「天職一芸~あの日のPoem 170」

今日の「天職人」は、岐阜県本巣市の「真桑瓜(まくわうり)農婦」。(平成十七年十二月二十日毎日新聞掲載)

広間彩る盆提灯 回る影絵の走馬灯            母の好物真桑瓜 供えて燈す松明(たいまつ)を      御下り子らは待ち切れず 早く早くと急かしたて      妻は包丁持ち来たる 年に一度の真桑瓜

岐阜県本巣市上真桑で代々真桑瓜を作り続ける農家。二十代当主の小川与司彦さんと、妻の満佐子さんを訪ねた。

写真は参考

「ちょっと大袈裟ですが、江戸時代に街道を行き来した旅人たちの間で『真桑瓜の放つ涼やかな甘い香りが、中仙道の美江寺宿まで届いた』と言われたらしい」。与司彦さんが、郷土をこよなく愛する学者のように、穏かな口調で語り出した。「でも作り手は、代々女系やで」。茶を入れる傍らの妻を見つめた。

満佐子さんは昭和二十一(1946)年、隣の大野町で加納家の長女として誕生。

高校を上がると岐阜市の会社に就職し、事務員を務めた。

三年後、二十一歳の若さで小川家に嫁入り。「この座敷の、丁度そこに座って三々九度して。巫女の代わりが義姉の幼子で、主人の従兄弟が高砂の謡(うたい)をやってくれたんやて」。

豪農旧家の祝言は、昼夜の二回戦。昼は親類、夜はご近所衆が集まり、飲めや歌えのお目出度三昧。やがて二男一女を授かり、四世代同居の暮らしが始まった。

真桑瓜の栽培は、毎年五月末から六月初旬の種蒔きから。双葉から本葉へと五~六枚の芽が出たところで芯を摘み取り、親蔓から実を成らせる孫蔓へと枝分け。畳八畳程の畑に三株が目安。七月下旬頃になると黄色い花を付け、それから二週間程で長さ十五㌢、太さ十二㌢程に生長。

写真は参考

黄色に黄緑色の縦縞模様、俵型した真桑瓜は、まるで頃合を知ってか知らずか、蔓から首がポンッと落ち、大地に実を横たえる。

写真は参考

「落ち瓜系やで。それを拾って収穫するだけ」。何とも手間要らずな潔さ。

切り溜箱と呼ばれる木箱五段に納められ、ひと夏約百個を収穫する。

「二~三日置いて箱の蓋を開けると、何とも甘い香りが部屋中に立ち込めるんやて」。

嫁いで以来、この道三十八年の満佐子さんは、香りを思い出すかのように眼を閉じた。

「お婆ちゃんがよう言うとったんやて。『大きな花柄で、お尻もしっかりした俵型がいい種を残す』って。皮を剥いた時、果肉が黄緑色しとるのが、美味しい瓜の種を取る秘訣なんやて」。

小川家の女たちは、先祖が長い年月をかけ改良に改良を重ねた、真桑瓜原種の種子を守り続ける。

「真桑の土地の気候と風土が、この瓜作りに適しとったんやて」。

夫は郷土史を広げた。「真桑瓜の名で文献に初めて登場するのは、織田信長の時代の頃」。

以来、真桑瓜は、真夏に涼を呼ぶ水物の王として、時の権力者たちの元へと献上され続けた。

写真は参考

「昔は、他に甘い果物が少なかったんやて。今は糖度の高い果物が多く出回とるもんやで、真桑瓜も甘く感じられんようになったんやろな」。妻が広げた今年の種を見詰め、夫はそうつぶやいた。

「でもこの自然の甘さが本物。昔ながらの真桑瓜の甘さなんやで」。妻は愛(いとお)しむように種を掌に載せた。

米粒よりもわずかに小さな種。真桑の女たちは、天然の甘さを宿す種を、子々孫々へと守り伝えて行くことだろう。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 169」

今日の「天職人」は、名古屋市中区の「革長靴(かわちょうか)職人」。(平成十七年十二月十三日毎日新聞掲載)

枯葉舞い散る林抜け 愛馬を駆って丘を越え        長靴の先で右左 胴に伝えて風を切る           風に追い着き追い越され 鬣靡(たてがみなび)く夕映えに 星降るまでに帰ろうか 長靴の踵胴に入れ

名古屋市中区の堤乗馬靴店、三代目の革長靴職人、堤昭夫さんを訪ねた。

「何でもっと若い頃、馬に乗らなんだろう」。 昭夫さんがボソッと呟いた。

祖父が明治四十(1907)年に創業。「昔は陸軍将校の長靴と、乗馬専門だわ」。

昭夫さんは昭和二(1927)年に、この家の三男として誕生。

旧制中学を卒業すると、父の下で修業を始めた。 「もうあの頃は、長靴も少なかったでねぇ」。

日毎敗戦色が深まり、乗馬を愉しむような悠長な時代ではなくなっていた。

「それでも終戦後は、駐留軍の連中が、ライディング・ブーツを求めてやって来たでね」。

とは言え、敗戦国の民にとっては、誰もが食うだけで精一杯。乗馬に勤(いそし)しむ事など、よほどの者にしか許されぬ。「苦難の時代は、昭和の三十(1955)年頃まで続いたねぇ」。

戦後の復興期から高度成長期へ、僅かながら明るさが兆し始めた。

昭和三十五(1960)年、長野県から親類の紹介で、妻の佐知子さんを妻に迎え、三人の息子を授かった。「じゃあ、跡取りの心配は無用ですね」と問えば、「やるだか、やらんだかわからん」と。昭夫さんは、少し寂し気に顔を曇らせた。

堤家伝来の長靴は、左右の足のサイズを採寸し、一つ一つ仕上げるオーダーメイド。

まず注文主が広げた紙の上に裸足を乗せ、外周を鉛筆でなぞる。次に甲高、甲幅、足道、踵と踵の曲がり首の高さ。さらに立った状態で、脹脛(ふくらはぎ)の周囲と踵からの高さ、それに膝骨の下の周囲を、左右それぞれに採寸。

「みんな右左で違う。甲の高さがピッタリ合わんと、踵が浮いて馬に乗り難いんだわ」。

次に新聞紙で型紙を作り、実寸より細めに革を裁断し、筒の部分と甲革を縫製。

「木型を二本入れて、真ん中に楔(くさび)を打ち込んで、筒の部分の革を伸ばすんだわね」。

水で湿らせた革は、天日で乾燥。仕上げは、中底と甲革とウェルト(足の外周を巻く細い革)を縫い上げ、さらにウェルトと靴底を縫い合わす。このスタイルは、グッドイヤーウェルド式。

松脂(まつやに)を十分に吸った太い丈夫な糸を使い、強力な専用ミシンで機械縫いする手法だ。

丸二日が費やされ、百年の歴史に裏打ちされた革長靴は、黒く鈍い光を放つ。

写真は参考

「鐙(あぶみ)を踏む、親指の付け根で馬にサインを送るんだでね。足のサイズにピッタリしとると、馬への伝達も良くて乗り易い。ここ二~三年かなあ。やっと納得いく靴が仕上げられるようになったのは」。

革長靴職人は、全国でも六~七人。

「お~いっ」。昭夫さんが奥に声を掛けた。

奥からエプロン姿の老職人が現れ、靴墨をブラシで伸ばし始めた。「錦さんって言う、同い年の職人さん。もう一緒に底作りやって五十五年だわ」。昭夫さんが悪戯っぽく笑った。錦さんは、我関せずを決め込む。

竹馬の友は、半世紀以上に渡り、いつしか本物の馬の革長靴を作り続ける、職人仲間となった。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 168」

今日の「天職人」は、三重県津市の「茄子団扇(なすびうちわ)職人」。(平成十七年十二月六日毎日新聞掲載)

湯浴みの後の酔い覚まし 盥の西瓜プカプカリ       蚊取り線香燻(くゆ)らせて 茄子団扇で戯(たわむ)れる 濡れた黒髪束ね結い 浴衣姿で横座り           君が団扇を煽(あお)るたび 仄かにシャボン薫り立つ

三重県津市の賀来商店。二代目の茄子団扇職人、賀来智子さんを訪ねた。

「この前も主人と二人で、扇面(せんめん)に貼る伊勢和紙を探しに行ったり、柄の先に取り付ける伊賀の組紐を見に出かけたり」。智子さんは、いきなり惚気(のろけ)出した。

智子さんは昭和三十六(1961)年に名古屋で誕生。

短大を出ると、デザイン関係の仕事に就いた。

二十七歳を迎えた年、津市出身の母の知り合いから、見合い話が持ち込まれた。そのお相手が、夫の隆さん。

見合いを終えた帰り際、仲介人が智子さんに言った。「今度貰いにいくから。それと式は○月○日ね。もう私、この日しか空いてないから」。有無を言わさぬ強引さに両家は押し切られ、平成二(1990)年に賀来家へと嫁入り。

賀来商店は明治二十四(1891)年の創業。空襲で工場が焼けるまでは、マッチ箱の経木製造を専門とした。

その後は時代の変遷に業態を転じ、広告宣伝用品の卸へと。

「父が六十歳を過ぎた頃やったろか。商工会で、津の土産物は、菓子の他に何かないやろかとなってさ。江戸時代から続いとったのに、昭和四十(1965)年頃に途絶えた茄子団扇を、復元しようってことんなって。団扇メーカーに頼んでも、手間やで相手にしてくれやん。そんならしゃあないって、自分が作ることに」。 隆さんは、壁に掛けられた父の遺作を見やった。

とは言え全くの素人。茄子団扇を剥(は)いでは分解し、構造を調べる日々が続いた。

「材料探して何度も京都に出かけて。今思たらそれも父の愉しみやったんやろかなあ」。

見よう見まねで始めた団扇作りも、足掛け十年を数えた。その二年前には智子さんが嫁ぎ、長女も誕生。家業を隆さんに託し、やっとこれで団扇作りに没頭出きると思った半年後、癌を発病。

五年間で六回に及ぶ手術を繰り返し、生死の狭間を彷徨い続けた。

「亡くなる三ヶ月前に、義父が団扇作りの手解きを始めて」。完全に引き継げないまま、先代は平成九(1997)年に他界。茄子団扇もこれで終わったと、誰もが感じた。

「たまに電話があったんです。『茄子団扇ありますか?』って。『ええ…まあ・・・』と。慌てて義父の遺した作り掛けを仕上げたほど。二年程は騙し騙しでした」。

茄子団扇の特徴は、扇面に柄を挿し込む形状のため、炭を熾(おこ)す激しい煽ぎ方には不向き。

優雅に上品に、ゆっくりと煽がねばならない。

作業はまず、杉の柄に鎌穴を開け焼き目を入れる。鎌と呼ぶ太目の竹籤(ひご)の両端を削り、蒸気を当て半円状に。続いて扇面を模(かたど)る極細の竹骨を均等に広げ、付け根を要紙(かなめし)で補強。

次に四十五~四十七本の竹骨を、木綿糸で編み込みながら糸掛け。そして扇面に伊勢和紙を貼って漆を塗り、周りに飛び出した骨を截(た)ち、周囲に縁紙を貼って完了。

気も遠退く細かな作業の全てを、智子さんただ独りでこなす。

「精々、年に三十~四十本かなあ」。智子さんが夫を見つめた。

「休みに夫婦で紙探しに行ったり。結構愉しいもんやさ」。

十七世紀初頭に溯る茄子団扇の歴史。

消えかけた伝統の灯は、秋茄子を食わすなとまで惜しまれた、か細い嫁の手と、それを支える夫の優しさで守り抜かれていた。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 167」

今日の「天職人」は、岐阜県本巣市の「菊花石(きっかせき)研磨師」。(平成十七年十一月二十九日毎日新聞掲載)

川面に浮かぶ浮眺め ついに入日も釣瓶落ち        父の溜め息空の魚篭(びく) 母の小言が目に浮かぶ    茜陽浴びて光る石 せめて母への手土産と         家に帰って大騒ぎ 天下の輝石菊花石

岐阜県本巣市神海(こうみ)、天然記念物菊花石の研磨師、根尾谷観石園の二代目、小沢睦(ちから)さんを訪ねた。

写真は参考

たかが石ころ。されど、ためつすがめつ石を眺め、数億年と言う途方も無い時代に想いを馳せ、何とも愉しそうに語らう親子三代と出逢ったのは初めてのことだ。

石の持論を説く傍らで、妻が要所を補う。すかさず店の奥から、長男が新説を交えた。

「まあ諸説いろいろなんやて」。睦さんが煙に巻く。

「そんな何億年も前の事、誰も見たわけやないし」。妻が助け舟。

睦さんは昭和二十(1945)年九月、満州で印刷会社を営んだ根尾村出身の父の元、五人兄弟の三男として誕生。しかし夢の国満州は、第二次世界大戦の幕引きで幻と消えた。

昭和二十二(1947)年、一家は命からがら実家へと引揚げ、それから十五年の年月が流れた。

「空前の石ブームやったんやて」。

炭焼きに出掛けた祖父母の、斧を研ぐ砥石が石に当り、割れて中から色の付いた部分が現れた。

それを砥石で磨き、台座に載せた五色石は飛ぶような売れ行きに。

「川沿いに十軒ほどが軒を並べ、五色石を売っとったんやで」と妻。

「ぼくが高校の頃は、原石その物で売れたんやで」とは長男。

睦さんは、大学を出ると印刷会社に職を得た。「田舎の事やで、大学出とると、皆がホーホー言うんやて」。将来の幹部と期待されながら、半年で退職。

「サラリーマンが向いとらんかったんやて。土日で親父の手伝いしとった方が、面白いし金になるし」。 睦さんは退職金代わりに、職場から一年先輩の恵美子さんを口説き落とした。

「当時の流行語『家付きカー付き、ババア無し』の、『ババア無し』が私は嫌やったでね。ここは両親も同居やったし。初めて家に来た時、義父が『笑う門には福来ると言う様に、一生笑っとる自信があったら嫁に来い』って」。妻は思い出し笑い。二人の男子と娘を授かった。

「ブームで終わると先細りになるで、高級品で手に入りにくい菊花石に眼を付けたんやて。採掘の許可を得て」。掘り出された菊花石の母岩を仕入れ、永年培った眼で見据え、花の在り処を人工ダイヤのグラインダーで探りながら磨き込む。

「この石に花が付きそうや」と、勘だけが頼り。

菊花石は方解石の結晶とも言われる。母岩は玄武岩が多いとか。花の色は薄墨色から、磨き込むほど白さを増す。

「でも磨き過ぎると、花が萎む。石の硬さも全部違うし、花の咲き加減の見切りが肝心。どれも溶岩の悪戯やでね」。

写真は参考

この土地は、神の海と書いて、神海。数億年の昔、海底火山が隆起したとも。

地球が大地に咲かせた石の花。

研磨師の眼力は、己の勘だけを頼りに、数億年彼方で自然が織り成した美を、現(うつつ)の世に深い眠りから目覚めさせる。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 166」

今日の「天職人」は、愛知県西尾市の「雲母鈴(きららすず)職人」。(平成十七年十一月二十二日毎日新聞掲載)

父に引かれて初詣 晴れ着でめかしイソイソと       お参り後の楽しみは 御神籤破魔矢雲母鈴         父に引かれて帰り道 カランコロンと鈴が鳴る       荒れた大きな父の手の 温もり今も忘られぬ

愛知県西尾市で雲母鈴を作り続ける、松田民芸店八ッ面焼(やつおもてやき)窯元の二代目松田克己さんを訪ねた。

窓際のトランジスタラジオから、歪んだ声が上がる。

長閑な秋の陽が差し込み、背を丸めた寡黙な男は、掌の土を捏ね続けた。

「まあ今は、昔の五分の一。一日十個ほどだわ」。克己さんは、窓を背に振り向いた。

克己さんは昭和十五(1940)年、農家の三男として誕生。

十歳の年、折からの民芸品ブームに乗り、父が途絶えていた「雲母鈴」の復活を図った。

克己さんは中学を上がると東京へ。

「貧乏だもんで、口減らしで東京へほかられて。丁稚奉公の最後の時代だったで」。酒屋での住込み生活が始まった。

昭和三十五(1960)年、所得倍増計画が叫ばれ、東京五輪を間近に控えた都心には、昼夜を問わず槌音が響き渡る。

「都内のどこを歩いとっても、鉄板だらけ。独立して店を持とうにも、土地が高騰してどうにもならんだぁ」。

二十一歳の終わりに酒屋を辞し、しばらく土地を探し歩き、やっとのことで小さな物件を見つけた。

「家に帰って相談したら『そんな金あるわけない!』の一言で終(しま)いだわ」。

儚く夢は潰(つい)え、父の雲母鈴作りを手伝いながら免許を取得し、タクシー会社に入社。

「当時タクシーの給料は二~三万。非番に作る鈴が、月に四~五万儲かって。どっちが本業だかわからんかっただぁ」。

文字通り、所得倍増が叶えられた。

二年後には、職場で見初めた禮子さんを妻に迎え、三人の娘が誕生。

「手近にアレしかおらなんだで」。隣の部屋から妻が咳払い。

昭和四十(1965)年にはタクシーを降り、雲母鈴作りに専念。観光ブームに沸き、周辺各地の施設で土産物として好調な売れ行きが続いた。

「そんでもオイルショック以降さっぱりだて。知らんどったら何時の間にか、給料はサラリーマンの方が、上へ行っとっただぁ」。

八ッ面山の雲母は良質で、続日本紀によれば朝廷にも献上された逸品とか。

「今では白雲母(はくうんぼ)と呼ばれ貴重だけど、子供の頃は大きな塊の『千枚めくり』がゴロゴロあっただて」。

克己さんは大きな缶の中から、千枚めくりの塊を取り出した。

雲母鈴には、安城市で産出される瓦粘土の赤土が用いられる。

まず粘土を掌にすっぽり収まる大きさに丸め、親指で押し込んで茶碗型から壺型に形成。

次に鈴型に口をすぼめ、小さな丸い球を入れ、表面に細かく砕いた雲母を飾り、一昼夜窯で焼き上げれば直径八㎝ほどの雲母鈴が完成。

「日本一涼しい音がするらぁ」。

窯の温度が高く、鈴の肉が厚いほど、音色は高く美しさも際立つ。

カランコロン。

土鈴特有の鈍い音ではない。金属を感じさせる切れ味の良い余韻を残し、鈴の音が響く。

窓からの陽射しを浴び、鈴はキラキラと、高貴な光の衣(ころも)をまとった。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「夏花火」

花火大会も盆踊りも無い夏は、正直初めてです。

幸いにも平和な世に生まれ、平和な世が当たり前だとついつい思い、改めて今更平和な世に感謝することも無いまま、この年までのらりくらりとやってこれた気がします。

少なくともぼくの両親は、バリバリの戦中派でしたから、その人生の前半は人が人を殺め合うという、戦争の渦中で過ごしたわけです。

だからきっと、ぼくなんかの何万倍も、平和な世の尊さを身をもって感じられたことでしょう。

ところがどうでしょう!

人が人を殺め合う戦争ではないものの、見たことも無く、肉眼でその姿を捉えることも出来ぬ、小さな小さな新型コロナウイルスが、突如として全人類に牙を向けてこようとは!

目に見えぬ敵に、どう立ち向かえばいいのか!

それと同時に、環境破壊がもたらす異常気象に伴う自然災害の猛威に、なすすべもなくうろたえるばかりです!

そんな一気にどっと押し寄せた社会不安に対し、人々の心は益々疑心暗鬼になるばかりで、人が人を思いやる心も薄れゆく一方なのではないでしょうか?

メディアが報じる新型コロナに対する若者たちの言動を耳にすると、「どうにでもなれ!」とでも言わんばかりな自暴自棄的な発言に、ただただ愕然とするばかりです。

これが21世紀を夢見た「明日」なのでしょうか?

少なくとも昭和半ばの貧しき時代に生まれたぼくなんぞは、もっと違う「明日」を見ていた気がします。

物質的な豊かさよりも、恙無く一日元気で生きていられる、そんな安寧こそが、最も大切でかけがえのない物だったのではないでしょうか?

コロナで失ってしまった、あの穏やかだった日々の営みが、堪らなく愛おしく思えるばかりです。

こうなったら一日も早く、コロナを制圧するというよりも、未知なるウイルスとの共存の道を探り出し、少しでも昔のようないつもの穏やかな日々が再び訪れてくれることを願うばかりです。

やっぱりこんな夏は、浴衣姿で夜空を焦がす花火を見上げながら、よく冷やしたキリン一番搾りをのんびりと煽りたいものです。

今年は線香花火なんぞを買って、迎え火と送り火の日にでも、ベランダでこじんまりと花火大会でもしようかなって思っています。

今夜は「夏花火」聴いてください!

「夏花火」

詩・曲・唄/オカダ ミノル

盥に浮かぶ打ち上げ花火 スイカ冷やした夏の宵

髪を束ねた浴衣姿の 君のうなじがいとしくて

 夏よ二人の時間(とき)を止めて 今のまま君を閉じ込めたい

 輝き放ち一瞬(ひととき)で散る 花のように短い夏花火

縁に腰掛け団扇で君が 燻らす煙の蚊遣り豚

そんな仕草の一つ一つに ぼくの心は震え出すよ

 夏よこのまま時間を止めて 今のこの君を忘れたくない

 輝いただけ儚くも散る 人の世の定めと夏花火

 夏よこのまま時間を止めて 記憶に君を焼き付けたい

 輝き放ち一瞬で散る 花のように短い夏花火

続いては、長良川国際会議場大ホールでのLive音源から「夏花火」お聴きいただきましょう。前半はちょっとジャズっぽいアレンジです。

そしてCD収録分のオリジナル「夏花火」、どうぞお聴き比べください。

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、逸品ではありませんが「色褪せた昭和の花火の思い出!」。ぼくが子どもの頃は、一文菓子屋のトシくん家で、バラ売りの花火をお母ちゃんからせしめた50円か100円分、あれにしようかこれにしようか、それこそ1時間もかけて品定めしたものでした。

ぼくが好きだったのは、火を付ける時がメッチャ怖かったねずみ花火でしたねぇ。確かお父ちゃんに火を付けてもらってましたねぇ。

でもそれから2~3年もするとちょっと知恵がつき、花火を一緒にやる近所の友達と花火の買い出しに行き、互いの花火が被らないように、より多くの種類を手に入れようとしたものです。

今のような花火セットなんて、小学生の頃なんて無かったきがしますねぇ。

皆さんはどんな種類の花火がお好きでしたか?

今回は、そんな皆様の「色褪せた昭和の花火の思い出!」をお聞かせください。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

クイズ!2020.07.28「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

今回は、残り物を使って、こんなフィンガーフーズにチャレンジしてみましたぁ!

でも実は、この作品、ちょっと前に作ったもので、2種類はなんだったか覚えているのですが、ちょっと色の黒いのが何だったのか、さっぱり思い出せないんです!

そこで観察眼の鋭い皆様からのお答えを参考に、思い出せるだろうかと、1種類の中身が思い出せないまま、ちょっと無責任な残り物クッキングクイズを出題させていただきました。

どうか皆様、寛容なお心でご覧いただければ幸いです!

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 165」

今日の「天職人」は、三重県桑名市の「町角の面打師(めんうちし)」。(平成十七年十一月十五日毎日新聞掲載)

秋風孕(はら)む篝火が 肌を突き刺す夜気払う      能管(のうかん)の音に舞う翁(おきな) 在りし日父の影揺れる                          苦楽浮かべる翁面(おきなめん) 月の明りに影法師    憤怒(ふんぬ)露(あらわ)の般若面 情も仇(あだ)なす人の世か

三重県桑名市の「益生新楽堂」、町角の面打師の鈴木亨さんを訪ねた。

写真は参考

どこからどう見ても、紛れも無く年季の入った薬局である。能の面を打つ職人を「新楽堂」に尋ねたはずだ。しかし店先には、時代と共に色褪せた、製薬会社のマスコット人形と、「新薬堂」の看板。「楽」と「薬」を間違えたかと思っていると、「いらっしゃい」の声。老眼鏡をずらし、上目遣いに穏かな老人が迎えた。

「ある時、地図に新楽堂と間違われて書かれてもうてな。まぁ、それもええ名やと思って、能面の仕事の屋号にしたんやさ」。

亨さんの旧姓は田中。桑名市出身で国鉄技師であった父の下、長野県で五人兄弟の三男として誕生。父の転勤で各地を巡った。

しかし小学六年となった昭和二十一(1946)年、戦中から北ボルネオ島で鉄道開発に従事していた父が急死。

間も無く、亨さんの実家の一部であった現在地に、「新薬堂」の鈴木夫婦が幼い娘を連れて店を移転して来た。

亨さんは、中学高校と演劇に入れ込んだ。「高二の頃からは、演出や裏方に興味が湧いて」。

進路が問われる高校三年の年、鈴木薬局の長女、当時十三歳のとし子さんとの養子縁組が交わされた。

亨さんは急遽志望校を変更し、東京の薬科大へと進学。しかし三年後、鈴木家の事業の不振で中退し、ブラシやハケの製造販売会社に勤務した。

昭和三十四(1959)年、高校を卒業したばかりの、妻とし子さんが上京。

晴れて新婚生活が始まった。「だから結婚記念日がないんやさ」。三人の男の子を授かり、昭和四十一(1966)年から名古屋に引越し、医療事務の仕事に従事した。

「子どものカブスカウト活動の手伝いで、木彫を始めるようになって」。ロープタイやブローチといった小物から、やがては仏像へと、木彫の魅力に取り憑かれていった。

そして昭和六十二(1987)年、能面作りを趣味とする人物と出逢い、教室通いへ。

写真は参考

能の面打は、半世紀近く寝かせた檜を、鑿(のみ)で粗彫りすることから始まる。

次に彫刻刀に持ち替え、中彫りから仕上げ彫りへ。そして紙やすりで磨き、檜の含む樹脂を抜き取る為、メタノールに一週間ほど浸け込む。

次にそれを取り出し熱湯に潜らせ、表面に浮き出た樹脂を洗い落とし、二週間ほど陰干しし、再び紙やすりをかける。

そして七百年前の能面の風合いを出すために、カマンガン酸カリの水溶液を塗って下地を焼き上げる。いわゆるエイジングの手法だ。

写真は参考

「最初は真っ紫になって、十秒程で今度は真っ茶色に変わる」。

下塗りでは、貝殻を粉砕した、胡粉(ごふん)と呼ばれる白い粉を、膠(にかわ)液に溶いて三~四回塗り、乾いたところを紙やすりで磨く。

この下塗りを二~三回繰り返し、中塗り上塗りと粒子の細かな胡粉に変えながら、全工程二十回ほどの塗りを重ねる。

仕上げは松煙(しょうえん)で眉と髪を毛描きし、小面(こおもて)の表情を決める紅を差す。

「いつも同時に最低三個ずつ、同じように彫るんやけど、三つともちょっとずつ違ごてくるんやさ」。

斑(むら)を出し、わざと汚して古さを醸し出す。

「唇の両端の上げ下げ一つで、年齢も大きく変わる」。

写真は参考

手掛ける小面は、五つ。いずれも未完成だ。

「究極の能面やでなあ。彫らんでも、毎日話し掛けたるんさ」。

能の面打に分業は無い。一から十まで、一人の面打師の手業一つの物種。

町角の老面打師は、両切りピースに火を灯した。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 164」

今日の「天職人」は、岐阜県北方町の「茗荷(みょうが)ぼち職人」。(平成十七年十一月八日毎日新聞掲載)

シュワシュワシュワと湯気上り 蒸し器の蓋もガタゴトと  待ち遠しくて童らも 茗荷葉(みょうがば)広げお手伝い  初夏の我が家の名物は 盥(たらい)に浸けた麦の茶と   深い緑にくるまれた 仄かな薫り茗荷ぼち

岐阜県北方町で「みょうがぼち」を作り続ける恵比須屋。三代目の生菓子職人、河村正彦さんを訪ねた。

「『お前とこには、売るほどあるやろが』って、夏の初めになると大婆さんの家から、みょうがぼち持って来てくれるんやて」。正彦さんが、大きく笑った。

「昔は田植えも終わり野休みになると、空豆の餡を包み茗荷葉で巻いて、各々の家々でよう作ったもんやて」。

正彦さんは真正町の農家で、昭和十(1935)年に林家の二男として誕生。中学を出ると、岐阜市の生菓子屋で、七年半の修業を積んだ。

「在所の父が、ここへようお菓子を買いに来とったんやて」。そんな縁から、跡取り娘との縁組へ。

昭和三十四(1959)年、河村家へ婿入りし恵美子さんと結ばれ、三人の子どもを授かった。

「昔の菓子屋は、夏場が暇で暇で、さっぱり売れんのやて。義父は『夏はゆっくり休めばいい』って言うもんの、遊んどってええんやろかと。何かせんとと思っとったんやて」。

時代は高度成長期へと。減反政策で専業農家が減少し、若者は職を求め大都会を目指した。兼業農家が増加し、農閑期を過す郷土の風習もいつしか廃(すた)れ往く。

「最初は『みょうがぼち』なんてありきたりの菓子が、売れるんやろかと半信半疑だったんやて。ところが店に並べて見たら、飛ぶ様な売り行きで。もう農家でも作らんようになってしまっとったんやて」。

最盛期には、一日二千個が売れた。毎年茗荷の葉が出る、五月の二十日頃になると、垂井町や大垣市、果ては東北からも注文の電話が鳴り止まぬ。

「みょうがぼち」の「ぼち」とは、餅ではなく小麦粉を使った蒸し菓子を指し、「餅」とは呼べず「ぼち」と呼んだ方言とか。

作り方は、小麦粉と米粉に砂糖を練り合わせ、空豆の餡を詰め込み蒸し上げる。別に二分ほどサッと蒸した茗荷の葉に包めば出来上がり。

「毎年四人がかりで、空豆の皮をむかんならんで大変やて。でも手間隙惜しんだらかん。中には機械で空豆の皮を削ったのもあるけど、やっぱり味が違うんやて。手塩にかけた餡の美味さは」。

冷蔵庫で冷やしても、餅と違って硬くはならない。

茹だるような夏の昼下がり。団扇片手にみょうがぼちを頬張る。汗をかいたコップの麦茶を一息に飲み干せば、透き通るような茗荷葉の香りが、仄かに涼を呼び来たる。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

7/21の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「メカジキのソテーとファルファッレのトマトクリームソース with 夏野菜オリーブオイルソテー」

これまたスーパーの特売で買い置いていた、冷凍メカジキを使って、白ワインにピッタリなパスタディナーを作って見ました。

ちょうど郡上から、もぎたてのミニトマトと茄子、それとちょっと面長なピーマンをどっさりお送りいただいていたので、それをせっせと使って見ました。

皆々様のお答えは実に見事な観察眼で、概ね正解の方が続出でしたものねぇ!

この「メカジキのソテーとファルファッレのトマトクリームソース with 夏野菜オリーブオイルソテー」は、既に皆様もお分かりの通り、超簡単な時短クッキングでした。

まず解凍したメカジキをジップロックの中に入れて、白ワインとハーブミックスをパラパラッと振り掛けて、冷蔵庫の中で寝かせておきます。

そして一時間ほどメカジキを寝かせたら、ジップロックから取り出し、キッチンペーパーでワインを拭き取り、フライパンにオリーブオイルをたっぷりひき、ニンニクの微塵切りで香りを立ててから、メカジキを投入し塩コショウと白ワインを振り掛け、多少焦げ目が付くまでソテーし、皿に盛り付けます。

またファルファッレを程よく茹で上げ、よく湯切りしてオリーブオイルと和えて皿に盛り付けます。

次に小鍋にカットトマト缶を投入し、鶏ガラスープと白ワイン、そしてブラックペッパーと、NZ産のマーマイトと生クリームで味を調え、ファルファッレの上から流しかけます。

去年のNZロケで買った、野菜のエキスで出来た、酵素の塊のマーマイトがありましたので、ぼくはコクを出そうと使って見ましたが、マーマイトが無くたって全然大丈夫です!

さらにミニトマト、面長なピーマン、茄子をオリーブオイルでソテーし、塩コショウしたものを彩で皿に盛り付け、最後にクラッシュしたミックスナッツを振り掛ければ完了です。

洗い物もたったの一枚で、何とも手間いらずなディナーとなり、白ワインがグビグビと進んでしまいました。

夏野菜も一度にドッと採れるので、一工夫しながら味わいたいものですね!

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。