「天職一芸~あの日のPoem 151」

今日の「天職人」は、愛知県額田郡の「造り酒屋主」。(平成十七年七月二十六日毎日新聞掲載)

杉の木立ちを縫うように さやけく流る神水(かんずい)は やがて小さな沢となり 静かな郷に舞い降りる       麓の郷に秋茜 畦に色付く彼岸花             造り酒屋の軒先に 杉玉上がりゃ喉が鳴る

愛知県額田町で天保元(1830)年創業、柴田酒造場の七代目主、柴田卓男(たかお)さんを訪ねた。

「米の出来不出来で、酒の柄がいいか悪いか決ってしまうでね」。造り酒屋の老主人は、いきなり酒に人格を与えてそうつぶやいた。

卓男さんは大正十五(1926)年に、六人兄弟の二男として誕生。とは言え、兄弟を死産や病死で次々と失った。

昭和十九(1944)年、戦局は悪化の一途を辿る中、安城農林高校を卒業し鳥取県の大学へ。「学徒動員に巻き込まれて、九州で終戦だわ」。

昭和二十二(1947)年に実家へと帰還。

その後一年足らず、村の中学校で教鞭をとり、家業へと身を投じた。

「GHQの農地改革で、十五町歩(約十五ha)もあった田んぼを一反七百円で解放させられただぁ」。

全国各地の大地主は、先祖代々護り続けた田畑(でんばた)を泣く泣く手放す憂目となった。

「あの当時の酒は、全国的に統制物資の不足を補うため、三倍酒と呼ぶ合成酒が幅を利かせとった」。廃糖蜜などを発酵させ、蒸留したアルコールを添加したり、アルコールに糖や酸を添加する増醸法だ。

戦中戦後の混乱は、静かな農村の造り酒屋にも容赦なく押し寄せた。

「一級上の友人に、『まだ嫁さんの来てが無いのか』とからかわれて」。昭和二十五(1950)年、隣村から嫁を得て二人の娘が誕生。時代は、朝鮮動乱による特需の追い風を受け、本格的な復興期へと差し掛かっていた。

そんな矢先の昭和三十(1955)年、幼子(おさなご)二人を遺し妻が急逝。

周りの薦めで妻の妹と再婚し、一人息子を授かった。

毎年十月二十日、杜氏(とうじ)と蔵人(くらびと)を迎え、酒六(さかろく/六尺樽)への仕込みが始まる。

まずは地元産の米を、真っ白に精米し洗って蒸す。

「冷夏だった年の未熟な米は、砕けてしまうだぁ」。

傍らで八代目の秀和さんが、四分搗き(六割を糠にして、四割を酒造りに用いる)に精米された米を差し出した。

蒸し米と酵母に糀と水を入れ、二週間かけて酒母(しゅぼ)を作る。そして酵母の数を増やしてから本仕込へ。

酒母に蒸し米と糀に水を加え、三回に分けて仕込み、二十日程して「荒走(あらばし)り」「中汲(なかぐ)み」「攻(せ)め」の順で搾り切る。

「最初に絞る荒走りは、まだ味が若い。やっぱり真ん中の中汲みが、一番旨いですね」と、若旦那。

半年から一年弱、新酒は蔵の中で深い眠りに就く。

「だいたい十二月に仕込んで、翌年の秋に杜氏が杉玉を作り『新酒、出来ました』って、軒先に吊るすんです」。

野球選手に憧れたという、立派な体格の若旦那は、茶色くなった杉玉を振り返った。

若旦那は、大阪の大学を出ると、兵庫の造り酒屋で二年間修業。その後、東京の醸造試験所で一年間、酒造りを学んで家業を受け継いだ。

「この土地の米と水。それが酒造りの命です」。若旦那はきっぱりと言い放った。

「ここらの字名は、神の水と書いて神水(かんずい)と読むだあ。この山を登って行くと、川へ注ぐ源流が湧き出しとるだで」。先代は、清冽な水の恵みを、まるで我が事のように、誇らしげにつぶやいた。

八代続く額田の酒は、郷土が産する米と、地下に凍み込んだ神の水で、じっくりと搾り出したる生一本(きいっぽん)。大吟醸「神水仕込(かんずいじこみ)」と、三代続く吟醸「孝(こう)の司(つかさ)」の逸品。

八代続き左党を唸らせた、郷の慶弔には欠かせぬ脇役が、今宵も郷の宴を司る。

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「おお~っ、昔はお世話になりましたぁ!」

初めてマックのハンバーガーを食べたのは、確か高校一年の時だったと記憶しています。

名古屋の昔の丸善ビルを南に入った、昔のダイエーとの間くらいにあった、名古屋では一号店のマックでした。

ハンバーガーが確か一個360円。当時の高1には、途轍もないほどの贅沢品です!

ガラス張りの向こうの鉄板の上で、お好み焼きのようにバンズとパテで焼かれていたような・・・。

そりゃあもうほっぺたが落ちるほどの美味しさでした!

ところでつかぬことをお尋ねしますが、落ち武者殿!

ぼくが落っことした頬っぺた、どこへやったかご存じありません?

まあ、そんなことはさておき、先だってよんどころない事情で、とある海沿いの町へ出かけ、次の電車待ちまでの間に寂れた街を彷徨っていると、この錆びれた自販機を発見いたしました。

若き日、自分の車を買ってから、オートドライブインとかって、自販機だらけの24時間営業のところで、何度かこの自販機からハンバーガーを買わせていただいたものでしたねぇ。

でも自販機によっては、電子レンジのタイマー設定が微妙に違うのか、バンズに含まれている微かな水分まで蒸発してしまって、カッチカチになっていたのが妙に懐かしい気がいたします。

当時いくらだったかは覚えていませんが、安くも高すぎることもなかったようで、もう一度見かけたら懐かしさで思わず買ってしまいそうです!

皆さんもそんなご経験がおありなのでは???

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「天職一芸~あの日のPoem 150」

今日の「天職人」は、三重県桑名市の「茶道具指物師」。(平成十七年七月十九日毎日新聞掲載)

ぶんぶく茶釜煮え立って チンチン湯気を吹き飛ばす    ドロンと狸飛び出せば 蛙(かわず)も跳ねる縁側で    茶人気取りでカシャコショと 茶筅鳴らせば鳥も鳴く    夏の盛りの通り雨 忙しきことよ獅子脅(ししおど)し

三重県桑名市のこんどう工房、茶道具指物師の近藤千力(ゆきちか)さんを訪ねた。

写真は参考

「これ見てみいな。なとして組んであるか、あんたら解るか?」。麻痺の残る身体を重たげにもたげ、老職人は立ち上がった。隣の部屋から岡持ちほどの大きさをした、茶道具を持ち運ぶための屋久杉製茶箱が、座卓の上へと置かれた。

千力さんが指差した茶箱の四隅には、蟻組(ありぐ)み細工の技法が取り入れられている。

写真は参考

普通の指物であれば、片方が雄ならば、それを受ける側は雌の受け口となる。

しかしこの蟻組みの技法は、組み合わせる両方の板共に、両端に雄雌両方の凹凸が交互に細工され、一度組み上げたら最後、二度と外れぬほどの強靭さが得られる。

「斜交(はすか)いに切り込んで、それを組み込んであるやろ。どやったら出来るか、あんたらには解らんやろなあ。それくらい、難しい組み方やで、誰も真似できやんわさ。わしも親方に教えてもうては、永い間かけてそれを改良して来たんやで。教えて欲しい言われても、まあ絶対教えやんわさ」。

写真は参考

千力さんは昭和四(1929)年、桑名で八百屋を営む家の二男として誕生。尋常高等小学校を卒業した昭和十九(1944)年、三菱航空機に入社し、養成工として戦闘機の部品作りに励んだ。

「終戦後は、一番上の姉婿が建具屋の親方しとったもんやで、下働きの弟子にしてもうて。建設会社の下請けで、松阪の現場へ六年行っとった」。

義兄の親方の下、炊事洗濯の下働きに始まり、すり上げ障子等の建具作りを身に付けた。

建具職人としてのイロハが、朧げに分かりかけてきた二十三歳の年、転機が訪れた。

「親方と喧嘩してもうて、親父の在所があった員弁郡藤原村(現いなべ市藤原町)で、独立して建具屋始めたんやさ」。

順風満帆、薔薇色の人生が訪れるはずであった。しかし。

「一年に一軒、たんまに家が建ちゃあいい方なんやさ。後はそこらへんの、おかしな仕事しかあらへんのやで」。二年後ついに見切りをつけ、桑名市内へと移転。

二十七歳の年に、親方の姪を嫁に迎え、三人の子を授かった。「好きも嫌いもあるかさ。親方が決めてもうて」。時は昭和三十一(1956)年。一部の大都市を除き、未だ職人の世界には、封建的な徒弟制度が色濃く残っていたそうだ。

住宅需要が引っ切り無しの、高度経済成長期と歩調を合わせ、近藤さんは建具作りに追われ家族の成長を支えた。しかし昭和も四十(1965)年代を下る頃になると、サッシが登場し急激な勢いで建具の職が薙(な)ぎ払らわれて行った。

「そんな頃やった。茶道のお師匠はんが『こさえてまえんか』って、訪(たん)ねてこられて」。世は終戦の太平から約三十年、文化教室華盛りを迎えつつあった。

茶筒、菓子器、茶箪笥、棗(なつめ)から、冒頭の蟻組みの茶箱まで。中でも蟻組みには、指物師の力量が惜しみなく発揮される。

まずは、材となる屋久杉・桐・杉への丁寧な鉋掛け。次に、頭の中の設計図を頼りに、指物の真骨頂たる蟻組み細工の凹凸を斜交いに施す。

斜交いの凹凸を、平らに繫ぎ合せるだけでも至難の技だ。

写真は参考

しかし近藤さんの蟻組み細工は、底板・側板・天板が、いずれも直角にぴたりと寸分の狂いもなく組み合わさる。仕上げは、慳貪(けんどん)と呼ばれる蓋だ。

取っ手を持って蓋を上げ、下側を斜め手前に引いて外す。茶道の優雅な和装の所作には、何とも似合いすぎる。

「六十年もようやったわ。飽きやんと」。

蟻組み細工を施す指物師は、全国広しと言えど近藤さんの他に数多くはいない。

跡取りはと問うた。「こんな仕事、もう誰(だ~れ)もせやん。でも近いうちに、腕のええ職人に教えといたろと思(おも)て」。

宮大工の蟻組み(写真は参考)

茶人が描く、侘び寂びの境地。

匠は、人知れずこっそりと、己が技のすべてを注ぎ、茶箱の四隅に組み込んだ。

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「天職一芸~あの日のPoem 149」

今日の「天職人」は、岐阜市川原町の「鮎炭火焼き職人」。(平成十七年七月十二日毎日新聞掲載)

ほろ酔い歩く城下町 浴衣姿で涼み行く          夜店を巡り品定め 盥(たらい)のラムネ君が手に     鼻をくすぐる香ばしさ 道行く人も立ち止まる       炭焼き鮎にかぶりつき ぼくはビールで喉鳴らす

岐阜市の川原町泉屋、五代目泉善七さんを訪ねた。

「蓼(たで)喰う虫も好き好き」ならば、焼きたての鮎を蓼酢(たでず)に浸けるのも然りかな。「いや、家ではそれは邪道。蓼酢で臭みを消すような鮎は、使ってませんから」。 善七さんは、焼き場の備長炭に火を熾(おこ)しながら、きっぱりそうつぶやいた。

善七さんは昭和四十一(1966)年、創業明治二十(1887)年の老舗に誕生。長女の誕生から十年を経て、やっと授かった跡取り息子だった。

当時の泉屋は、長良川の恵みである鮎やハエを加工した、高級進物品から佃煮までの加工販売が中心。

「子供の頃から、父に連れられて一流の料亭や割烹、それに高級なステーキを食べさせてもらってました」。食通の父の影響は、味覚に対する感性を磨き上げた。

しかし高校二年の時に、先代が他界。翌年、高校三年在学中に本名の栄一から、五代目善七を襲名した。

「本当は、これでも外交官になって、世界中を巡るのが夢だったんです。だから『ああっ、これで俺の人生が決ってしまった』って感じで」。大学進学を前に、儚い夢は泡沫(うたかた)となって長良川を下った。

東京の大学を出ると、店に戻り古参の職人に混じって製造を学んだ。「よく職人と喧嘩しました」。一徹な職人達は、やがては主人と仰ぐ器かどうか、若干二十二歳で鼻っ柱も強い善七さんを、心の奥底で試していたのだろう。

それから二年後、高校時代の同級生を妻に迎え、二人の娘を授かった。「両親にとって、自分が遅い子でしたから、早く子供が欲しくって」。京都の大学に通う妻と、東海道五十三次分の遠距離恋愛が成就した。

バブル経済の崩壊は、少なからずとも泉屋にも影響を及ぼした。それまでは百貨店でも飛ぶように売れていた、ご進物用の高級ギフトもさっぱり低迷。

「ギフトの行き詰まりを感じてました。でも、鮎を食べること自体はなくならないだろうと」。 今から十年ほど前のこと。市内の繁華街にある本店の店先で、夏場だけじっくりと炭火で四十分かけて焼き上げた鮎の塩焼きを販売した。

丸ごと一匹の天然鮎は、どこにも包丁を入れず、ただ天日塩だけを程よく振り、そのまま炭火にかけられる。

熾りに落ちた鮎の脂が、灰と共に舞い上がり再び鮎の柔肌を覆い尽くす。

何とも言われぬ馨しい薫りが、鮎の身の中へと封じ込められてゆく。

並々ならぬ善七さんのこだわりが、ついに報われた。

三年前のある日、関西の食通雑誌記者がふらりと訪れ、鮎の炭火焼の虜に。以来、全国各地からその評判を聞きつけ、本物の鮎を賞味しようと食通達が訪れた。

今年六月。長良川の辺に残る、古い町並みの一角に、念願の新たな店を開業。「この辺りは昔、筏流しの拠点で、筏の下に群れるハエを『いかだばえ』と呼んでおったんです。それが創業以来の看板商品『いかだばゑ』の甘露煮です」。鮎にも負けぬ味わい、いかだばゑの商品は、泉屋五代が今日まで護り抜いた。

その発祥地とも言うべき場所に立ち返り、五代目善七は、今日もパチパチと炭火を熾し、天下一に違わぬ天然鮎を焼き上げる。

「河口堰が出来てから、この辺の苔が悪くなって、鮎も臭い。だから家は、郡上辺りの上流で上がる天然ものを取り寄せてます」。

長良の清流に生きた鮎だけが、神の与えた天然無垢の「スッピンの旨さ」を宿す。

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「天職一芸~あの日のPoem 148」

今日の「天職人」は、愛知県豊田市の「御幣餅(ごへいもち)職人」。(平成十七年七月五日毎日新聞掲載)

せせらぎ覆う森の木々 水面に揺れる木漏れ日と      戯れながら糸蜻蛉 夏の訪れ告げて舞う          涼を求めた山間に 峠茶屋から立ち込める         小夏至(こげし)醤油の香ばしさ 三州足助御幣餅

愛知県豊田市の上坂(こうさか)商店、三代目・御幣餅職人の上坂敏明さんを訪ねた。

「餅は、半殺しに練らんとかんだあ」。いきなり物騒な言葉が、任侠映画さながらに、白衣をまとうやさしい顔をした男の口から飛び出した。

もともと足助町で明治四十五(1912)年に、祖父の藤太郎が創業。雛人形の内裏様が手にする御幣を真似、五角形の御幣餅を考案したとか。

「御幣の形をした御幣餅は、家が元祖だもんで、看板にも『元祖御幣餅』って書いとるじゃんね」。

敏明さんは、昭和十六(1941)年に足助町で二男として誕生。

中学卒業後、名古屋でスクーターの販売修理会社に就職した。「機械油の臭いが、どうにも性に合わんだあ」。

三年後、書籍販売の営業に身を転じた。丁度その年、両親は店を豊田市の現在地に移転。「兄が弟を連れて、豊田で呉服屋やりかけただもんで。それと、ここには当時製糸工場があって、そこの女工さんらでいっつも満員でよう流行っとっただあ」。

三年後には、三重県津市の営業所へと転勤。書籍販売に明け暮れる傍ら、事務員の金子さんとぞっこんの仲となり、昭和四十二(1967)年、ついに本懐を遂げ結ばれた。やがて二人の娘が誕生。三重県を、第ニの故郷と思い始めた頃だった。

四十を前に職場での責任も高まり、その重圧から内臓疾患を患い開腹手術の憂き目に。「そろそろ家で出来る仕事に就こうかと。両親も年老いて来とるし」。 四十歳になり豊田の実家へと戻り、調理師学校でまさに四十の手習いで免許を得た。

「だけど家のような店は、調理師免許なんていらんらしいだ。まあ、別にあったからって困るもんじゃなし」。敏明さんは、壁に掲げられた免状を指差した。

御幣餅の原料となる米は、地元産の物と、妻の在所で生産される米とを、適量の配分で混ぜ合わせる。「米には、良い時悪い時それぞれに斑(むら)があるらぁ」。研いだ米を一晩、カルキを抜いた水に浸し、三升釜で芯が抜け切る直前まで炊き上げ、臼に入れ杵で「半殺し」と呼ぶ六.五分ほど餅状にする搗き方で練る。

練り上げたら熱い内に、木綿の敷布を敷いた御幣型に入れ、竹串を差して形成。「それをロジ(御幣型を重ね入れる木箱)に入れて、ほとり(火照り)を抜いてまうだぁ」。

熱が抜けたところで敷布を持ち上げ、型から放す。「御幣餅は、敷布の布目の方が表じゃんね」。後は注文を待って、炭火にかざしながら、焼け斑が出来ぬよう、表側から素焼きし、特製の醤油だれを付けもう一度炙る。

一本ご飯茶碗八分目、有り難い元祖御幣餅の出来上がり。

わざとらしい甘味などない、秘伝の特製だれは、醤油と水で、白胡麻と粉山椒を入れ、トロミが付くまで毎晩煮込んで仕込む逸品。

選び抜かれた粳米(うるちまい)と、炭火に焦げる秘伝の醤油だれが、否応なしに鼻腔をくすぐり、皿から口元へと運ぶわずかな時間が待ち切れず、口中に唾液が溢れかえる。

「家の店の横綱は、『旨い旨い』って、気が付いたら一回で二十本。それが最高記録じゃんね」。

背広を白衣に着替えた、四十の手習いから早二十四年。すっかり三代目の風貌が板に付き、炭火の前に立つ姿は、何とも収まりが良い。

「いらっしゃい」。引き戸から忍び込む、そよ風のよう。飾り気のない柔らかな声が吹き抜けて行った。

さあ今日も、千客万来。

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「七夕~『願い星』」

正直言って62年生きてまいりましたが、肉眼で天の川も、ましてや織姫様や彦星様を見上げた記憶がありません。

でも62年間ずっと七夕の夜が、曇天や雨模様の日ばかりではなかったことでしょうし、それはまたどうした塩梅だったのだろうと、今更ながら感じています。

恐らく子どもの頃、プラネタリウムで見せていただいた天の川があまりにも奇麗で鮮烈であり、実際の夜空で煌めく星空とは異なって見えたから、夜空にまたがる天の川さえも容易に探し出せなかったのかも知れません。

もちろん天体望遠鏡など、そんな贅沢品がわが家にあろうはずなどありませんし。

だったら今夜の七夕こそはと、そう手ぐすねを引いては見たものの、やっぱり曇天並びに一時雨とか。

これじゃあ夏を彩る星たちのラブロマンスを見上げ、一杯などともまいりません。

今夜のぼくは、天の川と織姫彦星の代わりに、すっかり蓑虫色に変色した、アゲハ?の幼虫三兄妹の動かぬ姿でも眺めながら、グラスを傾けていることでしょう。

今夜は、見える見えないは別として、七夕ですから、以前にもお届けいたしましたが、やはりWish Star「願い星」をお聴きいただきましょう。

まずは弾き語りでバラードっぽく「願い星」です。

『願い星』

詩・曲・唄/オカダミノル

逢いたくて逢えなくて 君の名前呼び続けた

夜空に煌めく星を結び 君の顔を描いて

 どんなに愛を語ろうと こんなに心震えても

 君はただ 瞬くばかり

願い星伝えてよ もう一度だけ逢いたいと

そして必ず君だけに 生きて見せると

逢えなくてもどかしいと 心だけが夜を駆ける

君の寝顔に寄り添う心 気付いたろうか

 どれほど愛を語ろうと どれほど心震えても

 君の声が ぼくに聞こえない

願い星伝えてよ もう一度だけ逢いたいと

君を奪って二人そっと 生きてゆこうと

 どんなに愛を語ろうと こんなに心震えても

 君の声が ぼくに聞こえない

願い星伝えてよ もう一度だけ逢いたいと

君を奪って二人そっと 生きてゆこうと

続いては、ジャズっぽいアレンジの「願い星」お聴きください。

そして最後は、CDからオリジナルの「願い星」お聴きください。

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「子どもの頃のおまじない!」。今日は願い事を短冊に認める、七夕です。皆様は願い事を書かれ、笹の葉に吊るされましたか?ぼくはアゲハ?の幼虫三兄妹の発育に目が回り、すっかり失念しておりました。

でもよくよく思い起こせば、子どもの頃は強欲な物で、叶いっこないような願い事や、今日を占うまじないなんてぇのを、自分に都合の良い結果がでるまで、何度も何度も繰り返したりしたものです。

下駄や靴の片一方を蹴飛ばして、裏か表で天気を占ったり、片手の五本指の先っちょから指と指の付け根を行ったり来たりさせながら、二つあるお菓子のどちらかを選ぶのに迷った時などにやっていた、あの「どちどちどちらにしましょうか?天の神様の言う通り!ギッタンバッコンオマケ」と、指の先と指と指の谷間を行ったり来たりさせるまじないとか!

皆々様は子どもの頃、どんなまじないをなさいましたか?

今回はそんな、『子どもの頃のおまじない!』。皆様からの思い出話のコメント、お待ちしております。

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クイズ!2020.07.7「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

今回は、パスタです!

しか~しっ!そんじょそこらの洒落こいたイタリア~ンなパスタとは、一線を画したものです。

何と言ってもアゲハ?の幼虫三兄妹が残していった、お宝が山のようにございますから、それをせっせと処理してしまわねばなりません。

まあ、それがヒント中のヒントですねぇ!

では頭を柔軟にして、どしどしコメントをお寄せ願います。

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「天職一芸~あの日のPoem 147」

今日の「天職人」は、三重県いなべ市の「組子(くみこ)師」。(平成十七年六月二十八日毎日新聞掲載)

鼻歌混じり鉋掛け 首のタオルで汗拭う          父は眼鏡を鼻に掛け 組子細工に精を出す         幾千万に組み込んだ 組子が描く八重桜          木肌で色を使い分け 匠の技が競い咲く

三重県いなべ市のいとう建具工芸、建具組子師の伊藤末義さんを訪ねた。

伊藤善尚氏

「組子の材は薄うて細かい。せやで、ちょっとの歪みや縮で、ふだからかしてまう(壊してしまう)んさ」。 末義さんは、傍らの妻と息子を見やった。

組子の木材は、雨に濡れ風に晒されてから、作業場の片隅で、八~十年という途方もない年月を費やし、ひたすら出番を待ち続ける。

末義さんは、昭和十二(1937)年、この町で八人兄弟の六男として誕生。「喰うてくんには、手に職付けやんと」と、母の意向で中学を上がると、自転車で片道三十分かけ建具師の師匠の元へと通った。

「仕事も出来ん折りしは、仕事場で日の出やさ。帰りは日が暮れてから、山道走ってこんならん。上り坂のきっついとこやと、自転車も止まりかけて電気が消えよるし、怖てかなんだ」。 三年間の自転車通いを終え、さらに住み込みで七年。二十四歳の年に実家へ戻り、兄の家の軒先を借りて独立開業へ。

「石の上にも三年、そう自分で決めて。万能機欲して必死やった」。 昭和三十九(1964)年、東洋の魔女たちは回転レシーブで、宿敵ソ連を打ち破り、東京五輪で金メダルを獲得。その年、独立から三年で末義さんは、削る・挽(ひ)く・枘を切るの三役をこなす、画期的な万能機を三十三万円で導入。銀行員の初任給は、わずか二万三千円の時代に。

勤勉実直な仕事振りは、仕事が仕事を呼び込んだ。それから三年後には初弟子を取り、さらに二年後、同県菰野町から美佐子さんを妻に向かえ、二男一女を授かった。

『ところで、組子は何時頃から』と、核心を急いだ。

「ああ組子はなあ、わしが息子の弟子なんさ」。末義さんは、長男の義尚(よしひさ)さんを指差した。「建具と指物は父の方が先輩です。組子は、長野県篠ノ井の師匠の元に、修業に行かせてもうたもんで。父がぼくの弟子じゃなくて、組子を父と母に手伝(てっと)うてもうとんさ」。そんな息子の謙虚な発言を、父は誇らしげにちょっぴり照れ笑い。

「建具や指物も、これからは難しい時代やさ。なとしよかと思とった時に、組子の師匠と逢(お)おて。三百五十km離れた篠ノ井まで訪ねてっては、息子の弟子入り頼みに行ってん。せやけど三回断られて、四回目のお願いに行った後で、やっと弟子取る言うてもうて」。

息子の義尚さんは、昭和四十五(1970)年生まれ。専門学校を卒業した後、六年間に及ぶ組子の住み込み修業へ。「ダムや飛行場の設計がやりたかったんさ。でも師匠に逢おて、組子の緻密さに惹かれたんさ」。

弟子入り間もない二年間は、鑿(のみ)や鉋(かんな)の道具の手入れに始まる。一般の建具や指物の技術を身に付けた後、組子の技を学んだ。

組子とは、書院造りの欄間や障子を飾る工芸品。材は檜・神代杉・秋田杉・神代桂・朴・一位・漆など。

自然な木肌の色合いだけで、桔梗・八重桜・桜・富士山などの図柄を、小さな正三角形を果てしなく組み合わせ、遠目越しに絵柄を浮かび上がらせる妙技。

柾目の材を見込み(奥行き九㎜幅)にして、一.五㎜の厚さに挽き、さらに鉋掛けで一㎜に。小さな一㎝四方の部材の両端には、厚さ一㎜の断面に雌雄の凹凸が入れられ、正三角形に、「そっくい」と呼ぶもち米の粉を白く練った接着剤で貼り合わす。

「不都合があっても、水に濡らせば直ぐに取れるし」。 一番高度な技術を要す難所は、厚さ一㎜への凹凸。これを義尚さんが担当し、見込み作りを父、組子の小さな部材組を母が担当する。

義尚さんは、二十七歳の年に修業を終え父の元へと戻り、二年前に妻を得た。

施主が希望する図案を聞いて絵柄を描き、小さな正三角形を組み合わせ、組子の設計図は出来上がる。一枚の障子に、何万個という小さな組子の部材。

親子三人がかりでも四~五ヶ月が、無尽蔵に費やされる。

付かず離れず。組子の小さな正三角形の三つの辺は、互いに支えあい、時には寄り添い合う。

まるで組子師親子の絆のように。

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「天職一芸~あの日のPoem 146」

今日の「天職人」は、岐阜県関市の「鵜籠職人」。(平成十七年六月二十一日毎日新聞掲載)

川面を焦がす篝火に 小瀬の鵜飼も幕が開く        鵜籠開けばホーホーと 黒装束に鬨(とき)の声      我先競い鮎を追う 手縄捌(たなわさば)きも鮮やかに   艫(とも)で鵜匠が声上げりゃ 川面に踊る水飛沫(みずしぶき)                          千代の昔をそのままに 今宵も映す長良川

岐阜県関市の二代目鵜籠職人、石原文雄さんを訪ねた。

「竹っちゅう奴はなあ、『ミオキのハチステ』言うくらい、三年はまだまだ青いで見送って、八年以上は陳(ひ)ねて来るで見捨てるんやて」。それが竹選びの基本とか。 文雄さんは、幅八㎜長さ二mの竹籤(たけひご)を鉈でせっせと割き続ける。

文雄さんは、五人兄弟の長男として誕生。新制中学を出ると、定時制高校へと進学し、昼間は父と共に竹細工に明け暮れた。「お婆が『勉強せるなよ』ほんでのう『学校行くなよ』って毎日念仏みたいに唱えるんやて。ここらあは、貧乏集落やったもんで、『学校行く暇あったら家の仕事せんか』って、よう怒鳴られて。当時は養蚕が盛んやって、繭籠(まゆかご)作っとったんやて。籠は資本もいらんで、それなりに儲かったもんだて」。

農家に現金収入をもたらす、ありがたい養蚕は、蚕の幼虫に「お」を付け「お蚕様」と崇め、座敷の特等席にお蚕棚を据え置いた程とか。

「毎朝お蚕様に『ご機嫌はどうですか?』って言いながら、桑やって褥(しとね)るんやわ。自分たあわねぇ、物置小屋で寝るんやて」。

鵜籠作りは、まず竹選びに始まる。冒頭の「ミオキのハチステ」で、四~七年ものの淡竹(はちく)を、十一月~十二月に切り出し、竹小屋で1年間寝かす。

「竹と話しせんと。ほうすっとさいが、硬いか柔こいか教えてくれるんやて。竹も百本百色やで」。

頑なな職人の眼に、見初められた淡竹は、鵜匠が櫂(かい)を天秤棒にして担ぐ、鵜籠に生れ変わる。

「何と言っても、籤作りが命やて」。職人技の配分は、籤作りに六割、編みに四割とか。「籤は鉈で割くだけやなしに、小刀で鉋かけるように竹の内側を削るんやて。そうするとさいが、水切れも良く汚れも黴も付かん。本当は、そんなもん作らん方がえんやで。すぐ壊けてまう方が儲かるし」。

まずは、幅八㎜、長さ二mの竹籤四十八本で底を編み、長さ三mの籤で胴回りを、十二段積み重ねるように編み上げる。仕上げは、縁巻き。籠の上部を芯竹で円形にして、別の籤で芯竹を巻き上げる。

「籠の部分と縁巻きは、生い立ちが違う竹を使わんとかん」。

鵜籠の直径から高さまで、いちいち寸法を測りながら編み上げるわけではないのに、一㎝と違わぬ神憑(かみがか)りな技。鵜籠一つに、丸二日が惜しみなく費やされる。

一端に鵜籠が編めるまでは、十年とか。職人らしさも身に付いた昭和三十九(1964)年、文雄さんは二十九歳で岐阜市から妻を迎え、一人娘を授かった。

「オッカアとは、未だに朝から晩まで喧嘩しとるんやて」。夫婦の馴れ初めを問うと、照れ臭げに笑い飛ばした。

「竹編みは、二十年目でやっと愉しくなって、三十年やったら止められんくなる。これまでは生活のためにやっとったけど、これからが本当の愉しみやて。自然の材料で、自分の創意工夫で作り上げてくんやで」。

鵜籠には、鵜を四羽入れる「四つ差し」と、二羽入れの「二つ差し」があり、鵜が鮎を吐き出すための「吐(は)け籠」も手掛ける。

「鵜飼はお大尽(だいじん)が行くもんやで。俺んたら見たいな貧乏人は、鵜籠作っとっても、肝心の鵜飼は新聞やテレビのニュースでしか、見たことなかったんやて。でも七十歳を前に、初めて今年鵜飼開きに招待してもらったんや。狩下りの時に『ああっ!俺の作った鵜籠や』って。まさに職人冥利に尽きるっちゅうやっちゃ」。

長良川、小瀬の川原。腹を空かせた鵜が、鵜籠の中で漁の瞬間を待つ。鵜舟に篝火が灯る。

腰蓑(こしみの)姿の鵜匠は、ゆっくり漁場へと鵜舟を駆(か)る。

鵜籠が開く。手縄を付けた鵜が一斉に放たれ、水飛沫を上げ、月影揺れる川面へと消え入った。

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6/30の「残り物じゃないクッキング②~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「餡かけニョッキ&なぁ~んちゃって揚げラビオリwith もっちりクリーミーマッシュポテト クコの実添えと、ボイルド小松菜~それに一昨年のなぁ~んちゃってマロングラッセ」

賞味期限が刻々と迫ったニョッキと餃子の皮があり、こいつを何とか出来ぬものかと頭を捻り、思い付いたのがこの「餡かけニョッキ& なぁ~んちゃって揚げラビオリwith もっちりクリーミーマッシュポテト クコの実添えと、ボイルド小松菜~それに一昨年のなぁ~んちゃってマロングラッセ」でした。

しかもお手軽、ワンプレートランチです。

最初はちゃんとイタリアンっぽく、トマトソースも作るつもりでいたのですが、いつも切らしたことのないカットトマトの缶詰が品切れ!

とは言え、それだけ買いにスーパーへ向かう気にもなれず、いかがしたものかと保存庫をチェ~ック!

すると以前、無性に餡かけパスタが恋しくなり、買い込んでおいたレトルトのソースがあるじゃないですか!

もうこうなったらこれで代用だ!ってな塩梅で料理に取り掛かりました。

まず、フライパンにオリーブオイルをひき、ニンニクの微塵切りで香りを立て、合挽ミンチを炒めつつ軽く塩コショウをしておきます。

そして粗熱が取れたところで、餃子の皮でミンチの餡を、巾着のように包み、それをカリッカリになるまで揚げてしまいます。

そしてニョッキを茹で上げ皿に盛り付け、なぁ~んちゃってラビオリを添え、湯煎した餡かけパスタソースをドロッと掛ければ出来上がり。

さらにジャガイモを乱切りにしてシリコンスチーマーで約6分チンして、フードプロセッサーに生クリーム・コンソメ・塩コショウを入れて、ホイップすれば、もっちりしっとりとしたクリーミーマッシュポテトの出来上がりです。それをプレートに盛り付け、クコの実を振り掛けました。

後は彩でボイルしただけの小松菜と、一昨年ラム酒で煮た、なぁ~んちゃってマロングラッセを添えて完了です。マロングラッセは瓶詰にして冷蔵庫で保存していますが、水を一滴も使わずラム酒だけて贅沢に仕上げたからか、まったく風味も損なわれず、美味しいままでした。

皆々様も今回は、ぼくのアマノジャククッキングに手古摺られ、随分迷われたようでした。

そりゃあぼくの素人写真では、識別不可能かもしれませんよね。

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