子作りに精を出した。

それから二年後、未朋ちゃんが誕生。一家に明るさが広がった。

悠久の銘菓志古羅んは、まず吟味された餅米を蒸す事に始まる。それを天日干し。頃合を見計らって炭火で水飴と砂糖を煮絡める。程良く絡まったところで平らに延ばし、肉桂を加えて自然乾燥へ。

「郷土の身近なお菓子やでね。志古羅ん切った時に出る粉を、買いに来る方もあるほどやて」。勝一さんは、在りし日の息子の遺影を見つめた。

「わしはやっぱり十五代目の家内の連れ合いやて。十六代目の女将が嫁で、何時の日か孫が十七代目を名乗ってくれたらええなあ」。取材の冒頭、勝一さんに『何代目になられますか?』と尋ねた回答が、重い口からやっと零れ出した。

複雑に絡み合う、人生の幾何学模様。

何人たりとも、一言で語り尽くせるものなど無い。

「夫の死で、消えかかった志古羅んの伝統を、義父が見事に護り抜いてくれたんです」。真紀子さんは、未朋ちゃんをあやしながら菓子器を見つめた。

水飴に輝く、素朴な風合を留める志古羅ん。まるで亡き夫の面影を忍ぶかのように。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「紫陽花の花嫁」

先日26日は、娘の誕生日でした。

満27歳です。

いよいよ結婚も近付き、今は将来の旦那様と一緒に、式場選びにテンヤワンヤとか。

一番いい時だから、この時間を大切にするんだよと、メールを送っておいたものです。

まさにこの「紫陽花の花嫁」を、そっくりそのまま持たせてやりたいものだと、そう想う今日この頃です。

今夜は、このシーズン二度目になりますが、先週ブログのコメント欄にも、ヤマもモさんからリクエストを賜りました「紫陽花の花嫁」をお聴きいただきたいと思います。

「紫陽花の花嫁」

詩・曲・唄/オカダ ミノル

雨に打たれる度に その色を深め 見事に咲き誇る 紫陽花のように

白いドレスを揺らし 一度振り向いて 真紅の道を行く 君にどうか幸あれ

 紫陽花の花嫁は 誰よりも幸せになると

 月並みな言葉だけれど 二人していつの日も信じて

 今日からこの先は どんなことがあっても

 決して振り返らずに お互いをいつの日も信じて

雨に打たれる度に 心強くあれ 命を懸けて咲く 紫陽花のように

幸せは比べたら 直ぐに色褪せる 君が信じた道 目を逸らさないで

 紫陽花の花嫁は 誰よりも幸せになると

 月並みな言葉だけれど 二人していつの日も信じて

 もし辛い出来事に 打ちのめされたとしても

 紫陽花の花のように 叩きつける雨さえも受け止めて

 紫陽花の花嫁よ 誰よりも幸せであれ

 月並みな言葉だけれど いつまでもお互いを信じて

 もし辛い出来事に 打ちのめされたとしても

 紫陽花の花のように 叩きつける雨さえも受け止めて

続いては、CDの音源から「紫陽花の花嫁」お聴きください。

ところで、わが家のベランダの真っ白な紫陽花はとても元気ではありますが、この所もっぱらマイブームに火を付けてくれたのが、山椒の木の鉢植えに巣食った「アゲハの幼虫?三兄妹」君たちです。

今日は、すっかり緑色に変色を遂げ、益々日々成長を続けている「アゲハの幼虫?三兄妹」の動画をご覧いただきたいと思います!

題して「お兄ちゃんは爆睡中!ワタシは、色気より食い気のランチタイム!」です。

日に日に逞しく成長を続ける、アゲハの幼虫?三兄妹には、癒されたり笑わせてもらったり、子どもの頃の接し方とは随分違ったものです。

そう言えば、ちょっとふざけて三兄妹の誰かはわかりませんが、頭をちょっとだけ触ってやったら!

いっちょ前に「何だよぉ!」ってな感じで、こんなオレンジ色の可愛らしい角を振り上げ威嚇してくれました。

これからも目が離せそうにありません!

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「初めて買ってもらったトランジスタラジオの思い出!」。なんでも今日は、トランジスタの日なんだとか。ぼくが初めて買ってもらったトランジスタラジオは、中学に上がってからの事でした。一応カセットテープで録音もできるもので、横30cm、縦25cm、幅7cmほどの大きさで、片側にワイヤレスマイクが付いていた気がします。今思うとあの渋ちんなお母ちゃんが、よくもまあそんな当時のわが家に取っちゃ高価なものを、買い与えてくれたものだと改めて感心するばかりです。そのラジオで深夜放送を聞くようになり、マイクを使ってラジオ番組の真似事を録音したりしたこともありました。そう言えば、あの大切だったはずの、ぼくのトランジスタラジオ、何処へやっちゃったか!落ち武者殿はご存知ありませんか???

今回はそんな、『初めて買ってもらったトランジスタラジオの思い出!』。皆様からの思い出話のコメント、お待ちしております。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

クイズ!2020.06.30「残り物じゃないクッキング②~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回も残り物ではありませんが、ちょいとイタリア~ンな、『クイズ!「残り物じゃないクッキング②~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

ちょいとイタリア~ンな料理にしようかと作り始めてビックリ!

いつも常備しているカットトマトの缶詰が品切れじゃありませんか!

ある程度下拵えを始めていたので、今更急に後戻りも出来ません。何かそれに代わるものはと、保存庫と睨めっこをしていたら、名古屋メシのレトルトパック入りのソースがあるじゃないですか!

ならばそれを代用してしまえってなもんで、今回はこんな作品になりました。

では頭を柔軟にして、どしどしコメントをお寄せ願います。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 142」

今日の「天職人」は、愛知県蒲郡市の「鼻緒職人」。(平成十七年五月二十四日毎日新聞掲載)

浴衣の君の手を引いて カランコロンと下駄鳴らす     鎮守の杜に燈が灯りゃ 祭囃子も夏を呼ぶ         綿飴を手に駆け出して 目当ての夜店(みせ)で屈み込む  針金細工紙のタモ 金魚掬(すく)いの君が夏

愛知県蒲郡市のこばやしはきもの店、三代目の鼻緒職人・小林和徳さんを訪ねた。

橋の袂。鼻緒の切れた下駄を片手に、困惑顔の町娘。

「お嬢さん、あっしの肩につかまりなさい」。若い手代が娘の前に屈み込み、手拭を引き裂き鼻緒を挿げ替える。時代劇によくある出逢いの場面だ。

「両親が亡くなって、女房が店の面倒を見るようになった時、『下駄の挿げ方なんて、俺らあ知らん』って、惚(とぼ)けとったじゃんね。まだサラリーマンやっとっただで」と和徳さん。傍らで妻がくすりと笑った。

明治四十二(1909)年創業のこの店に、和徳さんは三人兄弟の長男として昭和十六(1941)年に誕生。地元の高校を上がり東京の大学を出て、コンピューターのシステムコンサルティングの職に就いた。

とは言え、昭和四十(1965)年のこと。

まだ前年に初の国産高速コンピューターが、開発されたばかりの時代である。

昭和四十一(1966)年に名古屋へ転勤となり、それから四年後に豊橋市出身の清子さんを妻に迎えた。 一男二女を授かり、昭和五十五(1980)年に実家へと戻り、先代親子と共に同居へ。

「親父が亡くなってから、母が女房に仕入れと、下駄の挿げ方を教えただよ」。しかしやがてその母も他界。和則さんが定年を迎え、店を継ぐ決心を固めるまでの間、妻は細腕一つで暖簾を護り抜いた。

「来る時が来たら、そん時は店閉めればいいかなって思うとっただあ」。平成十四(2002)年、晴れて定年退職。店をどうすべきか、思案に暮れている頃だった。

「がまごおり商店ご自慢コンクール」への出品話が持ち上がり、昔取った杵柄を、腕試しとばかりに振り上げた。

地元の三河木綿を鼻緒に誂(あつら)え、それを挿げた下駄を出品。見事、受賞と相成り、眠っていたはずの鼻緒職人としての遺伝子が目を覚ました。そうなると、後はもう止まらない。これまでの空白の時間を取り戻すかのように、和徳さんは子供の頃の記憶を手繰り寄せ、鼻緒作りに励んだ。「幸い道具は、残っとったじゃんね」。

写真は参考

鼻緒作りの工程は、多岐に渡る。まず、客が持ち込んだ思い出深い生地を表面に、甲に当る裏側には本絹三越織りの生地に裏打ちし、表を内側に重ねて裁断。

両脇をミシン縫いし、巨大な耳掻きに似た、先端の曲がった自転車のスポークでひっかけ裏返す。 次に海苔巻の要領で、海苔の代わりのハトロン紙に、シャリのように綿を広げ、干瓢(かんぴょう)の様にボール紙の芯と、縄芯と呼ぶ麻と化繊の紐を載せ巻き上げる。

そして、細長く筒状に縫い上げた鼻緒の中へ、巨大な耳掻きを差し込み、真ん中で二つ折りに。

「この前壺をかがる二つ折りが、鼻緒の命じゃんね」。 鼻緒に前壺をかがり、アイロンで熱を加え押さえ込む。前壺とは、足の親指と人差し指の付け根に当る鼻緒の先端部で、鼻緒と同じ要領で細工される。

男物三十八㎝、女物三十六㎝の鼻緒の仕上げは、両端を糸で〆込む。

「子供の頃は盆暮れになると、何百足って鼻緒の挿げ込みを手伝っただあ」。和徳さんはそうつぶやきながら、鼻緒の端に目打ちで穴を開け、縄芯の端を通して絞り込む。 それを今度は、下駄の三つの穴に通し、鼻緒が挿げられる。

前壺の裏側には、兎や花の裏金を打ち付けて縄芯の結び目を隠す。踵側の二つの縄芯は、両方を一つに結んで巻き上げる。

写真は参考

「鼻緒を挿げる時は、その人の歩き方の癖を聞いて、足の形を見ながら甲高に合わせて挿げるだて」。とても、四十年に及んだ会社勤めの隔たりなど、先ず持って感じさせぬ堂の入り様。

「所詮、下駄も鼻緒も日用品だで、どんなに高価な物でも、何時かは磨り減らして捨てるだあ。だもんで、美術品や工芸品になったら終いだて」。

鼻緒職人は、傍らの妻を見つめ、まるで自分を諭す様につぶやいた。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。