「天職一芸~あの日のPoem 157」

今日の「天職人」は、愛知県幸田町の「厩舎人(うまやのとねり)」。(平成十七年九月十三日毎日新聞掲載)

緑の大地馬を駆り 君と二人で夕陽追う          小高い丘も茜色 海から寄せる夕映えに          空にくの字の渡り鳥 馬を駆りたて追いかけた       帰り支度の往く夏に 惜しむ二人の想い乗せ

愛知県幸田町のアオイ乗馬クラブ、花井静男さんを訪ねた。

「飼葉に麦と、麬(ふすま)に塩。それと間食に青草。これが馬の餌だけど、こいつら結構美食家なんだて」。厩舎の飼葉桶がカランと鳴った。 静男さんは、柵から顔を出す馬の、長い鼻を撫でながら笑った。

「こうやって毎日厩(うまや)に入っとるで、もう餌の時間かと勘違いしとるだぁ」。

静男さんは昭和二十(1945)年、豊田市の農家で姉二人の下に長男として誕生。

地元の中学で農林高校の受験を目指した。ところが中学三年の年に、実家の農地に自動車部品製造会社の進出が決定。慌てて農林高校の志望を、工業高校へと切り替えた。

「皆がサラリーマンになってくのに、いつまでも農家やっとってもなあ」。 無事、岡崎工業高校の機械化へと進学。ところが翌年、父が交通事故でこの世を去った。

卒業と同時に実家の土地に進出した自動車部品製造会社に入社。疲弊した戦後の傷跡も徐々に癒え、東京五輪、東海道新幹線の開通と、高度経済成長時代が幕を開けた。

昭和四十三(1968)年、洋裁学校に通う姉の紹介で、同県一色町からはな江さんを妻に迎え、男女三人の子を授かった。

それから二年後。遠縁が現在地に、乗馬クラブを開業。

「当時は冒険心が旺盛で、会社勤めじゃなしに、何か人と違うことをやりたかっただ」。 静男さんは会社を退社し、乗馬クラブに出資。馬の世話から乗馬クラブの運営を、一から学んだ。

「最初は触るのも怖かったって。馬の習性を知らんだで、ハエを追おうとした後足で、蹴っとばされたこともあっただあ」。 ようやく馬の世話にも、慣れ始めた頃のことだった。遠縁の経営者が、乗馬クラブを担保に、高利の借金をしていたことが判明。返済の代わりにクラブを差し出すか、それとも?

余儀なく選択が迫られた。

「こいつらどうなってしまうんだろう?」。静男さんの心労など窺い知る由もない馬たちは、真っ黒な澱みの無い眼差しを向けた。

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若干二十七歳の静男さんは、借金返済のために自らが借金を組み直し、マイナスからの再出発を決めた。

それから早、三十三年。現在は、サラブレッドとアングロ・アラブ種の十一頭を擁する。

「七~八歳(人間では二十五~二十六歳)で競走馬を引退し、家へやって来て第ニの人生が始まるだあ」。二十年近くの余生を、静男さん夫婦と共に過ごす。

「家みたいな所に来る馬は、幸せもんだあ」。競走馬時代に、故障した馬の末路は短いとか。

厩での静男さんの一日は、毎朝六時半の餌やりに始まり、夜八時半の餌やりで終わる。餌は、飼葉・麦・麬に塩。途中で間食として、新鮮な青葉が与えられる。

「あんたら見たことあるか?馬が糞を舐める姿」。馬が自ら、不足する塩分を補うためだとか。

「前にお客さんが、栄養付けたろうって、ニンニクのみじん切りを混ぜたったらしい。でも食べ終わったら、ニンニクだけ全部残してあったんだわ。小石やビニールとか、針金なんて絶対口にせん。自分の食べていい物と、食べちゃいかん物をよう知っとるだで」。

ここで二十年近くを過ごした馬たちは、人間になおせば八十~九十歳とか。

だが体重は、四百五十~五百Kgという巨漢だ。

「年老いて腰が弱くなると、馬はもう終い。でも家族の一員だで、息引き取るまで看取ってやりたいけど、自分で起きれんとクレーンで持ち上げるしかないだで。第ニの人生を見切るのが、一番難しいわ。情が移るでなあ」。

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静男さん夫婦が世話した馬は、二百頭にも及ぶ。

「最近よう思うんだけど、馬が明日からおらんようになったら、一日何して過ごそうって」。

現代の厩舎人(うまやのとねり)は、居並ぶ十一頭の大きな子供たちを、慈しむように眺め回した。

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「天職一芸~あの日のPoem 156」

今日の「天職人」は、三重県桑名市の「組木細工師」。(平成十七年九月六日毎日新聞掲載)

齢(よわい)重ねる父の背は 日毎縮んで丸くなる     虚ろに翳(かす)む眼差しで 幸せな日々懐かしむ     子供返りよ留(とど)まれと 組木細工を差し出せば    日がな一日縁側で 謎に挑んで無我夢中

三重県桑名市の組木細工師、片岡由治さんを訪ねた。

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「これ、あんたらのやろ。去年新聞に本が出たって載っとったで、直ぐに取り寄せてもうたんさ」。老人の手には、見覚えのある一冊の本、「百人の天職一芸(風媒社刊)」が握り締められていた。

「まさかこれ書いたあんたらが、訪(たん)ねて来るとは、思いもよらんだわ」。由治さんは組木を弄びながら笑った。

由治さんは同県多度町で昭和四(1929)年、農家の末子として誕生。年々軍事色が深まる中、終戦の年に旧制中学を卒業。その後は学徒動員で徴用された鋳物工場で、そのまま迫撃砲弾の製造に終われ終戦。

「他になんも仕事もあらへんし、家でポヤッとしとったんさ」。

近所の棟梁について、翌月から小僧見習を開始。昭和十九(1944)年十二月七日に発生した東南海地震と、翌一月十三日の三河大地震、それに度重なる大空襲で、東海地方は壊滅的な被害を被った。

「あの当時、大工は皆(みな)忙しいてなあ。多度のあたりは液状化で地盤も悪て、寺の釣鐘堂が皆ひしゃげてもうとったんやで」。由治さんは六年間、家大工(やだいく)としての技を身に付け、二十二歳の年に自ら棟梁となって実家を建築。

これが独立仕事となった。「多度は親方の地盤やで、同じとこで開業して荒びるわけにいかん」。師へのけじめを優先し、同県長島町で大工になっていた同級生の元に職を求めた。

二年後に父が、翌年には母が後を追う様に、由治さんの建てた新居で息を引き取った。

「飯炊きがいるぞいうて、兄嫁の妹と一緒んなったんやさ」。昭和二十八(1953)年、多度町出身の妻を得、桑名市の現在地に新居を構え、一男一女を設けた。

結婚から六年、伊勢湾台風が東海地方に猛威を振るい、今度は水害の大きな爪痕を残した。

「それから桑名に戻って、田舎の本家造りに精出して、これまで過ごして来たんやさ」。

徐々に人々の心の中から、戦争や災害の記憶が薄れ、繁栄を謳歌する時代へ。

激動の昭和もその役割を終え、後数年で幕を閉じようとしていた頃だった。「二十年程前やったかなあ。歯医者の待合で組木のパズルと出逢(でお)たんさ」。それが組木細工の虜になるきっかけだったとか。

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「嫁に行った娘が、孫のためにって、毎月通販で木製のパズルを買(こ)うとったんやさ。それ見とると『なんやこんなん直ぐに出来るわ』って、腕がうずうずしてきよって」。以来、百種類以上の組木細工を、設計図も説明書も無いまま、過去の経験と職人としての勘だけを頼りに作り上げた。

「これは実用品の組木細工やろな。飛騨の匠の手による、高山の千鳥格子やさ」。縦五本横五本の欅(けやき)の角材が、竹篭のように互い違いに編みこまれている錯覚に陥る。まるで欅の角材が、一瞬だけ柔らかくなったようだ。しかし残念ながら、そんな魔法など何処にも無い。

「こうして少しずつ、縦横の木が組み合っとる切り欠けを、ずらすように動かしたるんさ。ほれっ」。 規則正しい格子が僅かに歪み、手品のように縦目の格子から横棒がスルッと抜け出た。縦横を編むように組み合わせる角材には、切り欠けの幅と深さだけにしか違いが見当たらぬ。それ以外、小細工一つない。

天晴れ飛騨の匠、先達の技。

そして何の手解きも無いまま、千鳥格子の写真から、隠れた技を紐(ひも)解く由治さん。ただただお見事としか、言いようがない。

「風呂出てから、寝る前の落ち着いた時に、フッと答えが浮かぶんやさ。その瞬間が一番愉しいんやで」。まるで子供のように、得意げに笑った。

組木に秘められた謎解きと、細工に仕込む謎のからくり。

老いてなお童心と戯れる、細工師魂かな。

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「天職一芸~あの日のPoem 155」

今日の「天職人」は、岐阜市金町の「西洋洗濯女」。(平成十七年八月三十日毎日新聞掲載)

帰省列車に一張羅(いっちょうら) 初めて向かう母の郷  精一杯のおめかしも 郷への土産母の見栄         呑めや唄えの盂蘭盆会 従兄弟と共に悪ふざけ       遊び疲れて気が付けば シャツに大きなスイカ染み

岐阜市金町(こがねまち)で明治四十三(1910)年に創業された、杉山クリーニング店の三代目女主人、杉山由紀さんを訪ねた。

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「ポケットの中には、人それぞれのドラマが詰め込まれとるんやて」。由紀さんは、暖簾のように吊り下がる洗濯物を掻き分け、大きな丸い眼を子供のように輝かせた。

「西洋洗濯&プレッシング」と書かれた創業当時の看板。「クリーニングと言う言葉さえ、まだまだ一般的ではなかった。

創業者の祖父自身であったか、或いは親類のいずれかが、外洋船の寄港地として賑う函館で、クリーニングの技術を取得し、開業に至ったものだとか。

「家の西側が、昔の金津の遊郭やったんやて。祖母が大八車引いては、お女郎さんの着物から長襦袢まで集めて回っとったらしい」。

由紀さんは、三人娘の長女として昭和二十五(1950)年に誕生。短大卒業後、一年間だけ家業を手伝い、東京でテキスタイルの専門学校へ入学。

「二年目に父が肝硬変で倒れて、医者から後五年の命だって宣告されたんやて」。

長女に生まれた定めは、学業への志と淡い夢を打ち砕いた。

帰郷後は、母と三人姉妹が家業の窮地に立ち向い一致団結。父は一命を取り留めたものの、養生と闘病の日々が続いた。

「私の生まれる前からいた番頭さんが、よう間に合う人やって助かったんやて」。

由紀さんが二十七歳を迎えた元旦。医者から宣告された余命を一年残し、父は脳梗塞で倒れ還らぬ人に。いよいよ持って、跡取りの自覚と、二人の妹を持つ姉としての重圧が、由紀さんの肩に圧し掛かった。

「気晴らしに出かけるスナックに、バスケのチームがあって、そのメンバーになったんやて」。仕事を終えると、仲間たちと夢中でボールを追いかけた。その中の一人の男が、いつしか由紀さんの送り迎えをするように。「アッシー君やて」。由紀さんは笑った。

三年近くの交際を経て、男は杉山家に婿入り。「一番下の妹を、先に嫁がせんとって、そればっかり気にして」。己の幸せよりも、末の妹の幸せを優先し、由紀さんは三十二歳になって、白無垢に袖を通した。やがて二人の男子に恵まれ、クリーニングの裏方を夫に委ね、由紀さんは今日も近隣の得意先へと集荷に駆け回る。

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「『ワイシャツ一枚のクリーニング代は、コーヒー一杯分や』って言うのが、父の口癖。家は、今もそれを守り通しとるで、他所の倍近い料金なんやて」。

それでも羽島市や下呂町の遠方からでも、わざわざ「良い物だけは」と客が訪れる。

クリーニングで気を使う作業は、取れそうな釦とポケットの確認。

「家のお客さんは、貝釦が多いんやて」。欠けていれば、買い置きの釦と無料で付け替える。

ある時持ち込まれた、高級ブランドの女性用スーツ。恐らく初めから、釦は取れていたという。

「直ぐにデパートへ飛んで行って、ブランド物のボタンを取り寄せたんやて。お得意さんやで、また無くすといかんし、もう一つ余分に取り寄せてね」。

それともう一つは、ポケットの中身の確認と掃除。時には、糸屑や埃に混じって思わぬものも現れる。ラブレターや給料明細だ。背広の内ポケットからは、イヤリングまで。

「普通ポケットの中のものは、封筒に入れてお返しするんやけど、さすがにラブレターはねぇ。奥さんに見つかったらコトやて」。全てを杓子定規に捉えて、持ち主に返すばかりがサービスではないとか。「お客さんの身になって判断せんと」。

店番をしている、妹の隆子さんに向かって、優しく笑った。

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秘密の隠れ家、内ポケット。

そっと仕舞いこんでおきたい、喜びや哀しみの欠片(かけら)。

誰にだってきっと、一つや二つはあるものだ。

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「天職一芸~あの日のPoem 154」

今日の「天職人」は、名古屋市千種区の「豆屋主人」。(平成十七年八月二十三日毎日新聞掲載)

師走になれば七輪で 鍋がコトコト音立てる        母が煮物を教え込む 嫁入り前の身支度に         今年も豆(忠実/まめ)であればいい 母は御重を前にして 御節の由来あれこれと 俄仕立(にわかじた)ての嫁作り

名古屋市千種区豆のはっとり、二代目主人の服部克己さんを訪ねた。

「豆は子孫を遺す、エネルギーの固まりだでね。でも人間と一緒で、周りの環境の変化に弱いんだわ。だでその年の天候によっては、出来不出来に大きな違いが出る」。 克己さんは、額に汗を浮かべて笑った。

通りに面した店の引き戸は開け放たれ、通り過ぎる車が熱風を運び入れる。

店内には年季の入った木箱が並び、色とりどりの豆が艶を放つ。

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豆のはっとりの創業期は、克己さんの父が戦地から復員した昭和二十二(1947)年に溯る。

まだまだ戦後の混乱が続く今池で、父は担(かつ)ぎ屋をしながら家族を支えた。そして翌年、克己さんが二男として誕生。

父は小さな店を構え、豆と種を主に扱う服部種店(旧店名)を開業した。

「とは言え、混乱の時代でしたから、売れるもんなら何でも、油まで売っとったらしいですわ」。

克己さんは高校卒業後、薬品関係の会社で営業職についた。「二年半は勤まったんだけど、やっぱりもともと向いとらんのかなあ。逆に店を継ぐはずだった兄は、私のネクタイ姿を羨んで」。

〝豆を煮るに萁(まめがら)を焚く〟のように、兄弟が傷付けあい争ったわけではないが、互いの得て不得手を認め合い、前向きに互いの人生を入れ替えることになった。

使い勝手のいい大豆に金時。うずら豆にとら豆。鶴の子大豆に白花豆。ぜんざいに最適な大納言、餡子用の小豆(しょうず)。青えんどうにひたし豆と紫花豆(むらさきはなまめ)など。

毎年十月中旬頃になれば、十四種類の新物が店先を飾る。

新物の到着を我先にと求める客。父と二人、升とスリ棒を片手に、量り売りに追われた。

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「こうして升に豆を並々と入れ、手前から向うに向かって下げるようにしながら、スリ棒で上っ面の豆を落すんですわ。升を平らにしたままだと、豆の隙間が詰まってしまって、豆が余分に入り込むからって、よう父に叱られました」。

すっかり家業も板に付き、車好きが高じて毎週末になると、夜通しラリーレースに出場。大きなレースを征したほどの戦績も持つ。「私は主にナビゲーター役。毎週東名阪のレースを、転戦して歩いとった。そんなラリー呆けだで、母が亡くなってまったんだわ」。

翌年、近所の知り合いから見合い話が持ち込まれた。

「『前からお母さんに頼まれとったんだわ』って。妻も父と私だけの、男所帯を見るに見かねて、嫁に来る気になってくれたのかも」。三十四歳で妻を得、三人の子宝に恵まれた。

昭和も終焉を控え、日本中が好景気に沸き返り、高級食材も飛ぶように売れた。一部の食通の言葉に踊らされた飽食時代も、バブル経済崩壊と共に沈静化へ。

平成に入ると克己さんは、丹波篠山農協と折衝し、黒豆の販売を開始した。「丹波の黒豆は、味が王様だでね。まあ値段は、北海道産大豆の三倍近いけど」。

毎年十二月五日頃に入荷されると、心待ちにしている客がひっきりなしに訪れる。

沸騰した湯に黒豆を一晩浸け、ふやけて薄皮が破れれば、後はもう煮るだけ。

粘り気のある黒豆は、家々独自の煮汁を蓄え、艶のある柔肌に中に、ほっこりとした独特の食感を忍ばせる。

「今まで一度だけ台風の影響で『篠山の黒豆売切れ』って看板を、暮れも迫ってから出さなかんで、断腸の思いだったわ。篠山じゃない他所の黒豆なら、いっくらでも手に入ったんだけどね。家はいい豆だけを、それなりの値段を守って売らせてもらうのが信条だでな」。

上り框(あがりがまち)に腰掛けた克己さんは、ちょっぴり照れ臭気にそうつぶやき、火の無い夏火鉢に手をかざした。

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「天職一芸~あの日のPoem 153」

今日の「天職人」は、三重県桑名市長島町の「流木細工師」。(平成十七年八月九日毎日新聞掲載)

寄せては帰す波の音(ね)に 耳を澄ませば聞こえ来る   海の彼方の異国から ザバーンシュワワ泣き笑い      波が運んだ流木を 君は拾って耳寄せる          何処から流れ着いたやら 遠き彼方のまほろばか

三重県桑名市長島町、流木細工師の市川茂さんを訪ねた。

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「この辺の人らに『木磨いとる人おらへんか?』って尋(たん)ねたってみ。すぐに家(うっ)とこ教えてくれるで」。茂さんが笑った。

自慢の流木は、直径約一.二m、高さ約一.五m程。欅(けやき)の根を前に、昔語りを始めた。

茂さんは昭和十一(1936)年、六人兄弟の末子(ばっし)として半農半漁の家に誕生。

終戦後、中学を上がるとすぐ、親兄弟と共に船に乗り込み、木曽三川の河口を魚場に漁で生計を担った。

「立干網(たてぼしあみ)漁ゆうてな、満潮時に立干網をフェンスのように立てて張り巡らしたるんさ。後は、潮が引くのを待つだけ。網にゴロゴロ魚がひっかかっとんやで」。

海水と淡水が入り混じる河口の水際で、大型のマダカにセイゴ、フナや鯉が、引き潮と共に姿を現す。

昭和三十四(1959)年五月、妻を娶(めと)り母屋の脇に新居を構えた。

「あの頃から、河口に流れ着く流木に、ちょいちょい気があったんさ」。

漁の合間に流木を拾い集め、我流で磨き上げては、新居に飾り付けた。

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新婚から四ヶ月が過ぎた九月二十六日。午後六時過ぎに紀伊半島潮岬(しおのみさき)に上陸した台風十五号は、伊勢湾を北上。東海地方に未曾有(みぞう)の被害をもたらした、伊勢湾台風であった。

午後七時、満潮と重なった伊勢湾の潮位は、通常を三.四五mも上回る高潮となって、茂さんの母屋と新居を襲った。

「『港の船見てくるわ』って堤防に向かったら、高潮が酷ていのけやんで、はんどった(へばりついた)んやさ」。猛(たけ)り狂った高潮が、母屋と母親を一瞬のうちに飲み込んだ。

翌朝浜には母の亡骸が。茂さんは妻と高潮に流され、生死の淵を彷徨いながらも、どうにか九死に一生を得た。

台風の傷跡も満足に癒えぬ中、折からの地盤沈下による影響からか、漁獲量にも陰りが差し始めた。

「チャーター船を出しては、釣船の営業で凌(しの)いどったんさ」。その後、昭和四十二(1967)年には内航不定期航路事業に乗り出し、二十人乗りの客船を手に入れた。

「ちょうど子供が大病患って、手術はせんならんし弱っとったら、造船会社の親方が『金なんか、ある時持ってくりゃいい』って」。

いつまでも栄えるようにと願いを込め「新栄丸」と名付け、新たな船出に。

船に関わる仕事で家族の生計を支えながらも、河口に流れ着く流木を拾い集めては、家へと持ち帰る毎日。

「この辺のもんらに『ガラクタばっか拾い集めて、あいつは流木キチガイや』って。ある時は、駐在が怪しんで『あいつ、焚物(たきもん)ばっか積んで毎日走っとるけど』って、後付け回しよった」。それでも流木拾いを止めようとはしなかった。

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「あれ見てみい。船喰い虫の芸術作品を」。

丸太の幹に、びっしりと無数の穴。「川の船食虫は、真っ直ぐに穴を彫るけど、伊勢の方の海の船食虫は、横へ横へと彫ってくんさ。わしには、何でか解らんけどな」。

拾い集めた流木は、簓(ささら)で表面のゴミを取り除き、一年も二年もかけて、炒った粉糠を布袋に入れ、天然な光沢が浮かび上がるまで根気良く磨き続ける。

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「底になる部分だけ、据わりがええように切るだけで、後は流れ着いた時のまんま」。昭和三十七(1962)年に員弁川の河口に流れ着いた欅の根は、三ヶ月かけて付着したゴミをこそぎ落としただけで、三十年以上雨曝(あまざら)しのまま眠かせた力作。

「こんな大きな流木、船のスクリュウに巻き込んでみい、一巻の終わりやて。ほんだでわしがせっせと拾ろとったんさ。それが、海と共に生きるもんの務めやで」。

海と川の狭間で、半世紀を生き抜いた男。

山での何百年という樹齢を終え、川から海へと流離(さすら)う流木。

男は今日も陸(おか)へと引き上げ、まるで長旅を労うかのように磨き上げ、新たな命を宿らせる。

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「君は夏の女神」

昭和半ば生まれのぼくなんぞにすると、真夏の匂いは「サンオイル」や「コパトーン」の日焼けオイルの香りと相場は決まっています。

今のような紫外線対策だなんて、誰も気にしていなかった時代です。

日焼けの黒さが男らしさだ!なぁ~んて思っていたほどですもの。

しかし今年は、各地の海水浴場も新型コロナの影響で、閉鎖されるとか。

若者たちにとってひと夏の恋物語は、お預けってことになっちゃうんでしょうか?

夏・海・水着って言うと、ついつい心も開放的になり、ちょっと大胆な刺激を求めて、恋心に火が付いたり・・・なぁ~んてご経験が皆様にも、きっと一つや二つはおありになることでしょう。

今日は梅雨明け宣言前ではありますが、せめて気分だけでも、あの青春時代の輝いていた夏を思い出していただければと、「君は夏の女神」を弾き語らせていただきます。

『君は夏の女神』

詩・曲・歌/オカダ ミノル

流れ行く星追い 君の町目指し走り続けた

遠い日を一度も 忘れた事などない君との夏を

 果ないこの道は 君の心へと

 続いていると 信じれた若さの証し

海沿いのカーブを 曲がれば噎せ返る潮の香りが

鮮やかに甦る 君はぼくの夏の女神そのものだった

月明かり頼りに 君と砂の城築いた浜辺

あんなに輝いた 夏の日は二度と戻らない

 夏の女神は 一度だけ微笑んで

 夜明と連れ立ち 水平線彼方へ消えた

海沿いのカーブを 曲がれば噎せ返る潮の香りが

鮮やかに甦る 君はぼくの夏の女神そのものだった

海沿いのカーブを 曲がれば噎せ返る潮の香りが

鮮やかに甦る 君はぼくの夏の女神そのものだった

続いては、長良川国際会議場大ホールでの、Live音源から「君は夏の女神」をお聴きください。

どうか今年の夏が、皆様にとっても素晴らしい夏となりますように!

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「昆虫採集セット!」。夏休みの自由研究で、昆虫標本を作りたいと、さんざんっぱらお母ちゃんに泣きついて、わが家にしたらそりゃあ高価な昆虫採集セットを買ってもらったものです。

注射器や防虫剤の液体も入ったもので、嬉しくって嬉しくって、毎朝ラジオ体操が終わって朝ご飯を済ませると、タモと虫篭をぶら下げ、氏神様のお社を目指したものです。

アブラゼミやニイニイゼミにトンボなど、何でもかでも手に入れた昆虫たちには、注射針を打ち込んだものでした。しかし今考えたら、子どもとは言え、ちょっと残酷だった気がして反省しきりです。

皆様は昆虫採集やりませんでしたか?少なくともお嬢ちゃまはさておき、腕白坊主どもなら同じように朝から晩までタモを掲げて走り回っていたのでは?

今回は、そんな「昆虫採集セット」の思い出話をお聞かせください。

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クイズ!2020.07.14「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

これぞ正しく、超手抜きなズボラ残り物クッキングです。

前の日の残り物と、冷凍のアレを使って、丼風にして見ました!

もうキリン一番搾りにピッタリ!

やっぱりこんなジメジメした日にゃあ、チュルチュルさっぱり、そして夏バテ防止のコッテリが相乗りが一番です!

では頭を柔軟にして、どしどしコメントをお寄せ願います。

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「天職一芸~あの日のPoem 152」

今日の「天職人」は、岐阜県関市の「蕎麦打ち職人」。(平成十七年八月二日毎日新聞掲載)

ゴトゴト回る石臼を 眺め過ごした夏休み         捻じり鉢巻き汗まみれ 父の在りし日偲ぶ宵        裸電球煌々(こうこう)と 夜毎蕎麦打つ父眺め      粘土団子で真似てみる 母は溜め息苦笑い

岐阜県関市で創業五十年を迎える、萬屋町(よろずやちょう)助六の蕎麦打ち職人、二代目の小林明さんを訪ねた。

「中華そばのおかげやて。大学まで出してもらえたんは」。明さんは呟いた。

刃物産業で栄えた関市は、古来より高山へと続く飛騨街道や、郡上とを結ぶ街道の要所。馬車牽(ひ)き目当てに食堂が軒を連ねて賑い、銭湯も五軒を数えた。

「家は中華そばがとんでもなく美味い繁盛店で、みんな風呂上りや映画見た帰りに『助六でそば食べてこ』って。でも『そば』は、蕎麦じゃなくって『中華そば』のことなんやて」。昔ながらの支那(しな)そば風。和風出汁の効いた素朴な味わいで、町の人から旅人にまで愛され続けた一品とか。

そんな繁盛店となる助六開店の昭和三十(1955)に、明さんは長男として誕生。やがて京都の大学へと進学。

「家業が嫌で嫌で。役人や銀行員のような、普通の生活に憧れとったんやて」。

商売屋故に、家族揃っての食事もままならぬ。ましてや家族旅行などもってのほか。そんな子供の頃の歯痒さが、明さんをそんな思いに駆り立てた。

大学在学中は、各地のユースホステルを巡った。

「貧乏学生やで、旅先で美味いもの食べようと思うと、蕎麦が一番最適なんやて」。ある日、出雲大社近くの蕎麦屋で蕎麦湯を供された。

「何なんやろう?頼みもしとらんのに。周りの人らの様子見ながら、真似て飲んでみたんやて。そしたら滋味があって美味い」。蕎麦の魅力に惹かれ始めていった。

卒業も近付き、同期の仲間たちは長髪を切り揃え、就職活動に専念。

「そんな姿が虚しくて。『俺は、蕎麦屋やろう』って」。

京都烏丸の蕎麦屋に、履歴書持参で飛び込んだ。

「あんた大学出たはんのに・・・何か悪いことでもしやはったんか?」と訝(いぶか)られながらも修業を開始。

毎朝五時から夜九時まで、無休の日々が二年続いた。

「技術の習得は早かった。両親の後姿見とった分だけ、体内時計が覚えとるんやて」。しかし蕎麦への執着心は、止まるどころか、更に深みへ。

石臼挽き自家製粉の、高山の蕎麦屋に頼み込んで住み込みを開始。朝八時から深夜0時まで、石臼挽きから蕎麦打ちを続けた。

昭和五十五(1980)年、中華そばで助六を切り盛りし続けた父が心臓病に。

明さんは取るものも取らず、夜行列車で帰郷。年老いた母一人に、助六を委(ゆだ)ねることは忍びなく、高山の蕎麦屋を辞して家業に転じた。

助六で「そば一杯ちょうだい」と言われれば、それは兎にも角にも中華そば。

助六で蕎麦を出そうと舞い戻った明さんは、愕然(がくぜん)とする毎日が続いた。

昭和六十(1985)年、店舗の改装と合せ、周りの反対を押し切り、中華そばを品書きから消した。

「お客さんが『そば、ちょう』って注文するもんやで、『蕎麦』を出すと『嘘やろう?』って、目が点になって。今でも『助六のたあけ坊が』って言われるほどやて」。

改装から二年。板取村の農家に協力を得て、蕎麦作りを開始。

「『毎週関から変わり者が来る』って言われながら通い詰めて。じきに気心が通じ、『昼飯どうや、風呂入れ、泊まってけ』って」。

一途な蕎麦職人は、何時しか「助(すけ)さ」と親しみを込めて呼ばれるほどに。

それから七年。

板取村の農夫から一本の電話が入った。「『助さ、家の下の娘どう思う?ええのか、悪いかどっちや』って」。

明さんは店で天麩羅を上げながら「ええと思うわ」と。

それが妻みちるさんとの馴れ初め。

蕎麦作りへの情熱は、そのままみちるさんへの熱き想いでもあったのだろう。

明さんは前日に石臼で蕎麦粉を挽き、翌朝六時半から一時間半かけ、混じり気の無い蕎麦粉を生子(きこ)打ちで仕上げる。

板取産生山葵のピンッとした刺激が、凛とした辛口の笊汁(ざるつゆ)を際立たせ、冷水にもまれた蕎麦本来の味を引き立てる。

未だ日に三人程が、幻の中華そばを所望するほどの助六で、「そば」が『蕎麦』として認知されるまで、ゆうに十五年の年月を要したとか。

「高級蕎麦とかじゃなく、フラッと入れる庶民的な町場(まちば)の蕎麦屋が目標なんやて」。

誇張した宣伝文句も、薀蓄(うんちく)も一切無用。

黙って座して一啜(ひとすす)り。

さすれば唸る間も無くもう一枚。

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「ついに大空へ!」

ついにお別れの日がやって来てしまいました。

頑張って山椒の葉を食べ尽くした、三匹のアゲハ?の幼虫三兄妹の内一匹が、今朝見事にサナギを脱ぎ捨て、お母さんと瓜二つのアゲハに羽化しました!

何と目出度く、なんとも寂しい瞬間です。

ぼくは昨夜早くに酔いつぶれて寝てしまい、今朝は逆に3時半頃に目が覚め、ブログやら書き物をしておりました。

その時点では、「おはよう」と必ず目覚めたら挨拶しておりましたので、間違いなくサナギのままだったのです。

そしてしばらく書き物を続け、午前5時少し前にふと出窓の天井を眺めると、おやっ???

そこにはサナギの殻から抜け出した、まだ羽根も完全には広がらないでいる、アゲハの成虫がいるではありませんか!まるで自分の脱ぎ捨てた殻を、愛おしそうに眺めているようでもあります!

それからは、ゆっくりと羽根を広げて見たり、またすぼめて見たり。

嬉しいやら寂しいやら・・・不思議な感覚を味わいながら、生命の神秘にただただ感動しています。

こちらが、あまり動かないものの、動画です。

そして今窓を開け放ち、窓辺に水で希釈したハチミツを用意してあげました。

まるで水盃のようでしょうか?

元気で大空を駆け巡ってくれますように!

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7/7の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「鶏そぼろの山椒味噌煮込みソースかけパスタ ~ 玉蒟蒻のバターソテー添え」

アゲハ?三兄妹がサナギに成長して食べ残してしまった山椒の葉。

ゴッド君が血眼になって探し回ってくれたり、郡上の知人が慌ててクール便で送ってくれた、お隣の屋敷の山椒の葉ではありましたが、残念なことにそれらの葉を食べつくす前に、こっそりとサナギになってしまい、冷蔵庫の野菜室には山椒の葉がてんこ盛り!

そんなブログにヒロちゃんが、「アゲハ?三兄妹が食べのこした山椒の葉は、茹でて冷凍して保存したり、煮魚と一緒に煮て酒の肴にどうぞ!」なぁ~んてコメントをお寄せいただいておりましたので、ぼくも残り物の山椒の葉で一捻り。

山椒の葉と言うと、味噌田楽の上や煮物の上に彩りとして添えられているじゃないですか!

ならばいっそのことと思い、「鶏そぼろの山椒味噌煮込みソースかけパスタ ~ 玉蒟蒻のバターソテー添え」にチャレンジしてみました。

まずは小鍋で湯を沸かし、鶏ガラスープの素と赤味噌、そして味醂をたっぷり加え、そこに鶏肉のミンチをほぐ入れ、茹でておいた山椒の葉をたんまり入れてしばらく煮込み、最後に片栗粉で緩めの餡に仕上げ、茹で上げたパスタの上にかけ、生クリームとパルミジャーノレッジャーノをすり下ろしながら振り掛けます。

そして最後にバターソテーして、少し焦げ目をつけた玉蒟蒻を添えれば完了です。

まあ味噌の味と山椒の組み合わせは、恐ろしいほど最強のコンビで、キリン一番搾りがこれまたグビグヒと進んだものでした。

さすがに今回も、お目の高い皆々様には、ほとんどお見通しのようで、まるで素っ裸にされたような気がしたほどです。

毎度毎度お付き合い、誠にありがとうございます。

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