「天職一芸~あの日のPoem 255」

今日の「天職人」は、名古屋市中村区名駅の「剥き物師」。(平成十九年十一月六日毎日新聞掲載)

三面鏡を前にして 母は紅注し髪を結う        「お前が嫁に行くんか」と 笑い転げて父が言う     結納祝う宴膳(うたげぜん) 野菜細工の鶴と亀     姉はこっそり涙ぐみ そっと幸せ噛み締める

名古屋市中村区名駅、野菜細工専門店の鈴亀。二代目剥き物師の鈴木竹春さんを訪ねた。

名古屋駅前の早朝。

柳橋市場界隈は、鮮魚を積んだ荷車やトラックが絶え間なく行き交う。

その一角。

学生服姿の少年と母親が屈み込み、店先に並ぶ商品を見つめている。

「すっげぇ!これって全部野菜?彫刻してあるの?」。少年は目を輝かせ、食い入るように眺め続けている。

「野菜の剥き物なんて、料理の引き立て役だって。芸術品とは違うんだで。野菜の命が尽きたらそれで終いだわ」。竹春さんは、一坪にも満たない店先で笑った。

竹春さんは昭和25(1950)年、愛知県安城市で魚屋の長男として誕生。

「元々板場職人だった父が、魚屋を開いて、その傍ら昭和30年頃から筍で亀を、長芋で鶴を細工しては、ここの市場の店先を借りて売っとっただ」。

やがてそれが人伝に評判を呼び、さまざまな冠婚葬祭用の剥き物にと注文が寄せられた。

「それでここに店を開いたんだって。当事は屋号も無く、お客の要望に応えて縁起物の細工をする毎日だわ。そしたら知らんとる内に鶴亀の『亀』が渾名になって、そいつがいつの間にか屋号へ」。

竹春さんは高校を卒業すると一年間父の剥き物を手伝い、その後一年間調理師学校へ。

20歳の年に家業に復帰し、父の手先を盗み見て細工技を身に着けた。

「だって幼稚園の頃から細工を見て育ったし、長男だったでやがては後取るもんだと思っとったでなぁ」。

それから五年後、隣町から厚子さんを妻に迎え、男子三人を授かった。

剥き物の素材は、筍、山芋、薩摩芋、大根、南瓜、西瓜にリンゴと四季折々で様々。

道具は、面取り包丁、細工出刃、丸抜き、刳り抜き、角鑿、丸鑿で、鶴亀は元より十二支、節分の鬼、孔雀、菊、菖蒲、芍薬と季節柄に応じ客の注文をこなす。

「彫れるもんなら何でも彫るわさ。素材の特徴を引き出しながら」。

屋号でもある亀の剥き物は、生の筍を半分に割く事に始まる。

筍の自然な形を利用しながら、まず亀甲を描き出し、次に頭と足へ。

足の爪や顔の細かな表情を細工すれば完成。

およそ一個を15~20分で仕上げる。

「野菜は生きとるで、手早くせんと痛んでってまうで」。

竹春さんにとって野菜は、まるで活け魚のような生き物そのものだ。

「火を通す炊き合せ用は、包丁を入れすぎると煮崩れてまうで注意せんとかん。飾り用は何より見てくれが重要やで、細かい所まで入念に細工せんとかんし」。

店先の入り口では長男基之さんが寡黙に包丁を捌き、剥き物を仕上げ続ける。

「あんまり力入れて剥き物造ると、後で食べれんくなるんだわ。情が移ってまって」。

小さな店で肩寄せ合う親子剥き物師は、野菜たちに己が技で剥き物と言う晴れ着を纏わせる。

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10/27の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「きんぴらごぼうのクリームパスタ」

今回は、なぁ~んの捻りも無い、超手抜きな残り物クッキングでした。

牛肉のコマ切れと、ささがきごぼうとピーラーで薄くしたニンジンの、ごくごく一般的なきんぴらごぼうを、酒のあてにと作ったものの、これまた厄介にもたぁ~くさん出来てしまうのが困り物。

しかし食品ロスを無くすことを目標としておりますので、残ったきんぴらをあれやこれやと工夫せねばなりません。

そこで今回は、何にしようかと考えることも省エネで、なぁ~んの捻りも無く、「きんぴらごぼうのクリームパスタ」に!

しかしこれが侮ることなかれ!絶妙な美味しさとなっちゃったんですから、捨てたもんじゃあありません!

まずタッパーに入った残り物のきんぴらごぼうを、フライパンでごま油をたっぷりと注いで炒めなおし、そこにあとは生クリームを注いで一煮立ちさせれば、きんぴらごぼうソースの完成。

後は茹で上げたパスタを湯切りし、オリーブオイルを塗して皿に盛り付け、きんぴらごぼうソースをたっぷり注げば完了。

お醤油と味醂の仄かな甘みが生クリームに溶け出し、パスタに纏わり付いたままお口の中へ!!!

白ワインがまたまた進んじゃいましたぁ!

きっとお子様にも好評のはず!

ぜひきんぴらごぼうが残ったら、思い出してみてくださいな!

今回は、ほとんどの方がホールインワンやニアピンでしたねぇ。

ご回答、ありがとうございました。

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「天職一芸~あの日のPoem 254」

今日の「天職人」は、津市美杉町の「郵便配達人」。(平成十九年十月三十日毎日新聞掲載)

月末近い下宿屋で 即席麺を二つ折り          冷や飯混ぜて炊き上げて 朝晩二食餓え凌ぐ       月が替われば軒先で バイクの音に耳澄まし      「書留です」の一声を 首を伸ばして待ち侘びた

津市美杉町の郵便配達人、境光司さんを訪ねた。

写真は参考

「『ええなあ、あんたら郵便屋さんとオマワリさんは。誰からも“さん”付けで呼んで貰えるんやで』って、農協や役場の奴らによう羨ましがられたもんやさ」。光司さんは得意げに笑った。

正式には、郵便事業㈱津支店興津配達センターの外務員だ。

光司さんは農家の長男として、昭和27(1952)年に同町で誕生。

中学卒業を間近に控え両親が離婚。

高校を出ると大阪へと向かい信用金庫に入行。

三年間の寮生活が始まった。

しかし古里に残る年老いた独り暮らしの母が気掛かりで、二十一歳の年に職を辞して帰省。

「半年ほどは母が勤める久居の瓦屋で、二㌧車転がして配達しとったんさ。母親は瓦の営業やさ」。

半年ほどすると、今度は興津郵便局のアルバイトに。

「叔父が勤めとったもんやでさ。『忙しいで手伝(てったい)いに来てくれんか?』『ほな、行きますわあ』ってな調子で」。

22歳の年に興津郵便局の職員補充で国家公務員試験に合格。

「そうは言(ゆ)うても郵便配達はせなかんし、貯金も簡保も何でもせんならんのやさ」。

来る日も来る日も、川上、石名原、杉平、三多気、興津、そして奈良県境の太郎生の混合区約千二百世帯を駆け巡った。

写真は参考

「四人で一区三百戸を配達すんやで」。

区域内千二百世帯の道順から、どこの誰が何人家族でどうしているかを克明に記憶する毎日。

「そんでもそれは企業秘密やさ。今しは個人情報の守秘義務があるでなおさらやけど」。光司さんは、オートバイのサイドミラーを見つめながら呟いた。

「そんでも昔はのんびりしとったもんやさ。『昼飯用意したるで食べてきい』とか、『お茶飲んで一服してきい』って。中には『餅搗いとるで上がって待っとり』とか、子供が懐いてもうて『オッチャン来てくれたわぁ』ってなもんで」。つくづく昔が懐かしげだ。

毎朝8時15分に津から郵便車が到着。

すぐさま荷降ろし。

次に配達順に区分する「順立て」へ。

そして午前10時には郵便局を出発し、受け持ち地区の巡回配達を終え、午後3時半頃局へと戻る。

その途中午前11時40分には、局に残った者が集まった郵便物を津へと発送するため、郵便車に積み込む「差し立て」作業が待ち受ける。

郵便局の外務員としての勤めも板についた昭和56(1981)年、同町出身の秀代さんを妻に迎え二男をもうけた。

雨の日も風の日も、台風だろうが、郵便配達に休みは無い。

写真は参考

「40㌢の大雪の日は、鞄を肩に掛けて行ける所まで歩いて配達すんやさ。郵便が届くのんを、心待ちにしてくれとる人がおる以上」。

多い日は二千通とか。

「郵便は翌日配達が基本やで」。

既にこの道33年の郵便配達人は、どこか誇らしげに遠くの山並みを見つめた。

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「天職一芸~あの日のPoem 253」

今日の「天職人」は、岐阜市日ノ出町の「支那そば屋」。(平成十九年十月二十三日毎日新聞掲載)

給料後の日曜は 母も朝から紅を注し          家族三人バスに乗り 目抜き通りの百貨店        とは言え母の行く先は 均一売り場の八十円      散々悩み「また今度」 〆は月一 支那そば屋

岐阜市日ノ出町の支那そば屋、丸デブ総本店三代目の神谷房昭さんを訪ねた。

「家は宣伝やったらお断りやよ」。

いきなり挨拶代わりに、そんな言葉で迎えられた。

「は~いッ、おおきに~ッ!」。

午後三時を過ぎても客足が絶え無い。

「お待ちどうさん」。

盆に載ったラーメンが運ばれて行く。テンコ盛りのスープが丼から盆に溢れ出す。

品書きはラーメンとワンタンのたったの二品だけ。

いずれも三百五十円と目を疑いたくなる。(平成十九年十月二十三日当時)

「ラーメンなんて大衆的な食べ物やで、具をあれこれ入れて高い値段にするよりも、安くて美味しくお客さんに召し上がってもらって何ぼのもんやって。創業以来それで名を売って通してまっとるでねぇ。今更変えてまうと、お客さんから叱られるんやて。『余分なことするな!』って」。房昭さんは、前掛けで濡れた手を拭った。

房昭さんは昭和29(1954)年に三人兄弟の長男として誕生。

高校を出ると繊維問屋に勤務。

「まあいずれは家を継がんなんとは思っとったでねぇ」。

二年後、家業へ。

丸デブの創業は大正6(1917)年。

東京の支那そば屋で修業した祖父が、郷里に戻って開業したのが始まり。

「まだ東海地方にラーメン屋自体が無くって、引き売りから始めて相当苦労したらしいわ。それでも柳ヶ瀬の歓楽街に店を構えたもんで、粋な旦那衆に持て囃されてったらしいわ」。

房昭さんを遮るように母笑子さんが口を挟む。

「同じ町内に三人デブがおったんやて。一人が蕎麦屋の大将で、一人はうどん屋の大将。そしてもう一人が家の義父(おとう)さん。義父さんがよう肥えとったもんで、お客さんから『丸デブ』って屋号付けられたそうやわ」。

昭和56(1981)年、銀行員だった康子さんを見初め、妻に迎え男の子を授かった。

「それが取引先の銀行やないんやて」。母がこっそり笑った。

「もうお客さんも四代目になっとるし。中には『お前んとこのそばは、お袋のお腹ん中におる時から喰うとった』って言うお客さんもおるんやて」。九割近くが常連とか。

丸デブの支那そば作りは、毎朝の麺打ちに始まる。

小麦粉・塩水・潅水(かんすい)で手捏ねし、打ち粉を振り機械で麺帯(めんたい)に延ばし、切刃を通してやや太みのある麺に仕上げる。

次に鶏がらでスープを取り、チャーシューを溜りで煮上げる。

注文が入れば、丼にチャーシューの煮汁タレとスープで味を調え、茹で上げた麺を浸す。

仕上げに刻み葱・蒲鉾・チャーシュー三切れを載せ、一杯二分半で完成。

「テンコ盛りのスープの理由か?そうやなぁ、戦後喰うもんも無い時代、空腹を満たしてもらうためやったんやないかなぁ」。

晴れの日も雨の日も、庶民と共に九十年。

丸デブの頑固なまでの商いは、多くの庶民が今日も護り続ける。

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「天職一芸~あの日のPoem 252」

今日の「天職人」は、名古屋市中村区の「鉄道用品屋」。(平成十九年十月十六日毎日新聞掲載)

子供料金握り締め 路面電車に飛び乗った        気は急くもののガタゴトと 父を見舞った日曜日    「直ぐに帰れる日が来る」と 母が手を振る電停は    なぜか町の灯にじみ出し チンチン電車遠ざかる

名古屋市中村区、鉄道関連用品を専門に扱う交趣会の店長、中田茂さんを訪ねた。

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「昔の改札は、厚紙の切符にその都度鋏を入れとったでねぇ。その切符切りにもお約束があったんだわ。不正やキセルをされんように、午前と午後とでは鋏を入れる位置を変えたりとか。まあ改札員と乗客との知恵比べだわさ」。茂さんが黄ばんだ厚紙の切符を差し出した。

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「昭和三十年頃の切符や、廃線になった駅の入場券なんかは、愛好者の間で一枚数万円の値が付くもんもあるって」。

茂さんは昭和29(1954)年、名古屋駅の近くで大工の長男として誕生。

大学を卒業するとカメラの販売店に就職した。

「小学校の高学年から中学にかけては、鉄道模型作りだわ。完成品は高いし買えんで」。

当事一日の小遣いが十円で、レールは一本五十円。

小遣いを一週間近く貯めては、レールを一本買い増した。

「台車の上に車体を厚紙で組み立て、木製の屋根を取り付けて特殊な塗料で塗装するんだわ。そうすると厚紙が金属質に堅くなるんだって」。

茂さんが高校に上がった昭和46(1971)年、名古屋市の市電、栄―笹島間が廃止された。

「市電が一番好きだったんだわ。廃線になったらもうあの姿が見えんくなるもんで、自転車に乗って市電の写真を撮りまくっとったて」。

その数36枚撮りフィルム1000本とか。

「それが鉄道写真に魅せられて行くきっかけかなぁ。写真撮りに歩くのが、そのまんま小さな旅行みたいで」。

いつしか趣味の延長線上に、就職先を見出していた。

「最初ぼくは、この店のお客だったんだわね。15年ほど前から通うようになって。昔この店は東京が本社だったんだけど、やがて閉鎖されて。前の店主が独立して、この店を継続したんだわ。その後店主が高齢になって引退するもんで、縁あってぼくが一年半前に引継いだんだって」。

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いつの間にか茂さんの回りには、一人二人と常連の鉄道愛好家が顔を揃え、話しの行方に耳を傾けニヤニヤとほくそ笑む。

そして愛好家達は、ショーケースに居並ぶ客車の模型や鉄道関連用品について、親切に解説を始めた。

「これは?」。

子供の頃からずっと気になっていた、列車の側面に取り付けられている型式番号を指差した。

「そいつはオアフ13型と言って、オは22.5~27.5tの自重。ハはイロハの順で、イが一等だからハは三等客車。今の普通車輌だわ。それでフは、ハンドブレーキのある車掌室付きって意味だわ」と茂さん。

「ここに並んどる物はどれも、金さえあれば売るってもんじゃないんだわ。本当に大事にしてくれる同好の人に、嫁にでも出すような気持ちで連れ帰ってもらうもんばっかだで」。

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汽笛を子守唄代わりに育った鉄道の落し子は、照れ臭そうにつぶやいた。

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「天職一芸~あの日のPoem 251」

今日の「天職人」は、三重県桑名市の「製麺師」。(平成十九年十月九日毎日新聞掲載)

母に引かれて市場まで 散歩を兼ねたお買い物      八百屋 魚屋 乾物屋 肉屋に米屋 金物屋       いつも見とれて立ち止まる 麺打つ親仁(おやじ)の手捌(てさば)きに                    家へ帰って粘土捏(こ)ね うどん屋ゴッコ真似てみる

三重県桑名市、昭和6(1931)年創業の製麺所。伊勢おかめ印の陣田屋商店、三代目製麺師の神山透さんを訪ねた。

「朝一番の仕事は、前のバス停の掃除と水撒きですんさ」。透さんは表通りを眺めて笑った。

「元々この店は家内の実家ですんさ。私は会社勤めやったんやけど、平成12(2000)年に番頭さんが病気で倒れられて、どうしても男手が要るゆうて」「それで主人に店へ入ってもうたんです」。妻、久代さんが傍らで助け舟を出した。

久代さんは昭和32(1957)年、旧姓水谷家の長女として誕生。

だが久代さんが小学校に上がった年に、父は幼子二人を遺し急逝。今年一月に身罷(みまか)られた母が、遺された子供を護り家業を支え抜いた。

その後久代さんは専門学校へと進み、21歳の年に母を手伝い家業を継いだ。

「うどんや味噌煮込みをスーパーや町のうどん屋に配達したり、後は事務仕事が主な担当でした」。

それから三年後。

昭和56(1981)年、透さんと結ばれ神山家の嫁となった。

「まぁ、あきらめ半分のようなもんで」。透さんはそんな言葉で照れ臭さを振り払った。

「どこで出逢(でお)たかって?実は大学の四年間、この店でずうっとバイトしてましたんさ」。

製麺所の跡取り娘とアルバイト学生の間に、いつしか恋が芽生えていった。

透さんは大学を出ると、事務機の販売会社に就職。

家も隣町と近く、事ある度に元バイト先に顔を出しては久代さんとの関係を育んだ。

結婚後もそれまで同様、久代さんは実家へと通い家業を手伝い続けた。

しかし七年前、店を一手に取り仕切ってきた番頭が病に倒れた。

さすがに透さんも見るに見かね、24年の勤めに終止符を打ち、古巣へと転職。

「でももうその頃は、昔とった杵柄は通用せんのやさ」。

当事とは製造方法も異なり、大口顧客であった問屋もいつしか衰退の憂き目に晒されていた。

「このままではあかん。独自の商品を作り出さんと」。

それがカレーうどんや、結婚式の引き出物として人気を呼ぶ「紅白かさね」となった。

紅白かさねとは、文字通り一本のうどんが紅白に重ねられ製麺された逸品だ。

製麺作業は、小麦粉と塩水を捏ね機で練る作業に始まる。

「夏は短めの十分。冬場は十五分ほど。塩味の少ないのが煮込み用で、多目の物はかけうどん用やさ。釜湯の方に塩が出てしまうで」。

次にローラーで生地を伸ばしバームクーヘン状の麺帯(めんたい)にして一~二時間ほど寝かす。

そして仕上げに再度ローラーをかけ、腰と艶を引き出す。

「お母さんが一番仕上げにこだわっとったわ。『まだ早い!』ゆうて」。久代さんが懐かしげにつぶやいた。

「こんな小さな店やで、麺打ちから販売と店先の掃除まで、何でもこなさんと」。透さんは妻を見つめて笑った。

夫婦二人で一つの人生。

妻と夫の『紅白かさね』。

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「天職一芸~あの日のPoem 250」

今日の「天職人」は、名古屋市中村区の「蝋細工師」。(平成十九年九月二十五日毎日新聞掲載)

給料後の日曜日 父母に引かれて百貨店         特売漁(あさ)る母を追い 父と二人で大わらわ     買い物後のご褒美は 最上階のレストラン       ケースを覗き品定め どれどれどれにしようかな

名古屋市中村区、食品模型すがもり工房、二代目蝋細工師の菅森弘昌さんを訪ねた。

こちらは、名古屋市守山区中志段味に移転された、現在の食品模型すがもり工房

名古屋駅西口。

椿神社の小さな杜の脇道には、下町風情が今尚色濃く残る。

生鮮品から衣料まで、ありとあらゆる商品が軒先を埋め尽くす。

その一画に、食品模型の蝋細工屋が。

ショーウィンドーの中には今が食べ時とばかりに、焼き立てのステーキからオムライス、そしてホークで絡め上げて静止した状態のスパゲティが並ぶ。

子供の頃、食堂の入り口で蝋細工の模型に見惚れ、駄々を捏(こ)ね母を困らせた懐かしい記憶が過(よぎ)る。

「もう今は蝋じゃなく、塩化ビニール製です。変色しないし耐熱にも優れ割れないので。昔の松脂で艶を出した蝋細工には、ゴキブリやネズミが卵を産み付けるもんだで。20年ほど前から、塩化ビニールに代わったんだわ」。弘昌さんは、展示されているステーキを取り上げ差し出した。

やはり蝋とは異なり弾力性がある。

弘昌さんは昭和33(1958)年、大阪で蝋細工師の父の元に四人兄弟の三男として誕生。

小学一年の年に父の転勤で名古屋へ。

その五年後に、父は独立し兄が営業を担当して家業を支えた。

弘昌さんは高校を出ると、自動車の整備工に。

だが二年半後、蝋細工師である父の跡を継ぐこととなった。

「昔から物造りが好きだったし、兄は営業専門だったから。父の技を学んどかんといかんと思って」。

職人の世界に終わりは無い。

どれだけ技術を身に着けたとて、その先を目指すのが宿命。

弘昌さんの修業は続いた。

昭和63(1988)年、恭子(のりこ)さんと結婚。

その三年後、一念奮起の末独立。

「自分のやりたい方向性と、兄の方向性とが違ってきて。そんな時にお客さんから背中を押されたって感じかなぁ」。

バブル経済崩壊の足音が忍び寄る、平成3(1991)年のことだった。

「バブルが弾けると、飲食業界も不況のどん底。『食品模型を造ると金がかかり過ぎるでかん』と。だんだんショーケースの中から、食品模型が姿を消して写真に代わってしまったわ」。

高いと言っても、相場は食品模型二十点で約十万円ほど。

「だいたい商品価格の十倍。だからチョコレートパフェが六百円なら六千円。まあ、どのみち丼勘定だて」。弘昌さんは大笑い。

食品模型の造り方は、現物をシリコンで型取ることに始まる。

半日乾燥させ、現物の食品を取り出す。

次に現物の色に似せた油絵の具を塩化ビニールに配合し、樹脂を型に流し込む。

今度はそれを180℃に熱したオーブンで二十分ほど焼き上げ、赤・青・黄・白・黒の五原色の油絵の具を調合し、現物と瓜二つに着色し微妙な風合いを再現。

すると寸分違わぬ、精巧な模型が誕生する。

「でもさすがに匂いまでは再現出来んけど」。

これで匂いを発すれば、疑う事無く口に入れてしまうことだろう。

ショーケースの食品模型に心奪われ、いつかはあのステーキが食べたいと立ち尽くした遠い日。

庶民の身近な芸術品を前に、腹の虫はただただ七転八倒だった。

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「昭和を偲ぶ徒然文庫 5話」~「願い星」

「『末は博士か大臣か』は昭和の幻?」2011年6月23日 (オカダミノル著)

 

-職業に貴賤なし-

時折り耳にする言葉だが、「ほんまかいな?」と、疑いたくなる場面もある。

特にその言葉を発する者が、上から目線であったりしたなら、とんだ茶番劇の、上滑りな台詞としか聞えない。

ところで、わずか数十年の間に、貴きものから賤(いや)しきものへと、自らの手で貶(おとし)めた職業がある。

それは内閣総理大臣ではなかろうか?

「巨人、大鵬、卵焼き」に象徴された、昭和の半ば。

学校で先生から、将来の夢はと問われると、大半の子が「末は博士か大臣か」と応えたものだ。

写真は参考

取り分けその中でも別格は、大臣の中でも王様級の「総理大臣」だった。

だから必ずクラスに一人くらいは、何の疑いも抱かず真顔でそう応え、教師の失笑を買う者もいたほどだ。

しかし昭和も時代を下るにつれ、いつしか子どもの夢のベスト三から、「総理大臣」や「大臣」が姿を消した。

一時は、貴き職業の頂に君臨した、総理大臣という子どもの憧れは、時の総理自らの手で夢を打ち砕き、多くの国民の期待を裏切り続けた。

その結果が、「貴」から「賤」への失墜だろう。

今も連日、次期総理を巡る駆け引きが報じられる。

今ごろ永田町では、自分が子どもの頃に夢見た、総理の椅子も近いと、こっそりほくそ笑む議員もいることだろう。

だが次の総理大臣たる者よ。

私欲や功名にはやるより先に、後の世の子どもから、「夢は総理大臣」と、もう一度言われる世にすべきではないか?

己を律し、維新の元老に恥じぬ、総理の復権を目指して。

子どもの頃ってぇのは、恐れを知らぬせいか、抱えきれぬほど途方もなく大きな夢を描くものだ。

またそれが子どもの特権でもあった。

こんなぼくでさえ、子どもの頃は見果てぬ夢を描いたもの。しかししばらくすると、その夢よりも煌びやかな夢に目移りし、再び新たな想いを募らせたりもした。

その結果がいま現在だとすれば、そのすべての責は己自身にしかなかろう。

他の誰かが悪いわけでもない。

その責を誰かに押し付けたり、誰かのせいにして、自分ただ一人だけはのうのうと生き延びようとするなど以ての外。そんな邪な考えを抱き、醜態を曝すくらいならば、いっそのこと潔くお迎えを希いたいものだ。

それが人の道ではなかろうか?

ところがどっこい。

一度でも特別な権力や地位を手に入れてしまうと、人は何人たりと言えど豹変してしまう、そんな浅はかな生き物なんでしょうか?

自らの心の賤しさすら、まるで貴きものであるかのようにすり替えてしまう。

先ごろやっとやっとその職を辞された裸の王様も、その足元に巣食うコバンザメのごとき裸の小人たちも、所詮一皮むけば同じムジナ。

こんなぼくではありますが、恥ずかしながらも純真な幼き頃は、「いつかはぼくも、この国の大臣に!」と、何を血迷ったのか両親の前で宣言したことがあったようにも記憶しています。

それはそれはとても儚い夢でもありました。

今さら負け惜しみではありませんが、そんな心賤しい裸の王様にも、ましてや裸の小人にもならず、自分の信ずる貴さを淡々と貫いたことを、きっと彼岸の岸で待つ両親が誰よりも分かってくれる気がいたします。

「お前もわしらに似て、不器用な生き方しか出来やんだんやなぁ」と。

はてさて、今の子供たちにとっての「巨人、大鵬、玉子焼き」は、いったいどんなものに変わり果てたのでしょうか?

尋ねてみたい気もしますが、ガッカリするのがオチかも知れませんので、せめてこの日本に恒久的な平和な世が続き、子供たちの未来が今より少しでも明るい世でありますようにと、ただただ願うばかりです。

今夜は、「願い星」お聴きください。

『願い星』

詩・曲・唄/オカダミノル

逢いたくて逢えなくて 君の名前呼び続けた

夜空に煌めく星を結び 君の顔を描いて

 どんなに愛を語ろうと こんなに心震えても

 君はただ 瞬くばかり

願い星伝えてよ もう一度だけ逢いたいと

そして必ず君だけに 生きて見せると

逢えなくてもどかしいと 心だけが夜を駆ける

君の寝顔に寄り添う心 気付いたろうか

 どれほど愛を語ろうと どれほど心震えても

 君の声が ぼくに聞こえない

願い星伝えてよ もう一度だけ逢いたいと

君を奪って二人そっと 生きてゆこうと

 どんなに愛を語ろうと こんなに心震えても

 君の声が ぼくに聞こえない

願い星伝えてよ もう一度だけ逢いたいと

君を奪って二人そっと 生きてゆこうと

続いては、CD音源の「願い星」オリジナル版と、ちょっぴりジャズっぽいアレンジ版の2曲お聴きください。

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、逸品ではありませんが「子どもの頃、あなたが憧れた職業」。

ぼくの一番古い記憶を手繰り寄せると、憧れた職業の一番は、市電の運転士さんでした。

市電に乗せてもらうと、必ず運転士さんが立って運転されている真横の銀色のポールを握り締め、その一挙手一投足を固唾を飲んで眺めていたものです。

そして家に帰ると、デコラ張りの折り畳みテーブルを壁に立てかけ、テーブルの脚を折ったり伸ばしたりしては、独り運転士さんごっこに興じたものでした。

それは遠い遠い、3歳か4歳ころの霞んだ記憶です。

皆様は、今よりもずっと穢れを纏わぬ純真だった子どもの頃、どんな職業に憧れを抱かれていましたか?

皆様からの思い出話をお待ちしております。

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クイズ!2020.10.27「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

またパスタかよーっ!って、どなたですか???

そんなけしからんことをおっしゃったのは?

まぁ、麺喰いな部類に属しておりますので、どうかご寛恕くだされ!

しかし今回は、どんな残り物をベースにしたかは、一目で見破られちゃいそうですねぇ。

さて、皆様のご回答が楽しみなところです。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 249」

今日の「天職人」は、三重県四日市市の「味醂干し職人」。(平成十九年九月十八日)

夕日を浴びたススキの穂 家路誘(いざな)う秋茜    腕白どもは腹空かせ 一目散に駆け出した        角を曲がればどの家も 玄関先で七輪が         ぼうぼう煙り撒き散らす 秋刀魚塩焼き味醂干し

三重県四日市市の友印安田友栄商店。三代目味醂干し職人の安田友栄さんを訪ねた。

写真は参考

「何と言っても焼き立てが一番やさ!味醂の焦げる香ばしい匂いが、食欲をそそるんやで」。友栄さんは、冷凍庫の扉を開けた。白い冷気が足元に這い出す。仕上がったばかりの味醂干しが、冷凍庫の中へと運び込まれる。

友栄さんは昭和10(1935)年、五人兄弟の三男として誕生。

しかし長男と二男が相次いで病死し、後取りとしての宿命を負うことに。

「味醂干しを始めたんは、父の代からですんさ。伊勢湾で上がる近海物イワシやカタクチイワシなんかを。元々父は心臓が悪て、中学卒業前に倒れてもうたもんやで、そのまんま家業を継いだんやさ」。

戦後間もない昭和20(1945)年代の浜の暮らしは、近海で育まれた魚たちによってもたらされた。

「毎年一~二月は暇。三~四月にコウナゴが上がり出し、五~六月にかけて縮緬雑魚、七月から十月にカタクチイワシ、九月から十一月にかけてマイワシが上がり、味醂干しに追われたもんやさ」。

写真は参考

戦後の目覚しい復興と高度経済成長。しかしその代償のように海が汚染され、近海物の水揚げも減少した。

「そこへもって伊勢湾台風の襲来で、漁師はみんなお手上げやさ」。

名四国道の建設に伴い、漁業補償が提示され多くの漁師が廃業へ。

「五十艘あった漁船が、わずか十艘やもん」。伝統的な近海漁業も終焉の危機を迎えた。

「『このまんま近海物に頼っとったらあかん!』と、日本各地からサンマ・アジ・サバ・イワシの産地冷凍もんを取り寄せるようになったんやさ」。

昭和36(1961)年、姉夫婦の紹介で近在から八重子さんを妻に迎え、一男二女をもうけた。

昭和38(1963)年に父が、翌年には母が相次ぎ鬼籍入り。

まさに激動の荒波が寄せては返す時代であった。

「近海物は取れやん。嫁さん貰って子供が出来たら、それと入れ替わるように両親を失のうて。海も人生も、自然との闘いですやん」。友栄さんは、切なそうに笑い飛ばした。

秋刀魚の味醂干しは、まず産地冷凍された秋刀魚を前日から自然解凍することに始まる。

次に頭を挟みで切り落とし、内臓を取り除き開いて骨を抜く。

そして水洗いし網の蒸籠に一枚ずつ干し、先代が作り出した溜まり・味醂・砂糖を中心とする秘伝のタレを刷毛で塗り、それを四~五回干しては塗ってを繰り返す。

最後に天日で二時間ほど干し、乾いた瞬間に冷却装置で身を引き締め、仕上げにタレで光沢を出し白胡麻を振りかける。

「天日干しには秋風が一番やさ。夏場は魚が蒸さってまう。それに仕上げは味醂やないとあきませんわ。溜まりやと黴が来ますでね」。

最盛期には一日数千枚の味醂干しが出荷され、家々の食卓へと上がる。

写真は参考

「家でも絶えず試食してますわ。魚がないと飯食うた気がせんし。わしらはどこまで行っても、所詮日本人やで」。

味醂干し一筋六十年。

味醂干しを誰よりも愛した職人は、大衆魚を絶品の味へと引き立てる。

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