「天職一芸~あの日のPoem 187」

今日の「天職人」は、名古屋市中区の「製本師」。(平成十八年四月二十五日毎日新聞掲載)

父が綴った日記から 喜怒哀楽が零れ出す        一つページをめくる度 家族模様がよみがえる       「還らぬ父を野辺送り 形見の皮のジャンパーで     父の日記を装丁す」 新たな日記筆はじめ

名古屋市中区の恒川製本所、二代目製本師の恒川雄三さんを訪ねた。

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繁華街に埋もれる様な町屋。茶の間の奥の作業場には、製本前の学術論文が渦高く積み上げられ、大型の断裁機や箔押し機が周りを取り囲む。

「野依さんがノーベル賞をとった時の、あの論文の製本は、2日で仕上げたんだわ。ほらあ職人冥利だったわさ」。 雄三さんは、機械と材料の谷間に胡座(あぐら)をかいた。

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「ここがわしの指定席だで」。何とも柔らかな笑顔は、そのまま人の良さを表す。

雄三さんは昭和十三(1938)年に、四人姉弟の長男として誕生。

小学一年の三月に空襲で焼け出され、母の在所の岐阜県各務原市へ。

「焼夷弾三発も喰らってまって。学生帽に戦闘帽、おまけに防空頭巾まで三つも被っとったのに、身体中火傷してまったて。意識失って気が付いたら、目と鼻と口だけあけて、包帯でぐるぐる巻きだわさ。ミイラみたいに」。

戦後名古屋へと舞い戻り、中学を出ると父の元で修業を始め、夜間高校へと通った。

「東京の岩波文庫で金文字押しの勉強したんだわ。たったの二週間だったけど」。

ほとんどが手作業の製本作業は、簡易に綴じられた論文の分解に始まる。

そして余分な箇所を取り除き、余白を糸でかがって背をボンド付け。

ボンドで厚みが増した背は、ハンマーで叩き均(なら)す。

「おんなじ高さにせんとさいが」。

一冊分の原稿を均し終えたら、それを包むようにきき紙と呼ぶ見返しを貼る。

天(あたま)と地(けした)、そして背の反対側の小口の三方を断裁し、背の丸みを出しながら膠(にかわ)とボンドで背固め。

表紙の芯となる段ボールの四隅を、ハサミで丸く切り落しクロスや鞣革(なめしがわ)をボンドとうどん粉糊で表紙貼り。

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題字や背文字に合わせて凸版の活字を組み、二百度に熱した箔押し機で印字。

見返しと表紙を貼り付けて、背の両端に溝を焼き付け五分ほどプレス機へ。

「表紙の角に丸みをつけるのんは、誰(だあれ)もよう真似せんですわ」。

昭和三十八(1963)年、岐阜出身の絹代さんを妻に迎え、一男二女を授かった。

「両親と子供、おまけに住込みの職人の面倒見ながら、ジグザグミシンで綴じを手伝ってねぇ」。絹代さんが懐かしそうに微笑んだ。

「昔の職人の日当は、にこよん(二百四十円)で、製本一冊が三百二十~三百三十円。そんな頃は何とかなったけど、今はもう日当も出んて。世の中バブルとかって浮かれとっても、私ら一冊もんだでそんなもん儲かれへんて」。

雄三さんは己が言葉を笑い飛ばした。

「この国の和綴じは、湿気の多い風土に適して、大したもんだて。水にも滲(にじ)まんええ墨さえ使ってあれば、和本は水に浸かってもちゃんと修復が利くんだで」。

和本を箱型に包み込むような「帙(ちつ)」は、洋書の硬い表紙に当たる。

「たまあに、革装を頼まれる方がおるけど、『湿気(しけっ)てまって直ぐに黴(かび)るでやめときゃあ』って言ったるんだわ」。

この道四十年の職人は、何の気負いもなくやさしく笑った。

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「本を読む人らは、読まん人より出世が早いんだて。ほんとに」。

数多(あまた)の研究者達が紡ぎ出した論文。

老製本師は今日も、人類の知産として黙々と綴じ上げる。

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「天職一芸~あの日のPoem 186」

今日の「天職人」は、三重県桑名市多度町の「心太(ところてん)職人」。(平成十八年四月十八日毎日新聞掲載)

多度の大社の参道で 軒を並べて涼を売る        テンツクテンと心太 椀に突き出し一啜(すす)り    床几に座した二人連れ 椀を片手に箸を割り       二本に分けてテンツクテン 甘く酸っぱい恋の味

三重県桑名市多度町の鳥羽屋。二代目心太職人の大平善正さんを訪ねた。

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昭和の半ば。

ランドセルを玄関に放り出すと、十円玉一つのお小遣いを握り締め、お好み屋へと一目散に向かった。

お目当ては、一文籤(くじ)や駄菓子に心太。

水を張った木桶には、小さな羊羹大の一本物の心太。オバちゃんは桶からそいつを掬(すく)い上げ、天突きに流し込む。

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そしてかき氷と兼用のガラスの小皿に向かって、天突き棒で一気に細長い心太を突き出す。

酢醤油にゴマを振りかけ、一本だけの割り箸を使ってあっと言う間に、喉へと流し込んだものだ。

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「昔は多度祭の時に、心太を食べる風習があったんやて。参道の店はもちろん、あっちこっちの民家でも、軒先で心太出して」。善正さんは、大きなお腹を揺らしながら、大声で笑った。

善正さんは昭和二十四(1949)年、六人兄弟の末子として誕生。

高校を出るとそのまま、両親と共に心太造りを始めた。

「上から順に出てってまうもんで、俺が継がんなんわさ。だでこの歳まで、いっぺんも他人様から給料なんて貰ったことないって」。

伊豆半島の稲取から天草を仕入れて乾燥させ、養老山脈の伏流水を満たした対流釜で五時間かけて煮る。

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トロトロの糊状になったところで搾り、型枠に流して冷却させれば出来上がり。

「昔はそのまま桶に入れといて、客の目の前で天突きに入れて突くのんが風流やったけど、今は衛生面がうるさいでのう。せやで日持ちするように酢に浸して、綺麗に包装せんと」。

食物繊維が豊富でありながら、カロリーはほとんど無く、高カロリー高蛋白に気を揉む現代人にはもってこいの食材だ。

「やっぱ三杯酢が一番旨い。関東ではそれに辛子を混ぜるし、京都では黒蜜で食べるし。まあ好き好きやろなぁ」。

海の恵みの海草と、養老山脈が濾過した水だけが原料。

「何でもそうだけど、水が命やて。ここから東へ揖斐川と長良川越えてみ、養老の水がソブケ(濁り)だらけやで」。

昭和四十五(1970)年、善正さんは二十一歳の若さで、近隣から一つ年下のゆき子さんを娶った。

「姉んたあが早よ結婚せえって、見つけてきたんだわ。だってお袋は仕事で忙しかったもんで、中学高校と弁当なんて作って貰えんかったんだで」。

一男二女を授かり、家業に奔走した。

「昔、多度大社の前で店出しとったんだわ。そん時に客が『スイマセン!これ箸一本しかありませんが』って、怪訝な顔するもんだで、『箸二本で食べると「痛風になる」って言い伝えがあるで止めときゃあ』って教えたったんだて。まあ今の人らは、心太の食べ方を知らんでかん。箸二本使ってうどんみたいに食べようとするで、ブツブツ切れてまうんだわ。心太は箸一本。椀の縁を口に宛がって、流し込むようにツルツルッと飲み込まんと」。

多度の杜に上げ馬神事の歓声が揚がれば、夏はもうすぐ。

「自分が毎日食べれんもんを、人様にはよう売れん」。

誰よりも心太を食べ続けた頑固職人。

ヒンヤリ、ツルッとした、庶民の涼感を絶やしてなるかと。

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「ついに南蛮の実がつきましたぁ!」

白いちっちゃな花が咲いて、楽しみにしておりましたら、ついについに!

御覧ください!

この可愛らしい南蛮の実!

自分で育てて見て初めて気が付きました!

実は、上に向かってなるものだと!

てっきり実が下に垂れ下がるものだと、勝手に思い込んでいたのです(汗)

収穫祭がとても楽しみです!

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「天職一芸~あの日のPoem 185」

今日の「天職人」は、岐阜市日の出町の「履物屋主人」。(平成十八年四月十一日毎日新聞掲載)

数奇屋草履をつっかけりゃ 飛び石の庭春朧(おぼろ)  淡き桜の可憐さに 時の経つのもつい忘れ        茶の湯一服野点(のだて)傘 早咲き桜風に舞う     前髪に降る一片(ひとひら)を 茶椀に浮かべ春爛漫

岐阜市日の出町、履物屋の末広屋。二代目主人の増田寿さんを訪ねた。

「もう縄文時代には、農作業用に履く田下駄(たげた)があったそうやて」。 寿さんは、店の一番奥で鼻緒を挿げる小さな作業場に腰掛けた。

創業は昭和二(1927)年。

「当時は柳ヶ瀬にも、芸子衆がようけおった色町で始めたんやて」。

再開発に伴い、現在の日の出町へと移転した。

寿さんは昭和十一(1936)年、五人兄弟の長男として誕生。

高校を上がった昭和二十九(1954)年、東京浅草の下駄屋へ修業に。

「穂積で柳行李買って、荷物を岐阜駅からチッキ(託送手荷物)で送ったんやて」。

下駄屋の倅ばかりの弟子四人と、住込み生活が始まった。

「それが大変やったんやて。柱の割れ目とかに、小豆より一回り小さい南京虫がおって、そいつに刺されて腫れてまって。だで寝る時は、布団の回りにクリークっていう、U字型の枠を巡らすんやて」。

U字に落ちた南京虫は、二度と這い上がることが出来ない仕掛け。

「親方が、落語を聞きに行け、歌舞伎を見に行けって、切符をくれるんやて」。

客の面前で鼻緒を挿げ替える間の、客あしらいの話題にでもと、親方の粋な計らいだった。

「たまの休みには、映画と日劇のダンスを見て、夕方からは寄席とストリップやて」。

何事にも大らかだった昭和の半ば。貧しくも輝いていた若き日。寿さんは表通りを見つめた。

三年の修業で鼻緒の挿げ方を学んだ。

まず、鼻緒の端の綿を抜いてしごき、後緒の先を縛り止め金槌で打つ。

鑢(やすり)のついた「やすりくじり」で鼻緒の穴を広げ、後緒と前緒を通し結ぶ。

「つぼ引き」で前つぼ(二本指の部分)を伸ばし、前緒の具合を確かめ、後緒のゆるみを決める。

草履の天に使用される材料は、鶏の足を剥いだものから、鮫の皮、蓑(みの)虫の巣、藁、白竹(しろうちく)、烏表(からすおもて/黒く染めた竹皮)、筍の皮、布、ビロード、コルクと様々。

「このお茶席の庭履きに使われる数奇屋草履は、筍の皮で編み込まれとるんやて。もう職人は、秋田にしかおらんのやと」。

一方下駄には、駒下駄、右近下駄、千両下駄、高下駄、日和下駄、庭下駄と、様々な意匠と用途に別れる。

昭和三十二(1957)年、新岐阜百貨店への出店にあわせ、寿さんは修業を切り上げ帰省。

「最初に採用した従業員が、女房なんやて」。

四年後、淑江(すみえ)さんと熱愛を実らせ結婚。

一男一女を授かり、今尚、和服姿の愛妻と二人、仲睦まじく店に立つ。

「こんな柾目で一本もんの、桐の下駄は少ななった。昔は柾目一本千円って言われたもんやて。一本の角材から、左右の下駄を切り出すのを『合い目取(あいめど)り』って呼んで、昔は『これ合いですか?』なんてよう聞かれたもんやて。でも、もう今ではそんな粋な人もおらんわ」。

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縁は異なもの。

最初の従業員と、終生添い遂げることになろうとは。

桐の柾目にも勝る、合い目取りの似たもの夫婦。

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「君への讃歌」

「君への讃歌」は、名古屋の今池にあった今池芸音劇場で、ぼくが3か月に渡って開催した、Liveのために作り、Liveの最後を締めくくる曲として歌ったものです。

東京の音楽事務所からお誘いがあり、夢と希望を持っていざ上京を、と言う直前の3か月での出来事でした。

これが当時のチラシです。

このチラシによれば、1980年のこと。

ぼくが23歳の頃です。

各Liveを「助走」「滑走」「離陸」と位置づけた、三部構成のLiveで、チケットはぼくが唄っているイラストを手拭いに摺込み、それを三等分したものが各回のLiveのチケットでした。

とは言え、一つのイラストを三等分した手拭いなど、意味を成しませんから、ほとんどのお客様は、三回の通しチケットとして、一枚の手拭いチケットをお求め下さったものです。

まあ、三回のLiveに足を運んでいただきたかったぼくは、それが狙いでもありました!

って、どこぞかの落ち武者殿のように「腹黒」ではありません。

ただ、ぜひとも三回すべてのLiveにお越しいただきたかった、それが本音だったのです。

今夜は、バラード風の弾き語り「君への讃歌」をお聴きいただこうと思います。

「君への讃歌」

詩・曲・唄/オカダ ミノル

サヨナラ愛したこの街とそして君とも 綴りかけた物語のペンは今置くよ

アリガトウ君は誰よりやさしかった 酔いにまかせた夜はきっと逢いたくなるはず

 出逢いはただそれだけで 罪深いものだね

 こんな別離と知れば 逢わなきゃよかった

サヨナラサヨナラ心やさしき人たち いつまでもぼくは忘れない素敵だった日々を

アリガトウアリガトウ心を言葉に代えて 君だけには本当のことを言えたら良かった

 夢さえ捨て去れたなら 歯痒い想いも

 しないですべて君だけに 生きて行けたのに

 サヨナラ愛していたよ 本気さ今でも

 サヨナラ愛すればこそ 別離は辛いね

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、逸品とはややことなりますが「捩じり鉢巻きで大奮闘!おぞましき夏休みの宿題」。

ぼくが小学生の頃は、夏休みの宿題なんて後回しにして、三重の田舎の従兄妹の家で川遊び三昧でした。

そしてお盆に両親が墓参りにやって来て、そして嫌々名古屋へ連れ帰られたものでした。

そうしてお盆が明けると、夏休みの宿題のツケがどっさりと待ち構えているという、おぞましいものでした。

でもお母ちゃんの目を盗んでは、夏休み最後の日まで、遊びっからかして、ついには夏休みの宿題なんてほとんど手付かずで、二学期の始業式には玉砕覚悟で腹を括って登校したものでした。

今回は、そんな「捩じり鉢巻きで大奮闘!おぞましき夏休みの宿題」。皆様の思い出話を、ぜひお聞かせください。

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クイズ!2020.08.18「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

先日、日置江のヒロちゃんから、「たまにはこんなにも暑い日に、サッパリと食べれるクッキングをお願い!」と、そんなリクエストをいただいておりました。

今回は冷製のなぁ~んちゃってイタリア~ンな、スープ多めの作品にチャレンジしてみました。

ポイントは、パスタの代わりのアレ!

ヒントは、一本箸で食べるのがお似合いなアレ!

さあ、その答えや如何に!

でもヒンヤリしながらもコクがあって美味しかったですよ!

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「天職一芸~あの日のPoem 184」

今日の「天職人」は、愛知県岡崎市の「麹職人」。(平成十八年四月四日毎日新聞掲載)

風邪を引くのも満更に 悪くはないと思ってた       普段ガミガミ小言いう 母もなんだか優しくて      「これを飲んだら大丈夫」 大きな湯呑差し出した     柚子の香りの甘酒は 母の十八番(おはこ)の御呪(おまじな)い

愛知県岡崎市、創業百三十八年のとりた麹店。六代目の麹職人、池嵜公子さんを訪ねた。

住宅街の一角。

飾り気の無い看板。

隙間から漂う麹の香。

「店を畳むは簡単。でも新たに興すのは難しいでしょう」。 公子さんは、座敷ではしゃぐ長男の心也くんを抱きしめた。

「先代は母方の祖父で、一年前の春に他界しました。だから亡くなる三年前からは、私一人で細々と」。

先代の故鳥田長男(ながお)さん享年八十四には、一男一女があった。

公子さんの叔父にあたる長男は、整体師となり島根県へ。

長女は市内の飲食店に嫁ぎ、一男一女を出産。その一女が公子さんだ。

「両親は店の仕事で忙しくて。幼稚園の頃から兄と一緒に、祖父母の元に預けられてました。私、お爺ちゃんとお婆ちゃんが大好きで。まるでもう一組のお父さんとお母さんみたいに」。 母の周りをクルクルと回りながらはしゃぐ、心也くんを見つめ、遠い日の自分を重ねるようにつぶやいた。

少女は、二つの家と二組の両親の元を行き来し、やがて専門学校を上がって就職。

それから間も無く、母のように慕った祖母が病に倒れた。

「ちょうど島根の叔父の家に遊びに行ったまま」。後遺症も残り、連れ帰ることも叶わぬ。遠い島根の地なれば、頻繁に見舞うこともならず、まるで生き別れのように。

「会社から真っ直ぐこの家に帰っては、お爺ちゃんに晩御飯食べさせて、それで次の日の朝と昼の分も用意して」。 そんな暮らしが、二年程続いた。

周りの娘達が、ショッピンクやデートにと浮かれるのを尻目に。

「お爺ちゃんが『生涯を麹屋で終えたい。もうお前しかおらんのやで』って、泣きながら言うもんだから」。公子さんは二十二歳の秋に会社を辞し、祖父を師と仰ぎ冬季の仕込みの下準備に取りかかった。

「最初は、お爺ちゃんが死ぬまでの奉公かなって。それに小さな頃からお金や物じゃない、素晴らしいモノを沢山貰ってましたし。でも給料は、半分以下でしたけど」。公子さんは屈託なく笑った。

京都の麹屋から麹菌を仕入れ、毎年九月から五月頃まで仕込み作業が始まる。

製品は、金山寺麹、米麹、豆麹の三種。

中でも麦と豆が材料となる金山寺麹は、最も手がかかる。

まず麦は、夜十時に水を張って浸け込む。

次に深夜零時を迎えると、大豆を炒って水に浸け込み、翌朝五時から三時間かけて蒸し上げる。

そして朝十時になるのを待って、三十分程麦を蒸す。

蒸し上がった麦と大豆を手で混ぜながら、満遍なく麹菌を付け、室の中で三日間寝かし、一日かけて乾燥。

すると真っ白な麹の花が咲く。

公子さんは弟子入りから五年。元の職場の、一つ年上のご主人と結ばれた。

「子供がいても、ここなら誰にも気兼ねなく、自分のペースで仕事ができるし」。

豆麹と米麹で赤味噌。

米麹は白味噌に。

金山寺麹と米麹で合せ味噌、豆麹だけなら八丁味噌に。

「家の味噌は毎年色が変わるんです。だって余りものの麹を使ってるから」。

麹一筋に生きた、先代夫婦の遺影が見守る。

公子さんと言う名の麹は見事に熟し、穢(けが)ない白き大輪の花と咲いた。

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「天職一芸~あの日のPoem 183」

今日の「天職人」は、三重県鈴鹿市の「小女子(こおなご)屋主人」。(平成十八年三月二十八日毎日新聞掲載)

おぼろ月夜が明ける前 神々住まう海原を         キラキラ揺れて小女子が 浅き春連れ渡り来る      鼓ヶ浦(つづみがうら)の砂浜は 年に七日の白一面    釜茹で揚げた小女子も 春の陽射しを待ち侘びる

天保十三(1842)年創業、三重県鈴鹿市白子やまちょう水産の七代目、尾崎好宏さんを訪ねた。

「小女子漁は、一年の内で今の一週間が勝負なんやさ。一日過ぎるだけで、大きなってしもて。あっという間に、商品価値も下がってしまうんさ」。好宏さんは茶請けにと小女子を差し出した。

好宏さんは昭和二十二(1947)年、長男として誕生。

高校を上がった昭和四十(1965)年、父と二人の叔父が切り盛りする、家業の下働きを始めた。

「中学の頃から休みになると、嫌やっても手伝わされたもんやさ」。

二月末頃から五月初旬までと、小女子漁の期間は短い。

「夜が明ける頃、取れたのが『青口』。極上もんや。せやけど、水温が高いと『腹赤』ゆうてなぁ、腹に赤い筋が入るんやさ。油気が出て味も落ち、値段は三分の一」。

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小女子の生態は不思議だとか。

「水温の低い方へと、落ちて行くんやでなぁ」。 海面の水温が上昇する初夏になると、小女子は一斉に鳥羽の深みへと身を寄せ、冬場の到来を待つ。そして煙草大の成魚になり、水温が下がると、再び伊勢湾を北上。

一月頃にこぞって出産を迎える。一.五~二㌢程度に成長した稚魚が、最も商品価値を高める。

市場で「青口」を見極めて競り落とし、蒸篭(せいろ)に均等に敷き詰め十段重ねで釜の中へ。

「あんまり鮮度が良過ぎると、茹でたら真丸んなってしもて、商品価値が落ちるんやさ。せやでそこを見極めんとなぁ」。

七~八分茹で上げ、砂浜で天日に晒す。

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波打ち際まで数十㍍に渡り、真っ白な小女子が天女の衣のように敷き詰められる。

「手入れ(竹製熊手)で、きあらいで(だまにならぬよう均等にならす)なぁ」。

かれこれ七年。下働きもいつしか、一番の働き手へ。そんな頃、姉が隣で営む雑貨屋に、手芸用品を求めに一人の娘が訪れた。

「暇やと姉んとこで、店番しよったんさ。そいで知りおうてなぁ」。好宏さんは、悪天候で漁が休みになると娘を連れ出した。

昭和四十七(一九七二)年、銀行勤めだった喜代子さんと結ばれ、一男一女を授かった。

「最初はこんなもん、地元の人等が買うてくなんて、思っても見んかったんやさ」。

昭和五十五(1980)年、店先に煮干と海苔を並べ、喜代子さんが小商いを始めた。

「遠方に嫁いだ妹に、煮干やら小女子やらを、ちょっとした化粧箱に詰めて送ってやんたんです。そしたら妹から『えらい煮干も格が上がったなぁ』って笑われて。それからやわ『お遣いもんにしたい』ゆうて頼まれる様になったんわ」。

内助の功、喜代子さんの一工夫が、普段使いの塩干物を、産地直送無添加自然食品として、贈答品の上座へと押し上げた。

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「まあこれ抓まんでみ。今朝水揚げされた小女子の釜揚げやで。一年の内でも今しか食べられやんで」。

天日に晒される前の、ふかふかとした何とも言えぬ食感が広がる。

まさに極上。

神々住まう伊勢の海から贈られた、春一番のおご馳走(っつお)。

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8/11の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「砂肝のアヒージョと蓬餅バターソテー with パプリカとコーンのクリーム煮」

冷蔵庫に前夜の酒のあてにした、砂肝のアヒージャの残りがございました。

それと毎年郡上からお雛様の菱餅のお裾分けをと、贈っていただいている白いお餅と蓬餅、そして栃餅の三色のお持ちの残りが、冷凍庫で出番を待っているじゃないですか!

ならばと編みい出したる代物が、この「砂肝のアヒージョと蓬餅バターソテー with パプリカとコーンのクリーム煮」でございました。

まず蓬餅を冷凍のままオーブントースターで、焦げ目が付きぷっくら膨らむ程度に焼き上げ、フライパンでバターを溶かしニンニクの微塵切りで香りを立て、焼き上げた蓬餅をしっとりと焼き上げます。

そして別のフライパンでオリーブオイルを切った砂肝を炒め、そこに生クリーム、白ワイン、鶏がらスープの素、塩コショウ、ハーブミックスで味を調え、そこにバターソテーした蓬餅とパプリカにコーンを入れ一煮立ちさせれば完了。

「天職一芸~あの日のPoem 182」

今日の「天職人」は、岐阜県高山市の「飴細工師」。(平成十八年三月二十一日毎日新聞掲載)

祭囃子が聞こえれば 娘の笑顔はちきれる         早く早くと手を引いて 八幡様の境内へ          見とれ佇む飴細工 あれこれ悩み品定め         やっと手にした犬の飴 勿体ないと引き出しへ

岐阜県高山市のはりまや製菓、飴細工師の竹田喜一郎さんを訪ねた。

春まだ早い飛騨高山。雪解け水が宮川を下る。

堤に並ぶ朝市。観光客が思わず足を止め覗き込む。

「あったあった、これやこれ」。竹串の先に咲く、色鮮やかな花の飴細工。

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「前にこれと同じの買うたんやけど、何や食べるのんが惜しいなって、飾っといたるんさ」。年配の婦人は、お目当ての飴細工を手に声を弾ませた。

「ああやって言うてもらうのが、職人冥利に尽きるんやさ」。喜一郎さんは絵筆を止め、何とも優し気な瞳を向けた。

「店番の間暇やもんで、下手の横好きで好きな絵書いとんや」。中々どうして堂に入ったもの。大地の恵みの野菜たちが、柔らかなタッチと色遣いで見事に描かれている。竹の節を利用した、『喜』の落款も押された立派な作品だ。

店先には色取り取りの飴細工が並ぶ、一足早い春の百花繚乱。

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喜一郎さんは昭和二十一(1946)年に、農家の長男として誕生。

高校を出て電子部品製造会社に入社。「二十歳の頃、怪我して辞めたんや」。絶縁体が掌の内側に入り込み、切開して取り除く始末。

その後、知り合いの紹介で有平細工の飴菓子工場へ。 「手先仕事が好きやったでな」。それに元々持ち得た絵心も加わり、職人としての技に磨がかかった。

ある日の事。道端に自転車を止め、外れたチェーンに困り顔の娘がいた。直ぐに手を差し延べ、チェーンを元通りに。

「よう見たら、同じ工場の後輩で。それがこれなんやさ」。喜一郎さんは照れ臭そうに妻を見つめた。

「最初は優しいお兄さんみたいやったのに、何時の間にかこんなんなって」と、妻の妙子さん。

それが縁で二人は、昭和四十七(1972)年に結ばれて一男一女を得た。

そして二年後、喜一郎さんは二十八歳で独立。

「最初は車庫を工場に改装して、夫婦二人してどんな飴作ろうって」。試行錯誤が続き、販路の開拓にも追われた。

「高山らしい飴があってもええなあって思ったんや」。昭和五十三(1978)年、ついに代表作となる「名所飴」が完成。

「お土産用に朝市や中橋、それに飛騨の里の四季を、飴細工で表現したんや」。

飴作りは、水三に対しグラニュー糖七の割合で、手鍋で一時間かけて煮る。

百五十~百六十℃になったら火を止め、冷却板の上で冷やしながら食紅で色付けし、図案の部品を手作り。

赤・青・黄・オレンジ・紫・茶・黒と、七色の食紅を絵の具のように混ぜ合わせ、多彩な色を生み出す。

「飴の仕事は好きや。家事は嫌いやけど」。妙子さんが笑った。

「この朝市は、母が農産物を売っとったんや。でももう歳やもんで、三年前から飴に替えたんやさ」。毎年冬場を除く、三月から十一月初旬頃まで、竹田さんの飴細工が朝市を彩る。

「『また来たよ』って、何回も遠くから見える方や、外国の方は珍しがってくれて。ここはええよ。お客さんの反応が、そのまま直に伝わって来るで」。

怒った事など、これまで一度も無いかと疑わせるような柔らかな笑顔。

そんな人柄が加味され、いつしか食品としての飴は、甘美な作品となった。

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