「天職一芸~あの日のPoem 248」

今日の「天職人」は、岐阜市徹明通の「甘納豆職人」。(平成十九年九月十一日毎日新聞掲載)

稲刈り終えた畦道を 真っ赤に染める彼岸花      「彼岸にゃ顔を見せろよ」と 母の墓参の道標      年に一度の不義理侘び 母の好物甘納豆         木箱で手向け香焚けば 傍(はた)で娘が摘み食い

岐阜市徹明通、甘納豆の岡女堂。三代目甘納豆職人の青山邦裕さんを訪ねた。

杉の木箱に納められた、色とりどりに艶を放つ甘納豆。

お正月が待遠しかった遠い日。

何とも馨(かぐわ)しく思えてならなかったお節料理に似ている。

「大納言に斗六(とうろく/大福)、それに金時、青エンドウ。同じ豆でも金時は直ぐに水に浸かるんやけど、大納言はなかなか浸かりません。だから冬場はぬるま湯に浸して」。邦裕さんが人懐っこい笑顔を向けた。

邦裕さんは昭和30(1955)年、三人兄妹の長男として誕生。

一浪の末、大学へと進学。

「家業を継ぐつもりもなく、好きなことがしたくって。だって小さい頃から、家の中では嫁姑の喧嘩ばっかりで。そりやあ四六時中、互いに顔を突き合わせとるんやで」。

ところが程なく父が入院。

大学を一年で中退し、急ぎ帰省し家業を継いだ。

「まぁ、もともと物作りは嫌いじゃなかったんやて。そう言えば、中学の時に祖父から『丁稚に行くか高校行くか』って、真顔で問い詰められたわ」。邦裕さんは懐かしそうに目を細めた。

それからは「技は見て盗め」の、言わずと知れた職人道。

「とは言え幼心に祖父や父、それに職人の後姿を見て育ちましたから、抵抗なんかありません。小さい頃はよく、おやつ代わりに工場で甘納豆摘んだり、泥饅頭捏ねて和菓子作りを真似たもんやて」。蛙の子は蛙。ものの数年で立派な甘納豆職人へ。

昭和55(1980)年、関市出身のまち子さんと結ばれ一男一女を授かった。

「取引先の事務員でして。友人たちと一緒にスキーに誘って。それからは毎週飛騨までスキーへ。それが二人のデートやて」。照れ臭そうに店の奥を盗み見た。

甘納豆作りは、北海道産の厳選された豆を水に浸すことに始まる。

翌日豆を煮て灰汁(あく)を出し渋を抜き取る。

次に編み籠に豆を移し、重曹を入れ再び煮汁が吹き零れるまで煮上げる。

「重曹を入れると皮が早く柔らかくなるんやて」。

次に柔らかく煮上がった豆を、暖めた砂糖蜜の中に一晩浸け込む。

「豆の中に砂糖が浸み込んで、皮の外に豆の含んでいた水分が出て、砂糖蜜がしゃびしゃびになるんやて。それで砂糖蜜を濃くしてもう一晩浸け込むんやわ」。

翌日、蜜浸けの釜のままとろ火で温度を上げ、豆の芯まで温まったところで再び甘みを高め、火を落とし三十分程置いてから編み籠を上げ蜜を切る。

そして仕上げに、切りだめと呼ぶ大きな盆に紙を敷き、その上に豆を広げて二十分程晒し、冷めたところで上からグラニュー糖を塗せば完了。

「時間だけはかかっとるけど、手間はそれほどかかっとらんのやて。ただボ~ッとしとるだけやし」。

保存料や添加物は一切無い。

だから日持ちも一週間ほど。

「昔は砂糖の量が多かったから、一ヵ月は日持ちしたんやけど、今は何もかも糖分控えめの時代やで」。

豆と砂糖と水だけを原料に、時間と手間と己の技を、職人は惜しみなく注ぎ込む。

硬質な一粒の豆は、至福の柔らかさを纏い、名代の甘納豆へと生まれ変わる。

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10/20の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「里芋の煮っ転がし入り!味噌味仕立てのなぁ~んちゃってボローニャ風パスタ」

郡上からお送りいただいた、秋の味覚たちの中に、最も毎年楽しみにしている里芋があり、みそ汁の具にしたり、イカと煮っ転がしにしたりして、酒のあてにさせていただいております。

そんな煮っ転がしにした里芋の残り物が、タッパーに入って冷蔵されており、今回はこれも使ってしまえーってなもんで捻り出しましたる作品が、こちらの「里芋の煮っ転がし入り!味噌味仕立てのなぁ~んちゃってボローニャ風パスタ」でございます。

まずHoney Babeのうで肉のスライスをフードプロセッサーでミンチにしておきます。

https://hayashifarm.jp/info/1105784

次に小鍋へ鰹の荒節と昆布で取った出汁を少し入れ、赤味噌を漉し、酒と味醂に山椒粉を入れ、Honey Babeのミンチを加え一煮立ちさせておきます。

続いてフライパンでバターを溶かし、ニンニクの微塵切りで香りを立て、ざく切りにした里芋の煮っ転がしとアスパラを炒めます。

最後によく湯切りしたパスタにオリーブオイルを塗し、皿に盛り付けた後、里芋の煮っ転がしとアスパラを盛り付け、味噌仕立てのなぁ~んちゃってボローニャ風のソースをたっぷり注ぎ、上から生クリームを垂らせば完了です!

これがまたどっこい!意外な組み合わせではありますが、本場のホローニャ地方の方にも食べさせたいほど、驚くほどの美味しさとなり、ついつい真っ昼間っから白ワインが進んでしまいました。

ちなみに里芋の煮っ転がしのイカは、酒の肴に食べちゃってしまっていて、今回の煮っ転がしには里芋しか残っていませんでしたぁ!

皆様のご家庭にも、冷蔵庫の片隅に里芋の煮っ転がしがございましたら、ぜひ騙されたと思ってランチにお試しあれ!

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「天職一芸~あの日のPoem 247」

今日の「天職人」は、愛知県岡崎市の「薪罐(まきがま)焚き」。(平成十九年九月四日毎日新聞掲載)

夕餉(ゆうげ)を急ぎ掻き込んで 父と二人で銭湯へ   背伸びで番台小銭置き 湯船の中へ一目散        烏の行水飛び出して 脱衣場テレビに食い入れば     カポンカポンと豊登 父と真似してカポンカポン

愛知県岡崎市の龍城(たつき)温泉、女将の藤井三千代さんを訪ねた。

「本当はねぇ、一番風呂のさら湯は、身体にあんまり良くないだよ。沢山の人が浸かってある程度身体の出汁(でじる)が出た方が、年寄りや子供にはいいじゃんね」。三千代さんは、首筋に伝う汗を、首に巻いたタオルで拭いながら笑った。

「もともと主人も私も豊橋の出じゃんね。主人は豊橋の人参湯に長男として生まれたんだけど、二男に跡を譲って昭和34(1959)年にこの風呂屋を買っただわ」。

三千代さんは昭和17(1942)年、豊橋の農家河合家で五人姉妹の長女として誕生。

高校を出ると地元のパン製造販売会社で売り子を務めた。

それから三年。パン屋の看板娘に見合い話が持ち上がった。

岡崎で風呂屋を始めて間もない、若大将の公人さんと。

二人は豊橋~岡崎間の中距離恋愛を実らせ、昭和38(1963)年に結婚。

三千代さんは右も左もわからぬまま、二十一歳の若さで風呂屋の女将へ。

「最初は恥ずかしくって、番台によう上がらんかったわ。だって目のやり場がなかったじゃんね。でもまあ三ヵ月もすればへ~っちゃら。そりゃあ形や大きさはいろいろでも、どれもみんな所詮は同じだもんねぇ」。

翌昭和39(1964)年には、戦後復興を世界に高らかと宣言するように、代々木の杜に五輪の開会を告げるファンファーレが鳴り響いた。

「今とは住宅事情も違って風呂屋は連日大忙し。悠長に子供なんて作っとる暇もあれへんわさ」。それから四年、一男一女が誕生。

だが風呂屋の忙しさは待った無し。

「夕方になると赤ちゃんや子供が一杯で、まるで託児所みたい。お母さんたちが身体洗っとる間、私は両手に二人の赤ちゃん抱いて。だから家の子の子守りはぜ~んぶお婆ちゃん。だもんで私なんて家の子抱いたこと無いじゃんね」。

今ではすっかり住宅事情が変わり客数も激減。

「赤ちゃんなんて、今じゃあ年に一回見るか見んかだわ。それとお風呂が壊れちゃった方とか。後は昔ながらのご常連」。

三千代さんは、上がり框(かまち)に脱がれた履物一つで、何処の誰が来ているのかもわかるとか。

薪罐焚きの龍城湯は、午前九時の火入れから一日が始まる。

写真は参考

「まず罐に火入れといて、それから走り回って、お勝手仕事から風呂掃除に脱衣場の掃除。その間に主人が製材所から材木屋、そして木工屋に建具屋を回って二㌧トラック一杯分の薪を集めてくるじゃんね。そうこうしとると湯も沸き上がってもうお昼だわ」。

夫婦差し向かいで昼餉の後、三時の開店に向け湯船に湯を張り、仕上げの沸かし上げへ。

「それでやっと一服。開店前の一番風呂をいただいて一汗流させてもらって」。

開店から夜九時の閉店まで、罐焚きは夫と交代。

「岡崎に風呂屋は四軒残っとるけど、薪はもう家だけかなぁ。昔の閉店前の残り湯はドロドロだったって。お客さんが湯船に一杯で、まるでイモコジ(芋のごった煮)みたいに出汁が出て。でも今はお客さんも少ないで、お湯が汚れる暇もないって」。

大正13(1924)年築の高い天井の脱衣場一杯、三千代さんの笑い声が響き渡った。

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「わが家からの五重塔???」

昨日何気なく、ベランダから北の方角を眺めていたら、アレレ???

今何かとTVでも取り上げられている、アレが見えるじゃあないですか!

そうです!

NTTの電波塔とかいう、あの紛い物の「五重塔」です。

確かに似ていると言えば似ていますが、やっぱりどこか本物とは違い、バランスが悪い気がします。

どこか近隣国の塔のような、そんな気がしちゃいました。

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「天職一芸~あの日のPoem 246」

今日の「天職人」は、三重県伊勢市の「生姜糖屋」。(平成十九年八月二十八日毎日新聞掲載)

「お伊勢詣りのお裾分け」 玄関越しに声がした     餡ころ餅か生姜糖? 子供心は有頂天          母はこっそり茶箪笥に 気付かれぬよに仕舞い込む    鬼の居ぬ間に引き戸開け ちょっと一欠け生姜糖

三重県伊勢市で明治43(1910)年創業の岩戸屋、三代目当主の牧戸福詞さんを訪ねた。

伊勢神宮内宮の参拝を終え、多くの老若男女が御札を片手に宇治橋を俗世へと渡る。

茶店で一服するも良し、土産の品定めに講ずるもこれまた良し。

古(いにしえ)から今日に至るまで、連綿と続くお伊勢詣りの光景だ。

「あらっ、この生姜糖昔のまんま。お多福の絵も懐かしいわ!」。

店頭のショーケースを覗き込み、年老いた妻はそうつぶやき夫を引き寄せた。

「まずはこのまま食べてもうて、残ったらお魚の煮付けに使こてもうたり。ホットコーヒーにも砂糖代わりに入れてもらうと、またおいしさが引き立ちます」。

たまたま店頭に顔を出した紳士が、柔和な笑みを浮かべ遠来の客をもてなした。

さすがに間も無く百年を迎える老舗。

さり気ない売り口上一言にも、百年来の巧みさが感じられる。

福詞さんは昭和24(1949)年、四人兄妹の長男として誕生した。

「創業者の祖父は、家具屋の長男として生まれたのですが、やがて弟に家督を譲り、まるで夜逃げのようにお婆さんと二人でリヤカー引いてこの地へ。そして引っ切り無しに訪れる参拝客を相手に、剣菱型の御札を模った生姜糖を売り出したのが始まりで、他のお菓子と違って日持ちが良く遠来の方に喜ばれたそうです」。

東京の大学を出ると、四日市市の百貨店に就職。

進物売り場で外商を担当した。

「伊勢から四日市まで電車で通勤してましたんやさ。最初の頃は急行で。でもそのうちだんだんと疲れて来て、ちょっと贅沢して特急で通うようになって」。

同じ特急電車で名古屋へと通学していた、女子大生を見初め恋心を打ち明けた。

昭和50(1975)年、百貨店を辞し家業に戻り、美知世さんを妻に迎えて三人の男子を次々に授かった。

百年前と何一つ変わらぬ生姜糖は、水と砂糖に生姜汁だけという素朴な完全無添加商品。

「鍋で水と砂糖を煮て生姜汁を絞り、職人の勘で御札型へ流し込んで固まれば出来上がり。湿気の高い時より、からっとした天気の日の方が日持ちは良くなります」。

夏場は五十日、冬場で九十日とか。

最盛期の正月前後は、六人の職人が朝から晩まで、ひっきりなしに生姜糖を製造。

三箇日ともなれば、店売りだけでも一日千枚を越える。

「昔は関東・関西・中京圏からの修学旅行客や、団体ツアーのお客様が一杯で、観光バスも夥(おびただ)しい数でした。それが十年ほど前から修学旅行客が途絶え、団体ツアーの観光バスも減り、今はほとんどマイカーですわ」。

明治・大正・昭和、そして平成の世へと、刻々と移り変わる世相。

その時代その時代にあって、ただ直向きに生きる参拝客を、そっと通りの上から見つめ続けたお多福。

「伝統の灯を消したらいけません。再びお伊勢さんに帰って来られた旅人が『なんや懐かしいなぁ』と、そんな郷愁感に浸ってもらえることも伝統と違いますやろか」。

お多福印の生姜糖。

一欠け口に含んだら、遠いあの日がよみがえる。

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「天職一芸~あの日のPoem 245」

今日の「天職人」は、岐阜県高山市一之宮町の「宮笠職人」。(平成十九年八月十四日毎日新聞掲載)

棚田一面染め上げて 緑の稲が風に舞う         蝉は往く夏惜しむよに 声を限りの鳴き比べ       宮笠被り背を丸め 小さな影が畦を行く        「今帰った」と母を呼ぶ 帰省土産を抱え上げ

岐阜県高山市一之宮町、代々宮笠を作り続ける宮笠職人の問坂(といさか)義一さんを訪ねた。

「昔は薪ストーブ囲んで、親子三代で笠を編んだもんやわ。朝四時から夜鍋仕事で十時まで。みんな座る場所も決まっとって、笠を編むのもご飯食べるのも同じ場所やった」。義一さんは、南に面した六畳一間の作業場で、指先を片時も休めず懐かしそうに笑った。

義一さんは昭和11(1936)年、六人兄妹の二男として誕生。

「宮笠はここ宮村の問坂部落で三百年以上に渡って代々受け継がれてきたもんで、野良仕事の無い農閑期の重要な副業やったんさ」。

昔は村中の百二十~百三十軒で生産されていたが、今ではたった三軒を残すだけ。

中学を出ると地元の農協へと就職。

二十歳になった昭和31(1956)年、長距離トラックの運転手に転身。

「材木積んで名古屋まで片道七時間の道程。日用品を山ほど積んで帰ってくるともう朝方やわ」。トラック輸送は、何も荷物ばかりでは無かった。

「平湯温泉にも荷を運んどって、そこの売店で店員を見初めたんやて。えへっ。それが今の女房やさ」。義一さんは思わず照れ笑い。

昭和37(1962)年に加代子さんと結ばれ、二男が誕生。

義一さんはトラック運転の片手間に、両親と共に宮笠作りも続けた。

宮笠作りは農閑期となる十一月から三月下旬まで。

太さ三十㌢程のヒノキとイチイを60㌢程の長さに切り、一昼夜煮て柔らかくする。

それを機械に掛け厚さ0.6㍉程に剥く。

さらに裁断機で6㍉幅に切り揃え、基本となる「ヒデ」を準備。

まず初めに21×22本のヒデを十字に交差させ、「いかだ」を作り、笠の頂点の「つじ」を編み上げる。

「ヒデとヒデの目を詰めて編んでも、どうしてもホセ(隙間)が出来るんやて。晴れた暑い日はそこから風が通るし、雨降りにはヒノキやイチイが水分を吸ってホセが狭ばまり雨を通さんのやて」。義一さんは先達たちの理にかなった知恵を称えた。

次に竹を輪にしてヒデで巻き留めた「ふち」を笠に取り付け、ふちから飛び出したヒデを切り落とす。

さらに笠の内側へ放射状に竹を割った「さし骨」を編み付け、ふちと笠を縫い付ける。

最後に頭頂部と笠を固定する、「笠あて」を編みつけ完了。

「まあ、全部材料を事前にこしらえてあっても、一つ編み上げるのに二時間はかかるんやて」。

宮笠の種類は大きく分けて二種類。ヒノキの白とイチイの赤茶色の木肌を組み合わせた紅白と、笠の表面にヒデを編み込み蝉のような飾りを施す宮村特産の「蝉笠」である。

「もう今は、三軒で年間千個から千二百個がやっとやて。わしらが子供の頃は、六~七歳になると『子供はこつ(これ)やれっ』って、親父や爺さんに有無を言わさず手伝わされたもんやけど、今の子らはそんなこと誰もせえへん」。

位山山系の樹齢百五十年のイチイは、天皇即位の折の笏(しゃく)に用いられることから、一位の名になったとか。

「だから宮様の村の宮村、一之宮なんかのう」。

宮笠職人は窓から位山を見上げ、ちょっぴり誇らしげにつぶやいた。

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「天職一芸~あの日のPoem 244」

今日の「天職人」は、名古屋市中川区の「尺輪(しゃくわ)職人」。(平成十九年八月七日毎日新聞掲載)

父の手は 油塗(まみ)れで真っ黒け          晩酌だけを楽しみに 自慢話しを繰り返す        小さな命籠に載せ ガタゴト押した乳母車        どんな凸凹(でこぼこ)畦道も 父のタイヤは子を守る

名古屋市中川区、大正末期創業の宇藤車輪製作所。三代目尺輪職人の宇藤昇さんを訪ねた。

「家は痩せても枯れてもメーカーだて!」。

とても七十四歳を迎えた老人とは思えぬ、威勢のいい声がガランとした工場に鳴り響いた。

尺輪とは、乳母車専用の直径一尺(約三十㌢)の車輪。

昇さんは昭和8(1933)年、五人兄弟の長男として誕生した。

中学生になると父の手伝いを開始。そして卒業を待って本格的な家業の後取りに。

戦後復興と共に乳母車の生産は最盛期へ。

二十六歳になった昭和34(1959)年、見合いで正子さんを妻に迎え娘二人をもうけた。

だがそれから四年後、先代の父が他界。

遺された職人一人と、妻の三人で家業を引き継いだ。

乳母車の尺輪は、まず一㍉の鉄板をロール機にかけて、リムの輪っかを作り出すことから始まる。

それを溶接で繋ぎプレス機でスポーク用の穴を十六個を打ち抜く。

続いて三十㌢の番線を二つ折りにしてスポークに。

次は鋳物製のハブの片側にスポーク四本をハンマーで叩き込み、両端を押し切りで裁断し長さを合わせ万力に挟みかしめる。

それを今度はリムにかしめて合体。

「金槌で叩いてチンチン鳴ったら上出来だわ。かしまっとらんとゴソゴソ鳴ってひび割れてまうって」。

次にリムにタイヤを取り付ける。

「毎日やっとってもかんて。最初の五~六個は調子出えへんでかんで。タイヤは長靴やゴム鞠(まり)溶かした再生品で、チューブなんて入っとらへんで一生物のノーパンクだって」。

最後に心棒を通しぶれが無いかを確かめて完了。

「まあ全国でもたぶん俺一人じゃないだろか。昔のまんまで作っとるのんは」。昇さんは誇らし気に笑った。

だが昭和40(1965)年代半ば頃になると、ゴムタイヤの代わりに発砲スチロールを使用した模造品が出回り出した。

「まあピークは、昭和48(1973)年のオイルショック頃までだったわ」。最盛期は一日五十台分の二百個を製造した。

「そんな頃は父も母も毎日仕事で大忙し。工場の片隅に乳母車が置いてあって、私は子供の頃そこに入れられてアイスキャンディーを食べてたもんです」。傍らで次女の恵美子さんが懐かしそうにつぶやいた。

「今は一日五台分がやっとだわさ。一から十までたった独りでやっとんだで」。土日も平日も無いのは今でも同じ。馴染みの客から頼まれれば、そんなことに構ってなどいられない。それが昭和の職人魂だ。

「よう『この車輪で大丈夫かね?』って聞かれるもんで、『あんたが生きとるうちは大丈夫だわ』って答えたるんだわ。そしたら『そんなもんあんまり丈夫に作っとると、自分で自分の首絞めるだけだぞ』だと」。昇さんの笑い声が再び快く鳴り響いた。

写真は参考

「この人ったら、こないだ胃癌の全摘手術したばっかりなのに、もうその翌日から工場に出て仕事しとるんだでねぇ」。妻は夫への労わりを、そんな言葉で照れくさそうに茶化した。

尺輪職人として脇目も振らず歩んだ六十年は、スポークという家族みんなの支えがあったればこそ。

天晴れ、下町職人一家。

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「昭和を偲ぶ徒然文庫 4話」~「After you」

「敵性語が生きる道具に」2011年5月26日(オカダミノル著)

一億の民がラジオの前で、陛下の玉音に初めて触れ、項垂れ、そして涙した、昭和二十年八月十五日のあの日。

だが、小川菊松だけは違っていた。

出先の千葉で玉音に接すると、急ぎ都内へ取って返したという。

それから一月が過ぎた九月十五日。

小川が企画した「日米會話手帳」が、科学教材社から出版された。

四六半裁判(縦約十センチ、横約十三センチ)、三十二ページ、定価八十銭。

わずか三ヶ月で、三百六十万部を売り尽した。

誰もが食うだけでやっとの時代に。

当時の人口はおよそ七千二百万人。

老若男女を問わず、二十人に一人が手にした勘定となる。

当時のゴールデンバットが一箱三十五銭。

それと比べれば、決して安くはない代物だ。

それでも多くの人々は、空腹と引き替えにこの手帳を手にした。

表紙を捲ると目次の次に「有難うArigato Thank you! サンキュー」と、日本語・ローマ字・英語・カタカナ読みの順に表記され、日常会話、買い物、道の尋ね方までの三章で構成されている。(資料協力/林哲夫氏)

終戦を境に価値観が一変する中、昨日までの敵性語は、今日を行き抜く道具となった。

だから「ギブ・ミー・チョコレート」や、「パパママ ピカドンでハングリーハングリー」さえ、瞬く間に子どもたちにも伝播した。

今日(こんにち)のように「ちょっと家族でハワイへ」などと言う、お気楽な時代が訪れようとは、誰も努々(ゆめゆめ)思いもしなかった敗戦間もないころ。

きっと誰の目にも世界は、呆れ返るほど遠くに見えたに違いない。

敗戦からわずか一月後の事。

最前線の歩兵として戦地を彷徨った父は、突然敗戦を知り捕虜となり、帰国できる日を今か今かと待ち侘びていたことだろう。

そんな我が父がまだ帰国の途にも着けぬ間にも、あっという間に敵性語は敵性語で無くなり、逆にこれからは英語だぁとばかりに、ベストセラーを記録するとは!

この国の民の変わり身の早さには、ただただ驚かされるばかりである。

しかしよくよく考えれば、戦争へと全ての民を追い込んだ、当時の愚かなる軍部や政権の指導者たちの描いた絵空事の行く末を、賢明なる多くの民が見越していたのだろう。

いつか敗戦という苦渋を味わいながらも、誰一人として家族を戦火で失うことのない、貧しくも平和な世が訪れることをひたすら信じて!

そして敗戦後の世界の趨勢を、肌で感じていた証が、いち早く敵性語と言うレッテルを貼られた英語を、身近なものとして使いこなしたいと!

戦後間もない混乱期にあって、この日米英會会話手帳がバカ売れした現象は、これまで軍により言論を封じられた民たちの怒りそのものだったのではないかと思えてなりません。

人が人を殺めて罷り通るような戦争は、あの日をもって終わりにすることこそが、あの忌まわしき戦争で犠牲になられた方々への、供養ではないのでしょうか?

もしも今がまだ、あの忌まわしい戦火の渦中であったら、この曲を唄おうものなら、憲兵隊に連行されたかも知れませんね。

そう思うと、憲法で護られた言論の自由は、如何に尊いものであるかと感じてしまいます。

今日は「After you」をお聴きください。

「After you」

詩・曲・歌/オカダ ミノル

After you どうぞ君がお先にぼくは君の後を 追い越さぬように見守るだけ

After you もしも君がそこに蹲るならぼくが 直ぐに駆け付けて手を差し出そう

 哀しみ詰めた 重い荷物は  もう捨て去って 心開いて

After you どうぞ君がお先に君はぼくの心を 導く一筋の燈火

After you 君が道に迷えばぼくは風を集めて 草木を靡(なび)かせ君を導こう

After you 君の行く先を嵐が塞ごうとも ぼくは壁となり立ちはだかろう

 鈍色(にびいろ)した 重い雲でも  明日になれば 流れ去ってゆく

After you 君を見守ろうぼくの命の灯が 消え入るその日の来るまで

 After youぼくが前を行くなら  君がはぐれてしまわないだろうか

After you だから君が先に君はぼくの心を 導く一筋の燈火

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「子どもの頃のあなたにとってのベストセラー」。

ぼくにとってのベストセラーは、お父ちゃんが自転車に二人乗りで乗せてくれ、わざわざ隣町の本屋まで出向き、お父ちゃんのなけなしの小遣いを叩いて買ってくれた、「エイトマン」の漫画本です。

表紙も擦り切れるほど、何度も何度も読み返したものでした。

それはそうとあの本、いったいどこへやってしまったのやら?

皆様にとっての子どもの頃のベストセラーとは、どんな作品でしたでしょうか?

何もベストセラーは、児童書でも小説でも、伝記でも漫画でも構いません。

とにかくあなたが何度も何度も読み返したり、どうしても欲しくって仕方なかった、そんな書物の思い出を教えてください。

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クイズ!2020.10.20「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

先日、日置江のヒロちゃんが、「秋の味覚の料理をお願い!」とそんなリクエストを頂戴しておったこともあり、煮物にしたアレを使って、ちょっと和風な調味料を駆使して、なぁ~んちゃってボローニャ風に仕立てて見ました!

ところがどっこい、あのなんてこたぁない和風のどす黒い調味料が、ある物を混ぜ合わせるとビックリ仰天な味に大変身でした!

さあ、今回も観察眼の鋭い皆様のお答えがとても楽しみです。

頭を柔軟にして、思い付くままご回答を賜れれば何よりの幸せです。

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「天職一芸~あの日のPoem 243」

今日の「天職人」は、三重県松阪市の「保母」。(平成十九年七月十一日毎日新聞掲載)

黄色い帽子スモックの 君が廊下を駆け抜ける     行って来ますも投げやりに 心はとおに保育園      お迎えバスが口を開け 黄色い声が溢れ出す       迎えに降りた先生を 目掛けて君は一目散

三重県松阪市の市立第二保育園、園長の岡田通子(みちこ)さんを訪ねた。

住宅街の細い路地を抜けると、昭和の名残が漂う木造の学び舎(や)が姿を現した。

運動場の片隅の飼育小屋にはウサギが一羽。

園児が帰った後の運動場を寂しげに眺めている。

「小さい子が可愛いて可愛いて。小学生の頃、近所の子ら集めては、毎日保母さんごっこばっかり」。

通子さんは昭和二十七(1952)年、旧飯南郡飯南町で誕生。

高校を出ると名古屋の保育園に勤務。

保母を目指し勉強を続けた。

昭和四十七(1972)年に三重県保母試験に合格。

二十歳で旧飯南町立すみれ保育園の保母に。

「そこは私が通(かよ)とた保育園やったんさ」。

母校ならぬ母園に舞い戻り、保母のスタートを切った。

昭和四十九(1974)年、同町出身で同姓の晴夫さんとテニスの同好会で知り合い結婚。

やがて二男一女が誕生。

妻として母として、そして保母としての顔を使い分け、家事に子育て、そして仕事に追われながら九つの園を巡り歩いた。

「それがそうでもないんさ。妻も母も中途半端で。この人ともしょっちゅう喧嘩ばっかやさ」。通子さんは傍らの夫に目配せた。

我が子がやっと小学校へと上がった昭和五十八(1983)年、三十一歳の年にあやめ保育園の園長に就任。

「どんどん年上の人が辞めてかんして、若いもんに降りてきただけやさ」。

折りしも腹を痛めた我が子は小学校の低学年。

誰よりも母とのふれあいを求めていた時でもあった。

しかし妻と母の顔を犠牲に、仕事への責任を全うするだけで精一杯。

家庭と仕事の両立は、それほど簡単なことではない。

しばらくすると長男が登校を拒否し、次第に家に引きこもるように。

「嫌やったのは、自分の子供もちゃんと育てられんかったようなもんが、人様からお預かりしとる大事な子供の面倒なんて見とってええもんやろかって」。通子さんは教育者としての限界を感じた。

「俺ら夫婦も、正直大変やったさ。通子に仕事辞めさすわけにいかへんし、息子の心の病とも向き合わないかんのやで。ほんでもさ、どうしたらええかなんてわからんけど、逃げやんとひた向きに生きとったら、なとかなってくもんやさ。なあ」。晴男さんは妻を見つめ、あっけらかんと笑い飛ばした。

平成十七(2005)年、旧飯南郡飯南町は平成の大合併で松阪市に。

そして今年四月の異動で、通子さんはこの園に赴任した。

園では0歳児から六歳児まで、九十九人の園児たちの保育を十四人の先生が受け持つ。

「私らの頃は保母やったけど、今しは保育士やでなぁ。せやでうちにも二十三歳と二十一歳の男性の保育士さんがおるんやさ」。

園児たちが帰った誰もいない運動場。

夕暮れの風がわずかに涼を運ぶ。

「昔と違て今しは、周りが子供たちの環境を変えてもうたったんやで」。

はやこの道三十四年。

されどどこまで行っても終着点などない。

「この年まで子供から学ばせてもうてばっかりやさ」。

身をもって我が子に教えられた心の痛み。

それさえ懐の深さに代え、通子園長は子供たちの目線に膝を折り、真正面から向き合い続ける。

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