「天職一芸~あの日のPoem 175」

今日の「天職人」は、愛知県岡崎市の「弾き語り小屋主」。(平成十八年一月三十一日毎日新聞掲載)

小さな椅子に腰掛けて ギター爪弾(つまび)き物語る   憂いを秘めた歌声に グラスの氷溶け出した        君と初めて聴いたのも 甘い囁(ささや)きラブソング   何故こんなにも切ないの 隣に君がいないから

愛知県岡崎市のライブハウス八曜舎(はちようしゃ)、小屋主の天野正人さんを訪ねた。

ガタンゴトーン ガタンゴトーン。

名鉄東岡崎駅にほど近いガード沿い。赤いペンキも剥がれかけた、木製のドアを開ける。薄暗い店内の照明。徐々に目が馴染むにつれ、心は時代をさかのぼる。

「日本のフォークやブルースのシンガーは、ほとんどここで唄ってっとるでね。友部正人とか高田渡とか、中川イサトに斎藤哲男。あんたら、知っとる?じゃあ、歌謡曲フォークってわかる?ああいう、ベストテンとかのテレビに出るような『売れセン』とは違うよ。ここで弾き語る連中は、誰~れも売れとれせん。皆自分の生き方そのものを、自分の言葉で、ず~っと唄い続けとるだけだもん。だから凄いんだて」。正人さんは、黄ばんだLP版のレコードに手を伸ばした。

正人さんは昭和二十八(1953)年、市内で不動産業を営む家の長男として誕生。

高校を上がると、喫茶学校へ通いながら開業を夢見た。

「学生の頃はGS(グループサウンズ)のバンドやっとった。でもラジオの深夜放送から、アメリカのフォークソングが流れてきて。ボブディランとかジョーンバエズ。いっぺんに虜になっちゃった」。

二十二歳になった昭和五十(1975)年、小さな八曜舎を開店。

「父に『家賃が安くて、一人で切り盛りできる店がいい』って言われて。従業員使っとっては、やってけんで」。開店当時を知るであろう、指で回すダイヤル式のピンクの公衆電話は、いつしか煙草の脂(やに)に染まった。

「まだあの頃は、ライブハウスも少なかったでねぇ」。

八曜舎最初のライブは、いとうたかお。

「最初は知り合いなんて、何処にもおれせんもん。直接事務所に電話して呼んだわさ」。

以来三十年、毎週土・日の週末には、西洋の吟遊詩人のように全国各地を唄い歩くフォークシンガーが、東海道を上り下る途中で立ち寄った。

言の葉を紡ぎ合わせ、己(おの)が節回しに乗せ、人生の喜怒哀楽を謳(うた)い上げる。

店内の壁一面には、夥(おびただ)しい数のサイン色紙。ここを訪れた現代の吟遊詩人たちの足跡だ。

「皆、伝説の八曜舎で唄ったことを、誇りにしてくれとるんだわ」。

開店から十年の歳月が流れた。

天野さんは、音楽仲間の一人と恋におちた。「音楽の話だけ無責任にしとるならいいだけど、一緒に暮らすとねぇ。四年で離婚したんだ」。

フォークに夢中な万年青年の顔が、心なしか歪んだ。

急な階段を二階へと上がる。壁をぶち抜いただけの、十二畳ほどの部屋。まるで三十年前の、学生アパートの一室よう。

突き当たりの窓を背に、物悲しげなマイクスタンドが、週末を心待ちにする。

それでも最高六十人を、一度に収容したとか。

「売れないから三十年経った今でも、彼らは現役のまんまで唄ってられるんだって。だからぼくだって、死ぬまで続けなきゃ」。

一週間が七日ではなくもう一日あったら。

果たしてぼくは、何をして過ごすのだろうか。

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「こんなに大きく!そしてついに南蛮の花がぁぁぁ!」

アゲハ三兄妹の幼虫が食べた、山椒の葉の一連の騒動の陰にすっかり忘れ去られてしまっていた、南蛮の葉ですが、ところがどっこい、見事に大きく成長し続け、白い小さな花を付けてくれましたぁ!

説明書にあったように、いよいよ肥料を与えてやらねばなりません!

でも小さな蕾がたくさん次から次に出来て、そのタイミングをどのように見計らうか、思案しているところです!

白くって実に可愛らしいですねぇ。

南蛮=唐辛子が実ったら、郡上の「なぁ~んちゃって葉南蛮」でも作ってみようかなって思っているところです!

愉しみ愉しみ!

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「あの名曲の学校がぁ!!!」

「♪めだかの学校は 川の中 そっとのぞいて みてごらん そっとのぞいて みてごらん みんなで おゆうぎ しているよ♪」

覚えていますか?この名曲!

つい先日、所用で岡崎市の外れの町を歩いていると、なんと住宅地の一角でホンモノの「メダカの学校」を見つけちゃったんです!

でもどう見ても民家のようですが・・・。

塀にはメダカを撮影した写真と、生態についてキャプションが掲示されています。

折からの暑さもあり、ましてや住宅地の中ですから、不審者と思われても適わないと、急ぎ足で眺めただけでしたが、もっとゆっくりと観察したいほどでした。

帰ってからネットで検索すると、この「メダカの学校」ってぇのは、結構全国各地にもあるようでした。

バスを待つ間の、束の間の町角探訪でした。

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「天職一芸~あの日のPoem 174」

今日の「天職人」は、三重県木曽崎町の「山車宮大工」。(平成十八年一月二十四日毎日新聞掲載)

田植えの前の春祭り 山車蔵開き飾り付け         幾百年の昔から 村を見守る破風(はふ)の反り      修繕終えた宮大工 山車の甍(いらか)を仰ぎ見た     咥え煙草で腕を組み したり顔して満足気

三重県木曽岬町の山車を手掛ける宮大工、竹内建設二代目の竹内源一さんを訪ねた。

「こんなん設計図も組立図もありませんさ。みんなここん中に仕舞(しも)たるで」。 源一さんは、毬栗頭を指先で小突いた。

源一さんは昭和六(1931)年、宮大工の父の元で四人兄弟の長男として誕生。やがて尋常高等小学校へと進んだ。

軍事色が日毎深まる昭和十八(1943)年、父は海軍軍属として徴兵され、幼い妹達を遺し南方方面へと出征。

しかし終戦を目の前にしながら、昭和二十(1945)年一月四十一歳の若さで南方沖に散った。

終戦の翌年十五歳になった源一さんは、父方の本家でやはり宮大工であった叔父の元で修業に就いた。

「普通の大工で五年、宮大工やとさらに三年は修業せんと」。

先輩職人の使い走りから、道具を研いだり鋸の目立てや手入れに明け暮れた。

一角(ひとかど)の修業を積み、二十二歳の若さで棟梁へ。

「最初っからは、そんな大仕事なんてあらせんわさ。みんな空襲で家焼かれてもうて、まずは住む所(とこ)が先やったでな」。

誰もが食うが先の時代を経て、次に住みかを確保し、衣を求めた。

「せやでみんなが落ち着いてからやさ。神社仏閣の再建は」。

昭和三十(1955)年、四日市出身の敏子さんを仕事先で見初めて求婚。

「四日市で立派な御殿の解体しとったんさ。そこへ日曜毎に花嫁修業兼ねて手伝(てった)いに来とったもんで」。しばらく後、長女が誕生。

だが昭和三十四(1959)年九月、未曾有の被害をもたらした伊勢湾台風が直撃。

「娘引っ担いで、そりゃあもう必死で逃げましたんさ。家はどうにか建ってましたが、畳から箪笥までみな流されてもうて」。

翌年には長男も誕生し、水害復興の特需に追われた。

その後は、驚異的な成長を続けた時代の波に乗り、百棟以上もの神社仏閣を手掛け、宮大工の本領を発揮。

「十年ほど前からやろか。山車の修理が持ち込まれるようになったんわ」。

写真は参考

氏神様のお社の修復を終え、やっと奉納する祭礼へと豊かさが巡った。

「先ずは土台から順に全部一旦ばらして、折れたり割れたりして、朽ちとる部材を取り替えるんさ」。

桑名地方の石取祭に見られる三輪の土台から、登り高蘭(こうらん)、台座、台輪、柱、唐破風、欄間へと。

塗師(ぬし)、彫金師、箔押(はくおし)、木彫師など、十種類以上の熟練職人が、宮大工の采配に技を揮う。

「まあざっと五十種類は、細工の仕事(しぐち)があるでな」。

約半年の修繕作業を経て、頭の中の組立図を基に細工組が完了する。

山車に平成の世の職人技が注ぎ込まれ、新たな息吹を宿す。

写真は参考

「屋根裏の見えやん所に、建立時の年月と、棟梁の名が墨書されとるんだわ。天保何年とかって」。

屋根裏にひっそり認(したた)められる修復の足跡。

棟梁源一の銘が次に明かされるのは、何時の世だろう。

「まともな指は、もうありませんわ」。昭和の宮大工は、両手を広げた。

皺に紛れた無数の傷跡が、棟上(むねあげ)の数を刻む。

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「天職一芸~あの日のPoem 173」

今日の「天職人」は、岐阜市大宝町の「有平糖(あるへいとう)引き飴職人」。(平成十八年一月十七日毎日新聞掲載)

風邪引きさんのお見舞いと 隣の席のマアくんが      ランドセルから取り出した 丸めた答案藁半紙       中を開けば有平糖 キラキラ光り夢のよう         一つ手に取るその度に 赤いインクのバツ印

岐阜市大宝町の柴田飴本舗、二代目引き飴職人の柴田忠夫さんを訪ねた。

「この透明感を出すのんが、引き飴職人の腕の見せ所なんやて。もたもたしとると、直ぐに糖化して久作(きゅうすけ/半端物の意)ばっかになってまうで」。

柴田飴本舗は昭和六(1931)年に、初代が修業した名古屋市昭和区で創業。

その二年後、忠夫さんは産声を上げた。

真珠湾攻撃以降、戦局が悪化。食料統制で物資も不足し、一家は故郷の岐阜市へと引揚げた。

「戦後も各務原の飛行場を横切って、闇で芋飴の材料を仕入れに行くんやて。砂糖なんて手に入らんで、サツマイモの黒色した絞り汁を」。

忠夫さんは新制中学を出た昭和二十三(1948)年、名古屋市昭和区の飴屋へ住込み修業に。

わずか一年足らずの修業もそこそこに、家へ戻って父と飴を引いた。「当時、穂積の柳行李(やなぎごうり)作りが盛んやったもんで、柳の小枝を貰ってきては、そいつを串にして『串飴』を作ったんやて。砂糖も不足して十分な水飴も出来せんで、きな粉混ぜたような飴を。でも柄には、色取り取りの美濃和紙を飾りに巻いて。よう売れたわ。食べるもんもない時代やったでなあ。飴作って問屋へ持ってくと、小売屋が待ち構えとって、直ぐに担いでくんやで」。

昭和三十三(1958)年、秋田県出身の千代さんを妻に迎え、四人の子を生した。

「長男は生後直ぐに亡くなって、残った三人兄弟のぼくは三男です」。三代目を継ぐ幸芳さんが、両親の傍らに腰掛けた。

幸芳さんは、名古屋の専門学校を卒業し、デザイン会社に勤務。

二男の病死を機に、十年前家業へと身を転じた。

「依頼を請負ってデザインすると、自分の意思とは裏腹に、どんなに自信がある作品でも、ボツになることもあるでしょ。丁度そんなことに矛盾を感じてたんです。だったら飴屋で、自分が作る商品を自分でデザインして、世に出してやろうって。妻も同じデザイナーでしたから、二人でそう話し合って」。

妻との二人三脚で産み出したその代表作が、「信長有平糖」。語源は、ポルトガル語のalfeloa=アルフェロア(砂糖菓子の意)。

ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが、織田信長に献上したのが始まりとか。

「飴屋が作る有平糖と、信長が食べたであろう有平糖とは、砂糖の比率が違うんです」。 普通の飴は、砂糖と水飴が一対一。ところが有平糖は、砂糖七~八割に水飴が三~二割。砂糖と水飴を水で溶かし、百五十℃の高温で二十分ほど煮詰める。

それを冷却板に流し、香料で味付けして天然色素で色付け。

伝来当時そのままの素朴な風合いの純糖、そして空気を含ませるように何度も引き飴したハッカ、それにこくのある黒糖の三種類。

直径一㎝、長さ二㎝ほどの円柱状に切り落せば、南蛮渡来の有平糖が、四百年の深い眠りから今目覚める。

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「Marionette」

マリオネットって、なぜかもの悲しげだとは思われませんか?

それは紐で手枷足枷を強いられ、ただ人間の思いのままに、操られているからだけでしょうか?

マリオネツトは、童話や寓話の世界とは異なり、意思も感情も言葉すら持ち合わせていません。

だからマリオネツトを操る人間の意志だけで、マリオネットはぎこちない動きで、人間の姿態を演ずるしかないのです。

でもマリオネットの動きを見ている観客の目には、人になり切れないぎこちないマリオネットの動きが、時にはどこか可笑しく映ったり、はたまた物憂げに映るものなのではないでしょうか?

しかしよくよく考えて見れば、マリオネットは紐で操られますが、マリオネットとは違い自分の意思も感情も、そして自らの言葉を発することだって出来るぼくらだって、目に見えぬ何者かに操られている事があるように思える時があります。

それは複雑に絡み合う人間関係だったり、会社や社会の上下関係であったり、もちろん両親であったりもするでしょうし、或いは恋人や夫婦の相方だったり、子どもたちだったりと。

ともかくこの世においては、「袖すり合うも多生の縁」とやらで、神や仏や身の回りの人間関係に操られ、苦悶しながらこの世の修業を積まねばならぬという、厄介なマリオネットが自分自身でもあるように思える時があります。

皆様はそんなお気持ちを抱かれたことはありませんか?

しかしともかく、邪な心の持ち主に操られるのだけは、ご遠慮願いたいものです。

今夜は、「Marionette」を弾き語りでお聴きください。

「Marionette」

詩・曲・歌/オカダ ミノル

この胸のときめきも すべてあなたの仕業

もどかしくもあなたの周りで 踊るわたしはマリオネット

着飾り紅の色も すべてあなたの好み

思い通り操られるまま そうよわたしはマリオネット

 サテンドレスに銀の指輪 あなたしだい光を纏うの

 踊れマリオネット今夜の舞踏会 きっとあなたは釘付け

口説き上手なあなた 悪い人ねとウィンク

振り向きざま唇奪われ わたしはあなたのマリオネット

うぶな女じゃないわ 誘いに乗るような

でも身体は操られるまま 妖しく燃えるマリオネット

 サテンドレスに銀の指輪 見つめられて光を纏うの

 踊れマリオネット今夜の舞踏会 きっとあなたを釘付けにするわ

 踊れマリオネット燃え尽きそうな夜 きっとあなたを釘付けにするの

 踊れマリオネット夜が明けるまで きっとあなたは釘付け

★東京にお住いのゆっぴーさんが、明日8月5日にお誕生日を迎えられるそうで、いつものようにささやかな「Happy Birthday」の歌と、ぼくの「君が生まれた夜は」でお祝いをさせていただきます。

ゆっぴーさん、お誕生日おめでとうございます!

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「蚊に喰われながらの屋外映画大会の思い出!」。ぼくが子どもの頃、近所の公園に大きなスクリーンが樽木で張られ、屋外映画大会なるものが、子ども会の主催で行われていました。どんな映画の作品が上映されたか、すっかり忘れてしまいましたが、蚊遣り豚の蚊取り線香を足元でくゆらせながら、子ども同士で映画なんてそっちのけで、ふざけ合ってばかりいた記憶があります。

あっちもこっちも蚊に刺されながら!

でも公然と夜に友達と一緒に遊べるのが楽しくって仕方なかったものです。

それとクラスのマドンナが風呂上がりの浴衣姿で現れると、みんな呆然と見とれたものでした。夜風に乗って石鹸の匂いがしたのを覚えています。

今回は、そんな「蚊に喰われながらの屋外映画大会の思い出!」をぜひお聞かせください。

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クイズ!2020.08.04「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

今回もこりゃあもう、ノーヒントでお答えいただきましょうか?

きっと麺の種類で、皆様悩まれてしまうかも?

小麦粉ではなく、アレですよ、アレ!

随分前にロケで出掛けた、あの国で自分用の土産に買った乾麺が、使いきれずにそのまま残っていたものを、食品ロス追放とばかりに、えいやーっと挑んで見ました。

さて、観察力の高い皆様のお答えや如何に!

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「天職一芸~あの日のPoem 172」

今日の「天職人」は、名古屋市西区の「大判焼親爺」。(平成十八年一月十日毎日新聞掲載)

母に貰ったお年玉 後生大事に腹巻へ           初売りに沸くアーケード 何を買おうか品定め       所詮子供のお年玉 どれも高嶺の花ばかり         手の出る物は焼き立ての 大判焼を家族分

名古屋市西区、大判焼の富久屋(ふくや)。店主の家田擴資(ひろし)さんを訪ねた。

「大判焼みたい、餡も皮も何処も一緒だて!違うのは、わしの腕一つ!」。家田さんは、鉄板に手を翳しながら笑った。

写真は参考

家田さんは、愛知県一宮市で撚糸を営む兼業農家の二男として、大正八(1919)年に誕生。

尋常高等小学校を上がると、名古屋へ出て洋服の製造に就いた。そして四年後、大阪の繊維卸問屋へ。「商売を覚えようと思ってな。営業したり裁断したり」。

元々あまり身体が丈夫な方ではなく、徴兵検査ではギリギリの丙種合格。

「これで兵隊行かんでもええぞって、喜んどった」。 しかし糠喜びも束の間。

昭和十九(1944)年に召集令状が届いた。

「俺んたぁが戦争行かされるんだで、負けるに決っとるわさ」。陸軍歩兵部隊に配属され、そのまま中国中支(現、華中)の激戦地へ。

「こりゃかんって弾の下潜って、逃げて歩いとったって」。

予言は見事的中し、やがて敗戦。

昭和二十一(1946)年に復員すると、再び大阪の繊維会社に勤務した。

それから四年後、三十一歳を迎えた家田さんは、西区那古野の円頓寺商店街に、小さな紳士服小売店「富久屋」を開業。

だがその五年後には、婦人服へと転じた。

「男なんかいっぺん売ったら、まあ買えへんでかんわさ」。

やがて戦後の復興期を経て、朝鮮特需へ。庶民の暮らし振りにも明るさが兆し始めた。

ようやく商売も軌道に乗り出し、昭和三十三(1958)に、知人の世話で貴代さんと結婚。

順風満帆と見えた新婚間もない夫婦の航路を、伊勢湾台風が遮った。「水に浸かった物なんて売れせんで、近所の人等に持ってってもらったり、被害の多かった南の方の方に分けたった」。 損害金額は百万円に上り、全てが借金として残された。

「まあこれからは、在庫持ったらかん。食うもんにしよっ」。家田さんは見よう見真似で、大判焼屋に転業。

「どやって作るかもわからんし、近所の十人が十人とも『こやってせえ』って口出すもんでかんわ」。 商店街の仲間達が、夫婦を支えた。

写真は参考

翌年、長男が産声を上げ、続けざまに二人の男子も誕生。

貴代さんと二人で子供を背負い、大判焼にみたらし団子、それとたこ焼きを夢中で焼き続けた。

「昭和三十六~三十七(1961~62)年頃は、店開けようとやって来ると、ズラ~ッとお客が並んどるんだて。何かあったんかとビックリするほどだったて」。

しかし昭和三十九(1964)の東京五輪を境に、大判焼に群がった長蛇の列も、徐々に消え始めた。

「あの頃は各地から『大判焼の作り方、教えてくれ』って乞われたもんだけど」。

真丸な窪みが幾つも並ぶ鉄板は、水溶き粉を注ぎ込むと『チュッ』と小さな鳴き声を上げた。

やがてプクプクと気泡が現れ餡を抱(いだ)く。

「ひゃあ、孫を連れてくる客もおるでなあ。またそれがよう似とるんだて」。

写真は参考

創業当時の大判焼は、一個五円。

庶民の小腹を満たし早四十六年。

今も親爺は鉄板を前に、大判焼を値千金の旨さに焼き上げる。

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7/28の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

~フィンガースナック3種盛り!~『ペンネと蕎麦のアラビアータ』『海老とサーモンとアボカドのバルサミコマリネ』『結局思い出せない何か(トホホ)』

ペンネのアラビアータとざる蕎麦の残り物が冷蔵庫に鎮座しておりましたので、ペンネの残り物にアラビアータソースを追加し、ざる蕎麦の残り物を一緒に炒め、レンジで温めたタルトの生地に乗せたものが、トマト色のものです。

そしてちょっと黒ずんだ緑色の物は、ボイルして冷水で冷やした海老と、サーモンの賽の目切り、それにアボカドをバルサミコで和えたマリネです。しかしやっぱりバルサミコで和えると、残念な色合いになってしまったのが残念です。

同じように温めたタルト生地に乗せて見ました。

そして黒っぽくって納豆の糸のようにも見えるものは、・・・・・どれだけ必死になっても思い出せませんでした。でも間違いなく、納豆ではありません。一体全体なんだったんでしょうか?

ついに日々刻々と着実に老化が始まっているのでしょうねぇ。

タルトの生地はスーパーで見つけた出来合いの物で、何か工夫してみたいと買い置いてあったものです。

しかし!甘っちょろいタルトの生地なんかで、料理に合うのかとお思いになられるかもしれませんが、これまたどうして、なかなかドッコイなお味でしたよ!

普段料理に甘みをほとんど加えませんので、意外な隠し味と風味が楽しめ、けっこう白ワインとの相性もよかったですねぇ。

今回は、正解のないクイズとなってしまい、誠に申し訳ありませんでした。

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「天職一芸~あの日のPoem 171」

今日の「天職人」は、三重県勢和村の「茶屋女将」。(平成十七年十二月二十七日毎日新聞掲載)

息急(いきせき)白む峠越え ぐずる妹なだめつつ     隣の町にお遣いへ 僅かな駄賃引替えに          峠の茶屋で一休み 泣いた烏も甘酒と           餅を片手にもう笑ろた 街道一のおきん茶屋

三重県勢和村の東外れで天保三(1832)年から続く、峠の頂にあるおきん茶屋に、四代目の永井幸夫さんを訪ねた。

バス停も「おきん茶屋」
昔の佇まい

「家は代々女子(おなご)主人やでな」と、幸夫さんは白衣姿で笑った。

江戸の末期、初代おきん婆さんは、街道を行き交う旅人を相手に、手製の蓬餅でもてなした。

誰が名付けたか、いつしか「おきん餅」と呼ばれ、街道一の名物として今に受け継がれる。

幸夫さんは昭和四(1929)年、七人兄弟の長男として誕生。

尋常高等小学校を出た翌年、終戦を迎えた。「物資もあらせんし、百姓したり、さつまいも茹(う)でて売ったり」。

伝統のおきん餅も、戦中戦後の統制が解けるまでは、代用品を利用し細々と製造が続けられた。

昭和三十二(1957)年、従姉妹のたけさんを嫁に得た。

「父同士が兄弟やってさ、嫌々貰(もう)てな」。 幸夫さんが照れ笑い。

「今はそう言うてますがな、それは私の方でしたんさ。『電気も来とらんような所(とこ)、行きとない』言(ゆ)うて。あんな当時、十km四方に家もたったの四軒。そりゃあ寂しい所(とこ)やったんさ」。四代目女将のたけさんは、暮れ行く峠の街道を見つめた。

その後、三女一男が誕生。「電気も点かん暗がりやったで。他にやることあらへんしなぁ」。幸雄さんがまたしても照れ笑い。

昭和三十八(1926)年に念願の電気が通電し、翌年には国道四十二号線が開通。

「馬車や自転車、牛の姿が消え、土埃を上げてトラックがやって来るようんなって。駐車場がトラックの物置みたいやったんさ」。

その頃から本格的におきん餅が復刻し、昭和四十〇(1965)年代に入ると、土産物として評判を博した。

「那智勝浦へ向かう観光バスが、数珠繋ぎになるほどで、どんどん売れそめて。バスまで運んでっては、売りよったんさ」。多い日は、一日千箱が飛ぶように売れた。

江戸末期の最初のおきん餅は、『しらいと』と呼ばれた。

米粉を練って蓬を入れ、餡をつけてまぶしたもの。

それが三代目のちよ婆さんの代で『さわ餅』と呼ぶ四角いものへ。

そして現在では、大福餅の形に。

「昔から家のおきん餅は、ちょっと他所より高(たこ)てな。他所が十円なら、家は三十円ってな調子で」。それでも取材中、引っ切り無しに客が訪れる。

「今ではブラジルやアメリカへ送ったり。海外の家族に送られる方もおいでんなって」。 五代目を継ぐ良浩さんが、言葉を添えた。

良浩さんは、大阪の料亭で六年の修業を積み、幸夫さんの大病を機に家業を継いだ。

こちらが現在の佇まい

跡取りも決って円満ですねと水を向けると「それがなぁ、まだ一つ足りませんのやさ。私の跡目、五代目おきん婆さんとなる、嫁の来てがないもんやで」。

四代目おきん婆さんこと、たけ婆さんは、自慢の息子を案じながらも、『何とかなるやろ』とでも言わんばかりに、屈託無く笑った。

釣瓶落しの夕闇が迫る。

峠の茶屋から暖かな明りと、飾らぬ親子の笑い声がこぼれ来たる。

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