「天職一芸~あの日のPoem 262」

今日の「天職人」は、岐阜市長住町の「ホルモン屋女将」。(平成十九年十二月二十五日毎日新聞掲載)

色付く街に賛美歌と 恋人たちのはしゃぎ声           あんな時代もあったなと ネクタイ緩めコップ酒         レバーにネギマ ホルモンと 上司の愚痴をアテにして      酒を煽って憂さ晴らし オヤジ二人のクリスマス

岐阜市長住町のホルモン水谷本店。二代目女将の水谷信子さんを訪ねた。

「おお~い、酒二杯に串三本やで勘定おいとくわ」。

夜も更けた光景かと思いきや、まだ昼下がりの午後二時半だ。

名鉄岐阜駅を西に入ったビルの谷間。

歩道に突き出した煙突からは、炭火に爆ぜる美味そうな肉汁の香りが漂う。

歩道をゆけば、ついつい袖を引かれそうになるのが人情。

それが証拠にこんな真昼間から、店内はもう鈴鳴り状態。

店から溢れ出した客用に、ビールケースに板を載せた簡易テーブルが組み立てられ、客も手慣れた様子で丸椅子を運び出し、歩道脇に陣取ってコップ酒を煽る。

「家の名物は何てったって、厚切りレバーやて」。信子さんが、串盛りを差し出した。

「まあお茶菓子代りに食べてみたって」。

確かに串に刺さったレバーの厚みは、2㌢近くもある。

まるで学校給食に添えられていた、三角形のチーズ大の大きさで、おまけに惜しげもなく一串に二切れという大胆さ。

これで一本百円とは、鈴鳴り人気にも合点がいく。

信子さんは昭和18(1943)年、一文菓子屋を営む後藤家に誕生。

中学を出ると化粧品屋に勤務し、看板娘として販売を担当した。

ちょうど娘盛りの20歳を迎える頃の事だ。

「練炭屋に夫を紹介されたんやて」。信子さんは心なしか照れ臭げだ。

「旅館をやってた叔母が『下見してきたるわ』って、この店にこっそりやって来て夫の品定めやて。それで『三郎さんなら間違いない』って、太鼓判押すもんやで」。

昭和38(1963)年、水谷家の二代目三郎さんに嫁ぎ、二女を授かった。

「当時も店はてんてこ舞い。だから娘二人は住み込みのオバサンに任せっぱなし」。

高度経済成長期を支えた男たちは、ホルモン屋でまずは景気を付け、ネオン瞬く柳ヶ瀬へと繰り出していった。

「よう明治気質の義父から教わったもんやて。『飲み過ぎた人に売っちゃいかん』って。だから今でもそれは肝に銘じとるんやわ」。

平成12(2000)年、夫が他界。

「もう二代限りで終わりにしようかって思っとったんやて。そしたら娘婿が、『俺が会社辞めて継ぐ』って涙浮かべて言ってくれたんやわ」。

信子さんは言葉を詰まらせながら、誇らしそうに焼き場の娘婿を見つめた。

「わしなんか忘れたくらい昔から、ほとんど毎日通っとるって。値上がりせんし、隠居の身には助かるんやて。だから勘定も自己申告みたいなもんやって」。

帰り際に常連客の老人が笑い飛ばした。

思い思いの客がそれぞれの人生を引っ提げ、小さな丸椅子に腰かけ赤ら顔で串を頬張る。

ここでは会社の看板や、身分の上下など一切通用しない。

だからこの店が大人たちの止まり木であり、楽園であり続けるのだ。

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11/03の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「残り物の残り物!イタリア~んな広島焼き擬きのモダン焼き~アラビアータソース添え」

皆々様には、大変あれやこれやとお考えを巡らせてしまいましたが、実はなぁ~んてぇこたぁありません!

先週の「きんぴらごぼうのクリームパスタ」が残ってしまい、そいつを更に一捻りしただけの、なんともお粗末極まりない、超超手抜きな残り物のこれまた残り物クッキングでございます。

まずは、残っていたきんぴらごぼうのクリームパスタをボールに移し、そこにとろけるチーズと生クリームを加え、フライパンで軽く炒めておきます。

次にフライパンに油をひき、小麦粉、玉子、生クリームを混ぜたお好み焼きの皮の上に、フライパンで炒めたきんぴらごぼうのクリームパスタを、広島焼きの焼きそばのように乗せ、再び混ぜた小麦粉、玉子、生クリームを上から被せ、ひっくり返して焼き上げ、最後に市販のアラビアータソースを彩に添えれば完了。

とんでもなく超手抜きな、残り物の残り物クッキングではありましたが、これがまた妙に後を引く美味しさで、ついついキリン一番搾りをグビグヒと煽ってしまったものです。

まぁ、よくよく考えれば、焼きそばもパスタも麺に変わりはないわけで、見た目はともかくそれなりに中々どうしてな逸品となりました。

悩みに悩み抜かせてしまいましたが、沢山のご回答をお寄せいただき誠にありがとうございました。

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「天職一芸~あの日のPoem 261」

今日の「天職人」は、愛知県岡崎市の「アコーディオン弾き」。(平成十九年十二月十八日毎日新聞掲載)

ちょっとそこ行くお嬢さん 肩を落して項垂れちゃ        綺麗な顔も台無しだ 少し停まってお聴きなさい         失くした恋を悔やんでも 今更元へ戻れない           ならば明日の出逢い期し ラブソングでも奏でましょう

愛知県岡崎市のアコーディオン奏者、杉浦多美夫さんを訪ねた。

「今のは霧島昇の『誰(たれ)か故郷を想わざる』だわ。あんたら知っとる?」。多美夫さんが問うた。

「この音色は、激動の昭和そのものだって。苦しくて辛い時代に、元気と勇気を与えくれただ」。

両肩から13㌔もある、自慢のアコーディオン「ホーナーゴラ」を軽々と下ろしながら笑った。

多美夫さんは昭和8(1933)年、石工を父に三人兄弟の次男として誕生。

両親は地元の石材会社に勤務し、家族を支えた。

ところが小学六年の年、父が急逝。

母の細腕を頼りに中学を卒業すると、母の勤める石材会社に入社。

夜学生として工業高校の定時制に通った。

「仕事を夕方で切り上げ、5㌔ほどテクテク歩いてくだわ」。

昭和24(1949)年、記念すべき初任給は2,000円。

夜学を終え一目散で家へと駆け戻り、月給袋ごと封も切らず母へと手渡した。

翌年、元プロ歌手津田二郎師の歌謡塾へ。

「週に1回30分のレッスンを受けに通ったもんだぁ。最初の25分間は発声や基礎練習。最後の5分で好きな歌を唄って、先生の指導を受けるだ」。

それから五年間で、NHKのど自慢へ26回も出場。

5回合格の鐘を鳴らした。

「当事はのど自慢ブームだったもんで、一曲50円もする楽譜を買って伊藤久男の『オロチョンの火祭り』を唄ったもんだって。でもあんな当事、色恋の歌はご法度だし、プロより上手く唄っても鐘は2回しか鳴らんだわ」。

三河各地で開催されるのど自慢会場を荒らし回った。

「その内、アコーディオンの音色に惹かれてまっただ」。

写真は参考

のど自慢荒しの傍ら昭和27(1952)年には、当事の給料の10倍にも当たる2万円でアコーディオンを購入。

「修学旅行の積み立て金を崩して、母親に1年分の小遣い前借りさせてまって」。寝る間も惜しみ独学で奏法を学んだ。

昭和31(1956)年、地元の仲間とタンゴバンドを結成。

仕事を終えるとキャバレー巡り。

「岡崎のキャバレー双竜へと、自転車に楽器積んで走ってくだぁ。石材屋の社長が苦労人で、普通だったら二束の草鞋を咎めるところが『お前は偉いなぁ。晩もバイトに精出して』って、逆に励まされただ」。

昭和35(1960)年、バンドで貯めた金を結婚資金に、職場で見初めた尚子さんに求婚し二女に恵まれた。

それから間も無く半世紀。

「父母もぼくも育ててもらった会社に、今は娘婿が勤めさせてもらっとるだ。親子三代に渡って。本当感謝せんとかんわ」。

多美夫さんは徐に愛器を抱き、左手で蛇腹を開いた。

写真は参考

腹一杯にアコーディオンが空気を吸い込み、せつなく物悲しい独特な音に、右手の四十一鍵でメロディーを奏でる。

日毎遠ざかる昭和半ばのセピア色の風景が、瞼の奥に広がっては消えて行く。

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「天職一芸~あの日のPoem 260」

今日の「天職人」は、三重県度会郡大紀町の「牛乳配達夫」。(平成十九年十二月十一日毎日新聞掲載)

ガチャゴトガチャと瓶が揺れ 牛乳配達オッチャンの      チャリンコ停まる庭先で 木箱がコトン 音立てた        コケコッコーと寝惚け鶏 今頃朝を告げて鳴く          庭先母の下駄の音 ぼくは布団で丸くなる

 三重県度会郡大紀町の松田商店、大内山牛乳配達夫の松田憲光さんを訪ねた。

「学校給食の脱脂粉乳が、とんでもなくまずいし臭っさいもんでさ、教室へ運ぶ途中のドブによう放ったったもんやさ」。

昭和半ばに生を受けた児童にとって、脱脂粉乳とあちこち凹んだアルミのカップは、好むと好まざるとに拘らず忘れ得ぬ存在と言えよう。

憲光さんは昭和30(1955)年、食料品店を営む家の長男として誕生。

「保育園時代の同級に、今は俳優になった小倉久寛がおってさ。小中学生時代は一緒に野山を駆け巡ったもんやさ」。

高校を卒業すると父が営む食料品店を手伝った。

「20歳の頃から結婚するまでの13年間は、店を手伝いながら毎朝3時半に起きて、新聞配達もしよった。いつの間にか身体が時間を覚えてしまって、目覚しいらずやさ」。

25歳を迎えた頃だった。

大内山牛乳の宅配と、店卸をしていた配達人に欠員が。

「どうせ新聞配るついでやし、ほならオラがしよかって」。

新聞と牛乳の配達、そして乳製品の店卸配送と父の食料品店での販売。

毎日わずか3~4時間の睡眠時間で、一日身を粉にして働き詰めた。

「大内山牛乳は飼料も飼育もピカイチやで、牛乳の味が絶品なんさ」。

憲光さんは大きな瓶から新鮮な牛乳をグラスに注いだ。

勧められるままにグラスを干した。

口中に濃厚な味わいと、ほんのりとした甘さが広がる。

平成元(1989)年、近くのスーパーでレジ打ちをしていたみづほさんを見初め求婚。

男子二人を授かった。

「いつまでも独り身だと、周りからあれこれ言われるんさ。それで終いに面倒臭なって来て」。

接客に追われる妻を盗み見ながら、照れ臭そうにつぶやいた。

平成8(1996)年、国道沿いに山海の郷が開業し、乳製品を中心とする店を出店。

「昔ながらの市場やさ。でもこの対面販売が一番」。

この年大内山牛乳に、地元色を打ち出した商品作りを持ちかけた。

「『手作りのビンバタ(ビン詰めバター)作ってくれんか』って」。

昔ながらのチャーン製法で、じっくり時間を掛けて練り上げた、無添加の素朴なビン入り「大内山手作りバター」が誕生。

「小倉がテレビ番組で紹介してくれたもんで、遠方からもようけ注文が入ったんやさ」。

憲光さんの朝は、今尚早い。

4時に起き出し軽トラに牛乳を積み込み、2時間かけては村の端から端まで約250軒の家々を巡る。

それが終わると今度は店卸の配達から、自分の店の切り盛りへ。

そして夕配の牛乳を配り終え、長い一日を終える。

「今でも3~4時間以上、寝たことなんてないんやさ。それも新鮮な牛乳のお陰やろか?」。

妻を見つめ憲光さんは笑った。

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「天職一芸~あの日のPoem 259」

今日の「天職人」は、岐阜県美濃市の「大衆食堂」。(平成十九年十二月四日毎日新聞掲載)

母が寝込んだ夕暮れに 灯りも点けず父を待つ          夕餉(ゆうげ)の支度いつもなら ガミガミ母の声がする

「鬼も休日」そう笑い 父に引かれて食堂へ           炒飯二つ粥一つ 岡持(おかも)ち提げて帰り道

岐阜県美濃市の美濃食堂。二代目店主の古田省三さんを訪ねた。

卯建つの屋並みが続く一角。

引っ切り無しに家族連れが、店内へと吸い込まれていく日曜の昼下がり。

北風を孕んで暖簾が揺れた。

「家の名物『チキンのり巻き』は、衣にパリッとした海苔を載せたもんで、昭和2年の創業からのヒット商品やて」。省三さんは、白い帽子を取りながら笑った。

白髪の長い髪は、まるで画家のようだ。

省三さんは昭和14(1934)年、四人兄弟の長男として誕生。

「板場の経験なんて無い親父は、雇い入れた渡り職人から技術を学んで、良いとこ取りやわ」。

先代は地元の食材を活用し、創作料理を次々に生み出していった。

省三さんは京都の大学へと進学。

しかし途中肋膜炎を患い、郷里へ戻って闘病の憂き目に。

しかしその時出逢った、献身的な看護婦が後の伴侶に。

大学を出ると公務員となり、岐阜市役所で福祉関係の職に就いた。

「店は弟に託すつもりやったで」。

二十六歳の年に看護婦だった八千子さんと結婚し、一人息子を授かった。

「父が作り上げた店をこのままにしとってええんやろかって、二年間ほど悩みぬいたもんやて」。

ついに三十歳で役所を辞し家業へ。

「子供の頃から親父の手付きを見て育って来たもんやで、鰻なんか一週間で捌けるようになったほどやて」。

名物「チキンのり巻き」は、新鮮なささ身を絶妙な厚みに切り分けることに始まる。

「衣に対するささ身の厚みがポイントなんやて」。

次に小麦粉と卵に秘伝の材料を加えて衣を作り、ささ身を包んで海苔を載せ油で揚げる。

「海苔のパリッとした食感と見た目の艶が何とも食欲をそそるんやて」。

地元で親子三代に渡って愛され続ける、チキンのり巻きの完成だ。

だが平成14(2002)年、影となり日向となり一家を支え続けた妻が他界(享年62)。

「すっかり落ち込んでしまって。息子が店を畳んだらどうかって。それでもぼくはこの仕事に執着があって。父が作った店に、まだ幕を降ろしたくなかったんやて。それに孫の守だけで生甲斐を失いたくなかったし」。

張り合いも連れ合いも失い、抜け殻状態のまま、パート従業員に頼りながら店を続けた。

それから4年が経った去年7月。

夏風邪を拗らせ肺炎で入院。

医師から息子と旧知の和子さんが呼び出され「何時息が止まるかわからん」と宣告が。

直ちに専門の医療機関へ転院。

「もうあかんと思って、彼女に頼みこんだんやて。『仕事辞めて、俺の看病してくれ』って」。

それが、省三さん67歳のプロポーズだった。

その後の再検査では、何処にも異常が見当たらない。

「人生捨てたもんやないって。嫁は来てくれるし、病気も治ってまうもん。なぁ、和ちゃん!」。

新婚ホヤホヤの新妻が、調理場の中で照れ臭そうに笑った。

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「天職一芸~あの日のPoem 258」

今日の「天職人」は、愛知県碧南市の「型付師」。(平成十九年十一月二十七日毎日新聞掲載)

玄関先でランドセル グラブに替えて一目散          「宿題せんと飯抜くぞ」 背中に迫る母の声           空き地の球場日暮ても 白いボールを追い駆けた         一途に明日を夢に見て 打っては投げた草野球

愛知県碧南市の野球工房イソガイスポーツ。グラブの型付師、磯貝善之さんを訪ねた。

「昔はちょっとした空き地で、棒っ切れと柔らかなゴム鞠さえあったら直ぐに野球だったわ。でも今は公園でキャッチボールも出来んのだで」。グラブを革紐で編み込みながら、男は寂しげにつぶやいた。

善之さんは昭和43(1968)年、二男坊として誕生。

「兄が幼い頃に病気で他界したもんで、実質は一人っ子みたいなもんだわさ」。

地元の高校を卒業すると、三重県鈴鹿市の総合スポーツ店で、店頭販売の修業に。

「この店を創業した父は、スポーツ用品全般を幅広く扱ってきたんだけど、時代と共にテニス用品とかほとんど売れんくなって。自分は小学校からずっと野球少年だったから、いつか野球用品一筋に特化したいと思い始めて」。

21歳の年に帰郷し、家業に従事した。

「最初はどうやって野球用品専門に、特化すべきか悩んだもんだわ。グラブにグリス塗って炬燵で温っためて柔らかくしたり」。

選手の使いやすさを試行錯誤で追求する毎日が続いた。

ある日のこと。人伝にプロ選手のグラブに、型を付ける職人の話しを聞いた。

善之さんはすぐさま福岡へと向かった。

型付師の江頭重利さんを訪ね、通い弟子となり技を会得。

「とにかく見て覚えるだけ。後は師匠から客に対する心構えやヒントを聞いて」。

善之さんの探究心は、型付だけに留まらず、グラブ本体の製造にも向けられた。

「23歳頃からだったかなぁ。奈良県の但馬にある、グラブの製造工場へ何回も足を運んで、その工程を見学させてもらうんだわ」。

見学を終え家に戻るとグラブを解体しては、組み立て方を己が目で確かめた。

平成4(1992)年、中学の後輩だった真弓さんと結婚し、一男一女を授かった。

平成7(1995)年、店舗の改装に合わせ、総合スポーツ店から野球専門店に。

念願だったオリジナルのグラブ製造も手掛けた。

「最初は一から十まで全部自分でやっとった。革と革を糊付けしたりして、こっちの手が離せん時に客が来たりして気が散るだわ。だで今は、手形に合わせて縫い合わせる所まで外注して、組み立てから仕上げの型付までをここでやっとるだて」。

グラブ作りは、まず客の手形を平面に描き出すことに始まる。

次に平板なグラブの本体を工場で縫い合わす。

それが納品されると、親指と人差し指の間にウェブ(網)を取り付け、グラブの内側にも革が柔らかくなるようグリスを塗り込み、革紐で組み立てる。

そして43~44℃の湯でグラブを湯揉み。

2日間の乾燥後、型付台で叩いて革紐を締め直し、再び丸一日乾燥し完成。

「最初の一揉みが一番肝心。息を止めて揉まなかん。それでグラブの一生が決ってまうで」。

誰よりも野球を愛する型付師が、少年のように笑った。

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「天職一芸~あの日のPoem 257」

今日の「天職人」は、三重県桑名市の「ゴーカート整備士」。(平成十九年十一月二十日毎日新聞掲載)

エレベーターのドアが開く 十円玉を握り締め      デパート屋上まっしぐら 乗り場へ急ぐゴーカート    既に子どもで数珠繋ぎ 列に並んで待ち惚け      やっとの事で番が来て あっと言う間に一回り

三重県桑名市でゴーカートの販売修理を手掛ける「Team KEIN’S」の代表、近藤浩二さんを訪ねた。

通りに面した大きなガラス窓。

自転車を乗り付けた父と息子が、まるで魂を絡め盗られたかのように瞳を輝かせ、真っ赤なフォルムのゴーカートに見入っている。

「カートは人間の五感を剥き出しにして、サーキットを最高二百㌔のスピードで走り抜ける、人間の限界と瀬戸際で鬩(せめ)ぎ合うレースだから。一度その魔力に魅せられれば、獲り憑かれたも同然」。浩二さんは、窓の外の親子を見つめた。

浩二さんは昭和35(1960)年、農機具販売を手掛ける家の長男として誕生。

「祖父が鍛冶屋やったで、昔から物造りに興味があった。それで小学校の時、家にあった農機具をバラしたんだけど、よう組み立てられず益々興味が芽生えてしまって。小学生の分際で、自転車を解体して溶接してみたり、独学で木製のレーシングカー造っては、一輪車やリヤカーのタイヤ付けて坂を転がしてみたり」。

いつかは己が手で、『レーシングカーを造り上げたい』そんな途方も無い夢を抱いた。

高校に上がると、今度はオートバイのエンジンを拾い集め、通販で部品を取り寄せてオートバイの組み立てへ。

役場に申請しナンバーも所得し公道を駆った。

卒業後は岐阜県高山市の専門学校で自動車工学を学び、20歳の卒業と同時に何の伝手(つて)も持たず冨士スピードウェーに乗り込んだ。

「日本のトップチーム『チームルマン』のメカニックを担当するセルモに直談判して」。晴れて四輪レースを支える整備士としてデビューを飾った。

昭和58(1983)年、23歳の若さで、高山の専門学校時代に知り合った、志織さんを妻に迎え二女を得た。

それからしばらく後、仲間のレーサーが不慮の事故で他界。

「レースは生死ギリギリの境目のショーで、車は走る棺桶のようなもん。自分たちメカニックが、部品に触り調整するその手加減一つで、車のコンディションが微妙に変わってしまうんだから」。メカニックとしての責任の重さを痛感した事故だった。

昭和62(1987)年から3年間、フリーのメカニックへ。

元F1レーサーの鈴木亜久里や二輪チームのメカを担当した。

「やっぱりレース界の恐怖を目の当たりにして来たから、30歳になつたら足洗うって決めとってね」。浩二さんは懐かしげにつぶやいた。

その後サラリーマンへと転進。

写真の現像を生業(なりわい)としながら、その狭間で今度はゴーカートと出逢うことに。

平成9(1997)年、郷里の桑名に戻りKEIN’Sを開業。

「まあ、行き当たりばったりの人生だったけど、夢を追い駆け、いつかその夢を追い越すことがぼくの夢」。

浩二さんの夢を載せたカートが、サーキットにエキゾーストノイズを響かせ走り抜けて行く。

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「昭和を偲ぶ徒然文庫 6話」~「まあちゃんのママゴト」

「魔法の茶の間」2011年7月21日(オカダミノル著)

わが家の卓袱台

昭和の半ば。

欧米人は日本の住宅事情を、「ウサギ小屋だ」と揶揄。

だが当時の日本人は、どんなに蔑まれようと、見事に高度成長を成し遂げた。

我が家の両親もその時代を生き、社会の底を這うようにぼくを育て上げた。

恐らく父母の唯一の愉しみは、家族が寄り添う一時(ひととき)だったことだろう。

六畳一間のアパート。

台所も炊事場も便所も共同。

風呂は銭湯通い。

折り畳み式の丸い卓袱台を囲み、倹しい食事を分け合った。

写真は参考

夜も更ければ、卓袱台を折り畳み、煎餅布団を並べた寝床へと早変わり。

それが昭和半ばの高度成長を影で支えた、「魔法の茶の間」である。

寝食も苦楽も綯い交ぜに、それでも明日を信じて夢見た家族の団欒。

昭和も三十年代に入ると、三種の神器が登場。

やがて我が家にも、月賦で手に入れた白黒テレビがやって来た。

「じゃあ、スイッチ入れますで」。

電気屋のオヤジの声に、茶の間で正座しブラウン管に目を凝らした。

するとザザーッという音と共に走査線が走り、ゆっくりと映像が浮かび上がる。

さしもの母も威儀を正し、二礼二拍手一礼でテレビ様に礼を尽くしたほどである。

白黒テレビの放送から58年。

カラー化からデジタルの世へ。

画像の鮮明さには、まったくもって目を瞠る。

だが豊かさの影で、失ったものも数多い。

茶の間に卓袱台、そして何よりテレビを取り巻く家族の姿だ。

果たしてそれは喜ぶべきか?

茶の間が家族の居場所だった、そんな時代を生きたぼくには到底分からぬ。

今よりずっと貧しかったあの時代。

だが茶の間はいつも、今とは到底比べ物にならぬほど、家族みんなの笑い声で溢れ返っていた。

生まれ育った原風景ともいえる、まだまだ貧しかった昭和半ばを、こんなにも心苦しいほど愛しく思えてしまうのは、そろそろお迎えが近付いた証でしょうか?

あの頃は、手塚ワールドに描かれた未来に、憧れてならなかったものでした。

しかしどうでしょう?

少なくとも手塚先生が描かれた世界が、現実のものとなって来た今、世界中の人々は本当に豊かになって幸せを享受しているのでしょうか?

今でも手塚先生がご健在であれば、これから先の未来を教えていただきたいものです。

昭和半ばを生きた少年少女は、誰しもが手塚先生の描いたアトムやウランちゃん同様、手塚先生の子どもであったのです。

もしかしたら手塚先生は、ドラマ「JIN」のように、未来から昭和半ばの混迷期においでになった方だったのではなかろうかと、ふと思うこの頃でもあります。

悍ましい未来ならば、決して覗き見たくもないものですが、ほんのちょっぴりでも明るく希望の持てる未来ならば、こっそり覗き見て、それを糧に今日を倹しく生きたいと願うばかりです。

今夜は、そんな昭和半ばの心の原風景を歌にした「まあちゃんのママゴト」お聴きください。

『まあちゃんのママゴト』

詩・曲・唄/オカダミノル

垣根に背伸びぼくを呼ぶのは ドングリ眼のまあちゃん

ラジオ体操に遅れるわと おませな口ぶりを真似た

 お昼寝の後は決まって 自慢のママゴト広げて

 プラスチチックのオムレツ差し出し 「さあ、召し上がれあなた」

今夜は娘も夢の中さ たまにゃ二人でどうだい

当たり目安酒酌み交わせば 娘が起き出し「私も」

 起き抜けの後は決まって 自慢のママゴト広げて

 塩化ビニールの海老フライを 「さあ、召し上がれあなた」

ねぇまあちゃんやっぱり 遺伝子は侮れないね

小さな君と瓜二つの おませな横顔愛しい

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「卓袱台の思い出」。

わが家の一番古い記憶の中の卓袱台は、丸い直径90cm程の、木製の折り畳み式のものでした。

そのちっぽけな卓袱台を囲み、家族三人でささやかな朝餉と夕餉を囲んだものです。

このちっぽけな卓袱台の利点は、面積が狭いせいもあって、どんなおかずも大皿にテンコ盛り。中央にデーンと据えられ、家族三人でそれを突き合う。だから嫌いな物は箸でこっそり両親の正面に移動させ、あたかもちゃあんと食べた振りをしてごまかせたのも好都合だったものです。そして何より、食後の洗い物が少なく済んだのは、いつも赤切れだらけだった母にとって、好都合であったことでしょう。

それがいつしか長方形でデコラ張りの折り畳み式のテーブルに代わり、やがて炬燵の付いた卓袱台へと進化していったものでした。

皆々様の卓袱台の思い出話を、ぜひお聞かせください。

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クイズ!2020.11.03「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

これまた恐れを知らぬ手抜きぶりの、残り物クッキングです。

先週の残り物をさらに一捻り!

広島名物の逸品をちょいとパクッテ真似てみました。

ちょっとモダンななぁ~んちゃってイタリア~ンな作品に仕立てたつもりですが、盛り付けも下手糞なため皆様の目にどんな風に映っていることでしょう???

ぼくが子どもの頃に通っていた、一文菓子屋のトシ君家(ち)のお好み焼きは、広島焼き風のお好み焼きの皮で挟んだ焼きそばを、モダン焼きと称しておりました。

しかもトシ君家のオバチャンが作る、お好み焼や焼きそばの品書きの中で一番高価なメニューで、誰もがみな「一度はいつかモダン焼きを」が合言葉だったものです。

さて、ヒントを各所に散りばめたつもりですが、皆様方のお答えや如何に!

皆様からのご回答を、首をながぁ~くしてお待ちいたしております。

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「天職一芸~あの日のPoem 256」

今日の「天職人」は、岐阜市金園町の「神輿職人」。(平成十九年十一月十三日毎日新聞掲載)

祭囃子と鱗雲 秋の実りを祝うよに           揃いの半被ワッショイと 神輿揺らして畦を行く     鎮守の杜の境内は 飲めや唄えの無礼講         炊き出し終えた母さんの 頬もほんのり紅葉色

岐阜市金園町の唐箕屋(とうみや)社寺工務店、三代目神輿職人の高崎勝則さんを訪ねた。

「日本人にとって祭りは、平和の象徴そのものなんやて。神輿担ぎながら皆で『今年もよう頑張ったなぁ』とか、『また来年まで頑張ろう』って。昔は町中の人らが総出で、氏神さんの御霊を入れた胴を担ぎ上げ、そうやって互いに励ましたり支え合ったりしたもんや」。勝則さんは、通りを隔て赤く色づき始めたばかりの金華山を見つめた。

勝則さんは昭和31(1956)年に後継ぎの一人っ子として誕生。

高校卒業後、工業専門学校に学び、4年間名古屋の設計事務所に勤務した。

「やがては家業を継がなかんで、奈良の鵤(いかるが)工舎で五年、社寺建築の修業をしたんやて」。

鵤工舎とは、天下にその名を馳せた宮大工、故西岡常一棟梁の一番弟子であった小川三夫氏が率いる匠集団。

勝則さんは兄弟子たちと寝食を共にした。

「最初の二年程は、兄弟子の飯炊きと賄いばっか。暇見つけては、刃物砥いだり削ってみたり切ったり。こっそり兄弟子の手付きを真似て覚えんるやて」。

先輩職人たちの技術だけではなく、同時に仕事に対する頑なな姿勢や心持までも身体に叩き込んだ。

「だって山ん中やし、晩は酒呑んどるか砥ぎ物しとるかだわさ」。

職人たちの道具や材料へのこだわりを、酒を酌み交わしながら夜毎学んだ。

「手の大きさや体格はまちまちやで、その職人の力量に応じて道具も工夫を重ねて作り上げるんやて」。

昭和59(1984)年、関市出身の理恵子さんを妻に迎え、翌年帰郷し父の元で家業に入り、二男一女を授かった。

神輿は下から順に、台輪、胴、井桁に組む担ぎ棒、屋根に分かれ、釘一本使わぬ木組みで固定される。

一方それぞれの部材は、塗師、飾り金具職人、箔押し職人、彫刻師といった専門職の手に委ねられ、神聖な神をお迎えする屋形へと姿を整える。

そして最後に鳳凰や宝珠の彫金細工を冠し、約四ヵ月の時を費やして完成。

一般的な神輿は、幅奥行き共に1.2㍍四方、高さ1.4~1.5㍍ほど。

中京型は、四方に紅白の伊達巻を飾り廻らせるものもある。

「15~16年前のバブル期がやっぱり最盛期やったて。企業や商店も皆お金がありあまっとった時代やったで。豪華さを競い合っとったでねぇ。それに比べて今は、神社の祭礼用や町内の氏神さんのお祭り用の神輿が中心やわ」。

中には年代物の神輿の修理も持ち込まれる。

「昔の神輿を修理させてもらうと、当事の職人たちの声が聞こえてくるみたいな気がするもんやて」。

勝則さんは、組み立てられたばかりの真新しい神輿を見つめた。

「祭り神輿は老若男女の楽しみの一つ。昔の元気を取り戻して、小粋に町を練り歩いて欲しいもんやて」。

元気を出してワッショイ!ワッショイ!

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