「近江商人発祥地の日野町紀行⑥」

9月下旬の旅の最後に、せっかく近江に来たのだからと、レンタカーでの帰り道にお多賀さんを詣でました。

まず目に飛び込んできたのは、この二つの大釜。

由来を描いた立札を見ると、お湯点て神事にでも使われたようです。

グツグツ煮え立つお湯を撒き散らし、邪気を払われたのでしょうかねぇ。

お湯点て神事は、やっぱり各地で行われていたようですものねぇ。

長野県の遠山郷の近くでは、今でも毎年年末にお湯点て神事が行われていますし!

そして境内で次に目に留まったのは、このお百度石でした!

お百度詣りの際は、この木の幹を回ったのでしょうかねぇ。

続きは、ぼくの誕生日に出掛けた、湖東三山です!

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「近江商人発祥地の日野町紀行⑤」

こちらは、湖南三山の常楽寺です。

この本堂が国宝だそうです。

和銅年間(708~715)元明天皇の勅命よにり、良弁(ろうべん)僧正が開基した阿星寺(あせいじ)五千坊の中心寺院として建立されたとか。

ところが延文5年(1360)火災で全焼。同年、僧侶観慶によって再建されたのが現存する本堂だそうですが、それにしても実にお見事!

このご本堂は、愚かな過ちを繰り返し続ける人間共を、660年物間、どんな風にご覧になられていたことや?

それにしても堂々たるものでした。

こちらも国宝の三重塔です。

9月下旬ではありましたが、木々がほんのりと色付いていて素敵でしたねぇ。

このアングルで見上げていると、この先に天国とやらがあるのだろうかと思えたほどです。

こちらは、湖南三山の一つ、善水寺の参道に、何気に飾られた置物です。

9月下旬の彼岸の頃でしたので、彼岸花とこの置物が妙に目に留まってしまいました。

本堂までの200m程の参道には、こんな置物たちがそこかしこに配されており、どなたがこんな遊び心を表現されたのかと、ついついいらぬ想像を巡られたりもしたものです。

こちらが善水寺の国宝指定の本堂です。

伝承によると、和銅年間(708年 – 715年)に元明天皇が国家鎮護の道場として建立し、和銅寺と称したとか。

その後、平安時代初期に最澄が入山し、池から出てきた薬師如来を本尊とし、雨乞いの祈祷を行い、天台寺院に改めた上で延暦寺の別院を建立したのだとか。

桓武天皇が病気になられた際、最澄が法力によりこの地の霊水を献上したところ、たちどころに回復されたそうです。

これにより天皇から岩根山善水寺の寺号を賜わったとか。

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「近江商人発祥地の日野町紀行④」

こんな装束で近江商人は、全国各地へと商いの旅を掛けていたようです。

これに長い楊枝でも咥えていたら、まるで木枯し紋次郎じゃないですか!

この中でも⑥の「終身・遺族・退職年金資料」ってえのが一番ぼくには興味深いものでした。

近江商人は、単にお金儲けに長けていただけではなく、そこで働く者たちへの福利厚生を、こんなにも手厚く施されていたとは!

現代のブラック企業のお偉いさん方に聞かせたいものですねぇ。

一方、用心下駄を配して、夫の帰りを待つ「関東後家」さんたちは、こんな「折形」なるものを嗜まれていたとか。

こんな「折形」を折りながら、旦那が無事で日野に帰ってくるように祈られていたのでしょうねぇ。

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「近江商人発祥地の日野町紀行③」

長閑な古い街並みを歩いてゆくと、ありましたありました!

この「近江日野商人館」です。

9月の下旬でしたが、先客はたったの3人。

「密」を案ずることも無く、見学させていただくことに!

すると玄関の上り框にはこんな下駄が!

何とその名も「用心下駄」とか。

そう言えば昔、新聞の連載「長良川母情」の取材でお邪魔したお宅にも、玄関口に身罷られたご主人が生前履いていらっしゃったという革靴が、こんな感じで置いてありました。

取材先のお宅は大きなお屋敷で、ご主人が身罷られた後、年老いた奥様だけの独り暮らし。

厄介なセールスとかがやって来た時に、独り暮らしと悟られないためにと、ご主人があたかも奥の間に居るかのように、革靴を置いていると仰っておられたのを思い出しました。

なるほどなるほど!

入り口ではこんな時代がかった金看板が、大仰に出迎えてくれます。

近江商人が商った物の一つは、こちらの400年以上の歴史を刻む「日野椀」とか。

当時の行商の輸送手段と言えば、馬か牛、それに人が担うしか手立てがありませんから、この日野椀や薬など、軽いものでなければ、とても全国各地を行脚できませんものね。

ここ近江の地は、さすがに漆器の八大産地の一つとのことで、非常に刳り物が盛んで、木地師さんたちが沢山いたそうです。

木地師さんたちは、刳り物の材料となる木を求め、全国各地へとここ近江から流れて行かれたとか。

以前「天職一芸」の取材でお逢いした、中津川市の生地師さんのご先祖様も、近江から良質な材木を求め中津川にたどり着いたと仰っていたのを思い出しました。

コロナ対策の施された帳場が、入館料をお支払いする場所です。

写真で見るとまるで蝋人形かと見紛うばかりのオジチャンが、優しい近江言葉で説明して下さいました。

貴族や武家の歴史館は煌びやかな物ですが、商人の歴史館はぼくのような庶民目線に非常に近いため、興味津々です!

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「近江商人発祥地の日野町紀行②」

ご覧あれ!

マンホールの蓋まで、在りし日の近江商人の意匠です。

こんな静かな佇まいの街並みに癒されてなりません。

塀の脇からひょっこりと、お父ちゃんやお母ちゃんが現れそうで!

何ともこの鄙びた感が最高です!蔵を改造したカフェでエスプレッソなんて、どうにも洒落てますよねぇ。まぁ、もっともぼくは、キリン一番搾りの方がいいんですが!

これまた愛嬌たっぷりな置物が!

あてもなく漫ろ歩くには、本当に持って来いの古(いにしえ)の町でした。

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「近江商人発祥地の日野町紀行①」

ここは、9月下旬にフラッと訪ねた、近江商人発祥の地の一つ、日野町です。

さっそくご覧のような、元禄14年創業の「萬病感應丸(まんびょうかんのうがん)正野 玄三(しょうの げんぞう)」の看板に目を奪われ、吸い込まれるように店内へ!

すると何と何と!

ここが店内で、近江商人発祥の地の一つ、日野町の観光案内所でした。

こんなしっとりとした、佇まいの一角にありました。

コロナの影響もあり、閑散としていて、ぼくにとっては何より最高の場所でした。

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「Go to 近江牛!って、近江牛ホルモンですが!②」

こちらが堂々たる、近江ホルモンです。しかも一人前480円と、庶民の味方です!

ぼくはホルモンが好きで、焼き肉屋さんへ行くと必ず所望いたしますが、この近江ホルモンほど美味しいホルモンに出逢えたことはありませんでした。

ですから、9月下旬にこのお店のお迎えのホテルに2泊した時も、2日続けてこちらのお店を訪れ、したたかに近江ホルモンの味に酔いしれました。

さすがに2日続けてお邪魔したので、大将ともお話しすることが出来、近江ホルモンの美味しさの秘密を教えていただきました。

それは独自のルートで、冷凍保存されていない生のままの近江牛のホルモンを仕入れられ、それをその日のうちに店で出されるのだとか。

だからとにかくプニョップニョで、口の中に近江牛のまろやかな脂が弾け出すって訳です。

しかもこのお店の品書きの中では、この近江ホルモンが一番お安い品です。

さすがに近江ホルモンを三人前ペロリと平らげ、もう一人前注文しようかと思いながらも、これでは余りに売り上げが増えずに申し訳ないかと、近江牛のハラミを注文した程です。

この近江牛のハラミも柔らかくって、それに赤身と脂のバランスが黄金比で、メッチャクッチャ美味しくって堪りませんでした!

そして口直しには、やっぱりこれ!

大将自家製のキムチでキマリ!

とっても見た目は辛そうに見えますが、よく冷えたこのキムチはまろやかで、ついついまたまたホルモンやハラミに箸が伸びてしまうってものです。

そこで前回9月の湖南三山巡りと、近江ホルモンの味がどうしても忘れられず、誕生日の自分へのご褒美にと、今度は湖東三山巡りを兼ね、近江ホルモンの大将のお店を訪ねたというわけでした。

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「Go to 近江牛!って、近江牛ホルモンですが!」

誕生日のお祝いにと、近江の湖南市にある「近江ホルモン」にお邪魔し、生の近江牛ホルモンとキリン一番搾りをたらふくいただいてまいりました。

と言うのには、ほんのちょっぴり訳があったからです。

実は9月下旬にふと思い立ち、近江商人発祥の地である日野町と、国宝犇めく湖南三山を巡りたいと、Go to を利用してこの近江ホルモンのお店の迎えにある、ビジネスホテルとシティーホテルの狭間に位置付けられそうなホテルに2泊したのです。

もちろんGo to が適用され、非常にお値打ちに泊れました。

そこで晩はどこで一杯やろうかと、ホテルを出て周りを見渡した途端、この看板が目に飛び込み、迷うことなく乗り込んでみたのです。

焼肉店にしては、ご覧のように奇麗な店内で、何処にも焼き肉の脂が飛んでこびりついた形跡もありません。

気をよくしてカウンターに陣取り、さっそくキリン一番搾りを所望したものです。

すると手作りの粋な突き出しと共に供されてまいりました。

とりあえず一気にグラスを空け、手酌しながらおもむろにメニューを眺めます。

ぼくは店名にもある「近江ホルモン」と「近江牛のハラミ」、それに「キムチ」を注文!

するとカウンターにパチパチと炭火が熾った七輪が登場。

続いて何やら浸けだれと薬味が!!!

この浸けだれは、この店の大将が考案されたもので、明石焼きの浸けだれのような感じの物に、お好みで刻み葱、おろしニンニク、コチュジャン?を入れ、焼き立てのお肉をたれに潜らせて、脂を落としていただくというもの。

こんな感じです!

こうすることで、余分な脂っこさが落ち、どんだけでも食べられちゃうと言うスグレモノです。

明日は、近江ホルモンについて、もう少し解説しますね。

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11/17の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!遅ればせながら(汗)

「自家製残り物炒飯と残り物焼きそばの春巻き~クリームソース添え」

随分前に残り物クッキングで登場した、枝豆入りの炒飯の食べきれなかった分が冷凍してありました。

それと前の晩に作った焼きそばの食べ残しもあったため、それらをひとまとめにしてランチにと、チャチャッと手軽に取り組んでみたのが、この「自家製残り物炒飯と残り物焼きそばの春巻き~クリームソース添え」です。

とは言え、実に見事に手抜きな作品です。

まず春巻きの皮で残った焼きそばを包み、油で揚げ普通の春巻きのように仕上げ、レンジでチンした冷凍の残り物炒飯を皿に盛り、小鍋で生クリームを弱火で温め、コンソメと白ワインでお好みの味に仕立て、ブラックペッパーとハーブミックスをパラパラッと振り、皿に注げば完了です。

いずれも残り物ながら、生クリームソースのおかげで見事に生まれ変わり、焼きそば春巻きのパリパリ感が歯触りも良く、キリン一番搾りがグビグビと進んでしまいました。

今回も実に観察眼の鋭い皆様の、ニアピン回答が続出でした!

ありがとうございました。

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「天職一芸~あの日のPoem 279」

今日の「天職人」は、愛知県吉良町の「浜採り」。(平成20年5月20日毎日新聞掲載)

吉良の白浜夜も白(しら)みゃ 浜採りたちが塩田へ       平(ひら)で砂撒き腰を振る 満ち潮までの一仕事        潮が引いたら天日干し 満鍬(まんぐわ)曳いて砂返す      夏の初めの昼下がり 塩焼き小屋に煙立つ

愛知県吉良町で先祖代々浜採りを務める、渡辺友行さんを訪ねた。

「浜採りにゃ盆も正月もあれせん。天気のいい日は、朝から夜中まで働き詰めだわ」。友行さんは麦藁帽の庇を押し上げ、潮焼けた赤ら顔で笑った。

「この辺一帯は、あの赤穂浪士で敵役に祭り上げられてまった吉良公が、干拓地として築いた新田だで、土壌に塩分が含まれとって作物が出来んかっただ」。

波穏やかな三河湾の内海。

その特性を活かし、入浜式塩田へ。

いつしか吉良の饗庭塩(あいばしお)と呼ばれ矢作川を舟で遡上し、豊田市足助町で中馬に積み替え、長野県塩尻市まで運ばれた。

饗庭塩は塩の尻の終着点を目指し、「塩の道」を旅した。

友行さんは大正15(1926)年に長男として誕生。

尋常高等小学校を出ると家業に従事した。

「白浜地区でも一番広い2反7畝(約27㌃)の塩田があっただ」。

300年の歴史を誇る吉良の饗庭塩作りは、夜明け前から始められる。

まず平と呼ぶ木製の平らなショベルに砂を載せ、浜採りたちが腰を使い塩田に砂を撒く。

やがて陽が昇り潮が満ち、砂を濡らす。

すると幅2間(約3.6㍍)もある巨大な満鍬(まんぐわ)を曳き、手返しで砂を乾燥。

砂が乾けば、寄せ振りで砂を集め沼井(ぬまい)へ。

その上から海水を掛け流し、砂に纏わり付いた塩を流し落す。

沼井は約1㍍四方。

木製の風呂桶のようだ。

底部には簾が張られ砂を堰き止める。

さらにその最下層には空洞があり、濃度を増した海水が流れ込み、取り出し孔を伝って壷桶へと流れ出す。

「潅水(かんすい)を柄杓で汲み取って、桶を肩にいなって塩焼き小屋へ。最初に砂で濾過して、今度は家畜の骨を焼いて作った骨炭で濾過するだ。次に釜に入れて石炭で2時間ほど煮詰めた後、ドサへ苦汁(にがり)を含んだままの塩を掬って入れとくだ。やがて苦汁が簾から流れ出せば饗庭塩の完成だわ」。

昭和20(1945)年、戦火が激しさを増す中、三河大地震が大地を引き裂いた。

「もう塩焼き小屋は壊滅だわ。それからは潅水取って、それを売って生計に充てたとっただ」。浜採りは沖を見つめた。

昭和24(1949)年、ふじゑさんを妻に迎え、一男一女を授かった。

だが昭和28(1953)年、13号台風が三河湾を直撃した。

今度は塩田そのものが壊滅。

友行さんはその後、農業に酪農、温室園芸などで家族を支えた。

「農業では食うてけんで、昭和47(1972)年に喫茶店を始めただ。店の名前の由来か?そりゃあ女房の名前『フジ』だわさ」。

昭和も終わりが近付くと、塩作りの再現話しが舞い込んだ。

「私らの年代が最後の浜採りだで」。

今週土曜日から9月までの第4土曜日に、吉良町の復元塩田で一般参加の饗庭塩作りが始まる。

「これからは月1の浜採り復活だで、生きとるうちに若いもんらに饗庭塩作り伝えとかんと」。

浜採りは沖行く海鳥を見つめながら、ぼそりとつぶやいた。

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