「天職一芸~あの日のPoem 269」

今日の「天職人」は、岐阜市八ツ寺町の「高等ライス職人」。(平成20年2月26日毎日新聞掲載)

明治生まれの爺ちゃんは 着物姿にパナマ帽           雨も降らぬに蝙蝠(こうもり)を コツコツ鳴らし町を行く

「馳走したろ」と洋食屋  おい」と爺ちゃん手を上げりゃ     オヤジも「ヘイッ」とうなづいて 高等ライスお目通り

岐阜市八ツ寺町の三河亭、四代目主人の中島稔さんを訪ねた。

何とも不思議な商品名の「高等ライス」。

米の等級を示すものなのではない。

無論、高等学校の給食に端を発したものでもない。

列記とした明治生まれの由緒ある商品だ。

白い丼に炊き立てご飯。

その上に自慢のカレーが盛られ、最上段に目玉焼きを冠した不思議な逸品。

「家は明治27(1894)年に、愛知県豊橋市出身の初代が創業したんやけど、当事のカレーと言えばちょっとした高級品。だけど『高級ライス』じゃ何や可笑しいし、挙句に思い付いたのが『高等ライス』だったんやて」。稔さんは、悪戯っ子のように笑った。

稔さんは同市でスポーツ用品店を営む森田家の三男坊として、昭和26(1951)年に誕生。

高校を卒業すると大阪へ出て、スポーツ用品の卸問屋に勤務した。

「一人暮らしで自炊の毎日やったわ」。

26歳の年に名古屋支店に転勤。

しかしその2年後、母が病に倒れ家業を手伝うため会社を辞した。

「ある時、ここの三河亭と付き合いのある客が、スキー用品を探しに来とって、そんなご縁で家内と見合いする話しになったんやて」。

見合いが終わると婿入りを前提に、三河亭で見習いを始め調理師免許を取得した。

昭和55(1980)年に中島家に婿入りし、一人娘の京子さんと結婚。

一男一女を授かった。

「30歳までに結婚せなかんと思って、切羽つまっとったで」。稔さんは照れ臭げだ。

「三代目は妻の父なんやけど、妻が7歳の時に若くして亡くなってまっとったんやわ。だで私は二代目の祖父に教え込まれたんやて」。

店の客は誰もが、新参者の稔さんより、遥かに三河亭の味に肥えた手練(てだ)ればかり。

「何しろあっち向いてもこっち向いても、先輩のお客さんばっかなんやって。お客さんの最高齢は90歳で、郡上から年に2~3回見えるんやけど、そのお歳でタンシチューを一度に二人前ペロッと召し上がるんやで」。

代々主人が自らの舌に叩き込んだ歴代の味。

少しでも異なれば、通い詰めた客にたちまち見破られる。

名代の逸品「高等ライス」は、小麦粉をオーブンで炒って何ヵ月も寝かし保存することに始まる。

炒って熟成させた小麦粉を取り出し、スープを加え肉や野菜と共に一時間ほど煮上げる。

そうして手間隙かけて仕込み上げた秘伝のカレーを丼飯の上に盛り付け、最上段に目玉焼きを載せれば114年前と寸分違わぬ高等ライスが完成する。

「ご年配の人にも贔屓にしていただき、お出掛けの時なんか、わざわざ寄ってくださり、家のカツサンド持ってかれるほどやて。まったくありがたい話しやわ」。

「育ての親は客だ」と言い切り、家伝の味を護り抜く。

天晴れ高等ライス職人。

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「昭和を偲ぶ徒然文庫 7話」~「生Liveはお休みです」

「呪文は『御馳走(ごっつお)』」2011年8月25日(オカダミノル著)

「今日は御馳走(ごっつお)やな」。

両手を合わせ、親指と人差し指の付け根に箸を押し戴き、父は必ずそう呟いた。

たとえメザシ一匹に、漬け物だけであったにせよ。

思えば一度たりと父は、飯が不味いと母を詰ったことなどなかった。

敗戦直後捕虜として、極限状態の飢えに喘ぎ、命からがら引き揚げたからか。

一方母は、父が額に汗し稼いだ薄給を、一円たりと無駄にすまいと、家計の遣り繰り算段に、知恵を巡らせた。

親子三人貧しくも、人並みに笑って暮らせるようにと。

その慣れの果てに誕生したのが、昼の我が家の定番、残り物丼である。

前夜の残り物を組み合わせた、母の苦肉の一策だ。

「さあ昼やで」。

丼飯の上には、解説不能な料理がテンコ盛り。

前の晩のシュウマイにキンピラ牛蒡、キャベツのトマトケチャップ炒め。

それが一堂に会し、溶き卵を加え油で炒めたものだ。

料理と呼ぶのも憚られる、不思議な出来栄え。

しかしそんなことはお構いなしに、空っぽの胃袋が悲鳴を上げる。

ぼくは父の口癖を真似、「御馳走(ごっつお)や」と念じて頬張った。

「…うっ?旨い!」。

キンピラの甘辛さとケチャップの甘酸っぱさに、シュウマイと溶き卵が絡み、微妙な旨味を引き出している。

見た目とは裏腹な旨さに舌を巻き、今度また作って欲しいと母にせがんだ。

すると「そんなもん残り物やで、二度と同じになんか出来るかいな」と。

「御馳走(ごっつお)や」。

父の呪文に教えられた。

倹しい食事でも、家族で囲むことこそが、何より贅沢な旨味の決め手だと。

*思えばこれが、ぼくの残り物クッキングの原点だったのかも知れません!

わが家のお母ちゃんの作ってくれたご馳走は、数限りがありません。と言っても、なにもハイカラな西洋料理なんぞ、これっぽっちもあるわけではありませんが・・・。

「今日は洋食やで!」とお母ちゃんが、得意げに宣う日は、挽肉がどこにあるかと探さなければ巡り合えないような、大皿に山盛りのコロッケだったり。

わが家は後にも先にも、両親とぼくのたったの三人こっきりですから、とても一晩で平らげる事なんぞ至難の業。

そんなことは言わずとも母は分かっていたはずだと思いますが、コロッケに限らず天婦羅などの揚げ物にしても、煮っ転がしなどの煮物にしても、一事が万事そんな塩梅だったのです。

子どもの頃からそれがずっと、どうやら気に掛かっていたのでしょう。

ぼくの結婚式の前夜、すっかりコップ1~2杯のビールで出来上がり、風呂に入って先に寝入ってしまった父の寝息をBGM代わりに、ぼくはすっかり眼が冴えてしまい寝付けぬまま、手酌でビールを煽っていると母が、「あてでも作ってやろうか?」と。

作ってくれたのは、「イカの鉄砲焼き」なんぞと母が称していた、剣先イカを溶かしバターと醤油で焼いたぼくの好物でした。

そして母と差し向かいで、過ぎし日の思い出の数々を語り合ったものです。

その途中で、ぼくが子どもの頃から気に掛かっていた、何でもかでも一皿に山盛りのおかずの話になったように記憶しております。

すると母は何の衒いも無く「あの頃は、沢山沢山、山盛りい~っぱい作れるのが、お母ちゃんの幸せやったんや」と。

戦中戦後と、まだ幼い食べ盛りの、いつもいつも腹を空かせてばかりの腹違いの弟二人に、思う存分食べさせてやりたかった、そんな思いがお父ちゃんとぼくに毎度振舞った、てんこ盛りのおかずだったそうです。

*毎週火曜日の生Liveですが、このところどうしたわけか、さっぱりやる気がわかず、ギターを手にして唄うのが、正直億劫なほど怠けモードが全開となってしまっております。

そこでしばらく、生Liveだけは「どうしてもどうしても、唄いたくって仕方ない!」と、そんな気分になるまでしばしの間、お休みを頂戴しようと思います。

しかし火曜の夜の「昭和を偲ぶ徒然文庫」は、アップさせていただこうと思っております。

甚だ勝手ながら、どうかご勘如くださいませ。

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、これまた逸品とは異なりそうですが「お母ちゃんが作ってくれた昭和のおご馳走」。

皆様が愛して止まなかった、皆様のお母様は、どんなご馳走を作ってくださいましたか?

皆々様からの思い出話をお聞かせください。

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11/10の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「なぁ~んちゃって里芋ニョッキ~茄子とチキンのクリームトマトソース添え」

朝締めのチキンのササミをさっと湯通しし、ごま油・ネギ・おろし生姜・ゴマの薬味で、晩酌のお供として大いにいただいた、その残りの湯引きしたササミが残っておりました。

それをバターとニンニクの微塵切りで残ったササミと茄子をソテーし、そこにトマト缶を開け、白ワインと生クリームを加え、コンソメとハーブミックスにブラックペッパーで味を調え、最後にとろけるチーズを加えて一煮立ちさせておきます。

次に皮を剥いた里芋を、シリコンスチーマーでスチームし、フードプロセッサーで粉砕しホイップして、ボールに移して小麦粉を適量加え、団子状にして沸騰した湯で茹で上げて皿に盛り付け、トマトソースを注ぎ入れれば完了。

里芋のとっても口当たりの良い、見た目は歪ながらも、不格好でちょっと柔らかな、なぁ~んちゃってニョッキとなりました。

これまた白ワインにはピッタリな、イタリア~ンなランチとなりました。

今回もまたまた観察眼の鋭い皆様の、ニアピン続出となりました。

ありがとうございました。

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「天職一芸~あの日のPoem 268」

今日の「天職人」は、愛知県碧南市の「羽子板押絵師」。(平成20年2月19日毎日新聞掲載)

コツンコツンと縁側で 晴れ着でハシャグ君の声        「姉さんズルイ」連発し ベソかき庭で蹲(うずくま)る     父が贈った羽子板は 絵柄淑(しと)やか京禿(きょうかむろ)  そんな願いも何のその 勝気お転婆(てんば)末娘

愛知県碧南市、羽子板押絵師の岡田圭子さんを訪ねた。

写真は参考

「結果的には、主人との新婚旅行よりも先に、姑と一緒にハワイ旅行したようなもの。何でって?だってハワイ旅行のツアーで一緒だったのが姑で、帰りの空港で何気なく写真撮られて。それがお見合い写真だったわけ」。圭子さんは、はにかむ様な照れ笑いを浮かべた。

圭子さんは昭和22(1947)年、現在の岐阜県飛騨市で公務員の家庭に長女として誕生。

高校を卒業すると、名古屋の繊維会社で事務仕事に就いた。

しかし二年後、愛知県警の採用試験を受け昭和42(1967)年に婦警に転身。

「親戚中まわりがみんな公務員のせいもあってね」。

名古屋市内で先輩婦警が二人に同期が一人という時代。

名古屋市千種警察署の防犯課少年係に配属された。

「非行の補導が中心で、私服で町中を見回りするの。学校行かずに遊んでる子を補導して、注意を促すのが仕事の中心。あの頃は、今のように子が親を殺したり、親が子を殺すような物騒な時代じゃなかったから、わりと平和だったわよねぇ」。

それから5年後。

昭和47(1972)年に後輩が配属され、休暇を利用しハワイへと渡航した。

そのツアーで人生の伴侶を決しようとは、マナの神憑(かみがか)り的な導きか?

「ハワイから戻ってしばらくすると、写真を持って姑が署へ訪ねて来たの。それで自分の息子だってこと内緒にして、夫との見合い話しを切り出したわけ」。

そうとは知らず翌年見合いの席へ。

「夫はずっと黙ったまま。でもその姿に不思議と安心感を感じたの」。

昭和49(1974)年に結ばれ、夫の転勤で豊橋に移住。

一男二女に恵まれ、9年間の婦警生活を終え育児に専念。

昭和57(1982)年には再び夫の転勤で、現在の実家へと舞い戻った。

「その翌年から、子育ての合間を縫いながら、名古屋の文化教室へと通って、和紙の姿人形作りを学んだの」。

平成元(1989)年には師範に。

「そしたら先生から、今度はさらに高等な押絵を勧められて」。

写真は参考

再び丸8年に及び修練を重ね、平成9(1997)年に師範の資格を取得した。

「昔からぬいぐるみ作ったり、編み物したり。子供の頃はもっぱら、少女雑誌の付録で紙の着せ替え人形作って遊んでたし。手先を動かしてるのが好きなのよ」。

自慢の押絵の羽子板を手にした。

羽子板の押絵飾りは、干支や宝船、舞妓、勧進帳、禿など雅やかな彩りを再現する技法。

まず図柄のパーツ毎に台紙を切り抜き、絵の立体感に合わせて綿を貼り付け、色鮮やかな古布や端切れで綿を付けた台紙を包み込む。

元絵に合わせ図柄を組み合わせ、黒和紙で裏貼りし、羽子板に発泡スチロールでさらに立体感を持たせ釘付け。

写真は参考

最後に岩絵の具で一息に人形の顔を書き込めば完了。

「孫が出来たら特別な押絵を持たせたいわ」。

押絵師の春はもうすぐ、初孫の産声と共にやって来る。

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「天職一芸~あの日のPoem 267」

今日の「天職人」は、岐阜県関市の「熊鍋屋主人」。(平成20年2月5日毎日新聞掲載)

鉄砲担ぎ爺ちゃんは 熊笹分けて森へ入る            冬空高く輪を描(か)いて 鳶(とび)がヒュルリと声上げた   銃の響きに森が泣き 「熊仕留めた」と声上がる         村の男が獲物引く 山肉森の贈り物

岐阜県関市、熊鍋屋の「とろろ庵四季」。主人の上杉藤雅さんを訪ねた。

「熊の胆(い)は値千金やで、金の値段と同じなんやて。だから猟師は熊の胆売ったら、後の肉はおまけみたいなもんやわ」。藤雅さんは、囲炉裏の炭火を熾(おこ)しながらこっそり笑った。

藤雅さんは昭和18(1943)年、同県旧石徹白(いとしろ)村(現、郡上市)の樵(きこり)の長男として誕生。

中学を出ると上京し、浅草の大衆食堂で板前見習いを始めた。

二年後には中華料理店へと移籍し、静岡県出身の小浪さんと巡り合い結婚。やがて二女に恵まれた。

「実家がダム建設で上流に孤立するんで、福井県の大野市に移転してラーメン屋やることになって。東京から夫婦で引っ越して来たんやって。そんでもいかんわ。雪が多いで年の半分は店閉めて商売上がったりやて」。

三年後に関市へと移転し、中華料理店を開業した。

平成4(1992)年、子供たちの独立を機に、中華から熊鍋屋へ。

「昔から山肉やとろろ芋が好きやってなぁ。親父も鉄砲撃ちやって、ウサギや雉(きじ)、それにイノシシに鹿や熊の四足もよう仕留めて来たんやわ。子供の手も離れたで、猟師に教わって昔から好きだった熊や山肉なぶったろかって思ったんやて」。

子育て後の人生に備え、昭和52(1977)年には銃砲所持許可証と狩猟許可証を取得し、地元の猟師仲間と山へと分け入った。

自慢の熊鍋は熊のロースやバラ肉に、季節の野菜や茸を加え地味噌でほっこりと炊き上げる、滋味溢れる山の恵みだ。

「熊の手のひらを触ると、肉が柔らかいか硬いか直ぐにわかるんやて。何でもそうやけど、歳くって捻て来ると臭みが出て肉も硬なってまうで」。

熊鍋の旬は、身も凍りつくような真冬とか。

シンシンと降り積もる雪の夜の調べに抱かれ、囲炉裏で湯気を上げる熊鍋に舌鼓を打てば、体も芯から暖まる。

「熊はどっこも捨てるとこなんて無い。脂は傷口に磨り込めばよう効くし、胆は心臓病にも効くとか言うし。山肉はすべて、山の神から山の民への贈り物なんやって」。

藤雅さんは今なお、3年に一度銃砲所持許可証を書き換え、毎年狩猟許可証を得て仲間と共に、散弾銃のレミントンを担いで山をゆく。

「熊は近眼なんやって。だから15~20mほどしか見えんのやわ。そんでもその代りに嗅覚はめちゃくちゃ鋭く、体のわりに憶病なんやて。だからこっちが静かにしとれば、熊から襲って来ることは無い。よう鈴鳴らして山を歩けば、熊が怖がって近寄らんとか言うけど、逆に熊を興奮させてまう。それに春は子を守っとるで、気い付けんとやっぱり怖いわ」。

大きな物は体長2m、体重150kgを超えるとか。

古民家風の窓から厳寒の夜空へと、鍋から湯気が立ち上がり笑い声が零れ出した。

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「天職一芸~あの日のPoem 266」

今日の「天職人」は、三重県伊勢市の「海苔問屋主人」。(平成20年1月29日毎日新聞掲載) 

火鉢の上でチンチンと ヤカンのお湯が音立てる         丸い卓袱台取り囲み 顔突き合わせ朝ご飯            まずは卵をかけようか? それとも海苔を巻こうかな?      茶碗片手に決めかねた 幼き冬の朝未だき

 三重県伊勢市の海苔問屋かねやす、三代目主人の笠井幹夫さんを訪ねた。

「どこやらの業界と違(ちご)て、海苔の入札には談合なんて一切ありませんのさ。だから買い付け人の眼力一つ。私も若い頃は、とんでもない物をようつかまされたもんですわ」。

幹夫さんは明治41(1908)年創業の海苔問屋で、昭和20(1945)年7月に一人っ子として誕生。

空襲警報が鳴り響き、人々が命からがら逃げ惑う敗戦の直前だった。

高校を卒業後、慶応大学へと進学。卒業後はそのまま大学院へ。

だがそこを一年で中退し、今度は東京芸大の大学院へと転校した。

「まだ父も若く、直ぐに家を継ぐ必要も無かったので、クラッシックを志しましてね」。

理解ある両親に恵まれ、幹夫さんは声楽の道を歩んだ。

テノールだったという声音には、奥深い響きが感じられる。

「わたしは三大テノールのドミンゴやなく、シミンゴですわぁ。ドミンゴがドまで出るとすれば、私はシまでしか出ませんでなぁ」。

だがさすがに、一人っ子の宿命から逃れることは出来なかった。

「23歳の頃から、入札の時期になると東京から戻っては父の手伝いをしたもんです。でも父は何にも言わん人で、とにかく見よう見真似でしたわ」。

昭和51(1976)年、秋田県出身のかず枝さんと結婚。男子二人を授かった。

馴れ初めは大学院三年の時の大学祭だったとか。

大学でコーラス部のかず枝さんと知り合い、半年後には結婚の約束を交わした。

「だんだん親も年を取って来て大変そうでしたし、大学院修了したら家へ戻ろうと思ってましたから」。

結婚の翌年、父は病に倒れ他界。

「子どもが生まれてちょうど二ヵ月でした。今思えば、それがせめてもの親孝行やろなぁ」。

海苔問屋の仕入れは、12月初旬頃の一番摘みから、春先まで年9回の競りで決する。

「有明より伊勢湾の方が、わずかに海苔の出来が遅いんやさ」。

寿司屋向けの板海苔には、8~12%の水分が含まれており、それを70℃で4時間乾燥機にかけ、水分を2~3%に飛ばして焼き海苔に仕上げる。

「真っ黒な海苔を炭火で焼くと、綺麗な緑色になるんやさ。美味しい海苔の見分け方は、第一に色艶。次に香りと味と柔らかさ。『香り良ければ味も良し』って、まったくその通りや」。

得意先の多くは関東。

老舗小売の海苔店に産地問屋として、神々住まう伊勢の海で揚がった、黒々と艶を放つ逸品を納め続ける。

「不思議なもんで、昔から食卓に海苔がないと始まらないくらい、家はみんな海苔好きで。ある時息子に言われましたわ。『海苔屋じゃなかったら、跡継がんかったわ』って」。

創業100年の伝統が裏付ける信頼の逸品は、四代に渡る店主の見事なまでの眼力が支え続ける。

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「天職一芸~あの日のPoem 265」

今日の「天職人」は、岐阜県郡上市八幡町の「肉桂(にっけい)玉職人」。(平成二十年一月二十二日毎日新聞掲載)

回覧板を抱え持ち 母のお遣い妹と               角の大きなお屋敷を 目指して駆けた雪の中          「あらまあこれはご苦労さん」 ご隠居さんは駄賃にと      丸い缶蓋取り外し 懐紙に包(くる)む肉桂(ニッキ)玉

岐阜県郡上市八幡町本町の肉桂玉職人の田口大介さんを訪ねた。

 漆喰土蔵に囲まれた石畳の坂下から、宗祇水と呼ばれる湧き水の清らかな水音が出迎える。

真夏の徹夜踊りで知られる昔屋並みが続く一角。

「明治20(1887)年の創業当事は、大間見屋と書いた屋号やったんですが、昭和の始めに祖父が創業家から買い取って『大』を『桜』に代えてそれ以来、肉桂玉の『桜間見屋(おうまみや)』となって私で六代目です」。大介さんは、作業場の奥へと導いた。

120年の年月に染み付いた、ニッキの香りが店の端々から漂う。

大介さんは三人兄妹の長男として、昭和37(1962)年に誕生。

高校を出ると直ぐ、高山市の飴屋で住み込み修業へ。

「同じ飴屋って言っても、細工物が中心で。20人程の職人に混じって、一から教わりました」。

2年間の修業の後、郷里に戻り家業の肉桂玉作りに従事した。

昭和62(1987)年、友人の紹介で美加子さんと結ばれ一女が誕生。

「今は名古屋で勉強してますが、ゆくゆくは婿さんもらって七代目継いでもらえるとええんやけどなぁ」。

桜間見屋の肉桂玉は、白と黒の二種類。

ザラメの白と、黒砂糖の黒。

「普通の肉桂玉はグラニュー糖を使うんですが、家のは後味がさっぱりするザラメを使ってます。だからグラニュー糖に比べて作り難いんですが、その分口の中で溶け難く長持ちするんやて」。

肉桂玉は真鍮釜にザラメと、それが溶け切るギリギリの分量だけ水を入れ、一煮立ちさせ火を止め少量の水飴を入れる。

「普通は一対一の割合ですが、家の場合水飴を極端に少なくして、飴の表面を溶け難くするんやって」。

真空釜で余分な水分を飛ばし、冷却板に流し込み肉桂の原料液を注ぎ入れる。

「飴を折り曲げながら、香りを満遍なく付けるのが肝心やて」。

ある程度固まってきたら細く伸ばし、球断機にかけて丸める。

「型の悪い物や、玉の中に空気が入ってしまったものを識別し、表面にグラニュー糖を塗(まぶ)せば完成やわ」。

郡上踊りの夏場から秋の紅葉シーズンは、観光客で賑わい最盛期を迎える。

毎日この作業を繰り返し、150~200㎏の肉桂玉を製造。

「肉桂はクスノキ科で、樹皮を剥ぎ取って乾燥させたもの。でも日本の肉桂は根っこの部分にしか辛味が無く皮は使えんのやて。それで家のは、味と香りがどこのよりも優れとる、中国原産のカシアを使っとるんやわ」。

大介さんが出来たての肉桂玉を差し出した。

口に頬張ると、表面のザラザラしたグラニュー糖がさっと溶け去り、中からほんのりとニッキの香りが口中を支配する。

懐かしくもエキゾチックな芳香に包まれ、心なしか身体全体が癒されてゆくようだ。

添加物など一切無い、天然色に輝く一粒の肉桂玉。

我が身は至福の甘さとしばしたゆたう。

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「天職一芸~あの日のPoem 264」

今日の「天職人」は、愛知県半田市の「鰯味噌職人」。(平成二十年一月十五日毎日新聞掲載)

「鰯の煮付けもう一つ それと熱燗お代わりね」         空徳利を振りながら 倅が嫁に声かけた            「お前の魚嫌いには 母さんいつも手を焼いた」         ところが今じゃ一端に 旬を貪る魚喰い

愛知県半田市、いわし専門店の円芯(まるしん)の宮下明洋さんを訪ねた。

「元々鰯とニンニク、それに葱と生姜は相性が抜群だで、八年前に赤味噌足して見たったんだわ。それからこの鰯味噌を料理として出すようになったら、ある日板場まで客の一人が入り込んで来て、『うちの会社で商品として発売したい』って。まぁ、そんな風に言ってもらえりゃあ、板場冥利に尽きるってもんだけどなぁ。でも果たして大量生産してどうだか?倅と二人して、一日おきに手練りで作っとるで美味(うま)いんやないかなぁ」。明洋さんは、蒸篭(せいろ)の上蓋を取りながらつぶやいた。

中には程よく蒸しあがった豆腐と、赤味噌仕立ての鰯味噌が、甘辛い芳醇な香りを放つ。

「まぁ何はともあれ味見しやぁ」。

明洋さんは昭和19(1944)年、中国の奉天で三人兄妹の長男として誕生。

終戦を目前に、父が除隊し福岡市へと引き揚げ、その後終戦へ。

戦後の混乱の中、父は半田市出身の戦友に誘われるまま、リュック一つで家族を伴い同市へと移住を決めた。

そして昭和23(1948)年JR半田駅前に、わずか8坪の小さな大衆食堂「丸信」を開業。

父は軍刀を出刃に持ち替え、一家の暮らしを支えた。

昭和37(1962)年、高校を卒業すると福岡市で割烹店を構える叔母を頼り、板場修業を開始。

3年後には、花板を志し名古屋の料亭へ。

ここでやがて伴侶となる米沢出身の仲居ミサヲさんに一目惚れ。

23歳で一旦郷里の半田へと戻り、料理旅館の板場で更に腕を磨き続けた。

それから2年後の昭和44(1969)年。

25歳でミサヲさんを嫁に迎え、料理旅館を辞して独り立ち。

「まぁ、自分の腕試しも兼ねた流れ板だって」。

だが2年後、父が体調を崩し急遽家業を継ぐことに。

それを機に「丸信」の屋号に、いつも人の輪の芯となる店でありたいと「円芯」の字を当てた。

「ちょうど長男が生まれた年やったって。当時は店に来る客って言ったら、みんな親父の客だわ。やれ『ラーメンくれ』だとか、中にはご飯持って来て『おかずだけくれ』ってな客ばっかり」。

料亭で修業を積んだ明洋さんの心は、大衆食堂と高級料亭との客筋の狭間に揺れ続けた。

「親父の客から俺の客に、完全に入れ替わるまで5年はかかったって」。

その後は出世魚のように店を広げ、平成13(2001)年に現在地へ。

名代の鰯味噌は、明洋さんと長男の二人がかりで一日おきに6㌔を仕上げる。

まず赤味噌、ニンニク、鰯のすり身に葱と生姜を混ぜ合わせ、鍋で弱火に掛けながら焦げ付かせぬよう約1時間手練りを繰り返し、秘伝の調味料を配合し定番の味を引き出す。

「最初の頃は配分がわからんもんで、定番の味に仕上げるまでに一ヶ月かかったって。素材が持つ旨味の足し算じゃ無く、どうやったらそれが掛け算になるかが決めてだわ」。

大衆魚の鰯は、板前の確かな舌と技で、見事な逸品へと生まれ変わった。

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クイズ!2020.11.10「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

これはちょっと難しいと思います。

難しさのメインは、手前の白い団子状の物体です。

郡上からお送りいただいた、秋の味覚の〇○をフードプロセッサーでペースト状にして、あのイタリア~ンな「〇〇。〇」風にして見たものの、ご覧の通りの有様です。

しかし食感の弾力は今一だったものの、それなりに美味しくいただけました。

さてさて、今回の残り物クッキングとは???

皆々様からの、想像を逞しく巡らせたご回答をお待ちいたしております。

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「お休みいたしま~す!」

今夜10時の予定でアップする「火曜の深夜ブログ」ですが、諸事情により明日か明後日の午後10時とさせていただきます。

誠に申し訳ございません。

ただし、コロナやインフルエンザではございません。

明日か、明後日か、明々後日までには、ご覧いただけると思います。

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